第19話 侯爵家、注文が多すぎます
第19話 侯爵家、注文が多すぎます
「五十瓶欲しいって」
ヴァレンティナの言葉が、朝の食堂に落ちた。
開いた手紙を両手で持ったまま、もう一度そこに書かれた数字を確認する。
見間違いではない。
十瓶を三日で売り切ったエドワード・クラインの店から、追加で五十瓶を仕入れたいという連絡が届いている。
「作れるのか?」
向かいに座るアルベルトに尋ねられ、ヴァレンティナの笑顔が固まった。
「……ちょっと待って」
「売ることしか考えていなかったんだろう」
「だって最初は十瓶だったのよ!」
「五倍になったな」
「計算しなくていい!」
ヴァレンティナは朝食そっちのけで、手元にあった紙へ数字を書き始めた。
果物はある。
領地では、これまで生果として売れなかった林檎や洋梨が毎年かなりの量出ている。
しかし、商品を作るのに必要なのは果物だけではない。
「瓶が五十個」
「そうだな」
「砂糖もいる」
「そうだな」
「煮る人もいる」
「そうだな」
「鍋もいる」
「そうだな」
「アルベルト」
「何だ」
「何か考えて」
「君が考えているから邪魔しないようにしている」
「こういうときだけ気遣わないで!」
食堂の端に控えていたセドリックが、静かに紅茶を注いだ。
「まず、現在の生産能力を確認されてはいかがでしょう」
ヴァレンティナの手が止まった。
「生産能力?」
「一日に何瓶作れるのか分からないままでは、五十瓶が多いのか少ないのかも判断できませんので」
「……それよ」
「普通のことを言っただけですが」
「今の私には必要だったの!」
セドリックは穏やかに一礼した。
「お役に立てて何よりです」
アルベルトが紅茶を飲みながら言った。
「まず朝食を食べたらどうだ」
「時間がもったいない」
「昨日、エレノアに何を言われた?」
「…………」
「聞こうか?」
「食べます」
侯爵夫人は素直にパンを取った。
◇
朝食後、ヴァレンティナはさっそく領地へ送る手紙を書き始めた。
聞きたいことは山ほどある。
現在残っている加工可能な果物の量。
一日に選別できる量。
ダニエルの厨房で無理なく作れる瓶数。
加工に回せる人員。
必要な薪。
砂糖と蜂蜜の在庫。
瓶を追加で調達した場合の価格。
書いているうちに、紙の半分が質問で埋まった。
「多いわね」
ヴァレンティナが呟く。
「何がですか?」
書斎へ入ってきたミレイユが尋ねた。
「ジャム一つ作るのに必要なもの」
「料理とはそういうものでは?」
「家で食べる分なら、こんなこと考えないでしょう」
「商品ですので」
「分かってるけど!」
ミレイユは机の上の手紙へ目を落とした。
「五十瓶のご注文ですか」
「そうなの。十瓶売ったら五十瓶になった」
「おめでとうございます」
「ありがとう。でも困ってる」
「売れなくても困り、売れても困るのですね」
「商売って面倒くさいわね」
「お父上に申し上げれば、喜ばれるのでは?」
「絶対『今頃分かったか』って言われるから嫌」
「では申し上げない方がよろしいかと」
「そうする」
◇
領地から返事が届くまでには時間がかかる。
その間にできることとして、ヴァレンティナは瓶の仕入れ先を調べることにした。
試作品で使った瓶は少量購入だったため、単価が高かった。
同じものを五十個注文すれば多少は安くなる。
百個ならさらに安い。
二百個なら、もっと安い。
「二百個」
見積書を見ながら、ヴァレンティナが呟いた。
「買うのか?」
横からアルベルトが覗き込む。
「買わない」
「即答だな」
「だって今の注文、五十瓶でしょう?」
「単価は一番安いぞ」
「百五十個余るじゃない」
「次も売れるかもしれない」
「売れないかもしれない」
ヴァレンティナは見積書を机へ置いた。
「安く買うために、いらないものまで買ったら意味ないでしょう」
「君らしいな」
「褒めてる?」
「今回は」
「今回はって何よ」
結局、最初の追加注文に使う瓶は六十個だけ購入することにした。
五十ではない。
輸送中に割れる可能性や、製造中の破損を考えた予備である。
