第29話 侯爵家、今度は断られません
第29話 侯爵家、今度は断られません
四月も終わりに近づき、王都の街路樹には柔らかな若葉が茂り始めていた。
ローゼンベルク侯爵邸の書斎では、ヴァレンティナが領地から届いた報告書を広げ、朝から熱心に数字を追いかけていた。窓の外では庭師が花壇の手入れをしており、開け放した窓からは、春の風とともに土の匂いが流れ込んでくる。
机の上に積まれているのは、ローゼンベルク領の果物加工品に関する書類だった。
昨年の秋、出荷できずに余っていた果物を利用して作り始めた保存食は、王都のクライン商店で少しずつ売れるようになっている。最初は十瓶だけの試験販売だったが、その後の追加注文にも対応でき、今では継続して商品を届ける見通しが立ち始めていた。
もっとも、売れるようになったからといって、何もかも順調というわけではない。
「……やっぱり、運ぶのが高いのよねえ」
ヴァレンティナは報告書に記された輸送費を見つめ、眉を寄せた。
領地から王都まで商品を運ぶには、荷馬車と御者を手配しなければならない。瓶詰めの商品は重量があり、割れないように梱包する必要もあるため、運べる量にも限りがあった。
これまでは少量の出荷だったこともあり、その都度、空いている荷馬車を探して運搬を頼んでいた。しかし、販売を続けるのであれば、毎回別々に手配する方法では費用も予定も安定しない。
ヴァレンティナは別の紙を取り出し、これまでの輸送費を書き並べた。
「同じくらいの量なのに、日によって値段が違うのね。これじゃあ、利益の計算がしにくいわ」
ちょうどそのとき、扉が控えめに叩かれた。
「奥様、失礼いたします」
入ってきたのはセドリックだった。
彼は書類を一通持っており、いつもの穏やかな表情で机の前へ進んだ。
「領地のウォルシュ管理人から、追加の報告が届いております」
「ありがとう。ちょうど領地のことを考えていたのよ」
ヴァレンティナは書類を受け取り、目を通した。
そこには、果物加工品の生産を今後も続けるにあたり、王都への輸送方法を見直したいという提案が記されていた。
「ヘンリーも同じことを考えていたのね」
「現在の方法では、荷馬車の手配がつかない場合、出荷が遅れる可能性もございますから」
「そうなのよ。商品が売れても、運べなかったら意味がないもの」
ヴァレンティナは頷き、書類を机へ置いた。
「王都の運送商会と年間契約を結ぶのはどうかしら?」
「よろしいかと存じます。定期的な輸送であれば、料金の交渉もしやすくなるでしょう」
「そうよね。毎回違う金額を払うより、ずっと計算しやすいわ」
彼女は少し考え、それから表情を曇らせた。
「……でも、前金を要求されたら困るわね」
セドリックは、すぐにその意味を理解した。
数か月前、グラント商会から取引代金の半額を前払いするよう求められたことがあった。
侯爵家の財政が不安視されていたためであり、結局その条件は撤回されたものの、ヴァレンティナにとっては忘れがたい出来事だった。
「今回は輸送の契約ですから、必ずしも同じ条件になるとは限りません」
「そうだけど、相手がローゼンベルク家の名前を見て、また前金を要求してきたら嫌でしょう?」
「まずは条件を確認してみるのがよろしいかと」
「……そうね」
ヴァレンティナは頷いた。
以前なら、相手が提示した条件に納得できなければ、すぐに交渉すればいいと考えていただろう。
しかし今では、取引先がこちらを信用しているかどうかによって、最初から提示される条件が変わることを理解している。
その違いを、もう一度確かめる機会が来たのかもしれなかった。
◇
その日の午後、ヴァレンティナはアルベルトに相談した。
彼は書斎で領地の報告書を確認していたが、妻から話を聞くと、すぐに必要性を理解した。
「輸送の年間契約か。確かに、今後も加工品の販売を続けるなら考えておくべきだな」
「でしょう? 毎回荷馬車を探すのも大変だし、運賃が変わると利益の見通しも立てにくいもの」
「ただし、今の販売量で専用の荷馬車を確保する必要はないだろう」
「ええ。ほかの荷物と一緒に運んでもらえる契約がいいと思うの」
ヴァレンティナは用意していた書類を広げ、いくつかの運送商会の名前を指し示した。
王都には、領地と都市を結ぶ運送商会がいくつもある。大量の商品を運ぶ大商会もあれば、複数の商人から荷物を預かり、決まった経路で輸送する商会もあった。
