第31話 侯爵家、子供の予定を聞かれちゃいました
第31話 侯爵家、子供の予定を聞かれちゃいました
五月の半ば、ローゼンベルク侯爵領は、春の終わりを告げる柔らかな日差しに包まれていた。
屋敷へ続く街道の両側には若葉を茂らせた樫の木が立ち並び、庭園では白い薔薇が最初の蕾をつけ始めている。昨年の秋には雑草に埋もれていた花壇も、今では庭師たちの手によって整えられ、石畳の隙間から伸びていた草もすっかり取り除かれていた。
ヴァレンティナ・ローゼンベルクは、二階の衣装室で外出用のドレスを選びながら、鏡の前で背筋を伸ばしていた。
「……これでよし」
顎を軽く引き、肩を開き、腰をまっすぐにする。鏡の中の自分を確かめると、彼女は満足そうに頷いた。
その様子を見ていたメイド長のエレノアが、控えめに微笑んだ。
「本日は、いつも以上に姿勢をお気になさっているのですね」
「だって、クラウディア叔母様がいらっしゃるんですもの」
ヴァレンティナは、鏡の中のエレノアへ視線を向けた。
「結婚式の日のこと、今でも覚えているわ。ご挨拶をしたら、いきなり姿勢を注意されたのよ」
「クラウディア様は、礼儀作法には大変厳しい方でいらっしゃいますから」
「ええ。あのときは驚いたわ。結婚式の最中にまで注意されるなんて、思ってもみなかったもの」
もっとも、今ではその記憶も笑い話になっていた。
結婚式当日、ヴァレンティナは、初めて顔を合わせた夫の叔母に、立ち姿を厳しく正された。商人の家で育った彼女も礼儀作法を教わっていなかったわけではないが、由緒ある貴族の家に生まれ、長年その格式を守ってきたクラウディアの目には、まだまだ不十分だったらしい。
あのときは、この先どれほど厳しい親戚付き合いが待っているのだろうと、内心で少し身構えたものだった。
ところが、三月にクラウディアが屋敷を訪れた際、二人は意外なほど意気投合した。
クラウディアは相変わらず厳格で、気になったことは遠慮なく指摘する女性だったが、筋の通った説明にはきちんと耳を傾ける。侯爵家の財政についても、家柄や伝統を理由に改革を否定することはなく、むしろヴァレンティナの取り組みを興味深そうに聞いてくれた。
何より、二人とも、無駄なことを嫌う性格だった。
「叔母様って、厳しいけれど、話してみると面白い方なのよね」
「奥様とは、以前のご訪問でも随分お話が弾んでいらっしゃいましたね」
「そうなの。だから、今日も楽しみだわ」
ヴァレンティナは最後にもう一度姿勢を確かめると、エレノアが用意した薄青色のドレスへ着替え始めた。
その間、エレノアは手際よく衣装を整え、胸元の飾りを留めていく。
「そういえば、アルベルトは?」
「午前中は執務室でお仕事をなさっております。クラウディア様の馬車が到着する頃には、玄関へお越しになる予定でございます」
「分かったわ。叔母様がいらっしゃる前に、私も少し帳簿を見ておこうかしら」
「奥様。本日は、あまり根を詰められませんように」
「まあ、エレノアまで叔母様みたいなことを言うのね」
ヴァレンティナが笑うと、エレノアも穏やかに微笑んだ。
「奥様は、お仕事を始められると時間をお忘れになりますから」
「それは否定できないわね」
結婚してから半年以上が過ぎ、ヴァレンティナは、この屋敷の使用人たちともすっかり打ち解けていた。
最初の頃は、メイド長であるエレノアの丁寧すぎる言葉遣いや、何事にも慎重な態度に少し距離を感じたこともあった。しかし、今では彼女がどれほど誠実に仕事へ向き合っているかを知っている。
エレノアもまた、新しい奥様の行動力に驚かされることは多かったが、以前のように戸惑うことは少なくなっていた。
少なくとも、仕事に関しては。
◇
クラウディアの馬車が到着したのは、昼食を終えて間もない頃だった。
玄関前にはアルベルトとヴァレンティナが並び、少し後ろには執事長のセドリックとエレノアが控えている。
やがて馬車の扉が開き、落ち着いた濃紺の外套を身につけたクラウディアが姿を現した。
彼女は馬車を降りると、まず屋敷の正面を見上げ、それから出迎えの一同へ視線を移した。
「久しぶりね、アルベルト。ヴァレンティナ」
