第28話 侯爵家、信用にも値段がつきます
第28話 侯爵家、信用にも値段がつきます
四月も半ばを迎え、ローゼンベルク侯爵邸の庭には、色とりどりの春の花が咲き始めていた。
冬の間は灰色がかって見えた石造りの外壁も、柔らかな日差しを受けると、どこか明るい色に感じられる。庭師が手入れをした花壇には新しい苗が並び、窓を開ければ、湿った土と若葉の香りが室内へ流れ込んできた。
昨年の秋、ヴァレンティナがこの屋敷へ嫁いできた頃とは、随分と様子が変わっている。
屋根の雨漏りは直り、壁の修繕も進み、使用人たちの働き方も以前より落ち着いた。領地では果物の加工品が少しずつ売れるようになり、赤字だった年間収支も、わずかながら黒字へ転じている。
そして最近では、ローゼンベルク侯爵家に対する商人たちの態度にも、少しずつ変化が現れ始めていた。
もっとも、ヴァレンティナにとって最も嬉しかったのは、先日の王宮晩餐会で購入した八十六リルのドレスが、多くの人から褒められたことだった。
あれほど高い買い物をしたのだから、せめて十回は着たい。
そう考えていた彼女は、今朝も朝食の席で次の着用機会について話していたのだが、アルベルトから「必要もないのに晩餐会を増やすな」と言われ、少し不満を抱えていた。
そんな日の午前中、セドリックが一通の手紙を持って書斎へ現れた。
「旦那様、奥様。王都の商会から、少々珍しいお申し出が届いております」
ヴァレンティナは帳簿から顔を上げた。
「珍しい申し出?」
「はい。ローゼンベルク侯爵家のお名前を、商品の販売に使用させていただきたいとのことです」
アルベルトは書類を受け取り、差出人を確認した。
「アシュフォード商会……聞いたことはあるな」
「王都で食器や室内装飾品を扱っている商会でございます。創業してまだ十年ほどですが、近年は上流階級向けの商品に力を入れているようです」
「食器?」
ヴァレンティナは興味を示し、椅子から身を乗り出した。
「どんな食器なの?」
「磁器の食器一式でございます。新しく発売する高級食器のシリーズに、ローゼンベルク家のお名前を使用したいそうです」
「へえ。うちの名前を?」
セドリックは頷き、手紙に添えられた契約条件の写しを机へ置いた。
「年間契約料として、三百リルをお支払いするとのことです」
「三百リル!?」
ヴァレンティナの声が書斎に響いた。
アルベルトは眉を寄せた。
「声が大きい」
「だって三百リルよ! 何もしなくても三百リルもらえるの?」
「何もしなくても、というわけではないだろう」
「でも、うちの名前を使うだけなんでしょう?」
ヴァレンティナは早速、契約条件を覗き込んだ。
年間三百リルという金額は、侯爵家の経営全体から見れば決して莫大な収入ではない。しかし、昨年ようやく領地の年間収支を三十六リルの黒字へ転じさせたことを考えれば、無視できる金額でもなかった。
何より、今までローゼンベルク家の名前が収入につながるなど、考えたこともなかったのである。
「アルベルト、これってすごいことじゃない?」
「条件次第だな」
「でも、三百リルよ?」
「金額は分かった。まずは何を売るつもりなのか確認しよう」
アルベルトは手紙を最後まで読み、セドリックへ視線を向けた。
「先方は商品を持参できるのか?」
「はい。実物をご覧いただいたうえで、ご判断いただきたいとのことです」
「ならば、一度話を聞こう。ただし、契約を前提とした面会ではないと伝えてくれ」
「かしこまりました」
セドリックが退室すると、ヴァレンティナは再び契約書へ目を落とした。
「ねえ、アルベルト。あなたの名字って、そんなに高く売れるものなの?」
「売るものではない」
「でも、向こうは買いたいって言っているじゃない」
「名前を使う許可を求めているんだ。家そのものを買うわけではない」
「分かってるわよ。でも、名前だけで三百リルなんて、なんだか不思議ね」
アルベルトは少し考え、机の上に置かれた書類を指先で整えた。
「ローゼンベルク家は、長い間、王家や多くの貴族と付き合いを続けてきた。その歴史を信用してくれる人間もいる」
「だから、うちの名前が付いているだけで高級に見えるのね」
「そういうことだ」
「……なるほど」
ヴァレンティナはしばらく考え込み、それから突然、顔を上げた。
「じゃあ、ベルモンド家の名前だったらいくらになるのかしら?」
「なぜそうなる」
「だって、お父様も商売では有名でしょう?」
「君の父上は商人としての信用がある。ただし、それと貴族の家名が持つ価値は同じではない」
