第2話 侯爵家、ワイン代が高すぎます
第2話 侯爵家、ワイン代が高すぎます
翌朝、ローゼンベルク侯爵邸の書斎でヴァレンティナを待ち受けていたのは、朝食でも紅茶でもなく、机の上へ積み上げられた六冊の分厚い帳簿だった。
革張りの表紙はどれも使い込まれており、背表紙には金文字で年度と用途が記されている。長年きちんと保管されてきたことだけは分かるのだが、六冊すべてを読み終える頃には一日が終わりそうな厚みだった。
「……これ、全部?」
「直近三年分でございます」
執事長のセドリックが、昨日と同じ穏やかな口調で答えた。
朝の光が大きな窓から差し込み、焦げ茶色の髪を低く束ねた彼の横顔を照らしている。本人は涼しい顔をしているが、ヴァレンティナには机の上の帳簿が、小さな城壁のように見えた。
「三年で六冊?」
「はい」
「一冊にまとめられないの?」
「用途が異なりますので」
セドリックは慣れた手つきで帳簿を一冊ずつ示した。
食費、使用人給与、被服費、屋敷維持費、交際費、そして領地関係費と、それぞれ用途ごとに分けられているらしい。
分類そのものは悪くない。
むしろ何に金を使ったのか分からない帳簿より、ずっとましである。
問題は、その中身だった。
ヴァレンティナは何冊かを開いて見比べたあと、早くも眉間へ皺を寄せた。
「なんで書き方が全部違うの?」
「代々、この形式でございます」
「食費は月ごとなのに、交際費は行事ごと。屋敷維持費は業者ごとで、被服費は人ごとにまとめてあるわよ」
「はい」
「しかも、こっちは年の途中で書き方が変わってる」
「当時の家令が交代しておりますので」
「誰がこんなこと考えたのよ」
「代々の家令かと」
ヴァレンティナは帳簿を閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
「その代々の家令を全員ここに並べて説教したいわ」
「半数以上は故人でございます」
「残念ね」
セドリックの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
ヴァレンティナは大きく息を吐いてから、改めて最初の帳簿を開いた。
昨夜の雨は明け方には止んでいた。
寝室では結局、最初の一つだけでは足りず、三つの桶が朝まで働くことになった。夜半を過ぎても天井から落ち続ける水滴に対して、夫は「よくあることだ」と言い残し、本当にそのまま眠ってしまった。
ヴァレンティナはほとんど眠れなかった。
けれど、彼女を眠らせなかったのは水滴の音だけではない。
十二リル。
昨夜の晩餐で飲んだワイン一本の値段が、頭から離れなかったのである。
寝室の屋根を修理する金がない家で、夕食には毎晩十二リルのワインを開けている。
高いワインを飲むこと自体が悪いとは思わない。
払える家が、払える範囲で楽しむなら好きにすればいい。
しかし、雨漏りする寝室に桶を三つ並べながら飲む酒が一本十二リルというのは、どう考えても優先順位がおかしい。
「奥様」
向かい側に立っていたメイド長エレノアが口を開いた。
今日も濃茶色の髪には一本の乱れもなく、黒いドレスの襟元まで完璧に整っている。昨夜、深夜に桶を抱えて寝室へ現れた人間とは思えない姿だった。
「旦那様がお戻りになるまで、お待ちになられてはいかがでしょうか」
「どうして?」
「旦那様は午前中、近郊の農地と管理地の確認へ出ておられます。家計についてお話しになるのでしたら、ご同席いただいた方がよろしいかと存じます」
「今は見るだけよ。勝手に何か買ったり売ったりしないわ」
「ですが、これまで帳簿の管理は旦那様と執事長が――」
「エレノア」
セドリックが静かに言葉を挟んだ。
声を荒らげたわけではない。
それでもエレノアは言葉を止め、隣に立つ彼を見る。
「奥様はこの家の女主人だ。家の帳簿をご覧になることに問題はない」
「分かっています」
「ならいい」
「……分かっています」
エレノアは同じ言葉を二度繰り返すと、それ以上は何も言わなかった。
ヴァレンティナは二人を交互に見た。
昨夜から何となく感じていたが、エレノアは単純に自分を嫌っているだけでもなさそうだった。
この家には長く続いてきたやり方があり、それを突然現れた人間に触られること自体が気に入らないのだろう。
