第20話 侯爵家、ようやく赤字が止まりました
第20話 侯爵家、ようやく赤字が止まりました
翌日の午後、ローゼンベルク侯爵邸の前に停まった黒い馬車を窓から見つけた瞬間、ヴァレンティナは手にしていた紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。
扉に描かれた紋章には見覚えがある。
ローゼンベルク侯爵家の紋章を簡略化した意匠で、王都でもそれを使う人物は一人しかいない。
「……アルベルト」
向かいで書類を読んでいたアルベルトが顔を上げる。
「何だ」
「叔母様が来た」
アルベルトの手が止まった。
「……叔母上?」
「この馬車、そうでしょう?」
アルベルトは窓の外を見た。
数秒の沈黙。
「叔母上だな」
「連絡あった?」
「ない」
「どうするの?」
「迎えるしかないだろう」
「もうちょっと何かないの!?」
「何を期待しているんだ」
「心構えとか!」
「諦めろ」
「あなた、叔母様にだけ弱くない?」
「弱くない」
「今、目を逸らしたでしょう」
「逸らしていない」
結婚式以来である。
もちろんヴァレンティナもクラウディア・ローゼンベルクとは面識があった。
アルベルトの父方の叔母であり、若い頃に伯爵家へ嫁いだものの、子をもうける前に夫と死別し、その後ローゼンベルク姓へ戻った女性である。
ただし、一般的な貴族の未亡人とは少々事情が違う。
クラウディアは結婚以前から医師だった。
嫁ぎ先も代々医師を輩出してきた伯爵家で、夫自身も医術に携わっていたという。夫との死別後も診療を続け、現在は王都で自らの診療所を構えている。
貴族の令嬢としては珍しい経歴だが、本人はそれを特別なことだと思っていないらしい。
そして何より、非常に厳しい。
結婚式の日、ヴァレンティナは祝福の言葉を受けたあと、立ち姿を一度直されている。
祝いの席である。
初対面である。
それでも直された。
「ヴァレンティナ」
「何?」
「姿勢」
「え?」
「叔母上だぞ」
反射的に背筋を伸ばしてしまった自分が悔しい。
「あなたも怖いんじゃない!」
「怖くはない」
「じゃあなんで私の姿勢まで気にするのよ!」
玄関から、来客を知らせるベルが鳴った。
◇
クラウディア・ローゼンベルクは、結婚式で見たときとほとんど印象が変わっていなかった。
五十歳を少し過ぎたくらいだろうか。背が高く、細身で、姿勢が恐ろしくいい。黒に近い濃褐色の髪にはわずかに銀が混じり、それを後頭部で隙なくまとめている。
身につけているのは深い紺色のドレスで、装飾は少ない。
耳元には小さな真珠。
胸元には細い銀の鎖。
どちらも上質ではあるが、財力を見せるためのものではなかった。
整った顔立ちはアルベルトとどことなく似ているが、灰色の目は甥よりさらに鋭い。
「ご無沙汰しております、叔母様」
ヴァレンティナが挨拶すると、クラウディアは彼女を上から下まで一度見た。
「結婚式以来ね、ヴァレンティナ」
「はい」
「少し顔つきが変わったかしら」
「そうでしょうか?」
「侯爵夫人らしくなった、とまでは申しませんけれど」
「……叔母様もお変わりなく」
「ありがとう」
褒めてはいない。
アルベルトが横から口を挟んだ。
「叔母上、今日はどうされたのです」
「甥の家を訪ねるのに理由が必要?」
「叔母上の場合は必要です」
「失礼ね」
「経験から申し上げています」
クラウディアは甥を一瞥した。
「相変わらず可愛げのない子」
「二十九です」
「私から見れば子供よ」
アルベルトが黙った。
ヴァレンティナは少しだけ嬉しくなった。
この家にも、アルベルトを一言で黙らせられる人間がいたらしい。
◇
客間へ案内する途中、クラウディアは何度か足を止めた。
廊下の壁。
窓枠。
絨毯。
天井。
まるで患者を診るような目で屋敷を見ている。
「西側の壁を直したのね」
「はい」
「屋根も?」
