第24話 侯爵家、寄付もしています
第24話 侯爵家、寄付もしています
ウェストン伯爵家の夜会から三日後、ヴァレンティナは朝から帳簿の前で首を傾げていた。
二月も半ばを過ぎ、窓の外には珍しく柔らかな日差しが落ちている。庭の隅では冬のあいだ固く閉じていた芽が少しずつ膨らみ始めていたが、窓を開ければまだ冷たい風が入り込んでくるため、書斎の暖炉には朝から火が入っていた。
机の上には二冊の帳面が開かれている。
一冊はローゼンベルク侯爵家の今年度支出予定。
もう一冊は、最近ヴァレンティナが作った『信用』と書かれた帳面だった。
夜会で得た情報については、翌日にアルベルトと整理している。
東部では小麦の作付面積が減る可能性があり、北から入ってくる羊毛は冬の輸送停滞によって一時的に量が減っている。どちらもまだ確定的な情報ではないため、領地へは「価格上昇を前提に生産計画を変えないこと」と伝えた。
ヴァレンティナとしては、聞いた瞬間に売り時を考えたかったのだが、ヘンリーからも、
《春の価格を見てから判断いたします》
という非常に冷静な返事が届いている。
最近、自分の周囲には慎重な人間が増えすぎている気がする。
もっとも、そのおかげでローゼンベルク家がどうにか持ち直しているのだから、文句も言えない。
「……これは何?」
ヴァレンティナは帳簿の一行を指差した。
向かい側では、アルベルトが領地から届いた書簡を読んでいる。
「どれだ」
「三月。王立救貧院寄付金、百二十リル」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ」
「何だ」
「百二十リルよ?」
「読めば分かる」
「私の新しいドレスより三十四リルも高い!」
「なぜ比較対象がそれなんだ」
「最近買った高いものだからよ」
アルベルトは書簡から顔を上げた。
「毎年払っている」
「毎年!?」
「ああ」
嫌な言葉だった。
ローゼンベルク家では、「毎年」「昔から」「先々代の頃から」という言葉の後ろに、かなりの確率で大きな金額が隠れている。
ヴァレンティナはすぐに前年の帳簿を引っ張り出した。
「去年も百二十リル」
「そう言っただろう」
「一昨年も百二十リル」
「だから毎年だ」
「その前も!」
「ヴァレンティナ」
「ちょっと待って。五年で六百リル?」
「掛け算はしなくていい」
「するわよ!」
六百リル。
屋根の修理費には足りないが、決して小さな金額ではない。
「何に使われてるの?」
「救貧院の運営だ」
「それは名前で分かるわよ。具体的に」
「食事、衣類、医療、孤児の保護、冬季の燃料費などだな」
「会計報告は?」
「ある」
「見せて」
「そこからか」
「寄付するなら見るでしょう?」
アルベルトは少し黙った。
「……普通はそこまで見ない」
「なんで!?」
「寄付だからだ」
「寄付だからこそでしょう! 百二十リル渡して、何に使ったか分かりませんで終わるの?」
「分からないわけではない。年次報告は届いている」
「じゃあ見る」
「好きにしろ」
アルベルトはもう止めなかった。
五か月の結婚生活で、こういうときのヴァレンティナを止めても意味がないと学んだらしい。
書斎の棚を探すと、前年の報告書はすぐに見つかった。
王立救貧院は、王都の南西部にある大きな慈善施設だった。
王家が後援し、複数の公爵家、侯爵家、伯爵家、富裕な商人が資金を出している。収容されているのは、身寄りのない子供、働けなくなった高齢者、一時的に住居を失った者などで、診療所も併設されていた。
ヴァレンティナは報告書を読み進めた。
「食費……燃料……医薬品……寝具……建物修繕……」
「何かおかしいか」
「思ったよりちゃんとしてる」
「失礼だな」
「だって寄付金って、もっとふわっと使われてるのかと思ってたのよ」
「王家の名が入っている施設だぞ」
「王家だって帳簿は必要でしょう?」
「それはそうだが」
支出項目はかなり細かい。
冬の石炭代が前年より増えている。
診療所では感染症対策のため寝具を一部入れ替えている。
厨房設備の修理費もある。
ヴァレンティナはページをめくった。
「……これ、百二十リル全部やめるのは駄目ね」
「最初からそのつもりはない」
「でも金額は見直せるかも」
「なぜだ」
