第23話 侯爵家、噂になっています
第23話 侯爵家、噂になっています
ウェストン伯爵家の夜会当日、ヴァレンティナは鏡の前で腕を組んでいた。
王宮晩餐会のために仕立てている八十六リルのドレスは、当然ながらまだ完成していない。
そのため今夜選ばれたのは、昨年の秋に仕立てた赤紫色のドレスだった。
深みのある色合いの生地に黒いレースを重ね、胸元には小さな真珠を散らしている。ヴァレンティナの金髪と白い肌によく映え、王都の夜会へ出ても見劣りするような品ではない。
少なくとも、エレノアはそう言っていた。
「いくらだったかしら」
「奥様」
背後から、低い声が飛んできた。
鏡越しに見ると、エレノアがヴァレンティナの髪飾りを確認しながら眉を寄せている。
「聞いただけよ」
「本日は、ドレスのお値段についてお話しにならないようお願いいたします」
「分かってるわよ」
「小麦の価格も」
「分かってる」
「羊毛の価格も」
「分かってるってば」
「果物の加工品の卸値も」
「何の話をすればいいのよ!」
ヴァレンティナは振り返った。
「何を聞いても駄目じゃない!」
「天候、音楽、絵画、演劇、庭園、旅行、衣装、お料理など、いくらでもございます」
「その話をして何が分かるの?」
「それを今夜、旦那様からお学びになるのでしょう」
「……そうだった」
ヴァレンティナは鏡へ向き直った。
いつものように金髪は華やかに巻き上げられ、唇には赤みの強い紅が引かれている。目元にもはっきりと色を入れており、屋敷で帳簿を読んでいるときとは別人のようだった。
本人としては、こちらも十分に自分なのだが。
「奥様、もう少し顎を」
「こう?」
「少し下げてください」
「こう?」
「下げすぎでございます」
「難しい!」
エレノアが髪飾りを直しているところへ、扉が軽く叩かれた。
「入るぞ」
アルベルトだった。
「ちょっと!」
ヴァレンティナが振り返る。
「まだ支度中!」
「もう終わっているように見えるが」
「今エレノアが最終確認してるの!」
黒を基調とした夜会服を着たアルベルトは、扉のところで足を止めた。
普段の彼も十分に整った服装をしているが、正式な夜会となると少し違う。上着の生地は光をほとんど反射しない上質な黒で、襟元と袖口にだけ銀糸の刺繍が入っている。
派手ではない。
しかし、ヴァレンティナも最近ようやく分かってきた。
こういう服が一番高い。
「あなた、それいくら?」
「奥様」
「今のは家の中だからいいでしょう!」
「夜会へ向かう直前でございます」
「練習?」
「何の練習だ」
アルベルトは呆れたように言いながら、ヴァレンティナの前まで来た。
そして、少しだけ彼女を見る。
視線が髪から顔へ、顔からドレスへ移った。
「何?」
「いや」
「何よ」
「……似合っている」
あまりにも普通に言われたため、ヴァレンティナは一瞬返事が遅れた。
「……そう?」
「ああ」
「珍しい」
「何がだ」
「あなたが素直に褒めるの」
「褒めなければ文句を言い、褒めても文句を言うのか」
「文句じゃないわよ」
ヴァレンティナは鏡へ向き直った。
なぜか少しだけ気分が良かった。
「旦那様」
エレノアが呼んだ。
「何だ」
「今夜、奥様がお値段について直接お尋ねにならないようお願いいたします」
「俺に言うな」
「旦那様からもお願いいたします」
「子供じゃないわよ!」
「子供とは申し上げておりません」
「でもそういう扱いしてるでしょう!」
アルベルトが小さく息を吐いた。
「ヴァレンティナ」
「何よ」
「今夜は値段を聞くな」
「あなたまで!」
「それから、商談を始めるな」
「分かってるわよ!」
「本当に?」
「分かってる!」
エレノアとアルベルトが同時に黙った。
「何その顔!」
出発前から先が思いやられた。