「叔母上。遠いところをありがとうございます」
「お久しぶりです、叔母様。お待ちしておりました」
ヴァレンティナは、丁寧に礼をした。
クラウディアは、その姿をじっと見つめた。
「……ヴァレンティナ」
「はい」
「今日は背筋がきちんと伸びているわね」
ヴァレンティナは、思わず顔を上げた。
「叔母様、ご挨拶の次は姿勢の確認ですか?」
「当然でしょう。姿勢は日頃の習慣が表れるものよ」
「ふふっ。相変わらず厳しいんですから」
「褒めているのよ」
「それなら、ありがたく受け取っておきます」
クラウディアは満足そうに頷き、それからアルベルトへ向き直った。
「あなたは少し顔色がよくなったわね。以前より健康そうだわ」
「そうですか?」
「ええ。きちんと食事を取っている証拠ね」
ヴァレンティナが横から口を挟んだ。
「叔母様、最近は昼食もきちんと召し上がっているんですよ。以前は忙しいからと抜こうとすることもありましたけれど」
「まあ。相変わらずなのね」
「……ヴァレンティナ」
アルベルトが少し困ったように妻を見た。
しかし、クラウディアは容赦しなかった。
「仕事が忙しいから食事を抜くなんて、医師の立場から言わせてもらえば感心しないわ。あなたはもう二十九歳なのだから、自分の身体くらい管理なさい」
「……承知しています」
「本当に?」
「はい」
その返事を聞いて、ヴァレンティナは笑いを堪えた。
普段は侯爵家の当主として落ち着いているアルベルトも、この叔母の前では昔からの甥に戻ってしまうらしい。
「叔母様、まずは中へどうぞ。今日はマルセルが、お茶に合わせて焼き菓子を用意してくれたんです」
「あら、それは楽しみね」
クラウディアはようやく満足した様子で頷き、二人に案内されて屋敷へ入った。
◇
午後のお茶は、庭園に面した小さな応接室で用意された。
窓の向こうには春の陽光を浴びた庭園が広がり、テーブルにはマルセルの焼いた菓子と、領地で採れた果実を使ったジャムが並んでいる。
クラウディアは紅茶を一口飲むと、室内をゆっくり見回した。
「前に来たときより、随分と屋敷が明るくなった気がするわね」
「そうでしょうか?」
ヴァレンティナが尋ねると、クラウディアは頷いた。
「ええ。あのときも修繕は進んでいたけれど、今は以前より落ち着いて見えるわ。使用人たちの動きにも余裕があるようだし」
「ありがとうございます。ようやく、毎日の仕事に追われるだけではなく、少し先のことまで考えられるようになったんです」
ヴァレンティナは、嬉しそうに微笑んだ。
昨年の秋、この屋敷へ嫁いできたときには、まさか侯爵家の財政がこれほど逼迫しているとは思っていなかった。
雨漏りする屋根、老朽化した建物、収入に見合わない維持費。最初は、どこから手をつければよいのか分からないほどだった。
それでも、アルベルトや使用人たちと協力し、少しずつ問題を解決してきた。
今では領地の果実を使った加工品がクライン商店で販売され、アシュフォード商会との陶磁器の契約もまとまっている。ウェストフィールド運送商会との共同輸送も始まり、領地の事業には以前より明るい見通しが立ち始めていた。
「このジャムも、最近では継続して注文をいただけるようになったんですよ」
ヴァレンティナが瓶を示すと、クラウディアは興味深そうに手に取った。
「そうなの。味もいいし、保存が利くなら便利ね」
「ええ。今後は種類も増やしていきたいと思っています」
「ただし、増やしすぎて管理が行き届かなくならないようにね」
「はい。そこは慎重に進めるつもりです」
クラウディアは満足そうに頷いた。
その様子を見ていたアルベルトが、静かに口を開いた。
「ヴァレンティナは、何か新しい事業を考えるたびに、まず収支の見通しを立てるようにしています。以前よりも、領地の管理が随分と合理的になりました」
「まあ。あなたがそんなふうに人を褒めるなんて、珍しいわね」
「……事実を申し上げただけです」
「そういうところは昔から変わらないのね」
クラウディアが微笑むと、ヴァレンティナも嬉しそうに夫を見た。
アルベルトは、少しだけ居心地が悪そうに紅茶へ手を伸ばした。