「この三つなら、ローゼンベルク領の近くを通る便があるみたいなの」
「よく調べたな」
「セドリックにも手伝ってもらったのよ。領地から王都へ来る荷馬車を調べてもらったの」
アルベルトは書類を確認し、一つの商会の名前で指を止めた。
「ウェストフィールド運送商会か。ここなら名前を聞いたことがある」
「知っているの?」
「以前、ウェストン伯爵が領地から家具を運ばせたことがあったはずだ。特に問題はなかったと聞いている」
「それなら、まずここに話を聞いてみましょうか」
「ああ。ただし、評判が良いからといって、条件まで良いとは限らない。そこは君の得意分野だろう」
ヴァレンティナは嬉しそうに笑った。
「任せてちょうだい!」
アルベルトはその勢いに少し苦笑したが、すぐに頷いた。
「では、先方に面会を申し込もう」
◇
数日後、ヴァレンティナとアルベルトは、王都の商業地区にあるウェストフィールド運送商会を訪れた。
商会の建物は大通りから少し入った場所にあり、石造りの事務所の奥には広い荷捌き場が設けられていた。敷地内では何台もの荷馬車が出入りし、従業員たちが木箱や樽を手際よく積み下ろしている。
ヴァレンティナは馬車を降りると、思わず周囲を見渡した。
「まあ、ずいぶん賑やかね」
「王都へ入る荷物をまとめて扱っているからな」
アルベルトが答えると、建物の入口から一人の男性が現れた。
四十代半ばほどの男性で、短く整えた茶色の髪と、日に焼けた顔が印象的だった。服装は華美ではないが清潔で、胸元には商会の紋章をかたどった小さな留め具が付いている。
「ローゼンベルク侯爵閣下、侯爵夫人。本日はようこそお越しくださいました」
男性は丁寧に頭を下げた。
「ウェストフィールド運送商会の支配人、リチャード・ウェストフィールドと申します」
「今日は時間を取ってくれてありがとう」
アルベルトが挨拶を返すと、リチャードは二人を事務所の奥へ案内した。
応接室には大きな机と数脚の椅子が置かれ、壁には王都周辺の街道を描いた地図が掛けられている。棚には帳簿が整然と並び、窓からは荷捌き場で働く従業員たちの姿が見えた。
ヴァレンティナは椅子へ腰を下ろすと、早速本題を切り出した。
「本日は、ローゼンベルク領から王都への定期輸送についてご相談したく参りました」
「承っております。果物の加工品をお運びになる予定だとか」
「はい。まだ大量ではありませんが、今後も継続して出荷する予定ですので、毎回別々に手配するより、年間契約の方がよいのではないかと考えまして」
リチャードは頷き、用意していた書類を机へ広げた。
「当商会では、複数のお客様のお荷物を同じ便でお運びする共同輸送を行っております。ローゼンベルク領の近くにも定期便がございますので、そちらをご利用いただく形がよろしいかと存じます」
「それなら助かりますわ」
「現在の出荷量であれば、専用の荷馬車をご用意する必要もございません。荷物の量に応じて料金を計算し、月ごとにまとめてご請求する形になります」
ヴァレンティナは、思わず顔を上げた。
「……月ごとに?」
「はい。月末にその月の輸送実績をまとめ、翌月にお支払いいただく通常の後払い契約でございます」
彼女は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「前金は必要ありませんの?」
リチャードは少し不思議そうな顔をした。
「前金でございますか?」
「ええ。契約時に、料金の一部を先にお支払いするようなことは……」
「いえ。今回の条件では必要ございません」
ヴァレンティナは隣のアルベルトを見た。
アルベルトは特に驚いた様子もなく、静かに頷いている。
しかし、ヴァレンティナにとっては大きな違いだった。
以前、グラント商会から前金を要求されたときには、侯爵家の財政が不安視されていることを嫌というほど思い知らされた。
それが今では、初めて取引する商会から、最初から後払いの条件を提示されている。
「……そうなのですね」
ヴァレンティナはできるだけ平静を装って答えた。
内心では、思わず立ち上がって喜びたいくらいだった。
◇
その後、商談は具体的な輸送条件の確認へ進んだ。
ヴァレンティナは荷物の重量ごとの料金や、輸送にかかる日数、破損が発生した場合の補償について、一つずつ質問していった。
