第33話 侯爵家、執事長の恋に気づきます
第33話 侯爵家、執事長の恋に気づきます
ローゼンベルク侯爵家の朝食は、以前より随分と賑やかになった。
もっとも、食卓を囲む人数が増えたわけではない。アルベルトとヴァレンティナの二人だけという点では、結婚当初と変わらなかったが、最近では食事をしながら仕事の相談をしたり、庭園の花について話したり、ときには使用人たちの失敗談に笑ったりすることも増えていた。
この日の話題は、クラウディアが王都へ戻る前に残していった一言だった。
「それにしても、叔母様ったら、最後まで姿勢のことをおっしゃるんですもの」
ヴァレンティナは焼きたてのパンに果実のジャムを塗りながら、少し呆れたように笑った。
「馬車に乗り込む直前まで、背筋を伸ばしなさいって。私、そんなに姿勢が悪いかしら?」
「……叔母上は、昔から礼儀作法には厳しい方だからな」
「それは知っているけれど、あれだけ注意されると、さすがに気になってしまうわ」
アルベルトは紅茶を一口飲み、向かいに座る妻を眺めた。
ヴァレンティナは、背筋を伸ばそうと意識しているらしく、いつもより少しだけ肩に力が入っている。その様子が何となく可笑しくて、アルベルトは口元を緩めた。
「……何かしら?」
「いや。叔母上の言葉を、随分と真面目に受け止めているのだと思ってな」
「だって、せっかく教えていただいたんですもの。できるようになった方がいいでしょう?」
「そうだな。ただ、食事のときくらいは、もう少し楽にしていてもいいと思うが」
ヴァレンティナは一瞬考え、それから肩の力を抜いた。
「……確かに。これでは食事をしているのか、姿勢の練習をしているのか分からないわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
少し離れた場所で給仕をしていたエレノアは、そのやり取りを静かに見守っていた。
旦那様は、以前よりよく笑うようになった。
奥様が何かを話すたびに、自然と視線を向け、言葉を返す。以前は食事中も仕事のことを考えている様子だったが、最近では食卓で過ごす時間そのものを楽しんでいるように見えた。
エレノアは、そんな変化を喜ばしく思っていた。
少なくとも、喜ばしいことだと理解していた。
「エレノア」
アルベルトに呼ばれ、彼女はすぐに顔を上げた。
「はい、旦那様」
「今日の午後、庭園の修繕について庭師と話をしたい。予定を確認しておいてくれ」
「かしこまりました。庭師長へ伝えておきます」
「頼む」
アルベルトは短く頷き、再びヴァレンティナとの会話へ戻った。
エレノアも、いつもどおり仕事を続けた。
ただ、彼の声を聞いた瞬間、ほんの少しだけ胸が温かくなったことを、誰にも知られるわけにはいかなかった。
◇
午前十時を過ぎた頃、ヴァレンティナは執務室で使用人たちの勤務表を確認していた。
侯爵家の財政再建が進むにつれ、彼女が新たに気にかけるようになったのは、使用人たちの働き方だった。
以前は、屋敷の維持費を抑えることが最優先だったため、仕事の分担を見直し、無駄な作業を減らすことに力を入れていた。しかし、最近では少しずつ余裕が生まれ、今度は使用人たちが無理なく働ける環境を整えたいと考えるようになっていた。
とはいえ、侯爵家の仕事は多岐にわたる。
客室の清掃、衣装の管理、厨房の補助、来客への対応、庭園の維持、備品の調達。どれも必要な仕事だが、長年の慣習によって、一部の使用人へ負担が集中していることもあった。
「……うーん。やっぱり、エレノアとセドリックに仕事が集まりすぎているわね」
ヴァレンティナは勤務表を眺めながら、独り言を漏らした。
メイド長と執事長なのだから、責任のある仕事が多いのは当然だった。
しかし、二人とも真面目すぎるところがある。
ほかの使用人に任せられる仕事まで、自分で確認しようとするのだ。
「これでは、せっかく休日を設けても、結局仕事のことばかり考えてしまいそうだわ」
彼女は羽根ペンを手に取り、勤務表の余白へいくつか書き込みを始めた。
ちょうどそのとき、扉が叩かれた。
「奥様、失礼いたします」
入ってきたのは、セドリックだった。
彼はいつもどおり丁寧に一礼し、数枚の書類を差し出した。
「先日ご相談いただいた勤務体制の件ですが、エレノアと確認したところ、いくつか改善できそうな点がございました」