「ほかの家がいくら出してるか分からないでしょう?」
アルベルトが黙った。
ヴァレンティナは顔を上げた。
「知らないの?」
「正確には知らない」
「じゃあローゼンベルク家だけ多く出してる可能性あるじゃない」
「逆もある」
「だから調べるのよ」
「どうやって」
「救貧院に聞く」
「やめろ」
「なんでよ!」
「他家の寄付額を教えろと言うつもりか?」
「駄目?」
「駄目だ」
「じゃあどうやって調べるの?」
「調べる必要があるのか?」
「あるでしょう。適正額か分からないもの」
アルベルトは額を押さえた。
ヴァレンティナは最近、この仕草を見る頻度が増えた気がする。
「寄付に適正価格という考え方を持ち込むな」
「でも家計から出るのよ?」
「分かっている」
「百二十リルあったら――」
「ベル・モードのドレスに換算するな」
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かる」
「二十着よ」
「言うなと言っただろう」
書斎の扉が開いた。
「朝から何を騒いでおられるのですか」
エレノアだった。
後ろにはミレイユもいる。
最近、この二人は片方を呼ぶと高い確率でもう片方まで現れる。
「寄付金」
ヴァレンティナは報告書を持ち上げた。
「救貧院に毎年百二十リル払ってるの」
「存じております」
「高くない?」
「奥様」
「その顔やめて!」
「どの顔でございましょう」
「私がまた何か変なこと言ってるみたいな顔!」
「変かどうかは申し上げておりません」
つまり思ってはいるらしい。
ミレイユが報告書を覗いた。
「王立救貧院でございますか」
「そう。百二十リル」
「当家としては、以前からその額かと」
「そこなのよ。『以前から』って理由にならないでしょう?」
ヴァレンティナは机を軽く叩いた。
「必要なら百二十リルでも二百リルでも出せばいい。でも、昔から百二十だから今年も百二十、は嫌なの」
エレノアの表情が少し変わった。
これは、ヴァレンティナが屋敷へ来てから何度も言ってきたことだった。
昔から続いていることには理由がある場合もある。
しかし、昔から続いていること自体は理由にならない。
「旦那様」
エレノアがアルベルトを見た。
「一度、確認されてもよろしいのではございませんか」
「エレノアまで」
「奥様のおっしゃる通り、寄付をやめるのではなく、現在の状況を確認するだけでございます」
アルベルトは少し考えた。
「……分かった」
「やった」
「ただし、他家の寄付額を直接聞き回るのは禁止だ」
「まだ言ってないでしょう」
「言う顔をしている」
「最近みんな私の顔読みすぎじゃない?」
「分かりやすいので」
ミレイユが即答した。
「あなたまで!」
その日の午後、王立救貧院へ連絡を入れることになった。
寄付金を払う前に、今年の運営状況と必要な支援について確認したい。
それだけなら、何も不自然ではない。
むしろ救貧院側から、
《ぜひ一度ご視察ください》
という返事が来た。
「視察?」
翌朝、届いた返書を読みながらヴァレンティナは首を傾げた。
「行けばいい」
アルベルトは簡単に言った。
「あなたも?」
「いや」
「なんでよ」
「今日は議会関係の会合がある」
「じゃあ一人?」
「セドリックを連れていけ」
「私もおります」
横からミレイユが言った。
「あなたも?」
「外出予定の管理を任されておりますので」
「誰に?」
「エレノア様に」
「またエレノア!」
屋敷のどこかで、くしゃみをしているかもしれない。
結局、ヴァレンティナはセドリックとミレイユを伴って救貧院へ向かうことになった。
王立救貧院は、王都の華やかな中心街から馬車で二十分ほど南西へ進んだ場所にあった。
周囲には職人の工房や小さな商店が多く、貴族街ほど道路は広くない。
建物は三階建ての煉瓦造りで、華美な装飾はほとんどなかった。
ただし、古いながらもよく手入れされている。
玄関の石段は擦り減っているが割れてはいない。
窓枠も新しく塗り直されていた。
「雨漏りしそう?」
ヴァレンティナが建物を見上げながら聞いた。
「奥様」
セドリックが静かに呼んだ。
「何よ」
「最近、建物を見るたびにそれをお尋ねになりますね」
「大事でしょう」
「否定はいたしません」
もう誰も強く否定できなくなっていた。
