第25話:侯爵家、今度はお客様を呼びます
第25話 侯爵家、今度はお客様を呼びます
二月も終わりに近づいたある朝、ローゼンベルク侯爵邸の食堂では、珍しくヴァレンティナが静かだった。
正確には、静かに朝食を食べていたわけではない。
片手にパンを持ったまま、もう片方の手で一枚の紙を睨んでいる。
その紙には、三月に予定されている夕食会の概算費用が書かれていた。
招待客十二名。
ローゼンベルク夫妻を含めて十四名。
食材費、ワイン、花、蝋燭、追加の給仕人、馬車を待たせる御者のための軽食まで含め、予定額は百四十八リル。
「…………」
ヴァレンティナは黙っている。
向かい側で紅茶を飲んでいたアルベルトが、新聞から目を上げた。
「何だ」
「何も」
「その顔で?」
「何も言ってないでしょう」
「だから怖い」
「どういう意味よ」
声が出た。
少し離れた場所で控えていたエレノアが、安心したように表情を戻す。
「奥様がお静かですと、かえって心配になります」
「あなたまで何なの!」
「いつも通りで安心いたしました」
「失礼ね!」
ヴァレンティナは紙を食卓へ置いた。
「百四十八リル」
「読めば分かる」
「七話のとき、エドワード殿下をお招きした夕食会はいくらだった?」
「なぜ話数で覚えているんだ」
「何のこと?」
「いや、何でもない」
アルベルトは妙な顔をしてから、セドリックへ視線を向けた。
「百三十一リルでございました」
セドリックは即答した。
「ほら!」
ヴァレンティナが紙を叩いた。
「増えてる!」
「人数が違いますので」
「殿下を呼んだときより高いのよ!」
「今回は十二名のお客様をお招きします」
「でも百四十八!」
「奥様」
セドリックは穏やかに言った。
「今回の見積もりは、すでにかなり抑えております」
「どこを?」
ヴァレンティナの目が変わった。
セドリックは見積書を指した。
「花は庭のものを中心に使用し、購入するものは最小限。ワインも新たに大量購入せず、地下貯蔵庫に残っているものから料理に合う銘柄を選びます。食材についても、季節外れのものは避けております」
「追加の給仕人十二リル」
「当家の使用人だけでは十四名の正式な夕食会に対応しきれません」
「じゃあ必要ね」
「はい」
「蝋燭九リル」
「大食堂と応接室を使用いたします」
「必要」
「御者の軽食四リル」
「……必要?」
「冬の夜に数時間待たせますので」
「必要ね」
ヴァレンティナは一つずつ確認していった。
以前なら「夕食会に百四十八リル」と聞いた瞬間に、どこまで減らせるかを考えていただろう。
今も考えている。
そこは変わっていない。
しかし、必要な理由がある項目まで削るつもりはなかった。
「……百四十八リル」
結局、同じ金額へ戻ってきた。
「高いわ」
「高いな」
「あなたもそう思うの?」
「金額だけ見ればな」
「じゃあやめる?」
「やめない」
「でしょうね」
最近、アルベルトの考え方が少し分かるようになってきた。
高いか安いか。
必要か不要か。
それは別の問題なのだ。
ヴァレンティナ自身がずっと言ってきたことでもある。
だから余計に反論しづらい。
「そもそも」
ヴァレンティナは見積書を置いた。
「なんで今、うちで夕食会するの?」
「信用を戻すためだ」
「それは分かるけど、夜会に出るだけじゃ駄目なの?」
「出席するだけでも意味はある。しかし、それだけではローゼンベルク家がどういう状態なのかまでは伝わりにくい」
「だから家に呼ぶ?」
「ああ」
アルベルトは新聞を畳んだ。
「困窮しているという噂がある家が、適切な規模の夕食会を開き、屋敷も使用人も問題なく動いているところを見せる。それだけでも印象は変わる」
「見せるために百四十八リル……」
「その言い方をすると途端に胡散臭いな」
「だってそうでしょう?」
「間違ってはいない」
アルベルトは否定しなかった。
「ただし、豪華さを見せつける必要はない」
「そこ大事」
「分かっている」
「十二リルのワインを一人一本とか絶対やらないからね」