ウェストン伯爵家の屋敷は、ローゼンベルク邸から馬車で三十分ほどの場所にあった。
王都でも古くから貴族の屋敷が集まる地区にあり、淡い蜂蜜色の石造りの建物は三階建てで、正面には幅の広い階段が続いている。
馬車が次々と到着し、着飾った男女が玄関へ吸い込まれていた。
ヴァレンティナは馬車を降りる前に、小さく息を吐いた。
「緊張してるのか?」
向かい側からアルベルトが聞いた。
「してないわよ」
「そうか」
「ただ、何を喋っても駄目って言われたから、何を喋ればいいのか分からないだけ」
「何を喋っても駄目とは言っていない」
「値段を聞くな、商売の話をするな、穀物価格を聞くな、卸値を聞くな」
「普通の会話をしろ」
「普通って何?」
アルベルトが数秒黙った。
「……俺のそばにいろ」
「それでいいの?」
「ああ。最初は聞いていればいい」
「分かった」
ヴァレンティナは素直に頷いた。
アルベルトが少し意外そうな顔をした。
「何よ」
「いや。素直だと思って」
「私だって分からないことは教わるわよ」
「そうだったな」
扉が開いた。
アルベルトが先に降り、ヴァレンティナへ手を差し出す。
その手を取って馬車から降りる。
それだけなら、結婚してから何度もやってきたことだった。
けれど今夜は、少しだけ意味が違う。
ローゼンベルク侯爵夫妻として、見られに来たのだ。
大広間には百人近い招待客が集まっていた。
天井から巨大なシャンデリアが下がり、無数の蝋燭が磨き上げられた床へ光を落としている。壁際では楽団が演奏し、中央ではすでに何組かの男女が踊っていた。
給仕が銀盆を持って歩き、グラスの中で淡い金色の酒が揺れている。
ヴァレンティナは入った瞬間、無意識に天井を見た。
「何を見ている」
「雨漏りしそうなところないなと思って」
「他家の夜会で最初に確認することではない」
「癖になったのよ」
「嫌な癖だな」
受付で名を告げる。
ローゼンベルク侯爵夫妻の名が読み上げられると、何人かがこちらを見た。
以前なら気にしなかった。
今夜は違う。
ヴァレンティナは視線の一つ一つが気になった。
「……見られてる」
「夜会では普通だ」
「私のドレス見てる?」
「それもあるだろう」
「安そうに見える?」
「見えない」
「本当?」
「八十六リルのドレスではないがな」
「まだ言う」
「君が聞いたんだろう」
アルベルトは平然としていた。
まず主催者であるウェストン伯爵夫妻へ挨拶する。
伯爵は五十代半ばの大柄な男で、明るい灰色の髪と立派な口髭を持っていた。妻は昨年ヴァレンティナのお茶会へ来た女性で、顔を見るなり笑顔になった。
「まあ、ローゼンベルク侯爵夫人。お久しぶりですこと」
「ご無沙汰しております」
ヴァレンティナはきちんと一礼した。
「今夜のドレスも素敵ね」
「ありがとうございます」
値段は言わなかった。
横でアルベルトが僅かにこちらを見た。
ヴァレンティナは勝ち誇った目で見返した。
できる。
自分だって、値段を言わずに服の話くらいできる。
「以前お召しになっていた葡萄色のドレスも、とても評判でしたわ」
「ええ。あれは――」
六リル。
喉まで出た。
「……とても気に入っているんです」
耐えた。
アルベルトが少しだけ目を細めた。
「何よ」
「何も言っていない」
「顔が言ってる」
ウェストン伯爵夫人が楽しそうに笑った。
最初の三十分、ヴァレンティナは驚くほど大人しくしていた。
アルベルトの隣で、話を聞く。
天候の話。
冬の王都の話。
春になればどこの別荘へ行くかという話。
最近王宮で演奏された新しい楽曲の話。
どこそこの伯爵家の庭園に、新しい温室ができたという話。
正直に言えば、最初は何が重要なのか全く分からなかった。