「十個も余分にいる?」
「足りなくなって追加で十個だけ買う方が高いもの」
「なるほど」
「でも百個はいらない」
「細かいな」
「お金は細かく見ないと消えるの!」
◇
数日後、領地から返事が届いた。
ヘンリーがまとめた報告書には、ダニエルや果樹園の人々から聞き取った内容も記されていた。
ヴァレンティナはアルベルト、セドリック、エレノア、ミレイユを集めて報告書を広げた。
「加工できる果物は足りる」
「それは問題なさそうですね」
セドリックが言う。
「砂糖も五十瓶程度なら調達できる。瓶もこっちで買って送ればいい」
「では、作れるのでは?」
エレノアが尋ねた。
「そこなのよ」
ヴァレンティナは報告書の一箇所を指した。
「ダニエルの厨房で、普段の料理をしながら作れるのは一日八瓶くらい」
「八」
「頑張れば十二。でも、それを続けると厨房の通常業務に影響が出るって」
エレノアの眉がわずかに動いた。
「それはいけません」
「でしょう?」
「領地館の厨房は、商品製造のためにあるわけではございません」
「私もそう思う」
ヴァレンティナは椅子へ深く座った。
「五十瓶なら、一日八瓶として七日くらい」
「作れない数ではないな」
アルベルトが言う。
「今回だけならね」
「今回だけ?」
「五十瓶が売れたら、次は?」
部屋が静かになった。
「百瓶って言われるかもしれないでしょう」
「あり得ますね」
セドリックが頷く。
「その次は二百かもしれない」
「随分気が早いな」
「そうじゃないの。そこまで増えたときに、今と同じやり方じゃ絶対無理でしょう?」
ヴァレンティナは報告書を指で叩いた。
「今はダニエルが通常の料理の合間に作ってる。でも、注文が増えるたびにダニエルの仕事を増やしてたら、いつか倒れるわ」
エレノアがわずかに視線を逸らした。
ヴァレンティナは見逃さなかった。
「今、エレノアを見たでしょう」
「見ていません」
「見たわよ」
「見ておりません」
「とにかく、同じことはしない!」
人が足りないなら、残った人間に仕事を押しつければいい。
ローゼンベルク侯爵家は、それを長い間続けた結果、エレノアを倒した。
新しい商売を始めるために同じ失敗を繰り返すのでは、何も学んでいないことになる。
「商品を作るなら、そのための仕事として考えないと駄目ね」
「専任の者を雇われますか?」
ミレイユが尋ねる。
「まだ早い」
「注文がございますが」
「五十瓶だけでしょう?」
ヴァレンティナは首を横に振った。
「一回売れただけで人を雇って、次の注文が来なかったらどうするの?」
「確かに」
「だから今回は、無理なく作れる数だけにする」
アルベルトが眉を上げた。
「五十瓶を断るのか?」
「全部は受けない」
◇
翌日、ヴァレンティナはエドワードの店を訪れた。
「三十瓶?」
提示された数量を聞き、エドワードが確認する。
「そう。今回は三十瓶」
「こちらとしては五十をお願いしたいのですが」
「分かってる」
「材料が足りないので?」
「材料はあるわ」
「では、なぜ?」
「作れないから」
エドワードが少し意外そうな顔をした。
「五十瓶程度なら、時間をかければ可能なのでは?」
「可能よ」
「でしたら」
「でも、普段の仕事に影響が出る」
ヴァレンティナは持参した資料を開いた。
「今は領地館の厨房を借りて作ってるの。一日八瓶くらいなら問題ない。でも、それ以上になると料理人の仕事を圧迫する」
「では日数を延ばしていただければ」
「今回はそれでもいい。でも、五十瓶が売れたら次はもっと注文するでしょう?」
エドワードは答えなかった。
「百瓶注文されたときに考え始めるんじゃ遅いのよ」
「売れると決まったわけではありません」
「そう。だから今から大きな設備も作らないし、人も雇わない」
ヴァレンティナは三十という数字を指した。
「まず三十瓶。これを無理なく作って売る。それも売れたら、次の生産方法を考える」
「売れるのに、作らないのですか?」
「作れないものを売る方が駄目でしょう」
エドワードはしばらくヴァレンティナを見た。
