第21話 侯爵家、前金を要求されます
第21話 侯爵家、前金を要求されます
二月の王都には、まだ冬の冷気が居座っていた。
朝から薄い雲が空を覆い、ローゼンベルク侯爵邸の庭では、葉を落とした木々の枝が冷たい風に揺れている。花壇には春を待つ球根が埋まっているものの、今のところ土の上に見えるのは、昨夜降りた霜がところどころ白く残っているだけだった。
ヴァレンティナがアルベルトと結婚したのは、前年の九月である。
あれから五か月。
結婚式の翌日に侯爵邸へやって来たときには、寝室の天井から雨が落ち、絨毯は擦り切れ、使用人は足りず、帳簿を開けば十二リルのワインが毎晩のように消費されていた。
それから屋根を直し、壁を直し、使用人の働き方を見直し、仕入れを整理し、領地へ出向いて畑と倉庫と果樹園を見て回り、売り物にならなかった果物まで瓶に詰めた。
十一月の末に確認した翌年度の収支予測は、わずか三十六リルではあったものの、ついに黒字へ転じている。
三十六リル。
侯爵領全体を一年動かして残る金額として考えれば、ヴァレンティナとしては今でも少々腹立たしいほど小さい数字だったが、それでも赤字よりは百倍ましだった。
年が明けてからも、大きな問題は起きていない。
東の倉庫には予定通り織物商が入り、果物の加工品は無理に生産量を増やさず、エドワード・クラインの店を中心に少量ずつ出荷を続けている。春から始める試験栽培についても、ヘンリーから候補となる作物や必要な人手について報告が届き始めていた。
屋根から雨も降っていない。
壁から水も出ていない。
エレノアも倒れていない。
ここまで来れば、しばらくは平穏な日々を送れるのではないかと、ヴァレンティナは少しだけ期待していた。
もちろん、それは甘かった。
「前金?」
朝食を終えたばかりの食堂に、ヴァレンティナの声が響いた。
向かい側で紅茶を飲んでいたアルベルトが、わずかに眉を寄せる。
長い食卓の端にはセドリックが立っており、その手には今朝届いたばかりの一通の書状があった。
「はい。春に予定しております南棟客室の窓枠補修について、木材と金具を納める予定のグラント商会から、代金の半額を先に納めてほしいとの申し出がございました」
「半分?」
「正確には四十八リルでございます」
「払えない額じゃないけど……」
ヴァレンティナはそこで言葉を止めた。
問題は四十八リルそのものではない。
今のローゼンベルク家には、四十八リルを支払うだけの現金はある。十一月までのように、屋根を直すためにワインを売らなければならない状態でもなかった。
しかし、これまでの仕入れや修繕で、ローゼンベルク家が前金を要求されたことはほとんどない。
むしろ逆だった。
四十三年付き合いのあるハリソン商会が、先代侯爵の死後、支払いを半年待ったことさえある。
それが古い侯爵家の信用というものなのだと、ヴァレンティナはセドリックから教わったばかりだった。
「グラント商会って、初めて取引するところ?」
「いいえ」
セドリックは穏やかな声で答えた。
「先々代の頃から、何度か木材を納めてもらっております。継続的な取引先というほどではございませんが、少なくとも初めてではありません」
「じゃあ、前も前金だったの?」
「いいえ」
「……どういうこと?」
ヴァレンティナがアルベルトを見ると、彼はすでに紅茶のカップを置いていた。
灰色の目が、セドリックの持つ書状へ向けられている。
「理由は聞いたのか」
「表向きには、木材価格の変動が大きいため、仕入れ時点で一部を精算したいとのことです」
「表向きには?」
ヴァレンティナが聞き返すと、セドリックはほんの少しだけ目を細めた。
「少々、気になりましたので」
その言い方をしたときのセドリックは、大抵すでに何か調べている。
ヴァレンティナは五か月の結婚生活で、それくらいは学習していた。
「何を調べたの?」
「昨日、グラント商会の番頭と付き合いのある者に話を聞きました」
「早いわね」
「執事ですので」
「その言葉で何でも片付けるのやめない?」
セドリックは微笑んだだけだった。
アルベルトが促すように視線を向けると、セドリックは表情をわずかに改めた。
「どうやら、ローゼンベルク家の支払い能力について、少々懸念を持たれているようです」
食堂が静かになった。
ヴァレンティナは数秒、意味を理解できなかった。
「……誰の?」