まあいい、とヴァレンティナは考え直した。
屋根以外にも、この家には調べれば色々と出てきそうである。
けれど、今は人間関係より金だった。
「まずは食費ね」
帳簿の頁をめくっていくと、肉、魚、野菜、小麦粉、バター、卵、砂糖、茶葉、香辛料と、毎月購入した食材が細かく記録されている。
人数を考えれば不自然な量ではない。
値段も、一部の輸入品を除けば驚くほどではなかった。
そのまま指で項目を追っていたヴァレンティナの手が、ある名前のところで止まった。
「……セドリック」
「はい」
「この『シャトー・ド・ヴァリエール』って、昨日飲んだワイン?」
「左様でございます」
「月に二十四本?」
「はい」
「一本十二リルが二十四本だから、一か月で二百八十八リル」
「その通りでございます」
ヴァレンティナは顔を上げた。
「一年だと?」
今度はセドリックが、ほんの一瞬だけ答えるのをためらった。
その間で、ヴァレンティナにはだいたい察しがついた。
「三千四百五十六リルでございます」
「屋根直せるじゃない!」
ヴァレンティナの声が書斎いっぱいに響いた。
窓辺にいた小鳥まで驚いて飛び去り、エレノアがすぐさま眉をひそめる。
「奥様、お声を少々――」
「だって、屋根は二千リルくらいでしょう!?」
「前回の見積もりでは、屋根全体の修繕に二千百八十リルほど必要とのことでございました」
「もっと悪いわよ!」
一年分のワイン代だけで屋根を全面修理して、それでも千リル以上残る計算になる。
昨夜、三つの桶を寝室へ並べていた光景が、ヴァレンティナの頭に蘇った。
「今日からやめましょう」
「それは困ります」
エレノアが即座に答えた。
「なんでよ」
「ローゼンベルク家の食卓からワインをなくすわけにはまいりません」
「誰もなくすなんて言ってないわよ。もっと安いものに変えるの」
「ですが、シャトー・ド・ヴァリエールは先々代侯爵の頃より長くお付き合いがあり、晩餐でお出しすることが――」
「また先々代?」
「伝統でございます」
「伝統で屋根は直らないわ」
エレノアの表情が明らかに硬くなった。
彼女にとっては、ローゼンベルク家が長年守ってきたものを金額だけで切り捨てられたように聞こえたのだろう。
ヴァレンティナにも、それくらいは分かった。
だからといって、雨漏りする家で高級酒を飲み続けることまで正当化されるとは思えない。
どちらも引く様子がなく、書斎の空気が少しずつ張りつめ始めたところで、扉が開いた。
「朝から随分楽しそうだな」
聞き慣れた低い声とともに、アルベルトが入ってきた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
エレノアは先ほどまでの険しい表情をすぐに整え、深く一礼した。
「ああ。予定より早く終わった」
アルベルトは手袋を外しながら机へ近づき、積み上げられた帳簿と、その中央に陣取っているヴァレンティナを見た。
「本当に帳簿を見ていたのか」
「見るって言ったでしょう?」
「昨夜の勢いで言っただけかと思っていた」
「私はお金の話で冗談言わないわよ。ちょうどいいから座って」
「俺の書斎なんだが」
「知ってるわよ」
アルベルトはセドリックへ視線を向けた。
助けを求めたのかもしれないが、セドリックは静かに目を伏せた。
長年仕える主人であっても、この場で救助する気はないらしい。
アルベルトは小さく息を吐き、諦めたようにヴァレンティナの向かいへ腰を下ろした。
「それで?」
「ワイン」
「ワイン?」
「年間三千四百五十六リル」
「ああ」
「ああ、じゃないのよ」
「何が問題だ?」
「屋根の全面修理が二千百八十リル」
「ああ」
ヴァレンティナはしばらくアルベルトの顔を見た。
冗談を言っている様子はない。
「……ねえ、あなた、計算できる?」
エレノアが息を呑み、セドリックは口元へ手を当てて咳払いした。
アルベルトの眉がわずかに動く。
「一応、王立学院は卒業している」
「じゃあ分かるでしょう。一年分のワイン代より、屋根を直す方が安いのよ」
「だから?」
「普段のワインを安いものに変えます」
「駄目だ」
今度はアルベルトが即答した。