やがて、セドリックが執務室から急ぎの書類を持ってきたため、アルベルトは一度席を外すことになった。
「申し訳ありません。少しだけ確認してまいります」
「構わないわ。仕事なら仕方ないもの」
クラウディアはあっさりと答えた。
「ただし、夕食までには戻ってきなさい。せっかく来たのだから、あなたとも話がしたいわ」
「承知しました」
アルベルトは軽く頭を下げ、セドリックとともに応接室を出ていった。
扉が閉まると、クラウディアは紅茶のカップを置いた。
「……あの子、随分と変わったわね」
ヴァレンティナは首を傾げた。
「そうですか?」
「ええ。前に来たときにも感じたけれど、今日はそれがよく分かったわ。以前のアルベルトは、何でも自分一人で抱え込もうとしていたもの」
クラウディアは、窓の外へ視線を向けた。
「母親を早くに亡くして、父親も厳しい人だったから、あの子は子どもの頃から随分と気を張っていたのよ。自分がしっかりしなければならないと思っていたのでしょうね」
ヴァレンティナは、静かに耳を傾けた。
アルベルトが幼い頃に母親を亡くしたことは知っていた。しかし、そのことが彼の性格にどれほど影響しているのか、深く考えたことはなかった。
「でも、あなたが来てから、少し肩の力が抜けたみたい」
クラウディアは穏やかに微笑んだ。
「仕事を任せられる相手がいるというのは、あの子にとって大きなことなのだと思うわ」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
ヴァレンティナは、少し照れたように微笑んだ。
クラウディアはそんな彼女を見て、しばらく考えるような表情を浮かべた。
「ところで、ヴァレンティナ」
「はい?」
「子どもの予定はあるの?」
あまりにも自然な調子で尋ねられたため、ヴァレンティナは一瞬、何の話か分からなかった。
「……子ども、ですか?」
「ええ。結婚して半年以上になるでしょう。そろそろ、そんな話も出る頃かと思って」
クラウディアは、いつもどおり落ち着いた表情だった。
ヴァレンティナは少し考え、それから正直に答えた。
「今のところ、具体的な予定はありません」
「あら、そうなの?」
「はい。侯爵家の財政も、ようやく落ち着いてきたところですし、まだやらなければならないことがたくさんありますから」
クラウディアは、静かに頷いた。
「なるほどね」
「もちろん、いつかは子どもが欲しいと思っています。でも、今すぐでなくてもいいかな、と」
ヴァレンティナは、少しだけ笑った。
「今は、侯爵家の仕事が面白くて仕方がないんです。せっかく始めた事業も、ようやく軌道に乗り始めたところですし」
「あなたらしい答えね」
クラウディアは、穏やかに微笑んだ。
「ただし、仕事が面白いからといって、身体を壊してはいけないわよ。子どもを持つかどうかとは別に、健康管理は大切なのだから」
「はい。気をつけます」
「それから、子どもを持つ時期については、アルベルトともきちんと話し合いなさい。夫婦のことなのだから、どちらか一人で決めるものではないわ」
「もちろんです」
ヴァレンティナは、素直に頷いた。
クラウディアは満足そうに紅茶を飲んだ。
「それならいいわ。周囲が急かしたところで、子どもというのは予定どおりに授かるものでもないしね」
「叔母様は、そういうことにもお詳しいんですね」
「医師ですもの。当然でしょう」
クラウディアは、少しだけ眉を上げた。
「それに、子どもが生まれれば、今までと同じようには働けなくなる時期もあるわ。あなたの場合は、仕事の引き継ぎを考えておく必要がありそうね」
「……確かに」
ヴァレンティナは、思わず真剣な顔になった。
もし自分が長期間仕事を休むことになったら、今進めている事業はどうなるだろう。アルベルトやヘンリーに任せられる部分もあるが、まだ自分で判断している仕事も多い。
クラウディアは、そんな彼女を見て小さく笑った。
「ほら。もう仕事のことを考えているでしょう」
「……分かりますか?」
「顔に書いてあるわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
