第18話 侯爵家、商人に足元を見られます
第18話 侯爵家、商人に足元を見られます
「その条件では契約しない」
アルベルトの言葉が落ちた瞬間、菓子店の応接室から空気が消えたような気がした。
ヴァレンティナは、テーブルの上に置かれた試作品とアルベルトの顔を交互に見た。
聞き間違いではない。
「なんで?」
「理由は外で話す」
「でも」
「今日は契約しない」
アルベルトの声は穏やかだったが、そこには普段の言い合いで見せるような隙がなかった。
王宮で貴族を相手にするときと同じ顔だった。
店主もそれに気づいたらしく、先ほどまでの親しげな笑みを少しだけ引っ込めた。
「侯爵様、何か条件に問題がございましたでしょうか」
「条件だけなら悪くない」
「でしたら――」
「だからこそ、今日は持ち帰る」
アルベルトは立ち上がった。
「妻の商品を評価してもらったことには礼を言う」
「もちろんでございます。こちらも、ぜひ今後のお取引を――」
「検討しておこう」
それだけ言うと、アルベルトはヴァレンティナを見る。
「行くぞ」
「……分かったわよ」
納得はしていない。
だが、ここで夫婦が揉めるところを見せる方がまずいことくらいは分かる。
ヴァレンティナは店主へ礼を言い、試作品と資料を片づけて店を出た。
◇
「なんで断ったの?」
馬車へ乗り込んだ途端、ヴァレンティナは尋ねた。
「断ってはいない」
「ほとんど断ったでしょう!」
「今日は契約しないと言っただけだ」
「同じようなものでしょう!」
「違う」
馬車が動き出す。
ヴァレンティナは膝の上へ置いた資料を開いた。
「ちゃんと利益は出るのよ」
「分かっている」
「一瓶あたりの原価がこれくらいで、向こうの買値がこれでしょう。二十瓶なら――」
「数字は見た」
「じゃあ何が駄目なの?」
アルベルトはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向け、店が見えなくなったことを確認してから口を開く。
「あの男は、以前ハートウェル子爵領の商品を扱っていた」
「ハートウェル?」
「南西の領地だ。葡萄と乾燥果実を作っている」
「それが何?」
「三年前、収穫が悪かった」
ヴァレンティナは黙った。
「最初の二年間、あの店はかなり良い条件で商品を買っていた。ハートウェル家も取引量を増やし、他の売り先を減らした」
「……それで?」
「三年目に収穫が落ちたところで、買値を下げた」
「収穫が少ないのに?」
「ああ」
「普通、少なかったら値段上がらない?」
「市場全体ではな。だが、ハートウェル側はすでにあの店への取引比率が高くなっていた」
ヴァレンティナの眉が寄った。
「他に売るところがなかった?」
「急にはな」
「だから、安い値段でも売るしかなかった」
「そういうことだ」
ヴァレンティナは黙り込んだ。
膝の上の紙を見る。
そこに書かれている数字は変わっていない。
原価。
買値。
利益。
計算すれば、確かに黒字である。
それでも、その先にあるものは数字には書かれていなかった。
「……最初は高く買うのね」
「高いというほどではない。断る理由がない程度の値を出す」
「それで取引量を増やす」
「ああ」
「相手が他へ売らなくなったところで、値段を下げる」
「契約そのものに違法なところはない」
「嫌なやり方ね」
「商売としては珍しくもない」
「お父様なら怒りそう」
「君の父親なら、最初から一社に依存しないだろう」
ヴァレンティナは昨日の父親の言葉を思い出した。
誰に売る商品なのか決めろ。
そして以前、自分自身も言った。
一つしかないことが怖い。
「……私、同じこと言ってたのに」
「何をだ?」
「一つの商会だけに頼るなって」
「言っていたな」
「なのに、最初に買ってくれる人が見つかったら嬉しくなってた」