ところがアルベルトは、その一見どうでもよさそうな話から、少しずつ別の話題へ移っていく。
「今年は雪が少ないですね」
ウェストン伯爵が言った。
「西部ではどうです?」
アルベルトが尋ねる。
「こちらよりは多いが、例年ほどではないな。春の水量が少し心配だ」
「小麦への影響は?」
「今のところ何とも言えん。ただ、昨年ほどの供給過多にはならないかもしれない」
ヴァレンティナの耳が動いた。
小麦。
聞きたい。
ものすごく聞きたい。
今年の価格はいくらになりそうなのか。
昨年より上がるのか。
ローゼンベルク領の小麦をどの程度売るべきなのか。
しかし聞くなと言われている。
ヴァレンティナはグラスを持ったまま、黙って耐えた。
「東部では作付面積を減らすという話も聞きました」
アルベルトが続ける。
「そのようだ。昨年は少し作りすぎたからな」
「となると、春以降は多少戻りそうですね」
「そう思っている。まあ、商人どもはもう動いているだろうが」
そこまで聞いて、話題は自然に別のものへ移った。
ヴァレンティナはアルベルトの袖を軽く引いた。
「何だ」
「今の」
「後で」
「でも」
「後で」
仕方なく黙る。
十分ほどして伯爵夫妻から離れると、ヴァレンティナはすぐにアルベルトを廊下側へ引っ張った。
「今の、小麦の話でしょう?」
「ああ」
「値段聞いてないのに、去年より上がるかもしれないって分かった」
「そうだな」
「……なんで?」
「伯爵が言っただろう。東部が作付面積を減らし、西部も雪が少ない。供給量が昨年より減る可能性がある」
「だから値段が戻る?」
「可能性がある、という程度だ」
ヴァレンティナは目を丸くした。
「これが直接聞かないってこと?」
「一つのやり方だ」
「回りくどい!」
「声」
「……回りくどいわ」
声を小さくした。
「最初から『今年の小麦いくら?』って聞けば早いじゃない」
「伯爵は穀物商ではない」
「でも知ってる」
「知っていることと、値段を尋ねられることは別だ」
「面倒くさい」
「三回目くらいだな、その感想」
「これから百回くらい言うと思う」
「覚悟しておく」
ヴァレンティナは『信用』の帳面を持ってくればよかったと思った。
夜会に帳面を持ち込んだらエレノアに怒られそうなので、やめたのだ。
仕方なく頭の中へ書く。
雪が少ない。
東部の作付面積減少。
小麦価格は回復する可能性あり。
「……結構、情報取れるのね」
「だから以前から言っている。社交は遊んでいるだけではない」
「でも遊んでもいるでしょう?」
「否定はしない」
そこは認めるらしい。
次に話したのは、ラングレー子爵夫妻だった。
夫人は昨年のお茶会にも来ており、兄が穀物取引に関わっている。
ヴァレンティナは知っている。
だから余計に聞きたい。
しかし聞かない。
「今年は寒いですわね」
夫人が言った。
「本当に。うちの領地でも――」
そこまで言って、ヴァレンティナは考えた。
アルベルトならどうする。
「……冬の運送って、大変でしょうね」
言ってから、横にいるアルベルトをちらりと見た。
彼は何も言わない。
ラングレー夫人が頷いた。
「ええ。今年は北の街道が一度閉じたそうですわ」
「まあ」
「兄も困っておりましたの。北から来る羊毛が十日ほど遅れたとか」
羊毛。
来た。
ヴァレンティナは思わず前のめりになりかけ、耐えた。
「それは大変ですね」
「ええ。もっとも、北方産のものが入りすぎておりましたから、南の生産者には少し良いのかもしれませんけれど」
「そうなんですか?」
「値が下がりすぎていたでしょう?」
「ええ」
知っている。
ローゼンベルク領もそれで困っている。
「今年は少し戻るかもしれないと、兄は申しておりましたわ」
「まあ、それは良いですね」
ヴァレンティナは微笑んだ。
心の中では、
やった!