「誰も言っていない」
「昔のローゼンベルク家ならやりそう」
「……否定しづらいな」
そこは五か月でずいぶん変わった。
以前なら客を招くとなれば、「侯爵家なのだから」という理由で最上級の食材を揃え、必要以上に高いワインを開け、花を大量に買い、使える銀器まで新調しかねなかった。
今は違う。
侯爵家らしく見せる。
しかし、見せるためだけの無駄遣いはしない。
その境界を探すのが、今回の夕食会らしい。
「誰を呼ぶの?」
ヴァレンティナが聞いた。
アルベルトはセドリックから招待客候補の紙を受け取った。
「まずウェストン伯爵夫妻」
「この前の?」
「ああ」
「いい人だった」
「それからラングレー子爵夫妻」
「羊毛の話をしてた人ね」
「値段を聞かなかったことを、いつまで誇るつもりだ」
「一生」
「やめろ」
アルベルトは続けた。
「ハリソン商会の会頭夫妻」
「商人も呼ぶの?」
「今回の目的を考えれば、むしろ必要だ」
ヴァレンティナは少し驚いた。
「貴族の夕食会って、商人呼んでいいの?」
「相手による。ハリソン家は四十三年、ローゼンベルク家と取引している。王都でも相応の地位がある」
「なるほど」
「それからグラント商会の主人夫妻」
ヴァレンティナの顔が変わった。
「前金!」
「そうだ」
「来るの?」
「招待状はこれからだ」
「来てほしい」
「だから呼ぶ」
「絶対来てほしい」
「圧をかけるな」
さらに、王都の商業組合とつながりのある伯爵家、古くからローゼンベルク家と親交のある子爵家などが候補に入っている。
貴族だけでもない。
商人だけでもない。
双方に顔が利く人間を混ぜている。
「これ、わざと?」
ヴァレンティナが紙を見ながら聞いた。
「何がだ」
「噂が広がりそうな人を選んでる?」
アルベルトが少しだけ眉を上げた。
「分かるようになったな」
「当たってる?」
「ああ」
「やっぱり」
ヴァレンティナは招待客の一覧を改めて見た。
以前なら、単に「偉い人を呼ぶ」としか思わなかっただろう。
今は違う。
ウェストン伯爵家からは農業関係者へ。
ラングレー子爵家からは羊毛関係者へ。
ハリソン商会からは商人たちへ。
グラント商会からは建築資材関係へ。
それぞれ違う方向へ話が流れる。
「……あなた、結構計算高いわね」
「君に言われたくない」
「褒めてるのよ」
「そうは聞こえない」
「でも、噂を流してもらうために呼ぶんでしょう?」
「それだけではない」
「違うの?」
「露骨に『ローゼンベルク家は健全です』などと言わせれば逆効果だ」
「言わせないの?」
「言わせない」
「じゃあどうするの?」
「普通に食事をして帰ってもらう」
「それだけ?」
「それだけだ」
ヴァレンティナは眉を寄せた。
「本当に?」
「ああ」
「百四十八リル使って?」
「ああ」
「宣伝もしない?」
「しない」
「帳簿も見せない?」
「見せない」
「領地の黒字予測も?」
「言わない」
「何のための夕食会なのよ!」
とうとう声が大きくなった。
エレノアが一歩前へ出た。
「奥様」
「分かってる!」
自分から声を下げる。
「……何のためなの?」
アルベルトは少し考えた。
「何も問題がないように振る舞うためだ」
「問題はあったでしょう?」
「あった。だが、それを一つずつ説明する必要はない」
「なんで?」
「君が夜会で聞いた噂を思い出せ」
ヴァレンティナは黙った。
金がないからベルモンド家の娘と結婚した。
妻のドレスを仕立てる金もない。
ワインを安物へ変えた。
使用人が辞めている。
屋敷が壊れている。
倉庫まで貸している。
売れない果物を売っている。
事実と嘘が混ざり、その間を勝手な推測が埋めている。
「全部否定したら?」
「必死に見える」
「……あ」
「『我が家は困っていない』『金はある』『赤字ではない』と繰り返す家を見たら、君はどう思う?」
「困ってるのかなって思う」
「そういうことだ」
腹立たしいほど分かりやすかった。
「じゃあ何も言わずに、普通に暮らしてるところを見せる?」