「当家の、でございます」
「うち?」
「はい」
「うちって、ローゼンベルク家?」
「ほかにございません」
「なんで!?」
椅子から半分立ち上がったヴァレンティナを、アルベルトが冷静に見上げた。
「座れ」
「だって!」
「座ってから怒れ」
「座ったら怒っていいのね?」
「好きにしろ」
ヴァレンティナは勢いよく椅子へ戻った。
少し離れたところで朝食の片付けをしていたリナが肩を揺らしたが、エレノアに見られてすぐに顔を引き締めている。
「十一月に赤字止めたじゃない!」
「世間は我が家の帳簿を読んでいない」
「読ませる?」
「やめろ」
即答だった。
「でも、ちゃんと払えるのよ?」
「問題は、払えるかどうかではない」
アルベルトはそう言って、セドリックへ目を向けた。
「ほかにもあるな」
「ございます」
「あるの!?」
ヴァレンティナの声が再び大きくなった。
エレノアが眉を寄せる。
「奥様、朝から少々お声が」
「うちが破産寸前だと思われてるのよ!?」
「まだそこまでは申し上げておりません」
セドリックが冷静に訂正した。
「じゃあ、どこまで思われてるの?」
「『ローゼンベルク侯爵家は、以前より金回りが悪いらしい』程度でしょうか」
「十分嫌よ!」
それはそうだ、とでも言いたげにアルベルトが小さく息を吐いた。
セドリックによれば、グラント商会だけではなかった。
年明け以降、いくつかの商会で、ローゼンベルク家との取引について以前より慎重な反応が見られるという。
まだ取引を断られたわけではなく、支払い期限を短くされたわけでもない。ただ、以前なら侯爵家の名だけで話が進んだ場面で、支払い方法や時期について確認されることが増えていた。
「どうして急にそんなことになったの?」
ヴァレンティナは腕を組んだ。
「急に、というわけではないのでしょう」
エレノアが口を開いた。
今日も黒いドレスに白い襟を合わせ、濃い茶色の髪を一分の隙もなくまとめている。昨年倒れた人間とは思えないほどいつもの姿に戻っているが、以前と違い、昼食の時間になればミレイユに監視されながらきちんと席に着くようになっていた。
「旦那様がご当主になられて以降、当家の財政が以前ほど豊かではないことは、社交界でもある程度知られております」
「それは知ってるわ。でも、去年より今の方が良くなってるでしょう?」
「実際には、でございます」
「……実際には?」
嫌な言葉だった。
アルベルトが椅子の背にもたれた。
「外からどう見えているかは別だということだ」
「どう見えてるのよ」
今度は誰もすぐに答えなかった。
その沈黙が、さらに嫌だった。
「セドリック」
「はい」
「調べたんでしょう?」
「少々」
「言って」
「お食事の後の方がよろしいかと」
「もう食べ終わってるわよ!」
「では」
セドリックは手元の書類を一枚めくった。
「まず、旦那様がベルモンド男爵家のご令嬢と結婚されたことについてですが」
「私ね」
「はい」
「そこから?」
「そこからでございます」
ヴァレンティナは嫌な予感を覚えた。
「ローゼンベルク侯爵家は財政難のため、裕福な新興貴族から持参金を得る目的で婚姻した、という見方がございます」
「……まあ」
ヴァレンティナは少し考えた。
「それは半分くらい合ってるわね」
「認めるのか」
「だって政略結婚でしょう? うちにお金があって、ローゼンベルク家には家柄があったから話がまとまったんじゃない」
「身も蓋もないな」
「今さらでしょう」
アルベルトも否定はしなかった。
実際、ベルモンド家の財力が婚姻の大きな理由だったことは事実である。そこを美しい恋物語に書き換えたところで、帳簿の数字は変わらない。
「それだけなら問題ないんじゃない?」
「問題は、その後でございます」
「まだあるのね」
「奥様が王宮の晩餐会に六リルのドレスで出席された件が、思いのほか広く知られております」
ヴァレンティナは瞬きをした。
「……あれ?」
「はい」
「すごく評判良かったわよ?」
「ベル・モードでは大変評判になりました」
「でしょう?」
「一方で、ローゼンベルク侯爵家には侯爵夫人のドレスを仕立てる金もないらしい、という話もございます」
「なんでよ!」
今度こそヴァレンティナは立ち上がった。
「私が好きで六リルのドレス着てたのよ!」
「座れ」
「百リル出せないんじゃなくて、六リルで可愛いなら六リルでいいでしょう!?」
「俺に言うな」