「直しました」
「使用人棟は?」
「順番に修繕しています」
「一度に全部やらないの?」
「一度に払ったら手元のお金が減りすぎますから。緊急性の高いところからです」
「そう」
それだけ言って、また歩き始める。
褒められたのかどうか分からない。
客間へ入ると、メイド長エレノアが茶の準備をしていた。
クラウディアは彼女を見るなり眉を寄せた。
「エレノア」
「ご無沙汰しております、クラウディア様」
「痩せた?」
「いいえ」
「顔色が以前より白いわ」
「照明の加減かと」
「脈を見せなさい」
「え?」
クラウディアはもうエレノアの手首を取っていた。
「叔母様?」
「黙って」
ヴァレンティナは黙った。
アルベルトも黙った。
エレノアまで黙った。
数十秒後、クラウディアが手を離す。
「以前、倒れた?」
部屋の空気が固まった。
「なんで分かるの!?」
ヴァレンティナが思わず叫ぶ。
「医者だからよ」
「脈だけで!?」
「脈だけではないわ」
クラウディアの視線がアルベルトへ移った。
「アルベルト」
「はい」
「説明なさい」
「なぜ俺が」
「当主でしょう」
「倒れたのはエレノアです」
「だから何?」
「……説明します」
やはり弱い。
◇
エレノアが過労で倒れた経緯を聞いたクラウディアは、意外にもヴァレンティナを責めなかった。
むしろ勤務体系を変更し、休日を増やし、副メイド長としてミレイユを雇ったことまで確認すると、小さく頷いた。
「妥当ね」
「え?」
「何?」
「いえ……もっと怒られるかと思って」
「なぜ私があなたを怒るの?」
「昔からの使用人制度を変えたから」
クラウディアの眉がわずかに上がった。
「ヴァレンティナ」
「はい」
「医術の世界で『昔からこうしている』ほど、疑ってかかるべき言葉もないわ」
ヴァレンティナは目を瞬いた。
横ではアルベルトが紅茶を飲んでいる。
「叔母様、もしかして私と話が合う?」
「まだ判断していないわ」
「そこは即答なんですね」
「ただし」
クラウディアは紅茶へ手を伸ばした。
「古いものがすべて間違っていると思う人間も、私は信用していない」
ヴァレンティナの口が閉じた。
「昔から続いているものには、続いている理由がある場合もある。その理由が今も有効なのかを確かめず、古いというだけで捨てるのは、伝統を理由に何も変えないのと同じくらい愚かなことよ」
「……はい」
それには反論できなかった。
むしろ、この数か月で何度も経験してきたことだった。
四十三年付き合ってきたハリソン商会には、長く付き合うだけの理由があった。
高価なワインにも、格式ある席で使う意味があった。
空いている倉庫にも、洪水の際の備蓄場所という役割が残っていた。
「それで?」
クラウディアが続けた。
「領地にまで手を入れているそうね」
来た。
ヴァレンティナは背筋を伸ばした。
「はい」
「小麦畑を別の作物に変えるとか」
「全部ではありません。来春、全体の五パーセント以内で試験栽培をする予定です」
「なぜ五パーセント?」
「失敗しても、領地全体の収入に大きく影響しない範囲だからです」
「作物は?」
「まだ決めていません」
「決めていないの?」
「市場価格と、土地に合うかどうかと、農家の人たちが実際に作れるかを調べてから決めます」
「誰に聞いたの?」
「領地管理人のヘンリーと、実際に畑を耕している人たちです」
「あなたは農業を知らないの?」
「知りません」
ヴァレンティナは即答した。
クラウディアの目が少し細くなる。
「随分あっさり認めるのね」
「知らないものは知らないですから」
「では、あなたは何をするの?」
「数字を見るのはできます」
ヴァレンティナは答えた。
「何を作ればいくらで売れるのか、運ぶのにいくらかかるのか、失敗したらどれくらい損をするのか。そこは私が見ます。でも、土地のことは土地を知ってる人に聞きます」