「最初の客だからな」
「情けない」
「別に情けなくはない」
ヴァレンティナは顔を上げた。
「君は条件を見た。利益が出ることも確認した。それ自体は間違っていない」
「でも、私、相手を見れていなかったわ」
「それは俺が見ればいい」
あまりに当然のように言われ、ヴァレンティナは一瞬返事ができなかった。
「……何それ」
「何がだ」
「ちょっと格好いいこと言ったつもり?」
「全く」
「腹立つ」
「なぜだ」
「普通に言うからよ」
「では言い直そうか」
「もっと腹立ちそうだからいい」
アルベルトはわずかに口元を緩めた。
「君が数字を見て、俺が相手を見る。それでいいだろう」
ヴァレンティナはしばらく黙った。
それから、資料を閉じる。
「……まあ、それならいいわ」
「不満そうだな」
「別に」
「顔に出ている」
「うるさい」
ただ、不思議な感じはした。
この家へ来たばかりのころは、何をするにも自分が帳簿を開き、自分が問題を見つけ、自分が変えなければならないと思っていた。
だが今は違う。
メイド長エレノアには屋敷の歴史と仕事の流れがある。
執事長セドリックには交渉力がある。
料理長マルセルには料理の知識があり、最近入ったばかりのメイド長補佐ミレイユには人と仕事を整理する能力がある。
そしてローゼンベルク侯爵家当主アルベルトには、ヴァレンティナには見えない人間関係と信用の地図が見えている。
全部を自分一人で知っている必要はない。
必要なのは、誰が何を知っているのかを知ることなのかもしれない。
「それで」
ヴァレンティナはアルベルトを見る。
「他に売れそうなところ、知らない?」
「立ち直るのが早いな」
「商品は売らないと意味ないでしょう」
「一軒心当たりがある」
「あるの!?」
「だから声が大きい」
「先に言ってよ!」
「聞かれなかった」
「今度から聞かなくても言って!」
「無茶を言うな」
◇
アルベルトが名前を挙げたのは、王都北部に店を構える老舗の食料品商だった。
菓子専門店ではなく、茶葉や蜂蜜、乾燥果実、保存食などを幅広く扱っているという。
翌日の午後、二人はさっそく店を訪れた。
前日の菓子店より建物は小さいが、店内には木製の棚が天井近くまで並び、各地から集められた瓶や缶、袋が整然と置かれている。
応接室へ案内されると、店主のエドワード・クラインが待っていた。
五十代後半ほどの小柄な男で、白髪の混じった灰色の髪を後ろへ撫でつけ、細い銀縁の眼鏡をかけている。服装は地味だったが、袖口まできちんと整えられていた。
「ローゼンベルク侯爵様からお話をいただくとは思いませんでした」
「妻が領地で商品を作ろうとしている」
「伺っております」
エドワードの視線がヴァレンティナへ移る。
「ベルモンド男爵のお嬢様ですね」
「今はローゼンベルクよ」
「これは失礼いたしました」
「いいわ。それより、これ食べて」
「ヴァレンティナ」
「何?」
「もう少し言い方があるだろう」
「試食していただけますか?」
「最初からそう言え」
エドワードが小さく笑った。
「お噂通りの奥様ですな」
「どういう噂?」
「商品の話をするときは、侯爵夫人より商人の娘になると」
「誰がそんなこと言ってるの?」
エドワードはアルベルトを見た。
ヴァレンティナも見る。
「俺ではない」
「今の間は何よ!」
◇
エドワードは試作品を一つずつ確認した。
林檎。
洋梨。
蜂蜜入り。
砂糖の量を変えたもの。
味を確かめるだけでなく、瓶を光へ透かし、色や果肉の状態まで見ている。
「悪くありません」
「またそれ!」
「何か?」
「うちの周り、美味しいって言えない人ばっかりなの?」
エドワードが笑った。
「美味しいですよ」
「ほら!」
「ただし、美味しいことと売れることは別です」
「それも聞いた!」
「でしたら話が早い」
エドワードは林檎の瓶を置いた。