「瓶詰めの商品ですので、輸送中に割れてしまうことが心配なのです」
「その点につきましては、木箱の中に緩衝材を詰めていただくことをお願いしております。また、当商会の取り扱いによって破損が発生した場合には、契約で定めた範囲内で補償いたします」
「では、荷物を預ける際に、数量と状態を確認していただけるのですね?」
「はい。受領時と到着時に、それぞれ確認を行っております」
「分かりました。それから、収穫の時期によって出荷量が増えた場合は、どうなりますか?」
「事前にご連絡いただければ、可能な範囲で積載量を調整いたします。ただし、急な増便が必要になった場合は、別途料金をいただくこともございます」
ヴァレンティナは頷き、書類へ目を落とした。
運送商会の提示した条件は、全体として無理のないものだった。
特に、ほかの荷物と一緒に運ぶことで輸送費を抑えられる点は魅力的である。
しかし、彼女にはまだ気になることがあった。
「もし、今後の出荷量が増えた場合、料金を見直していただくことはできますか?」
リチャードは微笑んだ。
「もちろんでございます。一定以上の輸送量を継続してご利用いただける場合には、割引を適用することも可能です」
「それは嬉しいわ」
「ただし、最初から大量の出荷をお約束いただく必要はございません。まずは現在の数量で始めていただき、実績に応じて条件を見直すのがよろしいかと存じます」
ヴァレンティナは、その答えに好感を持った。
必要以上に大きな契約を結ばせようとせず、実際の取引量に合わせて条件を決める。
それは、彼女自身が領地の加工品を販売するときに大切にしてきた考え方と同じだった。
「ありがとうございます。それなら、こちらとしても安心してお願いできますわ」
リチャードは丁寧に頷いた。
「当商会といたしましても、ローゼンベルク侯爵家とのお取引を歓迎しております」
その言葉を聞いたヴァレンティナは、少し迷ってから尋ねた。
「……一つ、お聞きしてもよろしいかしら?」
「もちろんでございます」
「今回、前金を必要としないとおっしゃいましたけれど、それは通常の条件なのですか?」
リチャードは一瞬考え、それから落ち着いた声で答えた。
「はい。信用状況に問題のないお客様には、通常そのような条件をご案内しております」
「……そうなのですね」
「ローゼンベルク侯爵家につきましては、既存のお取引先との関係も確認しておりますので、特に問題はないと判断いたしました」
ヴァレンティナは顔を上げた。
「既存の取引先?」
「はい。ハリソン商会やグラント商会とのお取引が継続していることは承知しております。また、王都のクライン商店でも、ローゼンベルク領の商品が継続して販売されていると伺っております」
ヴァレンティナは驚いた。
自分たちが思っていた以上に、商人たちはほかの商会の動きを見ているらしい。
リチャードは続けた。
「もちろん、社交界でのお評判も無関係ではございません。しかし、当商会が重視しておりますのは、実際にお取引が続いているかどうかでございます」
「……なるほど」
「ローゼンベルク侯爵家は、以前から長いお付き合いのある商会との取引を維持されておりますし、領地でも新しい商品を扱い始めていらっしゃる。そうした実績を踏まえて、通常の条件で問題ないと判断しております」
ヴァレンティナは、しばらく言葉を失った。
王宮の晩餐会で高価なドレスを着たことも、屋敷へ客を招いて食事を振る舞ったことも、決して無駄ではなかった。
しかし、それだけで信用が戻ったわけではない。
屋敷の支出を見直し、領地の赤字を止め、商人たちと取引を続けてきたこと。
その積み重ねが、ようやく外からも見えるようになってきたのだ。
「……ありがとうございます」
ヴァレンティナは、自然とそう口にしていた。
リチャードは少し意外そうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」
◇
商談を終えた二人は、王都の街路を馬車で戻っていた。
窓の外では、春の陽気に誘われた人々が通りを歩き、商店の軒先には新しい商品が並んでいる。
ヴァレンティナは膝の上に契約書の控えを置き、何度もその内容を見返していた。
「……前金なし」
アルベルトが顔を上げた。
「何だ?」
「前金なしよ、アルベルト!」
「聞こえている」