やがて、小さく笑う。
「ベルモンド男爵のお嬢様とは思えませんな」
「どういう意味?」
「男爵なら五十どころか百作ると言いそうです」
「言うわね」
ヴァレンティナは即答した。
「絶対言う」
「では奥様は違う?」
「お父様は売ってから考えるの」
「それはそれで商人として強いですが」
「私は嫌よ。売ったあとに『作れませんでした』なんて言いたくないもの」
「信用に関わりますからな」
「そういうこと」
エドワードは少し考え、頷いた。
「分かりました。今回は三十瓶で」
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「三十瓶も同じ速さで売れた場合、次は生産量を増やす相談をさせていただきます」
「それはもちろん」
ヴァレンティナは笑った。
「そのときは、ちゃんと増やす方法を考えるわ」
◇
領地へは、三十瓶分の正式な注文とともに、新しい指示書を送った。
林檎と洋梨の割合。
果物の選別基準。
基本となる砂糖の量。
瓶を煮沸して清潔にすること。
完成した日付を記録すること。
味見した結果を残すこと。
そして最後に、大きく一行。
《通常の厨房業務を圧迫しないこと》
その下に、
《無理なら数を減らすこと》
とも書いた。
「ずいぶん慎重ですね」
セドリックが手紙を確認しながら言う。
「食べ物だから」
「それだけですか?」
「人もよ」
ヴァレンティナは答えた。
「商品を売るたびに誰かが無理する仕組みなら、続かないでしょう」
「仰る通りかと」
「それに、急いで増やして味が変わったら嫌だもの」
「品質ですね」
「最初に買った人が美味しいと思って、次に買ったら全然違ったら、もう買ってくれないでしょう?」
「では、レシピを固定されますか?」
「基本は固定する。でも果物の甘さが違うから、完全には同じにできない」
「以前の試作で分かったことですね」
「そう」
ヴァレンティナは試作時に作った記録を取り出した。
果物の熟し方によって、必要な砂糖の量が変わる。
そこで、果物を三段階に分け、それぞれ基本となる配合を決めた。
細かい調整は料理人に任せる。
「数字で全部決めるのではないのですね」
「だって最後に味を見るのは人間でしょう」
「なるほど」
「ダニエルの舌の方が、私の計算より信用できるところもあるわ」
セドリックが微笑んだ。
「奥様も随分、人に任せるようになられましたね」
「何よ、それ」
「以前なら、ご自分で全部なさろうとしたかと」
「……そんなことないわよ」
「左様ですか」
「何その顔」
「元からこの顔です」
「ミレイユみたいなこと言わないで!」
◇
三十瓶の商品が王都へ到着したのは、それからしばらく後だった。
輸送中に割れた瓶はなかった。
蓋にも問題はなく、味にも大きなばらつきはない。
ヴァレンティナは一本ずつ確認したあと、エドワードの店へ納品した。
今回は林檎十八瓶、洋梨十二瓶。
前回と同じ簡素な札ではなく、商品名を書いた小さなラベルも付けた。
《ローゼンベルク果実煮》
「そのままね」
アルベルトが言う。
「分かりやすいでしょう?」
「もう少し洒落た名前はなかったのか」
「考えたわよ」
「何を?」
「『ローゼンベルクの朝』」
「却下」
「だから使わなかったの!」
「正しい判断だ」
「何でそんなに嫌そうなのよ!」
エドワードが横で笑っている。
「私は悪くないと思いますが」
「ほら!」
「店主、妻を煽らないでもらえるか」
「失礼いたしました」
「二人とも失礼よ!」
◇
最初の十瓶ほど早くはなかったが、三十瓶も順調に売れていった。
一週間で十九瓶。
二週間を待たず、残りもすべて売れた。
特に洋梨は珍しさもあって評判がよく、次回も欲しいという客が何人かいたらしい。
エドワードから三度目の注文について相談したいという手紙が届いたが、今度のヴァレンティナは椅子から飛び上がらなかった。
「アルベルト」
「何だ」
「また注文」
「今度は何瓶だ?」
「八十」
「増えたな」
「増えたわね」
「どうする?」
ヴァレンティナは手紙を机へ置いた。