と叫んでいた。
夫人と別れた瞬間、ヴァレンティナはアルベルトの腕を掴んだ。
「できた!」
「見ていた」
「聞いてない!」
「ああ」
「値段聞いてないのに聞けた!」
「それは聞いたと言うんじゃないのか」
「違うの!」
興奮しているヴァレンティナを見て、アルベルトが小さく笑った。
「何よ」
「いや」
「また笑ったでしょう」
「笑っていない」
「絶対笑った!」
「声」
「……絶対笑った」
小声にした。
少し離れたところで、ラングレー夫人が振り返り、微笑ましそうにこちらを見ていたことには、二人とも気づかなかった。
問題が起きたのは、それから一時間ほど後だった。
ヴァレンティナはアルベルトと少し離れ、ウェストン伯爵夫人や数人の女性たちと話していた。
話題は春のドレスだった。
これは得意分野である。
「今年は淡い青が流行るそうですわ」
「そうなの?」
「ええ。王女殿下がお好みだとか」
「私、青ってあまり着ないのよね」
「侯爵夫人には赤の方がお似合いですもの」
「そうでしょう?」
楽しい。
値段を聞かなくても楽しい話題はあった。
少し安心していたところへ、見知らぬ女性が加わった。
三十代半ばほどだろうか。細身で、淡い灰色のドレスを着ている。髪も装飾も控えめだが、身につけている宝石は明らかに上質だった。
「ローゼンベルク侯爵夫人でいらっしゃいますわね」
「はい」
「初めまして。ヘレン・モートンと申します」
モートン子爵夫人だった。
互いに挨拶をする。
「以前から一度お話ししてみたいと思っておりましたの」
「私と?」
「ええ。とても……活動的な方だと伺っておりますから」
活動的。
悪い言葉ではない。
しかし、なぜか少し引っかかった。
「領地へもご自身で出向かれるそうですわね」
「ええ。昨年行きました」
「農家まで?」
「はい」
「まあ」
モートン夫人は小さく目を見開いた。
「侯爵夫人自ら、ですの?」
「自分で見た方が分かりやすいので」
「それは……ベルモンド家らしいお考えですこと」
微笑んでいる。
けれど褒められている感じがしない。
ヴァレンティナにもそれくらいは分かった。
「ありがとうございます」
とりあえず笑っておく。
「それに、商人とも直接お話しになるとか」
「必要なら」
「お茶会でも穀物のお値段についてお尋ねになったと聞きましたわ」
誰よ、そこまで喋ったの。
ヴァレンティナは心の中で叫んだ。
「……一度だけです」
「まあ。侯爵夫人になられても、ご実家で学ばれたことを忘れないのは素晴らしいことですわね」
「ええ」
「ローゼンベルク家も、随分と変わったのでしょうね」
今度は、はっきり分かった。
これは褒めていない。
周囲の女性たちも微妙に黙っている。
「変わりましたよ」
ヴァレンティナは答えた。
「屋根も直りましたし」
ウェストン伯爵夫人が噴き出しかけた。
モートン夫人は一瞬、返事に困ったらしい。
「……屋根?」
「雨漏りしてたんです」
「まあ」
「今はもう降りません」
「それは……何よりですわ」
「本当に」
ヴァレンティナは笑った。
ここで終わればよかった。
しかしモートン夫人は、さらに続けた。
「使用人もずいぶん入れ替えられたとか」
「増やしました」
「以前からいらしたメイド長が倒れられたとも伺いましたけれど」
ヴァレンティナの笑顔が止まった。
そこは違う。
「エレノアは今もメイド長です」
「そうなのですか?」
「ええ。働きすぎて倒れたので、人を増やしたんです」
「まあ、それは失礼いたしました。てっきり、新しい奥様がお入りになってから使用人が次々辞められたのかと」
「違います」
少し声が低くなった。
「辞めようとしていた子も、今は残っています」
「そうでしたの」
モートン夫人は微笑んだ。
「噂というものは、当てになりませんわね」
だったら最初から言うな。
喉まで出た。
出さなかった。
今日の自分は偉い。
非常に偉い。
エレノアがいたら褒めるべきだ。
「ただ」
モートン夫人はまだ終わらなかった。
「ローゼンベルク侯爵夫人ともなれば、もう少し落ち着かれた方がよろしいのではなくて?」
周囲が静かになった。
「……落ち着く?」
「ええ。ご自分で領地を歩かれたり、商人とお話しになったりなさらなくても、使用人に任せればよろしいでしょう?」