「誰に言えばいいのよ!」
「噂をしている全員に説明して回るつもりか?」
そう言われると困る。
ヴァレンティナは不満げに座り直した。
セドリックは次へ進んだ。
「さらに、日常的に購入していたヴァリエール産のワインを減らしたことも、一部では知られております」
「それも!?」
「酒商や使用人を通じて情報が広がることは珍しくございません」
「毎晩十二リルのワインを飲む方がおかしいのよ!」
「俺も今ではそう思っている」
「じゃあ言ってよ!」
「誰にだ」
「噂してる人!」
「だから、どうやってだ」
アルベルトの返答は一貫していた。
ヴァレンティナは唇を尖らせた。
「ほかには?」
「仕入れ契約を複数見直したこと。屋敷の大規模な修繕を行ったこと。使用人の募集をしたこと。東の倉庫の一部を外部へ貸したこと」
「待って」
ヴァレンティナは片手を上げた。
「それ全部、良くした話じゃない?」
「事情を知っていればな」
アルベルトが言った。
「知らなかったら?」
「古い取引先との契約を切り詰め、屋敷は修繕が必要なほど傷み、人手が足りず、所有する倉庫まで他人に貸し出している」
「…………」
「金に困っている家に見えなくもない」
「…………」
ヴァレンティナは両手で顔を覆った。
「全部本当なのが腹立つ……」
「解釈だけが違う」
「そこが一番腹立つのよ!」
さらに、領地で売り物にならなかった果物を加工して販売し始めたことまで、一部の商人には伝わっていた。
「まさか」
ヴァレンティナは恐る恐る顔を上げた。
「『傷んだ果物まで売らないといけないほど困ってる』とか言われてないでしょうね?」
セドリックは黙った。
「言われてるの!?」
「似たような話は」
「売れてるわよ!」
「存じております」
「ちゃんと利益出てるのよ!」
「それも存じております」
「じゃあ何なのよ!」
「世間は奥様ほど当家の帳簿に詳しくございませんので」
セドリックの声はどこまでも穏やかだった。
ヴァレンティナは机に額をつけたくなったが、エレノアの視線を感じて辛うじて耐えた。
しばらくして、横から別の声がした。
「まだございます」
いつの間にか食堂へ入ってきていたミレイユが、手帳を持ったまま立っている。
ヴァレンティナは嫌そうに顔を上げた。
「もういいわよ」
「先ほど奥様がすべて聞くと仰っていましたので」
「あなた、こういうときだけ律儀ね」
「仕事ですので」
「セドリックが二人いる……」
ミレイユは気にせず続けた。
「奥様ご自身についても、少々」
「私?」
「商人と直接話をする、領地へ出向いて農民と話をする、帳簿を読む、商品の値段を尋ねる、果物の加工品を販売する、お茶会で穀物価格を聞く」
「最後のは一回だけよ」
「一回でもなさいました」
エレノアがすかさず言った。
「だって必要だったのよ!」
「お茶会でございます」
「分かったわよ!」
五か月経っても、そこについては意見が一致していない。
「それが何なの?」
ヴァレンティナが聞くと、ミレイユは少し言葉を選んだ。
「侯爵夫人としては、少々……商人らしすぎる、と」
「商人の娘だもの」
「存じております」
「じゃあ合ってるじゃない」
「奥様」
エレノアの声が低くなった。
「何よ」
「問題は、正しいかどうかではございません」
その言葉に、ヴァレンティナは黙った。
アルベルトを見る。
彼も否定しなかった。
「つまり」
ヴァレンティナはゆっくり言った。
「私がこの家を立て直そうとしてやってきたことが、外から見ると全部、『ローゼンベルク家はお金に困ってる』に見えてるってこと?」
「かなり乱暴にまとめれば、そうなる」
「しかも私が動けば動くほど?」
「可能性はある」
「……何それ」
笑えなかった。
屋根の穴なら見れば分かる。
帳簿の赤字なら数字で分かる。
果物が余っているなら、果樹園へ行けば分かる。
けれど、人が自分たちをどう見ているのかは、帳簿のどこにも書かれていない。
ヴァレンティナはそれまで、正しいことをして結果を出せば、それで十分だと思っていた。
無駄な支出を減らし、必要なところには金を使い、使用人が倒れないように人を増やし、売れずに余っていたものを商品に変える。
実際、ローゼンベルク家の財政は五か月前より明らかに良くなっている。
それなのに、外からの評価は逆方向へ進んでいたらしい。
「……帳簿より面倒くさい」
「珍しく意見が合うな」