「そうだ」
「普通に夕食会して?」
「そうだ」
「普通に百四十八リル使う?」
「最後だけ言い方がおかしい」
ヴァレンティナは『信用』の帳面を取り出した。
《必死に否定すると、かえって怪しい》
そう書いてから、さらに付け加える。
《信用回復には、普通にしていることも必要》
「普通にするのって高いのね」
「侯爵家だからな」
「嫌な普通」
「諦めろ」
招待状はその日のうちに送られた。
三日後までに、全員から返事が届いた。
全員出席。
グラント商会の主人夫妻も来る。
「よし」
ヴァレンティナは返事を並べて満足そうに頷いた。
「戦う顔をするな」
アルベルトが言った。
「戦わないわよ」
「本当に?」
「食事するだけでしょう?」
「ああ」
「普通に」
「そうだ」
「分かってる」
「不安だ」
「何でよ!」
夕食会まで一週間。
屋敷では準備が始まった。
料理についてはマルセルが中心となり、アルベルトと相談して献立を決める。
最初に候補へ上がったのは、牛肉の赤ワイン煮、川魚の香草焼き、根菜のポタージュ、冬野菜の温製料理、焼き菓子と果物の加工品を使ったデザートだった。
「果物の加工品?」
ヴァレンティナの目が輝いた。
「はい」
厨房でマルセルが答えた。
「領地で作っておりますものを、そのまま瓶でお出しするのではなく、菓子へ使ってはいかがかと」
「いい!」
即答だった。
「宣伝になる!」
「ならない」
後ろからアルベルトが言った。
「なんでいるのよ」
「夕食会の料理を確認しに来た」
「だったら宣伝しようよ。『ローゼンベルク領特製です』って」
「聞かれたら答えろ」
「こっちから言わないの?」
「言わない」
「なんで!」
「商談会ではないからだ」
「でも食べてもらえるのに!」
ヴァレンティナは本気で惜しそうだった。
マルセルが困った顔をする。
「奥様」
「何?」
「美味しければ、お客様の方からお尋ねになるかもしれません」
ヴァレンティナは止まった。
「……なるほど」
「その方が自然だ」
アルベルトが続ける。
「『売りたいから食べさせた』ではなく、『侯爵家で出されたものが美味しかったから尋ねた』になる」
ヴァレンティナは数秒考えた。
「そっちの方が売れそう」
「結局そこへ行くのか」
「だってそうでしょう?」
「否定はしない」
少しずつ、二人の考え方が混ざり始めていた。
アルベルトは商売をしたいわけではない。
ヴァレンティナは見栄を張りたいわけではない。
けれど、侯爵家の信用を守りながら領地の商品を自然に見せるという点では、両方の目的が一致する。
「じゃあデザートに使おう」
ヴァレンティナはマルセルへ向き直った。
「でも、無理に豪華にしなくていいからね」
「承知しております」
「味は落とさない」
「もちろんです」
「余った材料は翌日使えるものを」
「すでに考えております」
「さすが!」
マルセルは少し誇らしそうに胸を張った。
五か月前なら、厨房の無駄を指摘される側だった男が、今ではヴァレンティナが何を言うか先回りして考えている。
それは、彼が変わったというより、仕組みが変わった結果だった。
夕食会前日。
大食堂ではエレノアとミレイユが席順を確認していた。
「グラント夫妻はこちら?」
ヴァレンティナが座席表を覗き込む。
「はい」
ミレイユが答える。
「ハリソン夫妻とは離すの?」
「意図的に少し離しております」
「なんで?」
「商人同士で固まられますと、ほかの方との会話が減りますので」
「なるほど」
今度は花を見る。
白と淡い桃色を中心に、小さな花が低く活けられている。
「もっと大きくしないの?」
「会話の邪魔になります」
「なるほど」
蝋燭の数を見る。
「これは減らさない?」
「減らしません」
「まだ何も言ってない!」
「お顔が」
「また!」
最近、ローゼンベルク家の使用人たちはヴァレンティナの扱いに慣れすぎている。
そこへアルベルトが入ってきた。
「準備は?」
「ほぼ終わったわ」
「そうか」
「ねえ」
「何だ」