ヴァレンティナは答えようとした。
しかし、その前に声がした。
「妻は退屈が嫌いなので」
アルベルトだった。
いつの間にか隣まで来ている。
「アルベルト」
彼はヴァレンティナを見ることなく、モートン夫人へ軽く頭を下げた。
「ローゼンベルク侯爵様」
「妻が何か?」
「いいえ。ただ、とても活動的な奥様だとお話ししていたところですの」
「そうでしょうね」
「侯爵様も、さぞ驚かれたのでは?」
「毎日驚いています」
「ちょっと」
ヴァレンティナが横から睨んだ。
アルベルトは気にしない。
「では、やはりもう少し――」
「ですが」
アルベルトが静かに言葉を重ねた。
「退屈はしませんよ」
モートン夫人が黙った。
アルベルトの口調はいつもと変わらない。
怒っているわけでもない。
皮肉を強く言ったわけでもない。
ただ、ヴァレンティナを恥じている様子が全くなかった。
「それに、妻が領地へ行ったことで、これまで見落としていた問題がいくつか見つかりました」
「まあ」
「使用人を増やしたのも、私の判断です。以前の体制には無理がありましたから」
これは半分嘘だ。
最初に騒いだのはヴァレンティナだった。
けれど最終的に当主として承認したのはアルベルトである。
「屋敷の修繕も、必要だから行った。倉庫を貸したのも同じです」
アルベルトは淡々と続けた。
「ですから、最近のローゼンベルク家の変化について何かお聞きになったのでしたら、妻だけではなく、私の判断でもあるとお考えください」
モートン夫人の笑顔が、ほんの少し固くなった。
「……もちろんでございますわ」
「それなら結構です」
アルベルトは軽く一礼した。
「失礼」
そしてヴァレンティナの腰へ手を添え、その場から連れ出した。
「……怒ってた?」
人の少ない廊下まで来たところで、ヴァレンティナは聞いた。
「誰が」
「あなた」
「別に」
「でも、あの人に結構言ったでしょう」
「事実を訂正しただけだ」
「私のこと庇った?」
「違う」
「じゃあ何?」
「ローゼンベルク家について間違った話をされていたから訂正した」
「それ、私も入ってるでしょう?」
「君はローゼンベルク侯爵夫人だからな」
「じゃあ庇ってるじゃない」
「違う」
「何が違うのよ」
「違うものは違う」
妙に頑固だった。
ヴァレンティナは横を歩きながら、アルベルトの顔を覗き込んだ。
「……私が落ち着きないのは本当だと思ってる?」
「思っている」
「即答!」
「事実だろう」
「じゃあ、あの人の言う通りじゃない!」
「違う」
「今度は何が違うのよ!」
アルベルトが足を止めた。
ヴァレンティナも止まる。
「君が落ち着きなく動き回ることと、それがローゼンベルク家にとって悪いことかどうかは別だ」
「……そうなの?」
「君が大人しく椅子に座っていれば、屋根は今も雨漏りしていたかもしれない」
「それは嫌ね」
「エレノアもまた倒れていたかもしれない」
「もっと嫌」
「領地の赤字も続いていただろう」
「絶対嫌」
「なら、それでいい」
アルベルトは再び歩き出した。
ヴァレンティナは数歩遅れてから追いかけた。
「でも、評判悪くなるんでしょう?」
「だから見せ方を覚えろと言っている」
「大人しくするんじゃなくて?」
「君にできるのか?」
「……できるかもしれないでしょう」
「五か月見てきた」
「何よ」
「無理だ」
「失礼ね!」
「声」
「……失礼ね」
声を小さくする。
アルベルトはまた少し笑った。
「また笑った!」
「笑っていない」
「今日は絶対何回も笑ってる!」
今度は否定しなかった。
夜会が終わり、馬車へ戻ったのは十一時を過ぎた頃だった。
ヴァレンティナは座席へ深くもたれた。
「疲れた……」
「珍しいな」
「値段聞かないように喋るの、ものすごく頭使うのよ」
「普通の人間はそこに頭を使わない」
「普通って何よ」
アルベルトは答えなかった。
馬車が動き始める。
ヴァレンティナは窓の外へ流れる灯りを眺めながら、今夜聞いたことを頭の中で整理した。
東部では小麦の作付面積が減る可能性がある。
北の街道が閉じ、羊毛の流入が遅れた。
どちらもローゼンベルク領にとっては悪い話ではない。
しかも、値段を一度も尋ねていない。
「アルベルト」
「何だ」
「今日、結構役に立った」