クラウディアはしばらく黙っていた。
「果物も売り始めたそうね」
「正確には、売れなかった果物を加工して売っています」
「ジャム?」
「果実煮です」
「同じようなものでしょう」
「商品名を考えるの大変だったんですよ!」
「そこは聞いていないわ」
アルベルトが横を向いた。
「今、笑った?」
「笑っていない」
「絶対笑ったでしょう!」
「叔母上の話を聞け」
誰の味方なのか分からない。
◇
昼食のあとも、クラウディアの質問は終わらなかった。
東部倉庫をなぜ売らなかったのか。
なぜ一部だけ貸すのか。
果物加工をなぜ一気に拡大しないのか。
なぜ最初の商人との契約を断ったのか。
ヴァレンティナは一つずつ答えていった。
「倉庫は洪水のときに必要になる可能性があるので、売るのは危険だと思いました」
「では、貸すのは危険ではない?」
「非常時には指定した区画を明け渡す条件を契約に入れています」
「果物加工は?」
「今の設備と人員で無理なく作れる量だけです。注文が続くと分かってから増やします」
「利益を逃すことになるわ」
「人を倒してまで作る方が高くつきます」
「最初の商人は?」
ヴァレンティナが答えようとしたところで、アルベルトが口を開いた。
「それは俺が止めました」
クラウディアが甥を見る。
「なぜ?」
「取引相手として信用できなかったからです。以前、取引先を自分に依存させてから買値を下げたことがある」
「違法なことをしたの?」
「いいえ」
「では、なぜ断ったの?」
「合法なら何をしても信用できる、というわけではないでしょう」
クラウディアの口元がほんの少し動いた。
「それはそうね」
「叔母上」
「何?」
「今日は何をしに来たんです」
アルベルトがようやく尋ねた。
クラウディアはカップを置いた。
「確認よ」
「何を?」
「あなたたちが、この家で何をしているのか」
その言葉に、ヴァレンティナは少し身構えた。
「最近、ローゼンベルク家の話をよく聞くわ。使用人の働き方を変えた。昔からの仕入れを見直した。領地の農地にも手を入れる。倉庫を貸す。果物を商品にする」
クラウディアの灰色の目がヴァレンティナへ向いた。
「随分、商人らしいことをしているのね」
「……商人の娘ですから」
「それ自体を悪いとは言っていないわ」
クラウディアは淡々と言った。
「あなたがベルモンド男爵の娘であることには興味がないもの」
「え?」
「侯爵家の娘でも無能なら嫌いよ」
「……叔母様、平等ですね」
「当然でしょう」
妙なところで感心してしまった。
「私が知りたかったのは、あなたがローゼンベルク家を商家に変えようとしているのか、それとも侯爵家として残すために変えているのか。その違いよ」
ヴァレンティナはすぐには答えなかった。
数か月前なら、何と答えただろう。
無駄なものを削っているだけ。
赤字だから仕方ない。
屋根を直すため。
そんなことを言っていたかもしれない。
「残したいです」
やがて、ヴァレンティナは答えた。
「何を?」
「この家を」
クラウディアが黙る。
「最初は、変な家だと思いました。屋根から雨が降るのに十二リルのワインを飲んでるし、使用人は足りないのに使ってない部屋を毎日掃除してるし、食べ物は余ってるのに同じ量を買い続けてるし」
「ヴァレンティナ」
アルベルトが低い声で呼ぶ。
「本当でしょう?」
「叔母上の前で全部言う必要はない」
「もう知ってるんじゃない?」
「続けなさい」
クラウディアが言った。
アルベルトが諦めたように黙った。
「でも、全部いらないわけじゃなかったんです」
ヴァレンティナは続ける。
「高いワインも必要な席では必要だったし、昔から付き合っている商会にも理由があったし、使っていない倉庫にも役目があった。私には分からないこともたくさんありました」
「だから?」
「分からないことは、分かる人に聞きます」