その後も、話題は医療や領地の暮らし、使用人たちの健康管理へと移っていった。
クラウディアは厳格な女性だったが、ヴァレンティナの意見を頭ごなしに否定することはなかった。むしろ、彼女が具体的な考えを述べるたびに、興味深そうに耳を傾けていた。
ヴァレンティナは、改めて思った。
結婚式の日には、あれほど恐ろしい方だと思ったのに。
人というものは、話してみなければ分からないものだ。
◇
夕方、クラウディアが客室で休んでいる間、ヴァレンティナは衣装室で翌日の服を選んでいた。
エレノアは、いくつかのドレスを取り出しながら、翌日の予定を確認している。
「明日は、午前中に領地管理人のウォルシュ様がお見えになる予定でございます。午後はクラウディア様と庭園をご散策なさると伺っておりますが」
「ええ。アルベルトも時間を空けてくれるそうだから、三人で歩こうと思っているの」
「かしこまりました。それでしたら、こちらの上着がよろしいかと存じます。午後は少し風が強くなるかもしれませんので」
エレノアが差し出した上着を、ヴァレンティナは鏡の前で合わせた。
「そうね。これにするわ」
彼女は、少し考えてから笑った。
「そういえば、今日、叔母様に子どもの予定を聞かれたのよ」
エレノアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……左様でございますか」
「ええ。結婚して半年以上になるから、そろそろそんな話も出る頃だって」
ヴァレンティナは、少しだけ困ったように笑った。
「でも、当分はないわね。今は侯爵家の仕事で手いっぱいだもの」
エレノアは、静かに頷いた。
「……そうでございますか」
「もちろん、いつかは欲しいと思っているのよ。でも、まだ慌てなくてもいいでしょう?」
「……はい。奥様のお考えが第一でございます」
エレノアは、いつもどおり穏やかに答えた。
しかし、その胸の奥では、ほんの小さな安堵が広がっていた。
当分、子どもの予定はない。
その言葉を、彼女は心の中で繰り返した。
もちろん、それだけで夫婦の関係が分かるわけではない。子どもを望んでいない夫婦など、いくらでもいるだろう。
それでも、エレノアは、つい考えてしまった。
もしかすると、旦那様と奥様は、まだそれほど親密な関係ではないのかもしれない。
結婚して半年以上になるとはいえ、もともとは家同士の事情による縁組だった。奥様は侯爵家の財政再建に忙しく、旦那様も領地の管理に追われている。二人が夫婦としてどのような時間を過ごしているのか、使用人である自分には知る由もなかった。
エレノアは、静かに息を吐いた。
そして、ふと、昨年の秋のことを思い出した。
あの日も、雨が降っていた。
屋敷の屋根から雨水が漏れ、使用人たちは慌ただしく桶や布を運んでいた。エレノアもまた、寝室の雨漏りを確認するため、桶を抱えて廊下を急いでいた。
扉を叩き、返事を待ってから部屋へ入ったとき、彼女は思いがけない光景を目にした。
旦那様と奥様が、同じ寝台で眠っていたのである。
もちろん、夫婦なのだから当然のことだった。
それでも、エレノアは、胸の奥がざわつくのを感じた。
それまで、旦那様の寝室に女性がいることなどなかった。幼い頃からこの屋敷で暮らしてきた彼が、いつの間にか一人の男性になり、妻を迎え、その妻と同じ寝台で眠っている。
頭では理解していたはずのことが、あの光景を見た瞬間、急に現実として迫ってきた。
エレノアは、何事もなかったように桶を置き、雨漏りの状況を確認した。
しかし、部屋を出たあともしばらく、胸のざわつきは消えなかった。
あれから半年以上が過ぎた。
奥様は侯爵家の仕事に熱心で、旦那様も以前より穏やかになった。
二人が仲のよい夫婦であることは、誰の目にも明らかだった。
けれど、それでも。
エレノアは、心の奥で、ある可能性を捨てきれずにいた。
「……エレノア?」
ヴァレンティナの声に、彼女ははっと顔を上げた。
「……はい、奥様」
「どうしたの? 少しぼんやりしていたみたいだけれど」
エレノアは、すぐに微笑んだ。
「申し訳ございません。少し考え事をしておりました」