中へ入ると、院長を務める六十代ほどの女性が出迎えた。
マーガレット・ヘイル。
長年、王立救貧院の運営に携わっている人物だという。
灰色の髪をきっちりとまとめ、濃紺の質素なドレスを着ている。姿勢は真っ直ぐで、話し方にも無駄がなかった。
「ローゼンベルク侯爵夫人、お越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ。突然、いろいろ聞いてしまってごめんなさい」
「いいえ。寄付金の使途に関心を持っていただけるのは、ありがたいことでございます」
ヴァレンティナは少し驚いた。
「嫌じゃないの?」
「何がでしょう」
「何に使ってるのか見せて、って言われるの」
「当然のことではございませんか?」
ヴァレンティナは振り返った。
セドリックは何も言わない。
「……ほら」
「私におっしゃられましても」
施設内を案内してもらう。
一階には厨房と食堂、それから診療室。
二階には高齢者と女性の居室。
三階は主に子供たちの部屋になっていた。
豪華なものはない。
しかし、不潔でもない。
寝具は古いが洗われており、床もきちんと掃除されている。
厨房では大きな鍋で豆と野菜のスープが煮込まれていた。
「一日何食?」
「原則三食です」
「何人分?」
「現在は百八十七名おります」
「百八十七!?」
「冬は増えます」
ヴァレンティナの頭が動き始めた。
百八十七人。
一日三食。
一年。
「奥様」
ミレイユが横から呼んだ。
「何?」
「今、食費を計算しておられますか?」
「……してない」
「されていた顔でした」
「本当にみんな私の顔読みすぎよ」
院長が初めて少し笑った。
診療室には医師が一人と助手が二人いた。
冬は呼吸器の病気が多く、薬代が膨らむという。
さらに今年は、三階の子供部屋の窓枠を交換する予定があるらしい。
「風が入るのです」
院長が説明した。
「応急処置はしておりますが、来冬までには直したいと考えております」
ヴァレンティナの足が止まった。
「窓枠?」
「はい」
「いくら?」
聞いた。
ミレイユが横を向いた。
セドリックも横を向いた。
「ここはいいでしょう!」
「何も申し上げておりません」
「顔が言ってる!」
院長は戸惑いながら答えた。
「全て交換すると、およそ九十リルほどと見積もられております」
「九十……」
ヴァレンティナは窓を見る。
木枠は確かに古く、隙間には布が詰められていた。
冬の夜ならかなり寒いだろう。
「百二十リルのうち、九十リルをこれに使うの?」
「いいえ」
「違うの?」
「ローゼンベルク家からいただく百二十リルだけを、特定の用途へ割り当てているわけではございません。複数の寄付金を合わせ、年間予算として運営しております」
「なるほど」
そこは領地経営と同じだった。
特定の一リルが、どのパンになったのかまでは追えない。
しかし全体の収入と支出は追える。
「今年、一番困ってるのは何?」
院長は少し考えた。
「燃料費でございます」
「窓じゃなくて?」
「窓も必要ですが、今冬の石炭価格が上がっております。暖房を減らせば、診療室の患者が増えます」
「……減らしたら別のところでお金がかかるのね」
「はい」
どこかで聞いた話だった。
屋根の修理を先延ばしにすれば梁まで腐る。
使用人を減らしすぎれば、残った人間が倒れる。
暖房費を削れば、病人が増える。
「節約って難しいわね」
ヴァレンティナが呟いた。
「奥様がおっしゃいますか」
セドリックが静かに言った。
「私だから言うのよ」
視察を終えたあと、院長室で今年度の予算案を見せてもらった。
ヴァレンティナはかなり細かく質問した。
食材の仕入れ先。
燃料の価格。
医薬品費。
職員数。
修繕計画。
途中から院長の方が楽しそうになっていた。
「侯爵夫人は、こうした帳簿にお詳しいのですね」
「実家が商家なので」
「なるほど」
「変?」
「いいえ。助かります」
院長は一枚の資料を差し出した。
「実は、寄付をいただく方の多くは、ここまで細かくご覧になりません」
「やっぱり?」
「もちろん、それが悪いわけではございません。資金を出していただけるだけでも十分ありがたいことです。ただ、実際に何が必要なのかまで関心を持っていただければ、こちらも相談しやすくなります」