「まあ、もう調べてくれたの?」
「はい。現在の業務を整理し、ほかの使用人へ任せられるものを分けております」
ヴァレンティナは書類を受け取り、目を通した。
そこには、使用人ごとの仕事内容や勤務時間、繁忙期の対応方法などが、細かくまとめられていた。
「……さすがね。とても分かりやすいわ」
「ありがとうございます」
「でも、これをまとめるのも大変だったでしょう?」
「いえ。エレノアが、ほとんどの資料を用意してくれましたので」
セドリックは、穏やかに答えた。
「彼女は、使用人たちの仕事をよく把握しています。誰がどの仕事を得意としているか、どこに負担が集中しているかも、私より詳しいくらいです」
ヴァレンティナは、少しだけ笑った。
「本当に、エレノアは頼りになるわね」
「ええ」
セドリックは、迷いなく頷いた。
「彼女ほど誠実で、仕事に責任を持っている人は、そう多くありません」
その言葉には、普段の事務的な報告とは少し違う響きがあった。
ヴァレンティナは顔を上げた。
セドリックは、書類の説明を続けている。
「特に若い使用人たちへの指導は、彼女に任せておけば安心できます。厳しいところもありますが、必要以上に叱ることはありませんし、相手の成長をきちんと見守っていますから」
「……そうね」
ヴァレンティナは頷きながら、少し不思議に思った。
セドリックは、普段から使用人たちの仕事ぶりを公平に評価する人物だった。
けれど、エレノアの話になると、いつもより少しだけ言葉が多い。
それに、褒め方が妙に具体的だった。
もっとも、十六年も一緒に働いているのだから、相手の長所をよく知っていても不思議ではない。
ヴァレンティナは、そのときは特に気に留めなかった。
◇
事件が起きたのは、その日の午後だった。
庭園の西側では、古くなった木製の柵を取り替える作業が行われていた。
昨年までは修繕費を捻出できず、応急処置を繰り返していた場所だったが、ようやく新しい木材を購入できたため、庭師たちが少しずつ交換を進めていた。
ヴァレンティナは、その作業を確認するため、エレノアとともに庭園へ出ていた。
「思っていたより、ずっと綺麗になったわね」
「はい。以前は木材が腐食している部分もございましたが、今回の修繕で安全性も改善されるかと存じます」
「それなら安心ね。庭園はお客様も歩かれる場所だもの」
ヴァレンティナは、満足そうに頷いた。
そのとき、少し離れたところで作業をしていた庭師が、声を上げた。
「危ない!」
突然、積み上げていた木材の一部が崩れ、地面へ落ちた。
大きな事故にはならなかったものの、近くにいたエレノアが驚いて後ずさりし、足元の石につまずいた。
「……っ!」
彼女は転倒こそ免れたが、咄嗟に手をついた際、近くに置かれていた木材のささくれで指先を傷つけてしまった。
「エレノア!」
ヴァレンティナは、慌てて駆け寄った。
「大丈夫? 怪我をしたの?」
「……申し訳ございません、奥様。少し指を擦ってしまっただけでございます」
エレノアは、すぐに姿勢を整えた。
しかし、右手の人差し指には、小さな傷ができていた。
「まあ、血が出ているじゃない」
「たいしたことはございません。すぐに手当てをいたしますので」
そのときだった。
「エレノア!」
普段より明らかに大きな声が、庭園に響いた。
振り向くと、セドリックがこちらへ向かって早足で歩いてきていた。
彼は庭師たちと備品の確認をしていたらしく、少し離れた場所にいたはずだった。
「怪我をしたのですか?」
「……セドリック?」
エレノアが驚いたように顔を上げると、セドリックはすぐに彼女の手元へ視線を落とした。
「血が出ていますね。傷を見せてください」
「いえ、これくらいでしたら……」
「木材で切ったのでしょう。細かな破片が残っているかもしれません」
彼は、いつもより少し早口だった。
エレノアは、困ったように微笑んだ。
「本当に、たいした傷ではありませんから」
「たいした傷かどうかは、確認してから判断すべきです」
セドリックは、そう言って彼女の手を取った。
その動作は丁寧だったが、普段の彼にしては珍しく、少し性急だった。
エレノアは目を瞬かせた。
「……セドリック?」
彼は、はっとしたように手を緩めた。
「……失礼しました」