ヴァレンティナはアルベルトを見た。
「貴族のことならアルベルト」
それから指を折る。
「使用人のことならエレノアやミレイユ。交渉ならセドリック。料理ならマルセルやダニエル。畑ならヘンリーや農家の人たち」
最後に自分を指した。
「私は、お金を見る」
クラウディアは何も言わなかった。
「それじゃ駄目ですか?」
静かな問いだった。
そのとき、アルベルトが口を開いた。
「駄目ではありません」
ヴァレンティナが隣を見る。
「アルベルト?」
「叔母上」
彼はクラウディアをまっすぐ見た。
「ヴァレンティナは、この家の価値を金額だけで決めたことはありません」
「あなたがそう思っているだけではなくて?」
「思っているのではなく、見てきました」
声はいつもと変わらず落ち着いていた。
「必要なものには金を使います。使用人が足りなければ雇うし、修繕も安い応急処置ではなく、長く持つ方法を選んだ。分からないことは、分かる人間に聞く。残す理由があるものは残す」
ヴァレンティナは黙って彼を見た。
「確かに派手な女ですが」
「ちょっと」
「声も大きい」
「アルベルト?」
「思いついたらすぐに動くし、止めないと食事を忘れて帳簿を読み続けることもあります」
「庇ってるの!?」
「最後まで聞け」
「悪口しか聞こえないんだけど!」
アルベルトはヴァレンティナを一度見て、それから叔母へ視線を戻した。
「ですが、ヴァレンティナが来てから、この家は良くなりました」
今度は、ヴァレンティナも黙った。
「屋根は直った。使用人の勤務も改善した。無駄な支出は減った。領地にも、新しい収入が生まれ始めている」
クラウディアが静かに尋ねた。
「あなたは、この子にローゼンベルク家の将来を任せられると思っているの?」
「はい」
返事は早かった。
「思っています」
ヴァレンティナは瞬きをした。
アルベルトはそれ以上何も言わない。
いつもの無愛想な顔で紅茶を飲んでいる。
「……そう」
クラウディアも、それだけだった。
ただ、カップへ伸ばした手が、ほんの少し止まっていた。
◇
午後も遅くなったころ、客間の扉が叩かれた。
入ってきたのは執事長セドリックだった。
「旦那様、奥様。領地から最新の収支見込みが届いております」
ヴァレンティナが勢いよく振り向く。
「見せて!」
「ヴァレンティナ」
「叔母様、ちょっとだけ!」
「私は止めていないわ」
書類を受け取ると、ヴァレンティナはすぐに数字を追った。
東部倉庫の賃貸契約が正式に成立している。
果物加工品については、追加注文分を含めても無理のない生産量に抑えたため、利益は大きくないが安定している。
加工へ回したことで、これまで値段のつかなかった果物の一部が収入へ変わった。
さらに、売り方と輸送方法を見直したことで、生果の廃棄も少し減っている。
来春の試験栽培については、まだ収入へ含めない。
結果が出ていないものを利益として数えるわけにはいかないからだ。
ヴァレンティナは紙を一枚取り、計算を始めた。
「去年の収入がこれで……今年の平年値をここに戻して……倉庫の賃料を足して……果物は今の規模だけで計算して……」
「ヴァレンティナ」
アルベルトが呼ぶ。
「何?」
「声に出ている」
「今それどころじゃない!」
「そうか」
数字を足す。
引く。
もう一度計算する。
間違っていないか、最初からやり直す。
「……え?」
ヴァレンティナの手が止まった。
「どうした」
「待って」
もう一度。
今度は別の順番で計算する。
同じ数字になった。
「アルベルト」
「何だ」
「これ、見て」
差し出された紙をアルベルトが受け取った。
彼も黙って数字を追う。
クラウディアも何も言わず、二人を見ていた。
「……三十六リル」
アルベルトが言った。
「うん」
「黒字だな」
「三十六リルよ?」
「ああ」
「侯爵領全部で一年頑張って、三十六リルよ!?」
「去年は赤字だった」