少し前なら、八十という数字だけで喜んでいたかもしれない。
今は、その後ろに必要なものが見える。
果物。
瓶。
砂糖。
薪。
厨房。
人。
時間。
そして、売れなくなったときに余る設備や在庫。
「領地に、小さい加工場所を作れるか調べる」
「作るのか?」
「まだ作らない。いくらかかるか調べるだけ」
「人は?」
「農閑期に働きたい人がいるか、ヘンリーに聞いてもらう。いなければ別の方法を考える」
「八十瓶は?」
「一度に全部は受けない」
「またか」
「今度は四十ずつ二回に分けられないか相談する」
「なるほど」
「それで回せるなら、次から少しずつ増やす」
アルベルトはしばらくヴァレンティナを見た。
「随分慎重になったな」
「最初から慎重よ」
「六リルのドレスを王宮へ着ていった女が?」
「それはちゃんと直したでしょう!」
「父親と一緒にベル・モードを屋敷へ呼んだ女が?」
「あれはお父様が勝手に来たの!」
「領地へ着いた翌朝から畑を歩き回った女が?」
「もういい!」
ヴァレンティナは手紙を取り上げた。
「とにかく、売れるからって何でも大きくすればいいわけじゃないの」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「ああ」
アルベルトは少し笑った。
「君が意外と臆病だということは」
「慎重って言って!」
◇
その日の夜、ヴァレンティナは久しぶりに領地の収支予測を開いた。
果物加工品の売上は、侯爵家全体から見ればまだ小さい。
これだけで赤字が消えるわけではない。
だが、これまで値段がつかなかった果物から、確かに金が生まれ始めている。
さらに東の倉庫についても、織物商との賃貸交渉がまとまりつつあった。
来春には農地の一部で別の作物を試す予定もある。
小さな数字が、少しずつ増えていた。
ヴァレンティナは紙の端へ計算を書き足す。
もし来年の小麦が平年並みなら。
もし果物加工が今の規模を維持できれば。
もし倉庫の賃貸収入が予定通り入れば。
もちろん、すべてが予定通りになる保証などない。
それでも。
「……あれ?」
ヴァレンティナは計算をやり直した。
一度。
二度。
三度。
数字は大きく変わらない。
「アルベルト」
向かいで書類を読んでいたアルベルトが顔を上げる。
「何だ」
「これ見て」
紙を渡す。
アルベルトはしばらく黙って数字を追った。
「……赤字が」
「うん」
「かなり減っているな」
「来年、普通に収穫できたら」
ヴァレンティナは指先で一番下の数字を示した。
「止まるかもしれない」
アルベルトの視線が止まった。
まだ黒字になったわけではない。
来年の天候も分からない。
加工品だって、いつまで売れるか分からない。
試験栽培に至っては、まだ種すら蒔いていない。
それでも、数か月前には毎年減っていくだけだった数字に、初めて底が見え始めていた。
「……本当に、赤字が止まるかもしれないな」
「まだ『かもしれない』よ」
「分かっている」
「来年の収穫が悪かったら変わるし、果物も売れなくなるかもしれないし」
「分かっている」
「倉庫だって――」
「ヴァレンティナ」
「何?」
「今日は少しくらい喜んでもいいんじゃないか?」
ヴァレンティナは口を閉じた。
しばらく帳簿を見つめ、それから少しだけ笑った。
「……じゃあ、少しだけ」
「ああ」
「ワイン開ける?」
「珍しいな。君から言うとは」
「四リルの方ね」
「やはり君だな」
「何よ!」
ローゼンベルク侯爵家。
雨漏りする屋根から始まった家計の立て直しは、いつの間にか領地の畑や倉庫、果樹園にまで広がっていた。
捨てていた果物は商品になり、空いていた倉庫は収入を生み始めようとしている。
まだ豊かになったわけではない。
まだ問題も山ほど残っている。
それでも、金が出ていく一方だった家に、少しずつ新しい流れが生まれていた。
そしてヴァレンティナは、この夜だけは次の問題を探すのをやめた。
少なくとも翌朝、玄関前に見覚えのある紋章をつけた馬車が停まるまでは。