アルベルトが言った。
「あなたは知ってたの?」
「ここまで広がっているとは思っていなかった。ただ、多少は予想していた」
「なんで言わなかったのよ」
「最初の頃は、評判より先に屋根を直す必要があった」
「それはそうね」
「使用人が倒れたときには、評判より人を増やす必要があった」
「それもそうね」
「領地が赤字だと分かったときには、評判より収支を止める必要があった」
「……それもそうね」
全部その通りだった。
噂を気にして雨漏りを放置するわけにはいかないし、侯爵家らしく見せるために十二リルのワインを毎晩飲み続けるわけにもいかない。
だから、やったことを後悔する気はなかった。
「じゃあ、これからどうするの?」
ヴァレンティナが尋ねると、アルベルトは少し考えてから答えた。
「まず、グラント商会には前金を払わない」
「払えるわよ?」
「払えるかどうかの問題ではない」
先ほどと同じ言葉だった。
「ここで何も言わずに前金を払えば、ローゼンベルク家自身が『信用されなくても仕方がない』と認めたように受け取られる可能性がある」
「……なるほど」
「条件そのものに合理的な理由があるなら別だ。木材価格の変動が本当に大きく、ほかの家にも同じ条件を求めているなら検討する。しかし、我が家だけなら話が違う」
「調べる?」
「セドリック」
「すでに確認を進めております」
「本当に何なの、あなた」
「執事でございます」
もう聞かないことにした。
「それから」
アルベルトはヴァレンティナへ視線を戻した。
「しばらく、君は商人と直接交渉するのを控えろ」
「なんで!?」
即座に声が上がった。
「ほら、それだ」
「何がよ!」
「声が大きい」
「今そこ関係ある!?」
「ある」
アルベルトは平然としている。
「君が商人と話すこと自体が悪いとは言っていない。ただ、今は『ベルモンドの娘がローゼンベルク家の財布を握っている』という見方まで出始めている。そこへ君が前面に出れば、噂を補強する」
「実際、財布はかなり握ってるけど」
「認めるな」
「だって帳簿見てるもの」
「俺も見ている」
「最近はね」
「……それについては反論しない」
五か月前のアルベルトなら、家計簿を開くよりワインの産地を語る方がよほど得意だった。最近はヴァレンティナに捕まって、月ごとの支出まで一緒に確認するようになっている。
そこは成長した。
「じゃあ私、何もしない方がいいの?」
ヴァレンティナは不満げに言った。
「一日中座って、刺繍でもしてれば侯爵夫人らしく見える?」
「君に一日中黙って座られる方が気味が悪い」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
「失礼ね!」
アルベルトはわずかに口元を緩めた。
「別に大人しくなる必要はない」
思っていた返事と違って、ヴァレンティナは少しだけ目を瞬いた。
「……でも、私が動くと評判悪くなるんでしょう?」
「動き方の問題だ」
「同じじゃない?」
「違う」
アルベルトはきっぱりと言った。
「君はこれまで、必要な相手のところへ直接行き、必要なことを聞き、その場で判断してきた。それは商人としては正しい。しかし、今の君はベルモンド男爵の娘であると同時に、ローゼンベルク侯爵夫人でもある」
「分かってるわよ」
「本当に分かっているなら、お茶会で小麦の値段を聞くな」
「まだ言うの!?」
「いい例だからな」
ヴァレンティナは頬を膨らませた。
「だったら、どうすればいいのよ」
「同じ情報を、値段を聞かずに集める」
「どうやって?」
「それを教える」
ヴァレンティナは少し黙った。
「あなたが?」
「ほかに誰がいる」
「エレノア」
「礼儀作法ならエレノアでいい。だが、社交界で誰が何を知っていて、誰と誰がつながっていて、どの家の言葉がどこまで届くかは、俺の方が知っている」
確かにそうだった。
昨年のお茶会でも、アルベルトは招待客の親族や商売上のつながりまで把握していた。
ヴァレンティナにとって、伯爵夫人も子爵夫人も、最初は単に「お茶を飲みに来る人たち」だった。しかしアルベルトにとっては、その一人一人が家同士の関係と情報の流れの中に存在している。
それは、ヴァレンティナが《ベル・モード通信》の商品番号を見れば、おおよその値段や生地や当たり外れまで分かるのと、少し似ていた。
「……じゃあ、お願い」