そして、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻った。
「まずは屋敷へ戻りましょう。傷を洗い、必要なら医師にも確認していただいた方がよいかと」
ヴァレンティナは、その一部始終を見ていた。
最初は、セドリックの判断が正しいと思った。
小さな傷でも、きちんと手当てをするべきだ。
しかし、彼の様子には、何か引っかかるものがあった。
普段のセドリックは、どんな問題が起きても冷静だった。
急な来客があっても、備品が不足しても、使用人が失敗しても、必要な指示を的確に出す。
そんな彼が、エレノアの指先にできた小さな傷を見ただけで、あれほど慌てていた。
しかも、彼女の手を取ったときの表情。
あれは、単に同僚の怪我を心配している顔だっただろうか。
ヴァレンティナは、少しだけ首を傾げた。
そして、ふと、ある可能性を思いついた。
……まさか。
彼女は、セドリックとエレノアを交互に見た。
エレノアは、申し訳なさそうに笑っている。
セドリックは、彼女の傷を確認しながら、何度も大丈夫かと尋ねていた。
ヴァレンティナは、ゆっくりと目を見開いた。
……これは。
もしかして。
いや、もしかしなくても。
そういうことなのではないかしら?
◇
エレノアの傷は、幸い浅いものだった。
屋敷へ戻って洗浄し、清潔な布で保護すると、出血もすぐに止まった。クラウディアはすでに王都へ戻っていたため、必要なら町の医師へ相談することになったが、今のところ大きな問題はなさそうだった。
「本当に、ご心配をおかけして申し訳ございません」
エレノアは、手当てを終えると丁寧に頭を下げた。
「奥様にも、セドリックにも、お手数をおかけしてしまいました」
「何を言っているの。怪我をしたときくらい、遠慮しなくていいのよ」
ヴァレンティナは、明るく答えた。
「それに、あなたは普段から働きすぎなのだから、今日は少し早めに休んだ方がいいわ」
「ですが、まだ仕事が……」
「仕事なら、ほかの人に任せればいいでしょう?」
ヴァレンティナは、にっこりと微笑んだ。
「ねえ、セドリック?」
「……はい。エレノアの仕事は、私とほかの使用人たちで分担いたします」
セドリックは、すぐに頷いた。
「今日は無理をせず、休んでください」
エレノアは、少し困ったような顔をした。
「……お二人とも、大げさでございます」
「大げさなくらいでちょうどいいのよ」
ヴァレンティナは、そう言って笑った。
結局、エレノアは午後の仕事を一部ほかの使用人へ任せ、早めに休むことになった。
彼女が部屋を出ていくと、ヴァレンティナはセドリックへ向き直った。
「……セドリック」
「はい、奥様」
「少し、お話があるのだけれど」
「何でございましょうか?」
ヴァレンティナは、しばらく彼の顔を見つめた。
セドリックは、いつもどおり落ち着いた表情をしている。
先ほどの慌てぶりなど、まるでなかったかのようだった。
しかし、ヴァレンティナは見逃さなかった。
「……あなた、エレノアのことが好きなの?」
セドリックの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
しかし、ヴァレンティナには十分だった。
「……奥様?」
「だから、エレノアのことよ」
彼女は、少し身を乗り出した。
「もしかして、ずっと前から好きだったんじゃない?」
セドリックは、しばらく沈黙した。
それから、静かに息を吐いた。
「……なぜ、そのようにお思いになるのですか?」
「だって、さっきのあなた、いつもと全然違ったもの」
ヴァレンティナは、楽しそうに説明した。
「エレノアが怪我をした途端、あんなに慌てて。しかも、手を取ったときの顔ったら」
「……奥様」
「それに、以前から少し気になっていたのよ。あなた、エレノアの話になると、いつもよりずっと詳しくなるでしょう?」
セドリックは、何も答えなかった。
ヴァレンティナは、その沈黙を見て確信した。
「……やっぱり!」
彼女は、思わず両手を合わせた。
「まあ、そうだったのね!」
「……奥様。どうか、お声を少し……」
「あ、ごめんなさい」
ヴァレンティナは、慌てて声を落とした。
しかし、目はすっかり輝いていた。
「それで? いつからなの?」
「……何が、でございましょうか」