「信用にも種類があるのねえ」
ヴァレンティナは感心したように頷いた。
それから帳面を取り出し、《信用》と書かれたページの下へ、新しい一行を書き加えた。
――ローゼンベルク家の名前には、年間三百リルの価値があるらしい。
それを見たアルベルトは、すぐに首を横へ振った。
「その書き方はやめろ」
「どうして?」
「家名の価値が三百リルという意味ではない」
「じゃあ、もっと高いの?」
「値札を付けるな」
◇
三日後、アシュフォード商会の代表が侯爵邸を訪れた。
応接室へ案内されたのは、四十歳前後の細身の男性だった。
淡い栗色の髪を丁寧に撫でつけ、上質な灰色の上着を着ている。整った口髭と柔らかな笑顔が印象的で、身のこなしにも商人らしい丁寧さが感じられた。
「お初にお目にかかります。アシュフォード商会の代表、ローレンス・アシュフォードと申します」
男性は深々と頭を下げた。
「ローゼンベルク侯爵閣下、侯爵夫人。本日はお時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
「遠いところをよく来てくれた。まずは掛けてくれ」
アルベルトが席を勧めると、ローレンスは礼を述べて腰を下ろした。
ヴァレンティナは向かい側の椅子に座り、商人が持参した大きな木箱へ目を向けた。
「そちらが商品ですの?」
「はい。ぜひ実物をご覧いただきたく、お持ちいたしました」
ローレンスが合図すると、同行していた若い従業員が木箱を開いた。
中には白磁の皿やカップが丁寧に収められており、それぞれの縁には金色の細かな装飾が施されていた。
ヴァレンティナは思わず目を輝かせた。
「まあ、綺麗!」
「ありがとうございます。こちらは当商会が新たに販売を予定しております、高級食器のシリーズでございます」
ローレンスは一枚の皿を取り出し、柔らかな布の上へ置いた。
「王都の裕福な商人や新興貴族の方々を中心に、上質な食器への需要が高まっております。そこで、由緒ある貴族のお名前を冠した商品を販売できればと考えた次第です」
「なるほどねえ」
ヴァレンティナは皿を手に取り、光へかざしてみた。
白磁の表面は滑らかで、金色の装飾も美しい。
ただ、じっくり眺めているうちに、いくつか気になる点が見えてきた。
「こちらのお皿、どちらの工房で作られているのですか?」
「王都の南にございます工房でございます」
「焼き上がりは綺麗ね。でも、少し重さにばらつきがあるような気がするわ」
ヴァレンティナは同じ大きさの皿を二枚持ち比べた。
片方はやや重く、もう片方は縁の厚みが少し違っている。
日常的に使う食器であれば、そこまで気になるほどではない。しかし、高級品として販売するなら、仕上がりの均一さも重要になる。
「一枚ずつ手作業で仕上げておりますので、多少の違いはございます」
「そうなのですね。それで、こちらは一式いくらで販売される予定なのですか?」
「基本の食器一式で、百二十リルを予定しております」
「百二十リル?」
ヴァレンティナは目を丸くした。
アルベルトが隣から静かに視線を向ける。
先日の王宮晩餐会では、値段の話をしないように努力していた妻だったが、今日は商談の場である。
ここで金額を確認すること自体は、何も間違っていない。
「随分と高級なのね」
「はい。ローゼンベルク侯爵家のお名前を冠する商品でございますから、それにふさわしい価格を設定したいと考えております」
ローレンスは自信ありげに微笑んだ。
「現在の市場では、商品の品質だけでなく、どのような家が使用しているかという点も重視されております。由緒ある侯爵家のお名前があれば、百二十リルでも十分に販売できると考えております」
ヴァレンティナは再び皿へ目を落とした。
百二十リル。
決して安い金額ではない。
もちろん、食器の価格は素材や製法、装飾によって大きく変わる。手作業で作られた上質な磁器なら、それなりの値段がするのも理解できた。
しかし、この食器が百二十リルに見合うものかと聞かれれば、少し疑問が残る。
「失礼ですが、こちらの金の装飾は、どのような方法で施されているのですか?」
「焼き付けによる装飾でございます」
「なるほど。では、普段使いする場合、どの程度の耐久性があるのでしょう?」
「通常の使用であれば、問題はございません」
「通常の使用というのは、どのくらいですか?」
ローレンスは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……一般的なご家庭での使用を想定しております」