ヴァレンティナは素直に言った。
「何をだ」
「教えて。私、こういうの分からないもの」
アルベルトの眉が少し上がった。
ヴァレンティナは自分の分からないことを、以前より簡単に認めるようになっていた。
農業はヘンリーに聞いた。
料理はマルセルやダニエルに聞いた。
使用人の仕事はエレノアとミレイユに聞いた。
商人との交渉では、セドリックに何度も助けられた。
ならば、貴族社会についてはアルベルトに聞けばいい。
「私は数字なら分かるけど、誰が誰と仲が良くて、どこで何を言えばどう広がるとか、全然分からないわ」
「威張って言うことではないな」
「分からないものは分からないのよ。それに、あなたの方が得意なんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ任せる」
あまりにもあっさり言われたせいか、アルベルトは一瞬だけ黙った。
「……随分、簡単に言うんだな」
「だって私の夫でしょう?」
ヴァレンティナは何でもないことのように答えた。
「私ができないことくらい、あなたがやってよ」
食堂が妙に静かになった。
ヴァレンティナは気づかなかったが、少し離れたところでエレノアとセドリックが一瞬だけ視線を交わした。
ミレイユだけは手帳に何かを書いている。
アルベルトはヴァレンティナを数秒見たあと、わずかに視線を逸らした。
「……分かった」
「何で今ちょっと間があったの?」
「ない」
「あったわよ」
「ない」
「絶対あった」
「話を戻すぞ」
強引に戻された。
「まず必要なのは、噂を一つずつ否定して回ることではない」
「でも、六リルのドレスの件は訂正したい」
「しなくていい」
「なんでよ!」
「君が百リルのドレスも買えることを証明するために、百リル使うのか?」
「……それは嫌ね」
「だろう」
そこは一秒で納得した。
「なら、どうするの?」
「ローゼンベルク家が正常に動いていることを、正常に見せる」
「だから、それをどうやって?」
「春までにいくつか機会がある。王宮の行事もあるし、我が家が毎年行っている寄付もある。三月には先代の頃から付き合いのある家を招く予定もある」
「またお客様?」
「嫌そうな顔をするな」
「お客様ってお金かかるもの」
「そういう顔をするから噂されるんだ」
「だって本当でしょう!」
「必要な金まで削るなと言っていたのは誰だ」
自分だった。
ヴァレンティナは口を閉じた。
「社交に使う金も?」
「必要経費になることがある」
「……何リル?」
「まずそこから離れろ」
「無理よ」
アルベルトは額を押さえた。
「先が思いやられるな」
「でも、無駄遣いはしないからね」
「それでいい。ただし、安く見せるな」
その言葉に、ヴァレンティナは少し考え込んだ。
安く買うことと、安く見えること。
これまで彼女にとって、その二つはあまり違わなかった。
六リルのドレスでも、手を入れて美しく見えるなら問題ない。
四リルのワインでも、普段の食事に合っていて美味しければ十分だ。
古い家具でも、まだ使えるなら使えばいい。
けれど侯爵家というものは、それだけでは動かないらしい。
「……面倒くさいわね、貴族って」
「今さらか」
「あなたたち、もっと分かりやすく生きられないの?」
「商人に言われたくない」
「商売は分かりやすいわよ。買う、売る、利益が出る」
「その結果、最初の商人に足元を見られかけただろう」
「……それを言うのはずるい」
「事実だ」
言い返せなかった。
そこへセドリックが静かに一礼した。
「旦那様、グラント商会の件ですが」
「ああ」
「本日午後、先方の主人が王都におります。お会いになりますか?」
「会おう」
アルベルトは迷わなかった。
ヴァレンティナも立ち上がりかけた。
「私も――」
「来なくていい」
「なんでよ!」
「今説明しただろう」
「でも四十八リルよ!」
「君は家にいろ」
「嫌よ!」
「ヴァレンティナ」
「何よ」
アルベルトは少し考えてから、言い方を変えた。
「任せると言ったのは君だろう」
ヴァレンティナの口が止まった。
それを言われると弱い。
「……言ったけど」
「なら、今日は俺に任せろ」
「ちゃんと値切ってね」
「信用を回復する話をしに行くんだぞ」
「だからって高く買う必要ないでしょう?」
「分かった」
「本当に?」
「分かったから座れ」
ヴァレンティナは渋々座った。