ヴァレンティナは資料を見た。
「じゃあ、百二十リルは必要?」
院長は少し困ったように笑った。
「私の立場で、減らしてよいとは申し上げにくいですね」
「それはそうね」
正直だった。
「でも、去年より余ってるわけじゃない?」
「余ってはおりません」
「分かった」
ヴァレンティナは資料を閉じた。
「今年も百二十リルでいいと思う」
セドリックが少しだけ眉を上げた。
「即決されるのですか?」
「だって使い道見たもの」
「減額なさらないので?」
「減らす理由がないでしょう?」
ヴァレンティナは当然のように言った。
「高いけど、必要なお金なら払うわよ」
それは、屋根を直したときから変わっていない。
安いものが好きなのではない。
無駄なものに高い金を払うのが嫌いなだけだ。
「それに」
ヴァレンティナは窓の方を見た。
「九十リルの窓、もう少し安くならない?」
院長が瞬きをした。
「と申しますと?」
「全部同じ窓でしょう? 一度にまとめて交換するなら、職人の出張費とか運搬費とか、少し下げられない?」
「奥様」
セドリックが呼んだ。
「何よ」
「楽しそうですね」
「だって九十リルよ!」
結局、その場で値切ることだけは止められた。
屋敷へ戻ったのは夕方だった。
アルベルトはすでに会合から戻っており、書斎で待っていた。
「どうだった」
「百二十リル払う」
ヴァレンティナは入るなり言った。
「……ずいぶん簡単に決めたな」
「ちゃんと見たもの」
机の前へ座り、救貧院でもらった資料を広げる。
「百八十七人いるの。冬は燃料費が上がってて、診療所の薬代も必要。三階の窓も古い。百二十リルは高いけど、減らす理由がなかった」
「そうか」
「ただし来年も同じとは限らないから、報告書はちゃんと見る」
「好きにしろ」
「それから窓枠の見積もり九十リル、ちょっと高い気がする」
「救貧院の修繕費まで見るつもりか」
「だって安くできたら、その分ほかに使えるでしょう?」
アルベルトは数秒、ヴァレンティナを見た。
「……何よ」
「いや」
「何?」
「君らしいと思っただけだ」
「褒めてる?」
「今回はな」
「今回はって何よ」
アルベルトは答えなかった。
「ところで」
ヴァレンティナは『信用』の帳面を取り出した。
「今日分かったことがある」
「何だ」
「寄付って、ただお金を捨てるわけじゃないのね」
「捨てると思っていたのか」
「最初はちょっと」
「救貧院に謝れ」
「もう考え直したわよ!」
ヴァレンティナは帳面へ書いた。
《寄付=利益が出なくても必要な支出》
少し考え、さらに付け足す。
《ただし使い道は見る》
「それだけか?」
アルベルトが聞いた。
「何が?」
「信用の話をしているんだろう」
「そうだけど」
「ローゼンベルク家が、なぜ長年あの救貧院へ寄付していると思う?」
「昔から?」
「それを理由にするなと言ったのは君だ」
「じゃあ何?」
「王都に暮らす人間を支えることは、領地を持つ貴族の役目の一つだからだ」
「役目」
「ああ」
アルベルトは椅子へ深く腰掛けた。
「我々は領地から収入を得る。王都でも家を持ち、使用人を雇い、商人から物を買う。困窮した人間をすべて救えるわけではないが、余力のある家が一定の負担をする。それも貴族社会が長く続けてきた仕組みの一つだ」
「……利益が出なくても?」
「出ない」
「本当に一リルも?」
「君はそこにこだわるな」
「商人の娘だもの」
「知っている」
アルベルトは少し笑った。
「だが、信用という意味では無関係でもない」
「え?」
「ローゼンベルク家が毎年決まった支援を続けていることは、ほかの家も知っている。救貧院も知っている。王家も知っている」
「……つまり?」
「金に困ったからといって、長年担ってきた役割を突然放り出さない家だということだ」
ヴァレンティナは黙った。
ようやく意味がつながった。
「それも信用?」
「そうだ」
「百二十リル分?」
「値段をつけるな」
「だって分かりやすいじゃない」
「そういうものではない」
「また数字にできないのね」
「ああ」
ヴァレンティナは嫌そうな顔をした。
「信用って、本当に帳簿と相性悪いわね」
「だから君が苦労している」
「あなた楽しんでない?」
「少し」
「やっぱり!」
アルベルトは今度は否定しなかった。