ヴァレンティナは、てっきりエレノアと同じように「先祖代々そうしているから」と言われるのだと思った。
ところがアルベルトは少し考えるように腕を組み、机の上の帳簿へ視線を落とした。
「シャトー・ド・ヴァリエールは、北部を代表するワインだ」
「知ってる。昨日聞いた」
「王室の晩餐にも使われている」
「それも聞いたわ」
「ローゼンベルク家は三代前からヴァリエール家と付き合いがある。公式な晩餐であの家のワインを出すこと自体に意味があるんだ」
「公式な晩餐ならね」
アルベルトが黙った。
ヴァレンティナは待ってましたとばかりに帳簿を指先で叩く。
「あなた、昨日は私と二人で鶏肉を食べながら飲んでたじゃない」
「…………」
「王様いた?」
「いない」
「外国の大使は?」
「いない」
「公爵は?」
「いない」
「じゃあ、いたのは?」
アルベルトは嫌そうな顔をした。
「……俺と君だ」
「でしょう?」
ヴァレンティナは満足して身を乗り出した。
「お客様が来たときに良いワインを出すことまで反対してないわ。うちだって大事な商談相手が来れば、父は普段より良い酒と料理を用意してたもの。それは相手を歓迎していますって伝えるために必要でしょう?」
「ああ」
「だったら、なんで普段の夕食まで同じものなの?」
「それが我が家の習慣だからだ」
「その習慣のせいで、寝室に桶が三つ並んでるのよ!」
アルベルトは答えなかった。
昨日までなら、食卓にシャトー・ド・ヴァリエールがあることも、雨が降れば寝室に桶を置くことも、彼にとってはそれぞれ別の話だったのかもしれない。
けれど、年間三千四百五十六リルと二千百八十リルという数字を並べられてしまえば、さすがに何も感じないわけにはいかないらしい。
「……だが」
しばらくして、アルベルトが口を開いた。
「安ければ何でもいいという話ではない」
「もちろん」
ヴァレンティナがあまりにもあっさり答えたので、今度はアルベルトが少し意外そうな顔をした。
「私、安いワインにしろとは言ったけど、不味いワインを飲めとは言ってないわよ」
「同じことではないのか?」
「全然違うわよ」
ヴァレンティナは帳簿を閉じた。
「値段が安くても、美味しくて普段の料理に合うなら、それでいいでしょう?」
「……簡単に言うな」
「そんなに難しい?」
「ワインを何だと思っている」
「葡萄のお酒」
アルベルトは目を閉じ、眉間を指で押さえた。
本当に頭痛でもしたような顔だった。
「ヴァレンティナ」
「何?」
「ワインは、ただ葡萄を発酵させれば全部同じ味になるものではない」
「それくらい知ってるわよ」
「産地によって土壌が違えば、同じ品種でも味が変わる。気候も違うし、収穫年でも出来は変わる。使う樽によって香りも変わるし、どんな料理と合わせるかでも印象が違う」
話しているうちに、アルベルトの口調が少しずつ変わっていった。
普段は必要なことしか話さない男なのに、ワインについては説明が次々と出てくる。
ヴァレンティナは意外に思いながら彼の顔を眺めた。
「へえ。あなた、ワイン詳しいのね」
「侯爵家の人間なら、この程度は当然だ」
「なんで?」
「社交に必要だからだ」
アルベルトは、少し言葉を選んでから続けた。
「晩餐で出されたワインの産地すら分からなければ、相手がどういう意図でその酒を用意したのか読み違えることがある。珍しい銘柄を出されたなら、それ自体が歓待の意思になるし、客の故郷に近い土地のワインを用意することもある。逆にこちらが客を迎えるときも、何を出すかで相手への扱いを示せる」
「なるほど……」
ヴァレンティナは頬杖をつき、今度は少し真面目に考えた。
酒そのものには詳しくないが、言っていることは理解できる。
父も大きな商談の前には、相手がどこの出身で何を好むかまで調べていた。食事も酒も、ただ腹を満たすためだけに用意していたわけではない。
名門貴族の社交では、それがさらに複雑なのだろう。
そう考えると、シャトー・ド・ヴァリエールをすべてやめてしまうのは確かに得策ではない。
しかし、だからといって毎晩十二リル払う必要もない。
「じゃあ、あなたなら美味しいワインを選べるの?」
「ある程度はな」
「値段を見ないで?」
「当然だ」
ヴァレンティナの目が輝いた。
「じゃあ決まり」
「何がだ?」