「分かってるけど!」
「黒字は黒字だ」
「三十六リルなんて、ちょっといいドレス数着で消えるじゃない!」
「君なら六着買えるな」
「ベル・モード基準にしないで!」
セドリックが口元をわずかに緩めた。
クラウディアは数字を確認している。
ヴァレンティナはもう一度、三十六という数字を見た。
大儲けではない。
むしろ侯爵領という規模を考えれば、誤差のような金額だった。
それでも。
「違う、ヴァレンティナ」
アルベルトが言った。
「何が?」
「三十六リル儲かることが重要なんじゃない」
ヴァレンティナが顔を上げる。
「来年、この家の財産が減らないということだ」
その言葉で、ヴァレンティナは黙った。
去年まで、何もしなくても減っていた。
小麦を作っても。
羊を育てても。
果物を収穫しても。
領民が働いても。
侯爵家が贅沢をしなくても。
少しずつ、確実に金が減っていた。
だから屋敷の修繕を先送りした。
使用人を減らした。
それでも収入は戻らず、さらに余裕がなくなった。
その流れが。
「……止まったのね」
「ああ」
アルベルトが頷いた。
「まだ予測だけどな」
「そうよ」
ヴァレンティナはすぐに紙を取り戻した。
「来年の収穫が悪かったら赤字になるし、果物が売れなくなっても変わる。倉庫の借り手が出ていくかもしれないし、予想外の修繕だってあるし」
「分かっている」
「三十六リルなんて安全圏とは言えないわ。もっと余裕を作らないと」
「分かっている」
「だから次は――」
「ヴァレンティナ」
今度はクラウディアが呼んだ。
「はい?」
「少しくらい喜びなさい」
思いがけない言葉だった。
「叔母様まで?」
「赤字だったものを黒字にしたのでしょう?」
「予測ですけど」
「医者が治療の途中で経過が良ければ、良いと言うわ」
「でも治ってはいない?」
「ええ。だから経過観察ね」
クラウディアはほんの少し笑った。
「あなたも、この家も」
ヴァレンティナはしばらく黙っていたが、やがて帳簿へ視線を落とした。
三十六リル。
何度見ても三十六リルしかない。
それでも、数字の前についていたはずの印は消えている。
「……じゃあ、今日は喜ぶ」
「そうしなさい」
「ワイン開けてもいい?」
アルベルトが眉を上げた。
「君から言うのか?」
「今日くらいいいでしょう?」
「十二リルのを?」
「四リル」
「やはり君だな」
「三十六リルしか黒字ないのに十二リル飲んだら三分の一なくなるでしょうが!」
「一本で領地の黒字が三分の一消えるのか」
アルベルトまで少し嫌そうな顔になった。
「そう言われると飲めないな」
「でしょう!?」
「あなたたち」
クラウディアが呆れたように二人を見る。
「結婚式のときより、随分仲が良くなったのね」
二人が同時に黙った。
「……そう?」
ヴァレンティナがアルベルトを見る。
「普通だろう」
アルベルトは紅茶を飲んだ。
「普通だそうです」
「そう」
クラウディアはそれ以上何も言わなかった。
医師は、患者本人が気づいていない症状について、必ずしもその場で告知するものではない。
◇
夕方、クラウディアの馬車が玄関前へ回された。
「もう帰られるんですか?」
「明日は朝から診療があるもの」
「叔母様、本当にお忙しいんですね」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「なんでですか?」
「食事を忘れて帳簿を読むのでしょう?」
ヴァレンティナがアルベルトを睨んだ。
「余計なこと言ったわね」
「事実だ」
「夫婦喧嘩は私が帰ってからにしなさい」
「喧嘩じゃありません!」
「そう」
クラウディアは手袋を整えると、ヴァレンティナを見た。
「ヴァレンティナ」
「はい」
「次に来るまでに、もう少し侯爵夫人らしくなっていなさい」
「……まだ足りません?」
「当然でしょう」
「今日かなり頑張ったんですけど!」