「そうですか。では、何度も洗っているうちに金の装飾が薄くなったりすることは?」
「その可能性がまったくないとは申し上げられませんが、丁寧にお使いいただければ長くお楽しみいただけます」
ヴァレンティナは頷いた。
別に、商品が悪いと言いたいわけではない。
実際、見た目は美しいし、普段の食卓で使うなら十分な品質だろう。
ただ、百二十リルという価格を付けるなら、それに見合う理由が必要だった。
「素敵な食器だと思いますわ。でも、百二十リルとなると、購入する方もかなり期待されるでしょうね」
「もちろんでございます」
「でしたら、もう少し仕上がりを揃えた方がいいのではないかしら。特に縁の厚みと重さは、同じ一式の中で違いがあると気になる方もいらっしゃると思いますの」
ローレンスは表情を変えずに頷いた。
「貴重なご意見、ありがとうございます」
しかし、その声にはわずかな戸惑いが混じっていた。
おそらく、侯爵夫人がここまで細かく商品を確認するとは思っていなかったのだろう。
アルベルトはその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「アシュフォード殿。一つ確認したいことがある」
「はい、閣下」
「この食器にローゼンベルク家の名前を付けた場合、購入者は我が家が品質を保証していると考えるのではないか?」
「……そう受け取られる方もいらっしゃるかと存じます」
「ならば、商品の品質について、我々も責任を負うことになる」
アルベルトは落ち着いた声で続けた。
「契約書には、名前の使用許可については詳しく書かれている。しかし、品質に問題が生じた場合の対応については、十分に定められていないようだ」
ローレンスは姿勢を正した。
「その点につきましては、もちろん当商会が責任を持って対応いたします」
「商会が対応するのは当然だ。しかし、購入者が不満を抱いたとき、ローゼンベルク家の名前まで悪く言われる可能性は残るだろう」
「……おっしゃる通りでございます」
ヴァレンティナは、アルベルトの言葉を聞きながら、改めて皿を見つめた。
なるほど。
自分は食器の品質と価格を気にしていたが、アルベルトはその先を見ていたのだ。
もし百二十リルの食器を買った人が、値段に見合わないと感じたらどうなるだろう。
不満はアシュフォード商会だけでなく、ローゼンベルク侯爵家にも向けられるかもしれない。
そして、商品を買った人が誰かに不満を話せば、その評判は少しずつ広がっていく。
信用とは、そういうものなのだ。
◇
商談は、その後もしばらく続いた。
ローレンスは契約料の増額や販売方法の変更など、いくつかの提案をしたが、アルベルトはすぐには応じなかった。
ヴァレンティナも、商品そのものについては一定の評価をしながら、現状の品質と価格にはまだ改善の余地があると考えていた。
「アシュフォード様」
ヴァレンティナが口を開くと、ローレンスは姿勢を正した。
「はい、侯爵夫人」
「私、この食器が悪いものだとは思っておりませんの。むしろ、とても綺麗だと思いますわ」
「ありがとうございます」
「ただ、百二十リルで販売するのでしたら、もう少し品質を揃える必要があると思いますの。それに、もし不具合があった場合、購入された方が安心できる仕組みも必要でしょう?」
「……なるほど」
「ですから、今すぐお返事するのではなく、もう少し商品を見直していただけませんか?」
ローレンスはしばらく考え、それから深く頷いた。
「承知いたしました。工房とも相談し、改めてご提案させていただきます」
「ありがとうございます」
アルベルトも静かに頷いた。
「こちらとしても、長く付き合える相手であれば歓迎したい。ただし、我が家の名前を使う以上、慎重に判断させてもらう」
「もちろんでございます。ごもっともなお考えかと存じます」
ローレンスは丁寧に礼を述べ、持参した食器を木箱へ戻した。
こうして、年間三百リルの契約は、その場では成立しなかった。
商会の代表が帰ったあと、ヴァレンティナは応接室の椅子へ深く腰を下ろした。
「……三百リルが帰っていったわ」
アルベルトは思わず苦笑した。
「まだ契約していない金だろう」
「でも、ちょっと惜しかったわねえ」
「そうか?」
「そりゃそうよ。三百リルもあれば、いろいろできるもの」
ヴァレンティナは指を折りながら考え始めた。
「屋敷の修繕費にも回せるし、使用人のお給料にも使えるし、領地の倉庫代だって払えるでしょう?」