セドリックの口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
その日の午後、アルベルトはセドリックを連れてグラント商会へ向かった。
ヴァレンティナは留守番を命じられたものの、本当に何もしない性格ではない。
まず過去五年分の取引記録を引っ張り出し、グラント商会への支払いが遅れたことがないか確認した。
一度もなかった。
次に、現在の現金残高と春までの予定支出を確認した。
前金を払う余裕はある。
それでも払わない。
理由は金ではなく信用だからだ。
数字だけを見ていた頃のヴァレンティナなら、四十八リルを払って工事を進めればいいと言ったかもしれない。
今は少しだけ違った。
「数字に出ないものって、本当に面倒ね」
帳簿を閉じながら呟くと、向かい側で書類を整理していたミレイユが顔を上げた。
「信用のことでございますか?」
「そう。あるのかないのか見えないし、いくらなのかも分からないし、減っても帳簿に書いてないじゃない」
「ですが、なくなれば前金四十八リルになります」
ヴァレンティナは動きを止めた。
「……そう考えると、値段があるわね」
「ある意味では」
「嫌な値段ね」
「信用とは、そのようなものかもしれません」
ミレイユは淡々と言った。
夕方、アルベルトとセドリックが戻ってきた。
ヴァレンティナは玄関広間まで迎えに出た。
「どうだった!?」
外套を脱ぐ暇も与えずに聞くと、アルベルトは眉を寄せた。
「近い」
「どうだったの?」
「前金はなしになった」
「本当!?」
「ああ」
「何したの?」
「話をしただけだ」
「どんな?」
「過去の支払い記録と、今回の修繕計画、それから今後の取引について説明した」
「帳簿見せたの?」
「見せていない」
「じゃあ、どうやって信用させたの?」
アルベルトは外套をセドリックへ渡しながら、少しだけ考えた。
「ローゼンベルク家が、これからもローゼンベルク家であることを話した」
「……全然分からない」
「だろうな」
「何その勝ち誇った顔!」
「勝ち誇ってはいない」
「ちょっとしてる!」
アルベルトは答えず、そのまま廊下を歩き始めた。
ヴァレンティナはすぐ横へ並んだ。
「でも、じゃあ解決したの?」
「グラント商会についてはな」
「ほかは?」
「これからだ」
「……やっぱり?」
「ああ」
アルベルトは足を止めた。
「一つの商会に説明して終わる話ではない。むしろ、個別に説明しなければならない状態になっていること自体が問題だ」
ヴァレンティナも止まった。
「じゃあ、ローゼンベルク家全体の信用を戻さないといけないってこと?」
「そうなる」
「どれくらいかかる?」
「分からん」
「いくらかかる?」
「それも分からん」
「数字が何もないじゃない!」
「だから君には向いていないと言っている」
「言ってないわよ!」
アルベルトが小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、ヴァレンティナには見えた。
「今笑ったでしょう」
「笑っていない」
「笑った!」
「気のせいだ」
「絶対笑った!」
五か月前なら、そのやり取りの最中にも天井から水が落ちてきたかもしれない。
今はもう、屋根は漏れない。
領地の赤字も、ひとまず止まった。
使用人たちの働き方も改善され、少しずつではあるが、新しい収入まで生まれている。
それでも侯爵家には、まだ直さなければならないものが残っていた。
今度の穴は、屋根にも壁にも開いていない。
帳簿を何ページめくっても見つからない。
けれど確かに存在していて、放っておけば取引の条件を変え、商人を警戒させ、いずれはローゼンベルクという名前そのものの価値を削っていく。
ヴァレンティナはその夜、新しい帳面を一冊取り出した。
表紙に何を書くべきか少し迷った末、大きな字で二文字だけ記す。
『信用』
その下に、最初の一行を書き加えた。
《現在、いくらあるのか不明》
しばらく眺めてから、さらに一行。
《減った理由は、たぶん私たちが正しいと思ってやったこと》
「……ものすごく厄介じゃない」
屋根なら、穴を塞げばよかった。
赤字なら、収入と支出を見直せばよかった。
しかし信用というものは、どこを直せば元に戻るのかさえ、まだ分からない。
こうしてローゼンベルク侯爵家は、黒字になった途端、今度は信用を立て直すことになった。