「こちらなら扱ってみてもいいでしょう」
ヴァレンティナの背筋が伸びた。
「本当?」
「ただし、最初は十瓶」
「十?」
「少ないですかな?」
「昨日は二十だったから」
「昨日?」
ヴァレンティナは口を閉じた。
アルベルトが横から静かに言う。
「別の店でも話を聞いた」
「なるほど」
エドワードは特に気分を害した様子もなかった。
「でしたら、そちらの方が多く買ってくださるのでは?」
「契約しなかったの」
「なぜです?」
「夫が嫌だって」
「その説明では俺がわがままを言ったように聞こえるな」
「だいたい合ってるでしょう」
「合っていない」
エドワードはまた笑った。
「では、こちらの条件をお話ししましょう」
提示された買値は、昨日の菓子店より少し低かった。
ヴァレンティナはすぐに計算する。
利益は出る。
ただし薄い。
「……安いわね」
「正直ですな」
「だって安いもの」
「ヴァレンティナ」
アルベルトがたしなめる。
「いいのです」
エドワードは気にした様子もない。
「初めて扱う商品ですから、こちらも売れ残る危険を負います。十瓶をこの値で買い、売れ行きを見ます」
「売れたら?」
「次は三十ほど」
「値段は?」
「同じ条件では買いません」
ヴァレンティナの目が細くなった。
「下げるの?」
「上げます」
「え?」
「一定数が売れると分かれば、こちらの危険が減ります。その分、買値を上げられる」
ヴァレンティナはアルベルトを見た。
アルベルトは何も言わない。
「それから、売れなかった場合も十瓶分はこちらが買い取ります。返品はいたしません」
「……売れ残っても?」
「店側の責任です」
「値下げして売る場合は?」
「こちらで負担します」
「次の注文は?」
「しません」
「なるほど」
昨日とは正反対だった。
最初の買値は低い。
その代わり、売れなかったときの損を生産者へ戻さない。
売れれば取引量と買値を増やす。
「少し考えてもいい?」
「もちろんです」
ヴァレンティナは紙へ数字を書いた。
原価。
買値。
十瓶。
利益。
確かに小さい。
だが、最初の十瓶は利益を稼ぐためというより、客が買うか確かめるための商品である。
それなら、この条件でも意味はある。
「アルベルト」
「何だ」
「どう思う?」
「君は?」
「私は、ありだと思う」
「理由は?」
「十瓶なら失敗しても小さいし、売れ残りをこっちへ返されない。それに売れたら次の条件が良くなる」
「なら、俺も異論はない」
エドワードが二人を見た。
「侯爵様がお決めになるのでは?」
「商品を作っているのは妻だ」
アルベルトは淡々と答えた。
「俺は相手を見るだけだ」
ヴァレンティナが横を見る。
「それ気に入ったの?」
「何がだ」
「何でもない」
◇
契約書を作る段階になると、今度はヴァレンティナが細かくなった。
「売れた数は教えてもらえる?」
「もちろんです」
「何日で売れたかも?」
「記録しましょう」
「林檎と洋梨は分けて」
「承知しました」
「客から何か言われたら、それも知りたい」
「可能な範囲で」
「瓶は返してもらえない?」
エドワードが少し考えた。
「客が持ち帰りますので、難しいでしょうな」
「そうよね」
「瓶代が気になりますか?」
「すごく」
「でしたら将来的には、専用の瓶を大量発注することになるでしょう」
「売れればね」
「売れれば、です」
エドワードは笑った。
ヴァレンティナも笑う。
まだ成功していない。
そこを曖昧にしない相手は信用できそうだった。
「もう一つ」
アルベルトが口を挟んだ。
「何でしょう」
「独占契約にはしない」
エドワードの目が少し細くなる。
「最初からですか」
「ああ」
「こちらとしては、将来的には優先的に扱わせていただきたいところですが」
「優先交渉なら検討する。だが、他へ売る権利は残す」