「エレノアを好きになったのは、いつから?」
セドリックは、少し困ったように微笑んだ。
「……奥様。そのようなことを、私から申し上げるのは……」
「まあ、隠さなくてもいいじゃない。誰にも言わないわよ」
ヴァレンティナは、真剣な顔で続けた。
「私、こういう話は嫌いじゃないの。むしろ、応援したいくらいだわ」
セドリックは、しばらく彼女を見つめた。
そして、諦めたように小さく息を吐いた。
「……十六年前から、彼女のことは存じております」
「十六年!」
ヴァレンティナは、思わず声を上げかけ、慌てて口元を押さえた。
「……そんなに長いの?」
「同じ屋敷で働いておりますので」
「それはそうだけれど……」
彼女は、少しだけ考えた。
「でも、好きになったのは、もっと後なのよね?」
セドリックは、静かに頷いた。
「……はい」
その表情は、どこか懐かしそうだった。
「最初は、仕事のことでよく助けてもらっていました。私がこの屋敷へ来た頃、彼女はすでに一年ほど働いておりましたので、屋敷の習慣についても、私より詳しかったのです」
ヴァレンティナは、興味深そうに耳を傾けた。
「そうだったのね」
「ええ。彼女は昔から真面目で、仕事に対して責任感が強い人でした。時には自分の仕事が終わっていても、ほかの使用人を手伝っていました」
セドリックは、少しだけ微笑んだ。
「私も、何度も助けられました」
「……それで、いつの間にか好きになっていたの?」
彼は、すぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向け、しばらく考えてから口を開いた。
「……気づいたときには、そうなっておりました」
ヴァレンティナは、胸の前で両手を組んだ。
「まあ……」
何ということだろう。
十六年も同じ屋敷で働き、互いに支え合いながら、いつしか恋心が芽生えていた。
しかも、セドリックは今までその気持ちを伝えずにいたという。
ヴァレンティナには、少しもったいなく思えた。
「それなら、どうして告白しないの?」
セドリックは、穏やかな表情のまま答えた。
「……彼女にも、彼女の人生がございますから」
「え?」
「私の気持ちを伝えることで、彼女を困らせたくはありません」
ヴァレンティナは、少しだけ首を傾げた。
「でも、好きだって伝えるだけなら、悪いことではないでしょう?」
「もちろん、そうかもしれません」
セドリックは、静かに頷いた。
「ですが、彼女が同じ気持ちであるとは限りません。長年一緒に働いてきた関係を、私の一方的な感情で変えてしまうことには、慎重でありたいのです」
ヴァレンティナは、しばらく黙っていた。
なるほど。
確かに、セドリックの言うことにも一理ある。
同じ職場で長年働いている相手へ気持ちを伝えるのは、簡単なことではないのだろう。
それに、エレノアは仕事に対して非常に真面目な女性だった。
恋愛のことなど、あまり考えたことがないのかもしれない。
……でも。
だからといって、このまま何もしないのは、少し寂しいではないか。
「……ねえ、セドリック」
「はい」
「私、あなたを応援したいわ」
セドリックは、少しだけ目を見開いた。
「……奥様?」
「だって、あなたもエレノアも、いつも侯爵家のために一生懸命働いてくれているでしょう?」
ヴァレンティナは、真剣な表情で続けた。
「そんな二人が幸せになれるなら、私だって嬉しいもの」
セドリックは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます、奥様」
その声には、普段より少しだけ柔らかな響きがあった。
しかし、彼はすぐに顔を上げた。
「ただ、一つだけお願いがございます」
「何かしら?」
「どうか、エレノアの気持ちを第一にお考えください」
ヴァレンティナは、少し驚いた。
「もちろんよ」
「彼女が望まないのであれば、私も無理に距離を縮めるつもりはございません」
セドリックは、静かに続けた。
「彼女が今の仕事を大切にしていることも、よく理解しております。ですから、奥様のお気持ちはありがたいのですが、どうか無理なことはなさらないでください」
ヴァレンティナは、真面目な顔で頷いた。
「分かったわ。無理なことはしない」
そして、少しだけ笑った。