「これで本当に信用戻る?」
ヴァレンティナは大食堂を見渡した。
磨かれた銀器。
古いが上質な食器。
花。
蝋燭。
何十年も使われてきた長い食卓。
屋敷そのものは新しくない。
家具も流行の最先端ではない。
しかし、壊れてはいない。
汚れてもいない。
必要なところには手が入っている。
「一回では戻らない」
アルベルトが答えた。
「やっぱり」
「だが、一回目にはなる」
ヴァレンティナは少しだけ笑った。
「信用って本当に積立ね」
「まだその例えを使うのか」
「分かりやすいもの」
「好きにしろ」
アルベルトは食卓へ視線を向けた。
「それに、戻すという言い方も少し違うかもしれない」
「どういうこと?」
「以前と全く同じローゼンベルク家に戻るわけではない」
ヴァレンティナは彼を見る。
「以前の我が家なら、もっと金をかけただろう」
「でしょうね」
「高いワインを何本も開け、季節外れの食材を取り寄せ、花も倍は飾った」
「絶対嫌」
「今なら俺もそう思う」
「成長したわね」
「誰のせいだ」
「私のおかげでしょう?」
「……まあな」
素直に認められた。
ヴァレンティナは少し驚いた。
「何だ」
「今、普通に認めた」
「事実だからな」
「熱でもある?」
「失礼だな」
アルベルトはヴァレンティナの額へ手を伸ばしかけた。
しかし途中で、ほんの僅かに動きが止まった。
ヴァレンティナは気づかない。
「熱あるのはあなたでしょう?」
自分から一歩近づき、アルベルトの額へ手を当てた。
「…………」
「普通ね」
「……そうだな」
「何?」
「何でもない」
アルベルトは半歩だけ下がった。
ヴァレンティナは首を傾げた。
以前なら、こんな距離で彼が妙な間を置くことなどなかった気がする。
しかし夕食会の準備で頭がいっぱいだったため、それ以上考えなかった。
翌日の夕方。
ローゼンベルク侯爵邸の正面玄関に、一台目の馬車が到着した。
ウェストン伯爵夫妻。
続いてラングレー子爵夫妻。
ハリソン商会の会頭夫妻。
そして四台目の馬車から、グラント商会の主人夫妻が降りてくる。
ヴァレンティナは大広間の入口で、アルベルトの隣に立っていた。
「来た」
「見れば分かる」
「前金の人」
「その呼び方をやめろ」
「本人には言わないわよ」
「絶対に言うな」
「分かってるって」
グラント夫妻が近づく。
主人は五十代前半ほどの男で、濃い茶色の髪に白いものが混じり始めていた。仕立ての良い濃紺の上着を着ているが、貴族のような華美さはない。
「ローゼンベルク侯爵様、侯爵夫人。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
「よく来てくれた」
アルベルトが応じる。
ヴァレンティナも微笑んだ。
「お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ」
普通に。
何も問題がないように。
帳簿を見せない。
前金の話もしない。
赤字が止まったとも言わない。
ただ客を迎える。
グラント夫妻が大広間へ進んでいく。
ヴァレンティナは小声でアルベルトへ言った。
「今のでいい?」
「ああ」
「簡単ね」
「まだ玄関だ」
「……そうだった」
夕食会は、これからだった。
最初の一時間は驚くほど何も起こらなかった。
それが正解だった。
客たちは応接室で酒を飲み、最近の王都の話をし、春の予定を話した。
誰もローゼンベルク家の財政について尋ねない。
ヴァレンティナも言わない。
食事が始まる。
マルセルの料理は好評だった。
根菜のポタージュ。
川魚の香草焼き。
牛肉の赤ワイン煮。
どれも極端に珍しいものではない。
しかし丁寧に作られている。
ワインも一本十二リルではない。
それでも料理にはよく合っていた。
「この赤はいいですね」
ウェストン伯爵がグラスを見た。
「どこのものです?」
「南部の小さな葡萄園です」
アルベルトが答える。
「値段の割に出来がいい」
ヴァレンティナが思わず言った。
アルベルトがこちらを見る。