「そうだな」
「でも、あの食器を百二十リルで売るのは、ちょっと違う気がするのよね」
彼女は小さくため息をついた。
「私だったら、買ったあとにがっかりするかもしれないもの」
アルベルトは妻を見つめた。
「ならば、断って正解だったんじゃないか」
「……そうね」
ヴァレンティナはしばらく考え、それから頷いた。
「三百リルをもらうために、ローゼンベルク家の名前を使って高いものを売るのは、やっぱり嫌だわ」
「君がそう考えてくれて安心した」
「でも、あなたは最初から慎重だったでしょう?」
「家名は、一度貸してしまえば簡単には取り戻せないからな」
アルベルトは窓の外へ目を向けた。
「ローゼンベルク家は長い間、先祖たちが築いてきた信用によって支えられてきた。もちろん、それだけで家計が良くなるわけではないが、失えば困るものでもある」
「……そうね」
「それに、君がこの半年で立て直してきたものを、目先の金のために危険にさらす必要もないだろう」
ヴァレンティナは少し驚いて夫を見た。
「私が立て直してきたもの?」
「ああ。屋敷も領地も、以前よりずっと良くなった。まだ十分とは言えないが、少なくとも以前のように、何も考えずに金を使う家ではなくなった」
「……それは、あなたも協力してくれたからでしょう?」
「もちろん俺も当主としての仕事はした。しかし、最初に問題を見つけたのは君だ」
アルベルトはそう言って、わずかに笑った。
「だからこそ、今ある信用を大切にしたい」
ヴァレンティナは夫の顔を見つめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……そうね。私もそう思うわ」
◇
その日の午後、ヴァレンティナは書斎で《信用》の帳面を開いていた。
机の上にはアシュフォード商会から届いた契約書が置かれており、彼女はその横へ今日の出来事を書き込んでいった。
――アシュフォード商会から、年間三百リルの契約提案。
――ローゼンベルク家の名前を高級食器に使用したいとのこと。
――商品は綺麗だが、価格に対して品質が十分とは言い切れない。
――契約は保留。
そこまで書いたところで、ヴァレンティナは筆を止めた。
信用とは、実に不思議なものだ。
屋根の修理費やワイン代なら、金額を計算すれば済む。領地の収支も、収入と支出を調べれば、少なくとも現在の状況は分かる。
しかし、信用には決まった値段がない。
それなのに、信用があるからこそ、三百リルの契約を持ちかけられることもある。
そして、その三百リルを受け取ることで、逆に信用を失う可能性もある。
「……難しいわねえ」
ヴァレンティナは小さく呟いた。
そこへ、書類を持ったセドリックが入ってきた。
「奥様、アシュフォード商会の件はいかがでございましたか」
「ひとまず保留にしたわ。商品をもう少し良くしてもらってから、改めて考えることにしたの」
「左様でございますか」
「三百リルは惜しいけど、うちの名前を付けるなら、ちゃんとしたものを売ってほしいもの」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「旦那様も、同じようにお考えだったのでしょうね」
「ええ。アルベルトは最初から慎重だったわ」
「旦那様は、ローゼンベルク家の歴史と信用を大切にしていらっしゃいますから」
ヴァレンティナは頷いた。
「私、今まで信用って、取引先に前金を要求されないこととか、商人さんが安心して商品を売ってくれることだと思っていたの」
「それも大切な信用でございます」
「でも、今日みたいに名前だけでお金を払いたいって言われることもあるのね」
「はい。長い歴史を持つ家のお名前には、それだけの価値があると考える方もいらっしゃいます」
「……なるほどねえ」
ヴァレンティナはしばらく考え、それから帳面へ新しい一行を書き加えた。
――信用は、使えばお金になることもある。
少し迷ったあと、さらに続けた。
――ただし、使い方を間違えると減る。
その文字を見つめながら、ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
「これでよし!」
セドリックは帳面へ目を落とし、静かに微笑んだ。
「奥様らしいまとめ方でございますね」
「そう?」
「はい。とても分かりやすいかと存じます」
ヴァレンティナは嬉しそうに笑った。
◇
夕食後、ヴァレンティナはアルベルトの書斎を訪れた。