ヴァレンティナは立ち上がると、机の端へ置かれていた便箋を引き寄せた。
「セドリック、これ使っていい?」
「もちろんでございます」
「ありがとう」
ペンへインクを含ませ、迷うことなく手紙を書き始める。
宛先はベルモンド家ではなく、父の商会で酒類を扱っている支店の責任者だった。
「何をしている?」
「一本五リル以下の赤ワインを、産地を変えて十本送ってもらうの」
「十本?」
「あなたが選ぶのよ」
「俺が?」
「銘柄も値段も隠して飲むの。あなたが美味しいと思ったものを普段用にすればいいでしょう?」
アルベルトは怪訝そうにヴァレンティナを見る。
「何の意味がある?」
「値段を先に見たら、高い方が美味しいって思うかもしれないじゃない」
「俺を何だと思っている」
「名門侯爵」
「それは合っている」
「だから試すのよ。あなたが値段を知らない状態で選んだワインなら、私も文句ないもの」
ヴァレンティナは書き終えた手紙を軽く振ってインクを乾かした。
「大事なお客様には、今まで通りヴァリエールを出す。そうすればローゼンベルク家の付き合いも格式も守れるでしょう?」
「まあ、そうだな」
「普段の夕食だけ安くする。仮に一本四リルになれば、月二十四本で九十六リル。今は二百八十八リルだから、毎月百九十二リル浮くわ」
アルベルトは少し考えただけで答えた。
「年間二千三百四リル」
ヴァレンティナはにっこり笑った。
「計算できるじゃない」
「君な」
「屋根、直せるわね」
アルベルトは思わず天井を見上げた。
ここは一階の書斎なので、昨夜のように水が落ちてくることはない。
それでも三つの桶が並んだ寝室を思い出したのか、先ほどまでより抵抗する勢いが弱くなった。
「……味が許容できるものがあれば、だ」
「決まりね」
「まだ決めてはいない」
「今決めたじゃない」
「条件を提示しただけだ」
「条件を満たしたら変えるんでしょう?」
「そういうことになる」
「じゃあ決まりよ」
「違う」
ヴァレンティナは満足そうに笑い、アルベルトは諦めたように息を吐いた。
その横でセドリックの口元がほんの少し緩んでいる。
エレノアだけはまだ納得していないようだったが、少なくとも「安いから」という理由だけで伝統を捨てるつもりではないことは伝わったらしい。
先ほどまでほど険しい顔ではなかった。
◇
数日後、ベルモンド家の商会から十本の赤ワインが届いた。
値段も産地も異なるが、すべて一本五リル以下という条件を満たしたものである。
夕食後、食堂の一角には中身が分からないよう番号だけを付けたグラスが並べられた。
「本当にやるのか」
「送ってもらったんだから当然でしょう?」
「十種類もあるぞ」
「全部飲み干せなんて言ってないわよ」
ヴァレンティナは呆れた。
「味を見るだけ。酔っぱらって選んだら意味ないでしょう」
「そこは分かっている」
アルベルトは一番目のグラスを手に取り、色を確かめてから香りを嗅ぎ、少量だけ口に含んだ。
ヴァレンティナはその様子を向かい側から眺めていた。
いつもの無愛想な夫が、驚くほど真剣な顔をしている。
隣にはセドリックも控えていたが、エレノアまで少し離れた場所から結果を気にしているらしく、仕事をしながら時折こちらへ視線を送っていた。
三番目でアルベルトの眉が少し動き、五番目ではすぐに首を横へ振った。
七番目を口にしたとき、グラスを置くまでの時間が少し長くなった。
「これだな」
「七番?」
「ああ。香りはヴァリエールほど複雑ではないが、普段の食事なら十分だ。肉にも合わせやすい」
「美味しい?」
「悪くない」
「あなたの『悪くない』は?」
「かなり良い」
「最初からそう言いなさいよ」
ヴァレンティナはセドリックを見る。
「七番はいくら?」
セドリックが預かっていた一覧表を確認した。
「一本四リル二十セルでございます」
ヴァレンティナは満面の笑みを浮かべた。
アルベルトは無言で七番のグラスを見る。
「十二リルから四リル二十セル」
「聞こえている」
「一本で七リル八十セル浮く」
「分かった」
「月二十四本なら――」
「計算しなくていい」
「するわよ」
「しなくていい」
セドリックが静かに口を挟んだ。
「年間では、およそ二千二百四十六リルほどの削減になります」
「セドリック」
「はい」