ヴァレンティナは頬を膨らませながら、帳面へもう一行書いた。
《昔から続けていることにも、続けていること自体が信用になる場合がある》
そこで手が止まった。
以前の自分なら、「昔から」という言葉を聞いた瞬間に疑っていた。
今でも疑う。
それ自体は変えるつもりがない。
けれど、昔から続いているものの中には、長く続けたからこそ価値が生まれたものもあるらしい。
四十三年付き合ってきたハリソン商会。
領地の農民たちとの関係。
王都の貴族たちとのつながり。
そして、毎年続けてきた百二十リルの寄付。
途中で一度やめれば、翌年また百二十リルを払っても、「ずっと続けてきた」という価値まではすぐに戻らない。
「……あ」
「どうした」
「信用って、積立みたいなもの?」
アルベルトが眉を寄せた。
「何だそれは」
「毎年少しずつ積んで、長く続けると大きくなる。でも途中で崩すと、同じ金額を戻してもすぐ元通りにはならない」
アルベルトは少し考えた。
「珍しく分かりやすい例えだな」
「珍しくって何よ」
「いつも服の値段に換算するからだ」
「服は分かりやすいでしょう!」
「俺には分からん」
いつものやり取りに戻った。
その日の夕食後、ヴァレンティナは救貧院への寄付金百二十リルを、予定通り支出するようセドリックへ伝えた。
ただし、来年度からは年次報告を自分にも回してもらう。
さらに、救貧院の窓枠修理については、ローゼンベルク家と付き合いのある職人から相見積もりを取れないか確認することになった。
寄付金を減らすのではなく、同じ金額でできることを増やす。
それならヴァレンティナにも納得できる。
翌朝。
朝食の席へ着いたヴァレンティナの前に、セドリックが一通の封筒を置いた。
「何?」
「王立救貧院のヘイル院長からでございます」
「昨日会ったばかりよ?」
「はい」
封を開く。
短い礼状だった。
視察への礼と、今年度の支援への感謝。
そして最後に一文。
ヴァレンティナは読み上げた。
「『ローゼンベルク侯爵夫人ご自身に施設の状況をご覧いただき、心強く存じます』……」
そこで止まった。
「何だ」
向かい側でアルベルトが聞く。
「これって」
「ああ」
「私が行ったことも、信用になる?」
「なるだろうな」
「お金払っただけじゃなくて?」
「侯爵夫人が自分で足を運んだんだ。少なくとも、支援先を軽く扱っていないことは伝わる」
ヴァレンティナはしばらく手紙を見た。
領地へ自分で行く。
商人と直接話す。
帳簿を見る。
救貧院へ足を運ぶ。
それらを「侯爵夫人らしくない」と見る人間もいる。
しかし、同じ行動を「きちんと見てくれた」と受け取る人間もいる。
「……難しい」
「何が」
「同じことしても、見る人によって全然違うじゃない」
「そういうものだ」
「じゃあ全員に良く思われるの無理じゃない」
「今頃気づいたのか」
「だったら最初から言ってよ!」
「言っている」
「聞いてない!」
「君が聞いていないだけだ」
ヴァレンティナは反論しようとして、やめた。
たぶん、それも少しは当たっている。
全員に好かれる必要はない。
全員の噂を訂正する必要もない。
ただ、自分たちが何を大切にしている家なのかは、行動で示すことができる。
ヴァレンティナは『信用』の帳面を開き、昨日の記述の下に一行加えた。
《信用は、お金を使った額ではなく、何にどう使ったかでも変わる》
そこまで書いてから、少し迷い、
《ただし百二十リルはやっぱり高い》
と小さく付け足した。
「今、余計なことを書いただろう」
アルベルトが言った。
「見てないでしょう!」
「顔で分かる」
「本当にみんな私の顔読みすぎ!」
朝の食堂にヴァレンティナの声が響いた。
ローゼンベルク侯爵家は今年も、王立救貧院へ百二十リルを寄付する。
帳簿の上では、ただの支出である。
しかしヴァレンティナはようやく、帳簿から消えていく金のすべてが、何も残さないわけではないのだと知り始めていた。
金にはならない。
売ることもできない。
正確な値段すらつけられない。
それでも長い年月をかけて積み上げれば、確かに家を支えるものになる。
どうやら侯爵家には、屋根や領地だけでなく、そういう見えない財産まであるらしい。
そして厄介なことに、それを維持するのにも、やっぱり金がかかるのだった。