彼は机に向かい、領地から届いた報告書を確認していたが、妻が入ってくると顔を上げた。
「どうした?」
「今日の商談のことを考えていたの」
「まだ三百リルが惜しいのか?」
「ちょっとだけね」
ヴァレンティナは笑いながら答え、アルベルトの向かい側へ腰を下ろした。
「でも、やっぱり契約しなくて正解だったと思うわ」
「そうか」
「だって、ローゼンベルク家の名前を付けた食器を買った人が、がっかりしたら嫌でしょう?」
「その通りだ」
「それに、今まであなたたちが大切にしてきたものを、私が三百リルで売っちゃうのも変な話だものね」
アルベルトは少し意外そうに妻を見た。
「……君がそう言うとは思わなかったな」
「失礼ね。私だって、何でもお金に換えたいわけじゃないのよ」
「知っている」
「本当?」
「ああ。必要なものには金を使うし、必要のないものには使わない。それが君の考え方だろう」
ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
「そうよ。だから、信用だって大切にしないとね」
アルベルトは静かに笑った。
「随分と理解が進んだようだな」
「あなたのおかげよ」
「俺は何も教えていない」
「そんなことないわ。あなたがいなかったら、私、食器の品質ばかり気にしていたと思うもの」
「それも重要なことだ」
「でも、名前を貸すことの責任までは考えていなかったわ」
ヴァレンティナは少し考え、それから微笑んだ。
「やっぱり、あなたと私って、見ているところが違うのね」
「そうだな」
「でも、今日は同じ結論になったでしょう?」
「ああ」
「なんだか嬉しいわ」
アルベルトは返事をしなかった。
ただ、妻の嬉しそうな表情を見ているうちに、自然と口元が緩んでいた。
結婚したばかりの頃、二人は何かにつけて意見が食い違っていた。
ヴァレンティナは数字を見て無駄を指摘し、アルベルトは伝統や格式を理由に反対する。
しかし最近では、互いの考え方を理解できるようになっている。
ヴァレンティナは家格や信用の重要性を学び、アルベルトは金額や実際の価値を確認することの大切さを理解した。
どちらか一方が相手に合わせて変わったのではない。
それぞれが、自分にはなかった考え方を少しずつ身につけているのだ。
「ねえ、アルベルト」
「何だ?」
「もし、あの食器がもっと良くなって、百二十リルでも納得できるものになったら、契約してもいいと思う?」
「条件次第だな」
「じゃあ、年間三百リルより高くしてもらうこともできるかしら?」
「……君は本当に、すぐ金額の話へ戻るな」
「だって、信用に値段が付くって分かったんだもの!」
アルベルトは苦笑した。
「だからといって、何でも高く売ればいいわけではない」
「分かってるわよ。でも、もし売るなら、安売りはしたくないでしょう?」
「それはそうだな」
「でしょう!」
ヴァレンティナは嬉しそうに笑い、椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、今日はもう寝ましょうか」
「ああ。俺もこの書類を片付けたら行く」
「分かったわ。先に行ってるわね」
彼女はそう言って扉へ向かったが、途中で何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、アルベルト」
「今度は何だ?」
「ローゼンベルク家の名前って、年間三百リル以上の価値があるのよね?」
「……その話はもう終わっただろう」
「でも、気になるじゃない」
「何がだ」
「じゃあ、私がローゼンベルク家に嫁いできたことで、ベルモンド家の名前にも価値が増えたのかしら?」
アルベルトはしばらく黙り、それから額に手を当てた。
「……君の父上にだけは、その話をするなよ」
「どうして?」
「本当に商売を始めかねない」
ヴァレンティナは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに声を立てて笑った。
「確かに、お父様ならやりそうね!」
こうしてローゼンベルク侯爵家は、年間三百リルの契約を見送った。
目先の収入は増えなかったものの、長年受け継がれてきた家名の信用を、安易に売り渡すことは避けられたのである。
もっとも、ヴァレンティナの《信用》の帳面には、翌朝になっても次の一行が残されていた。
――ローゼンベルク家の名前、年間三百リル以上。
それを見つけたアルベルトが、再び「値札を付けるな」と注意することになるのは、言うまでもなかった。