「でも、二人が自然に仲よくなれる機会くらいは、作ってもいいでしょう?」
セドリックは、何か言いかけた。
しかし、ヴァレンティナの楽しそうな表情を見て、諦めたように微笑んだ。
「……奥様のお考えに、お任せいたします」
その返事を聞いて、ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
こうして、彼女の新しい計画が始まった。
侯爵家の財政を立て直し、屋敷の修繕を進め、領地の事業を整えてきたヴァレンティナにとって、今度の課題は少しばかり勝手が違っていた。
何しろ、相手は帳簿でも屋根でもなく、人の心なのだから。
◇
その日の夕食後、ヴァレンティナはアルベルトとともに、居間で紅茶を飲んでいた。
窓の外には静かな夜の庭園が広がり、暖炉には小さな火が灯っている。
アルベルトは書類を読み、ヴァレンティナは裁縫道具を広げていた。
しばらくして、彼女はふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、アルベルト」
「何だ?」
「あなた、セドリックのことをどう思う?」
突然の質問に、アルベルトは少しだけ眉を寄せた。
「……どう、とは?」
「人柄のことよ」
アルベルトは、少し考えた。
「誠実で、仕事も正確だ。執事長として十分に信頼している」
「そうよね」
ヴァレンティナは、満足そうに頷いた。
「じゃあ、エレノアは?」
「彼女も同じだ。長年この屋敷を支えてくれている、大切な使用人だと思っている」
「ふふっ。やっぱり」
ヴァレンティナは、何やら楽しそうに微笑んだ。
アルベルトは、少し不思議そうに妻を見た。
「……何かあったのか?」
「いいえ。ちょっと考えていることがあるだけ」
「……そうか」
アルベルトは、再び書類へ視線を戻した。
しかし、ヴァレンティナは、しばらくしてまた口を開いた。
「ねえ、アルベルト」
「……今度は何だ?」
「もし、使用人同士が結婚したいと言ったら、あなたはどうする?」
アルベルトは、今度こそ書類から顔を上げた。
「……突然、どうした?」
「仮の話よ。仮の話」
ヴァレンティナは、にっこりと微笑んだ。
「同じ屋敷で働いている二人が、結婚したいと言い出したら?」
アルベルトは、少し考えた。
「本人たちが望むのであれば、特に反対する理由はないだろう」
「本当?」
「ああ。ただし、仕事の分担や住居については、調整が必要になるかもしれないな」
「なるほど……」
ヴァレンティナは、真剣な顔で頷いた。
アルベルトは、その様子を見て少しだけ警戒した。
「……ヴァレンティナ」
「何?」
「何か、新しい計画を考えているのか?」
ヴァレンティナは、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、楽しそうに笑った。
「……秘密よ」
アルベルトは、静かに息を吐いた。
この半年で、彼はひとつ学んでいた。
ヴァレンティナがこういう顔をするときは、たいてい何かが始まる。
しかも、その計画は、思っていた以上に大きな騒ぎへ発展することが多い。
「……あまり無理はするなよ」
「大丈夫よ。今回は、誰かを幸せにするための計画なんだから」
アルベルトは、ますます不思議そうな顔をした。
「……誰かを?」
「ええ」
ヴァレンティナは、裁縫道具を片づけながら、満足そうに微笑んだ。
「とても大切な人たちよ」
アルベルトは、それ以上尋ねなかった。
妻が何かを考えていることは分かったが、今のところ危険な話ではなさそうだったからだ。
それに、ヴァレンティナが誰かのために行動しようとするのは、今に始まったことではない。
彼は、少しだけ微笑んだ。
「……そうか。うまくいくといいな」
「ええ。きっとうまくいくわ」
ヴァレンティナは、自信たっぷりに答えた。
その頃、屋敷の別の場所では、セドリックが翌日の勤務表を確認していた。
エレノアは自室で、今日の仕事を振り返りながら、指先の小さな傷を確かめていた。
二人とも、まだ知らなかった。
侯爵家の奥様が、自分たちの恋愛について、すでに具体的な計画を立て始めていることを。
そして、その計画が、思いがけない騒動を引き起こすことになるとは。
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