「今日一日で完成するなら、侯爵夫人も随分簡単な仕事ね」
何も言い返せない。
「ただし」
クラウディアは一度だけ屋敷を振り返った。
「悪くはなかったわ」
それだけ言って、馬車へ乗り込んだ。
ヴァレンティナは数秒動かなかった。
馬車が門を出ていってから、ようやく隣のアルベルトを見る。
「……今、褒められた?」
「叔母上にしては最大級だな」
「分かりにくい!」
「君と相性がいいんじゃないか」
「どこがよ!」
「似ている」
「どこが!?」
「自分で考えろ」
ヴァレンティナは去っていく馬車を睨んだ。
「アルベルト」
「何だ」
「叔母様、次いつ来るの?」
「知らない」
「聞いておいて」
「無理だ」
「甥でしょう!?」
「叔母上は嵐のように突然だ」
どうやらローゼンベルク侯爵家には、金よりどうにもならないものも存在するらしい。
◇
その夜。
ヴァレンティナは自室の机で、領地の帳簿をもう一度開いた。
最初にこの数字を見たとき、領地は毎年少しずつ赤字を出していた。
小麦は以前ほど高く売れず、羊毛も安い輸入品に押され、果物は収穫しても一部が売り物にならない。
使われていない倉庫は金を生まず、それでも維持費だけはかかっていた。
だからといって、領民から取る金を増やせばいいわけではなかった。
畑を全部別の作物に変えればいいわけでもなかった。
倉庫を売ればいいわけでもなかった。
売れない果物を、そのまま王都へ運べばいいわけでもなかった。
一つずつ見た。
現地へ行った。
知らないことは、知っている人間に聞いた。
畑は一部だけ変えることにした。
空いていた倉庫は、必要な機能を残したまま貸すことにした。
売れない果物は加工し、無理なく作れる分だけ商品にした。
どれも、それだけで侯爵家を救うほど大きな改革ではない。
それでも、小さな数字を一つずつ積み重ねた結果、最後に残った数字の前から赤い印が消えた。
ヴァレンティナは帳簿の余白へ、三十六リルと書いた。
少ない。
あまりにも少ない。
けれど、ゼロより大きい。
「……よし」
小さく呟いて、帳簿を閉じる。
雨漏りする屋敷の家計から始まった立て直しは、いつの間にか領地全体にまで広がっていた。
借金が消えたわけではない。
侯爵家が豊かになったわけでもない。
来年の天候次第では、また赤字になるかもしれない。
それでも、毎年少しずつ減り続けていたローゼンベルク家の財産は、ようやく減らずに済むところまで戻ってきた。
赤字領地は、ひとまず立ち直った。
第二章を最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第一章では雨漏りする屋根の修繕から始まった侯爵家の再建ですが、第二章ではヴァレンティナの奮闘によって、領地での廃棄ロス及び赤字をなくすことに成功しました。
由緒ある侯爵家とはいえ、格式や伝統だけでは暮らしていけませんね。日本の公家でも同じでしたね(笑)
そんな現実的な問題に、持ち前の商才と行動力で立ち向かうヴァレンティナを書くのは、作者としても楽しい時間でした。
最初は何もかもがちぐはぐだった侯爵家ですが、少しずつ歯車が噛み合い始めているように感じています。
とはいえ、侯爵家の問題がすべて解決したわけではありません。まだまだあります(笑)
第三章では、これまでとはまた違った問題がヴァレンティナを待ち受けています。
てかヴァレンティナの行い全てが裏目に出てしまいます。
果たして彼女は、次なる難題をどう乗り越えていくのでしょうか。
引き続き、ヴァレンティナとローゼンベルク侯爵家の行く末を見守っていただけましたら幸いです。
また、ここまでのお話を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると大変励みになります。
第三章もどうぞよろしくお願いいたします!