「随分な言い方だな」
「褒めてるのよ」
「そうは聞こえない」
「私、あなたが社交得意なの知ってたけど、こういう使い方するものだとは思ってなかった」
「使い方とは何だ」
「人脈」
ヴァレンティナは少し考えた。
「私、お金にならないものを軽く見すぎてたのかも」
アルベルトがこちらを見た。
「人との付き合いとか、家の名前とか、評判とか。帳簿に書けないから、なんとなく飾りみたいなものだと思ってた」
「飾りでもある」
「あるの?」
「ある。貴族は無駄なことも随分する」
「するんじゃない!」
「だが、全部が無駄なわけではない」
「……それ、私が昔からやってることと同じね」
「何がだ」
「高いものが全部無駄なわけじゃない。でも、高いから必要なわけでもない」
アルベルトは少し黙った。
「そうだな」
ヴァレンティナは満足そうに頷いた。
それなら理解できる。
伝統だから守るのではない。
古い付き合いだから切らないのでもない。
役に立つものには、役に立つ理由がある。
その理由を知らずに捨てれば、あとからもっと高い代金を払うことになる。
屋根の梁と同じだった。
見えないからといって、なくてもいいわけではない。
「それにしても」
ヴァレンティナはアルベルトを見た。
「何だ」
「あの人に言ってくれたの、ありがとう」
「……何のことだ」
「モートン夫人」
「別に」
「またそれ」
「事実を言っただけだ」
「でも、嬉しかった」
ヴァレンティナはそれだけ言うと、再び窓の外へ顔を向けた。
アルベルトは何も答えなかった。
しばらくして、ヴァレンティナがちらりと見る。
彼はいつも通りの顔で外を見ている。
ただ、ほんの少しだけ耳が赤いように見えた。
「……暑い?」
「何が」
「耳」
「寒い」
「赤いけど」
「気のせいだ」
「そう?」
「そうだ」
ヴァレンティナは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
屋敷へ戻ると、エレノアとミレイユがまだ起きて待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
ヴァレンティナは外套を脱ぎながら言った。
「エレノア」
「はい」
「今日、一度も値段聞かなかったわよ!」
「それは何よりでございます」
「もっと褒めて!」
「当然のことでございます」
「厳しい!」
ミレイユが手帳を開いた。
「何か有益なお話はございましたか?」
「いっぱいあった。明日まとめる」
「では昼食後に」
「朝じゃなくて?」
「奥様は今夜お休みになるのが遅いため、午前中は通常業務のみになさってください」
「私の予定まで管理されてる……」
「エレノア様からの引き継ぎ事項です」
「また!」
エレノアは知らない顔をしている。
自室へ戻る前に、ヴァレンティナは書斎へ寄った。
『信用』と書いた帳面を開く。
今日のことを忘れないうちに、いくつか書いておきたかった。
《値段を直接聞かなくても、情報は集められる》
《社交=情報が流れる場所》
《古い付き合いには、帳簿に書けない価値がある》
そこまで書いてから、少し考える。
そして最後に、
《落ち着きがなくても、大人しくなる必要はないらしい》
と書いた。
その横に小さく、
《アルベルト談》
と付け加える。
しばらく眺めてから、ヴァレンティナは笑った。
ローゼンベルク家の信用は、まだ戻っていない。
噂も消えていない。
むしろ今夜、自分が思っていた以上に妙な話が広がっていることを知ったばかりだった。
けれど、直し方は少しだけ見えてきた。
黙って座って、誰かが忘れてくれるのを待つ必要はない。
かといって、噂をしている人間を一人ずつ捕まえて帳簿を見せる必要もない。
ローゼンベルク家がどういう家なのかを、これから少しずつ見せ直せばいい。
その方法については、どうやら夫の方がずっと詳しい。
「……たまには頼りになるのね」
誰もいない書斎で呟いた。
廊下の向こうから、
「聞こえているぞ」
と声がした。
ヴァレンティナは勢いよく扉を振り返った。
「なんでいるのよ!」
「ここは俺の書斎でもある!」
夜中のローゼンベルク侯爵邸に、久しぶりに大きな声が響いた。
少なくとも、屋根から雨は降っていなかった。