「なぜ言う」
「執事ですので」
ヴァレンティナは笑いを堪えられなかった。
結局、普段の夕食には七番のワインを使い、正式な晩餐や重要な来客の際には従来通りシャトー・ド・ヴァリエールを出すことになった。
アルベルトが守りたかったものは残り、ヴァレンティナが問題にしていた無駄な支出は大きく減る。
どちらか一方が完全に折れる必要はなかったのである。
◇
その日の午後、ヴァレンティナは再び書斎で帳簿を開いていた。
ワインだけで終わるつもりはなかった。
一つ見つかったということは、ほかにも似たようなものがある可能性が高い。
「ねえ、セドリック」
「はい」
「この茶葉、一缶十八リルって何?」
「東方より輸入しております最高級品でございます」
「来客用?」
「普段からお出ししております」
ヴァレンティナはゆっくり顔を上げた。
「……アルベルトは?」
「旦那様でしたら、午後は別室で執務をなさっております」
「呼んで」
「奥様」
今度はエレノアが低い声で口を挟んだ。
「何?」
「その茶葉も、先々代侯爵夫人の頃より長く取り寄せている品でございまして――」
「エレノア」
「はい」
「あなた、しばらく『先々代』って言うの禁止」
エレノアの眉間に、これまでで最も深い皺が刻まれた。
「奥様、それはあまりにも――」
「だって、この家で高いもの調べるたびに先々代が出てくるんだもの!」
「先々代侯爵ご夫妻の時代には、それだけの家計規模がございましたので」
そこでヴァレンティナの表情が少し変わった。
「……それよ」
「何がでございますか?」
「昔は払えたのね」
「はい」
ヴァレンティナは帳簿へ視線を戻した。
先々代の時代には、庭師を六人雇い、日常的に高級ワインを飲み、輸入茶葉を使っても家計が成り立っていた。
ところが収入が減り、使用人を減らし、家具や建物の修繕を先延ばしするようになっても、昔から続いている購入品や習慣の一部だけは、そのまま残っている。
だから妙なことになる。
庭師は一人しかいないのに、茶葉は最高級。
絨毯は擦り切れているのに、ワインは王室御用達。
屋根から雨が漏れているのに、昔と同じ品を同じように買い続けている。
ヴァレンティナはようやく、この家が抱えている問題の形を少しだけ理解した。
「ローゼンベルク家って、ただ貧乏になったんじゃないのね」
セドリックが静かに彼女を見る。
「と、申しますと?」
「収入が減ったのに、お金の使い方が昔のままなのよ」
ヴァレンティナは帳簿の頁をめくりながら、茶葉、砂糖、香辛料、蝋燭、石鹸、薪といった項目を順番に追っていった。
もちろん、値段だけを見て何でも安物へ変えればいいわけではない。
アルベルトのワインの話を聞いたばかりなのだから、それくらいは理解している。
この家には、長い付き合いや格式を守るために必要な金もある。
けれど、昔から使っているという理由だけで、今の家計に合わない支出まで続ける必要はない。
「一つずつ調べましょう」
「すべて、でございますか?」
「全部いっぺんには無理よ。でも、何にいくら払って、どうしてそれを買ってるのかは知りたい」
ヴァレンティナは新しい紙を一枚取り出し、帳簿を見ながら確認したい項目を書き始めた。
最初にワイン。
その下に茶葉。
さらに蝋燭、石鹸、薪と続けていく。
書き終える頃には、紙の半分近くが埋まっていた。
それを見たセドリックが、珍しく少し困ったような顔をした。
「かなりございますね」
「私も今そう思ったところよ」
ヴァレンティナは椅子の背へ身体を預け、積み上がった帳簿を眺めた。
ローゼンベルク侯爵家には金がない。
それは間違いない。
けれど、この家を苦しめているのは、単純な貧しさだけではなかった。
かつて豊かだった頃の習慣を捨てきれないまま収入だけが減り、必要な修繕や人手を後回しにしている。
金がないのに、高いものを買っているのではない。
高いものを買うことが当たり前だった時代から、家計の仕組みそのものを変えられていないのだ。
ヴァレンティナは確認項目の一番上に、大きく線を引いた。
まずは、毎晩十二リルのワインから。
侯爵家の屋根が直る日はまだ少し先だが、少なくともそのための金がどこから消えていたのか、一つだけ見つけることはできた。