「何よ」
「いや」
「値段そのものは言ってないでしょう!」
「言ってるようなものだがな」
「馬鹿にしてる?」
「気のせいだ」
周囲から小さな笑いが起きた。
グラント商会の主人も笑っていた。
その瞬間、ヴァレンティナは少しだけ肩の力が抜けた。
普通でいい。
それが、ようやく分かってきた。
デザートには、領地の果物を使った小さな焼き菓子が出された。
杏の加工品を薄く塗り、上に砕いた木の実を散らしている。
ヴァレンティナは何も言わなかった。
言いたかった。
ものすごく言いたかった。
しかし耐えた。
「この杏は?」
最初に尋ねたのは、ハリソン夫人だった。
ヴァレンティナの目が輝く。
アルベルトが横から一度だけ見る。
分かっている。
落ち着け。
「うちの領地で作っているものなんです」
ヴァレンティナはできるだけ普通に答えた。
「まあ。ローゼンベルク領で?」
「ええ。去年から、売り物にならなかった果物を加工するようになって」
そこまで言ってから、少し考えた。
「見た目に傷があるだけで捨てるのは、もったいないでしょう?」
「それで、このように?」
「はい」
ハリソン夫人はもう一口食べた。
「美味しいわ」
「でしょう?」
思わず身を乗り出した。
「奥様」
少し離れた場所からエレノアの声が飛んできた。
ヴァレンティナは姿勢を戻した。
「……ありがとうございます」
周囲からまた笑いが起きる。
しかし、嫌な笑いではなかった。
「どこで買えるのです?」
今度はラングレー夫人が尋ねた。
「クラインさんのお店で――」
ヴァレンティナは店の場所を説明した。
自分から売り込んでいない。
聞かれたから答えている。
それだけなのに、以前よりずっと自然に商品の話が広がっていく。
アルベルトを見る。
彼は何も言わなかった。
ただ、僅かに口元を緩めていた。
なるほど。
こういうことか。
ヴァレンティナはようやく理解した。
夕食会が終わり、最後の馬車が門を出たのは夜十一時を過ぎた頃だった。
玄関の扉が閉じる。
ヴァレンティナはその場で大きく息を吐いた。
「終わった!」
「奥様」
「もうお客様いないでしょう!」
「使用人はおります」
「みんな知ってるからいいの!」
エレノアは諦めた。
「どうだった?」
ヴァレンティナがアルベルトへ聞く。
「問題ない」
「それだけ?」
「成功だったと思う」
「本当?」
「ああ」
「百四十八リルの価値あった?」
「君は最後までそれか」
「大事でしょう!」
アルベルトは少し考えた。
「少なくとも、グラント氏は帰り際、春の窓枠工事について予定通り進めたいと言っていた」
ヴァレンティナの表情が変わった。
「本当に?」
「ああ」
「前金なしで?」
「予定通りだ」
「……じゃあ」
ヴァレンティナは少し笑った。
「四十八リル分は戻った」
「そういう計算をするな」
「だって!」
「夕食会に百四十八使って四十八戻ったなら百リル赤字だ、などと言い出すなよ」
ヴァレンティナは口を閉じた。
「今、言おうとしたな」
「言ってない」
「顔で分かる」
「本当にみんな私の顔読みすぎ!」
セドリックまで小さく笑った。
その夜。
寝室へ戻る前に、ヴァレンティナは書斎へ寄った。
いつもの『信用』の帳面を開く。
《夕食会 百四十八リル》
まず金額を書く。
その下に、
《グラント商会 通常条件で取引継続》
さらに、
《領地の杏加工品について、こちらから宣伝しなくても質問された》
と記した。
少し考える。
《何も問題がないことを証明するには、何も問題がないように普通に振る舞う》
書いてから、自分で首を傾げた。
「……文章にすると変ね」
「何がだ」
背後から声がした。
ヴァレンティナが振り返る。
「またいる!」
「だからここは俺の書斎でもある!」
アルベルトが入ってきた。
上着はすでに脱いでおり、夜会用の服から普段着へ着替えている。
「見せろ」
「嫌」
「今日の記録だろう」
「私の帳面」
「俺の家の信用だ」
「私の家でもある」
「それを言えば何でも通ると思うな」