「しかも、後払い! 最初から後払いなのよ!」
「そうだな」
「すごいことじゃない?」
アルベルトは少し笑った。
「通常の取引条件に戻っただけとも言えるがな」
「それが嬉しいのよ!」
ヴァレンティナは契約書を胸元へ抱えた。
「前にグラント商会から前金を要求されたとき、本当に悔しかったんだから。ちゃんとお金を払うつもりなのに、信用してもらえないなんて」
「……ああ」
「でも、今日は最初から信用してもらえたのね」
アルベルトは妻の顔を見つめ、静かに頷いた。
「そうだな。少なくとも、今回の取引についてはそう判断された」
「しかも、私たちが今までやってきたことを、ちゃんと見てくれていたのよ」
「商人は、相手の評判だけでなく、取引の実績も調べるからな」
「それなら、今までの苦労も無駄じゃなかったのね」
ヴァレンティナは嬉しそうに笑った。
アルベルトはその様子を見ながら、少し考えてから口を開いた。
「君が領地で始めた加工品の販売も、信用につながっているんだろう」
「でも、まだそんなに大きな商売じゃないわよ?」
「規模の問題だけではない。少量でも、きちんと商品を作り、約束した数量を届け、取引を続けていることに意味がある」
ヴァレンティナは静かに頷いた。
確かに、最初の十瓶を売ったときには、利益が出るかどうかばかり気にしていた。
しかし今では、同じ店から繰り返し注文を受けることにも、大きな意味があると分かっている。
「……そうね。信用って、いきなり増えるものじゃないのね」
「ああ。長い時間をかけて積み重ねるものだ」
「でも、失うときは早いんでしょう?」
「残念ながらな」
ヴァレンティナは少し考え、それから笑った。
「じゃあ、やっぱりこの前の食器の契約は見送って正解だったわね」
「俺もそう思う」
「三百リルは惜しかったけど」
「……まだ言うか」
「惜しいものは惜しいのよ!」
アルベルトは呆れたように笑った。
ヴァレンティナはそんな夫を見つめ、ふと、思いついたように尋ねた。
「ねえ、アルベルト」
「何だ?」
「信用が戻ってきたってことは、これからはもっと商売がしやすくなるのかしら?」
「少なくとも、以前より不利な条件を押し付けられることは減るだろう」
「それなら嬉しいわね」
「ただし、信用があるからといって、無理な取引をしていいわけではないぞ」
「分かってるわよ。そこはちゃんと計算するもの」
ヴァレンティナは満足そうに頷き、再び契約書へ目を落とした。
そして、書類の余白へ小さく文字を書き込んだ。
――前金なし。
アルベルトはそれを見つけ、眉を寄せた。
「……君はなぜ、そこをわざわざ書くんだ」
「だって、嬉しいんだもの」
「それは利益ではないぞ」
「分かってるわよ!」
◇
屋敷へ戻ると、ヴァレンティナは早速セドリックを呼び、契約の内容を報告した。
「セドリック! 前金なしで契約できたわ!」
「それは何よりでございます」
「しかも、出荷量が増えたら料金を見直してくれるんですって。これなら、領地の加工品も今までより運びやすくなるわね」
セドリックは書類を確認し、穏やかに頷いた。
「条件も悪くございませんね。領地のウォルシュ管理人にも、早速連絡いたしましょう」
「お願いするわ。それから、クライン商店にも次の出荷予定を伝えなくちゃ」
「かしこまりました」
ヴァレンティナは机へ向かい、いつもの帳面を開いた。
表紙には《信用》と書かれている。
先日の王宮晩餐会の記録や、アシュフォード商会からの契約提案について書かれたページをめくり、新しい日付を書き込んだ。
――ウェストフィールド運送商会と年間契約。
――通常の後払い条件。
――前金なし。
そこまで書いたところで、ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
「これでよし!」
セドリックは帳面へ目を落とし、少しだけ微笑んだ。
「奥様、今回は随分と嬉しそうでございますね」
「だって、最初から信用してもらえたのよ。前はあんなに苦労したのに」
「奥様と旦那様が、これまで積み重ねてこられた結果でございましょう」
ヴァレンティナは少し照れくさそうに笑った。
「そうだといいわね」
そして、帳面の最後へもう一行を書き加えた。
――信用は、日々の取引から生まれる。
その文字を見つめながら、ヴァレンティナは静かに微笑んだ。