「まあ、珍しいわね。あなたがぼんやりするなんて」
ヴァレンティナは、楽しそうに笑った。
「疲れているなら、無理しないでね」
エレノアは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様」
ヴァレンティナは、それ以上気にすることなく、衣装選びへ戻った。
エレノアは、そんな奥様の姿を見つめながら、胸の奥に生まれた小さな安堵を、そっと押し隠した。
奥様は、何も悪くない。
むしろ、使用人たちにも気を配り、侯爵家のために懸命に働いてくださる、立派な方だった。
だからこそ、自分がこんなことを考えていると知られてはならない。
エレノアは、静かに息を整えた。
そして、いつものメイド長の表情へ戻った。
◇
その夜、エレノアは使用人たちの仕事が終わったことを確認してから、執務室へ向かった。
明日の予定について、アルベルトへ報告するためだった。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入れ」
エレノアは、静かに扉を開けた。
アルベルトは机に向かい、書類を確認していた。
窓の外はすっかり暗くなっており、机の上の灯りが、彼の横顔を柔らかく照らしている。
「旦那様。明日のご予定について、ご報告に参りました」
「ああ。頼む」
エレノアは、予定を一つずつ説明した。
アルベルトは、必要なところで質問を挟みながら、静かに耳を傾けていた。
その姿は、昔から変わらない。
いや、正確には、随分変わった。
十二歳だった少年は、今では二十九歳の侯爵となり、領地と家名を背負う立派な男性になっている。
エレノアは、その成長をずっとそばで見てきた。
そして、いつの間にか、ただ仕えるだけでは済まない感情を抱くようになっていた。
「……エレノア」
アルベルトの声に、彼女は顔を上げた。
「はい」
「明日の午後、ヴァレンティナは叔母上と庭園を歩く予定だったな」
「はい。そのように伺っております」
「そうか。なら、私も少し時間を空けよう」
アルベルトは、書類へ視線を戻した。
「せっかく叔母上が来ているのだから、三人で過ごす時間も必要だろう」
エレノアは、静かに頷いた。
「かしこまりました」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「ヴァレンティナも喜ぶだろう」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの胸が、ほんの少しだけ痛んだ。
旦那様は、以前よりずっと奥様のことを気にかけるようになった。
それは、喜ばしいことだった。
侯爵家の主人が、妻を大切にする。
使用人として、これほど望ましいことはない。
それなのに。
エレノアは、静かに頭を下げた。
「……はい。奥様も、きっとお喜びになると存じます」
アルベルトは、満足そうに頷いた。
「ありがとう。今日はもう休んでくれ」
「かしこまりました。おやすみなさいませ、旦那様」
「ああ。おやすみ」
エレノアは、静かに部屋を出た。
廊下へ出ると、彼女は一度だけ深く息を吐いた。
そして、何事もなかったように歩き始めた。
その途中、階段の近くでセドリックと顔を合わせた。
「エレノア。まだ仕事をしていたのですか」
彼は、少しだけ心配そうに尋ねた。
「ええ。明日の予定について、旦那様へご報告しておりました」
「そうですか。遅くまでお疲れさまです」
セドリックは、穏やかに微笑んだ。
「明日はクラウディア様もいらっしゃいますし、忙しくなるでしょう。今夜は早めに休んでください」
エレノアは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます、セドリック。あなたも、無理をなさらないでくださいね」
「ええ。そうします」
二人は、軽く会釈を交わした。
エレノアが階段を下りていくと、セドリックは、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
彼女がいつもより少しだけ元気がないことに、彼は気づいていた。