「便利なのよ」
ヴァレンティナは帳面を閉じた。
「でも」
「何だ」
「ちょっと分かった」
「何が」
「あなたが最初に言ってたこと」
「どれだ」
「ローゼンベルク家が、これからもローゼンベルク家であることを見せるって話」
アルベルトは黙って聞いている。
「前は意味分からなかったけど、今日みたいなこと?」
「近いな」
「高いワインを出さなくても、ちゃんとお客様を迎えられる。使用人も足りてる。屋敷も直ってる。食事も普通に出せる。付き合いも続いてる」
「ああ」
「それを見てもらえばいい?」
「それを続けるんだ」
「一回じゃなくて」
「一回では信用にならない」
「積立だから?」
「……好きにしろ、その例えで」
とうとう諦めた。
ヴァレンティナは満足した。
書斎を出ようとしたところで、アルベルトが呼び止めた。
「ヴァレンティナ」
「何?」
「今日はよくやった」
ヴァレンティナは振り返った。
「……何が?」
「全部だ」
「珍しい」
「またそれか」
「だってあなた、最近よく褒めるから」
「悪いか」
「悪くないけど」
ヴァレンティナは少し笑った。
「じゃあ、ありがとう」
そのまま書斎を出ていく。
扉が閉じた。
アルベルトは一人になった書斎で、しばらくその扉を見ていた。
五か月前なら、妻が大人しく客を迎え、値段を口にせず、商談を始めなかったというだけで、ここまで安心することもなかっただろう。
いや。
そもそも五か月前には、彼女が何を言おうが、ここまで気にしていなかった。
「……」
アルベルトは考えるのをやめた。
最近、自分でも説明しづらいことが増えている。
妻との距離が近いと、以前より気になる。
褒めれば嬉しそうにすることも知った。
ほかの人間に彼女のことを悪く言われれば、腹が立つ。
そのくせ本人は何も気づかず、平然と額へ手を当ててくる。
「面倒だな」
小さく呟いた。
誰のことを言っているのか、自分でもあまり考えないことにした。
翌朝。
ローゼンベルク侯爵邸に、グラント商会から一通の書状が届いた。
内容は簡潔だった。
春の窓枠補修について、従来通りの条件で正式に受注する。
支払いは工事完了後。
前金は不要。
ヴァレンティナは書状を最後まで読み、アルベルトへ差し出した。
「戻った」
「一社だけだ」
「でも戻ったでしょう?」
「ああ」
ヴァレンティナは『信用』の帳面を開いた。
最初のページには、
《現在、いくらあるのか不明》
と書かれている。
その下には、三週間ほどでずいぶん多くの文字が増えていた。
服。
社交。
寄付。
人付き合い。
そして夕食会。
どれも以前のヴァレンティナなら、帳簿に載らない曖昧なものとして軽く見ていたかもしれない。
けれど、それらが実際に四十八リルの前金を消した。
正確には、消したのは百四十八リルの夕食会だけではない。
それまでの付き合いも、アルベルトの交渉も、長年の支払い実績も、全部まとめて作用したのだろう。
「……やっぱり信用って計算できないわね」
「ようやく諦めたか」
「諦めてない」
「まだ計算するのか」
「いつか計算できるかもしれないでしょう?」
「無理だと思うぞ」
「やってみないと分からないわよ」
アルベルトは呆れた顔をした。
ヴァレンティナは気にせず、帳面へ一行書き加えた。
《信用は、一度に取り戻すものではない》
そして、その下にもう一行。
《でも、一つは戻った》
ローゼンベルク侯爵家の信用は、まだ完全には戻っていない。
噂も、おそらく消えてはいない。
それでも、最初に前金を要求してきた商会との取引は、以前と同じ条件へ戻った。
小さな一歩だった。
けれど屋根を直したときも、領地の赤字を止めたときも、最初は小さな一つから始まった。
ならば今回も、同じでいい。
侯爵家は、今度こそ金を使うことを恐れず、しかし無駄には使わず、長い時間をかけて失いかけたものを積み直していく。
もっともヴァレンティナとしては、次の夕食会が百四十八リルより安くできないかについては、すでに考え始めていた。