侯爵家の屋根を直したときは、目に見える成果があった。
領地の赤字が止まったときも、帳簿の数字が変わった。
しかし、信用が戻るというのは、もっと分かりにくいことだった。
それでも今日、初めて取引する商会から後払いの条件を提示されたことで、確かに何かが変わり始めていると実感できた。
ヴァレンティナは帳面を閉じ、窓の外へ目を向けた。
春の陽射しの下、庭の花々が柔らかな風に揺れている。
昨年の秋、この屋敷へ嫁いできたときには、雨漏りする天井を見上げながら、これからどうなることかと思ったものだった。
それが今では、領地の商品を王都へ運ぶための契約まで結んでいる。
人生というのは、なかなか予想がつかない。
もっとも、ヴァレンティナにとっては、予想がつかないからこそ面白いのかもしれなかった。
◇
その日の夕食後、アルベルトが書斎へ入ると、ヴァレンティナはまだ机に向かっていた。
「まだ仕事をしているのか?」
「ちょっとだけ。今日の契約を、家計の記録にも書いておこうと思って」
「それは構わないが、あまり遅くなるなよ」
「分かってるわ」
アルベルトは机の上に置かれた書類へ目を向けた。
そこには輸送契約の条件が整理され、今後の出荷予定と費用の見込みが丁寧に書き込まれていた。
「……よくまとまっているな」
「でしょう? これならヘンリーにも説明しやすいと思うの」
「ああ。領地の管理にも役立つだろう」
ヴァレンティナは嬉しそうに笑った。
「ねえ、アルベルト」
「何だ?」
「今日、商会の人が言っていたでしょう? ハリソン商会やグラント商会との取引が続いていることも、信用につながっているって」
「ああ」
「だったら、今まで付き合ってきた商会の人たちにも、ちゃんと感謝しないといけないわね」
アルベルトは少し驚いたように妻を見た。
「……そうだな」
「特にハリソン商会なんて、四十三年も付き合いがあるんでしょう? 契約を見直してもらったときは、随分と無理をお願いしたもの」
「向こうも納得して条件を改めたんだ。無理を押し付けたわけではない」
「それでも、長く付き合ってくれるのはありがたいことよね」
「ああ。その通りだ」
アルベルトは静かに頷いた。
以前のヴァレンティナなら、長年の取引関係よりも、まず価格や条件を気にしていただろう。
しかし今では、商人との付き合いそのものにも価値があることを理解している。
それは、彼女がこの半年で学んだことの一つだった。
「……君も随分と変わったな」
「そう?」
「ああ。以前なら、取引先の話になると、まず値段を下げられないか考えていただろう」
「今だって考えるわよ?」
「……そうか」
「でも、安くしてもらうだけじゃ駄目だって分かったの。相手にもちゃんと利益がないと、長く付き合ってもらえないもの」
アルベルトは妻を見つめ、それから小さく笑った。
「それなら十分だ」
「でしょう?」
ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
そして、机の上の帳面を閉じると、椅子から立ち上がった。
「さて、今日はもう寝ましょうか」
「ああ。俺もそろそろ休む」
ヴァレンティナは夫の隣へ歩み寄り、自然な動作でその腕に手を添えた。
「ねえ、アルベルト」
「今度は何だ?」
「信用って、なかなか便利なものね」
「便利という言い方はどうかと思うが」
「だって、信用があれば前金を払わなくていいし、商売もしやすくなるし、名前を使いたいって言ってくれる人まで現れるんでしょう?」
「そうだな」
「だったら、これからも大切にしなくちゃね」
アルベルトは妻を見下ろし、静かに頷いた。
「ああ。そうしよう」
こうしてローゼンベルク侯爵家は、新しい運送商会との契約を結んだ。
以前なら財政を疑われ、前金を求められていた家が、今では通常の条件で取引を始められるようになっている。
それは決して大きな出来事ではなかったが、侯爵家の信用が少しずつ回復していることを示す、確かな一歩だった。
もっとも、ヴァレンティナの《信用》の帳面には、翌朝になっても大きな文字で次の一行が残されていた。
――前金なし。非常に嬉しい。
それを見つけたアルベルトが、「感想を書く帳面ではないだろう」と注意したところ、ヴァレンティナは真顔でこう答えた。
「信用って、嬉しいものなのね」
アルベルトは、それ以上何も言えなかった。