しかし、その理由までは分からなかった。
セドリックは、静かに息を吐いた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……おやすみなさい、エレノア」
彼女の姿は、すでに階段の向こうへ消えていた。
◇
翌朝、ヴァレンティナはいつもどおり、執務室で書類を確認していた。
窓の外では、小鳥たちが賑やかに鳴いている。
机の上には、領地の収支報告書と、今後の事業計画が並んでいた。
ヴァレンティナは、その一枚を手に取り、楽しそうに微笑んだ。
「……さて。今日も頑張らなくちゃ」
侯爵家には、まだまだやるべきことがたくさんある。
屋敷の修繕、領地の事業、使用人たちの働き方、そして、これからの暮らし。
財政の問題が落ち着いてきたからといって、すべてが終わったわけではない。
むしろ、ようやく次の段階へ進めるようになったのだ。
ヴァレンティナは、書類へ視線を落とした。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「奥様、失礼いたします」
入ってきたのは、セドリックだった。
彼は、いつものように丁寧に一礼した。
「本日のご予定について、少しご相談がございます」
「ええ。何かしら?」
セドリックは、書類を差し出した。
「使用人の勤務体制について、エレノアと確認したいことがございまして」
ヴァレンティナは、書類を受け取った。
「まあ、ちょうどよかったわ。私も最近、使用人たちの働き方について考えていたところなの」
セドリックは、少しだけ微笑んだ。
「左様でございますか」
「ええ。侯爵家の財政が少しずつ落ち着いてきたのだから、今度は働く人たちの暮らしも、もっとよくしていきたいのよ」
ヴァレンティナは、楽しそうに続けた。
「仕事が終わったら、きちんと休めるようにしたいし、休日ももっと有意義に過ごしてもらいたいわ」
セドリックは、静かに頷いた。
「奥様のお考えは、使用人たちにとってもありがたいことと存じます」
ヴァレンティナは、にっこりと微笑んだ。
「そうでしょう? だから、まずはみんなの希望を聞いてみようと思っているの」
彼女は、机の上の書類を整えた。
そして、ふと顔を上げた。
「そういえば、セドリック」
「はい」
「あなたは、休日には何をしているの?」
思いがけない質問に、セドリックは少しだけ目を瞬かせた。
「……休日、でございますか?」
「ええ。お仕事ばかりしている印象があるから、少し気になって」
セドリックは、しばらく考えた。
「……読書をしたり、街へ出かけたりすることが多いでしょうか」
「まあ。そうなのね」
ヴァレンティナは、興味深そうに頷いた。
「それなら、誰かと一緒に出かけたりすることもあるの?」
セドリックは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……時折、ございます」
ヴァレンティナは、その小さな変化に気づいた。
けれど、このときの彼女は、まだその意味を深く考えなかった。
「そう。いいことね」
彼女は、明るく微笑んだ。
「仕事だけじゃなくて、そういう時間も大切にしてほしいわ」
セドリックは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様」
その表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
しかし、彼の胸の奥には、長い間誰にも伝えられずにいる想いがあった。
それは、同じ屋敷で働く一人の女性へ向けられたものだった。
そして、その女性もまた、誰にも知られてはならない想いを抱えている。
ヴァレンティナは、まだ何も知らなかった。
侯爵家の屋根や家計を立て直すことには、随分慣れてきた。
しかし、人の心というものは、帳簿の数字のように簡単には整理できない。
それでも、彼女は近いうちに、その難しい問題へ首を突っ込むことになる。
しかも、本人はそれを、たいへん楽しそうに始めるのだった。
次回10月9日19時更新します。