ヴァレンティナはすぐに意味を理解した。
一社に依存しない。
父親が言っていたこと。
自分が領地で言っていたこと。
そして昨日、危うく忘れかけたこと。
「私もそれがいい」
「でしたら、そのように」
エドワードはあっさり頷いた。
契約書には、十瓶の試験販売、買い取り、売上情報の共有、独占権なしという条件が記された。
小さな契約だった。
侯爵家の契約として見れば、笑ってしまうほど小さい。
それでもヴァレンティナにとっては、領地の果物から生まれた最初の売上だった。
◇
「十瓶かあ」
店を出たあと、ヴァレンティナは少し複雑そうに呟いた。
「不満か?」
「嬉しいけど、少ない」
「最初だろう」
「分かってる」
「昨日は二十瓶で喜んでいたじゃないか」
「昨日より減ったから!」
「利益も減ったな」
「言わないで!」
アルベルトは笑いを堪えるように顔を逸らした。
「でも」
ヴァレンティナは歩きながら契約書の控えを見る。
「こっちの方がいい気がする」
「なぜ?」
「安心できる」
「商売で安心だけを求めても仕方ないぞ」
「分かってる。でも、相手が儲かる理由も、こっちが儲かる理由も分かるもの」
「それは大事だな」
「どっちかだけがずっと得する取引って、たぶん長く続かないでしょう?」
「そうだ」
「お父様も同じこと言ってた」
「君の商売の話には大抵父親が出てくるな」
「商人だもの」
「では俺は?」
ヴァレンティナは足を止めた。
「何が?」
「俺から学んだことはないのか?」
「あるわよ」
「例えば?」
ヴァレンティナは少し考えた。
「高いワインにも理由がある」
「他には?」
「昔からの取引先を値段だけで切っちゃ駄目」
「他には?」
「王族に四リルのワインを出してはいけない」
「最後のは忘れるな」
「あと」
ヴァレンティナは契約書を軽く振った。
「商売相手は、数字だけ見ちゃ駄目」
アルベルトが少し黙った。
「十分だな」
「何よ、その偉そうな言い方」
「侯爵だからな」
「そういうところよ!」
◇
十瓶の商品は、その週のうちにエドワードの店へ納められた。
林檎六瓶。
洋梨四瓶。
瓶にはまだ正式な商品名すらなく、小さな紙札にローゼンベルク領産の果物を使用していることだけが記された。
ヴァレンティナは店頭へ並べられた瓶をしばらく眺めていた。
「ずっと見ていても売れないぞ」
「分かってるわよ」
「客が買いにくい」
「じゃあ外から見る」
「もっと怖い」
「何でよ!」
結局アルベルトに腕を引かれ、店を離れることになった。
三日後。
ローゼンベルク侯爵邸に、エドワードから一通の手紙が届いた。
ヴァレンティナは朝食の途中で封を切った。
「行儀が悪い」
アルベルトが言う。
「今だけ!」
「昨日も聞いた」
「昨日は別の手紙!」
紙を開く。
数行読んだところで、ヴァレンティナの動きが止まった。
「どうした?」
「……売れた」
「何瓶?」
「十瓶」
「全部か」
「全部」
アルベルトが眉を上げた。
「三日で?」
「三日で」
ヴァレンティナはもう一度手紙を見る。
林檎六瓶。
洋梨四瓶。
完売。
さらに、追加注文について相談したいと書かれている。
「アルベルト」
「何だ」
「売れた!」
「聞いた」
「全部売れた!」
「それも聞いた」
「三日で!」
「だから聞いている!」
ヴァレンティナは椅子から立ち上がった。
「領地に手紙出さないと!」
「朝食を食べてからにしろ」
「追加注文よ!」
「何瓶だ?」
ヴァレンティナは手紙の続きを読んだ。
そして止まった。
「……五十」
「何?」
「五十瓶欲しいって」
少しの沈黙が落ちた。
「作れるのか?」
アルベルトが尋ねる。
ヴァレンティナの笑顔が固まった。
果物はある。
しかし瓶は。
砂糖は。
作る人間は。
煮る鍋は。
一日に何瓶作れるのか。
「…………」
「ヴァレンティナ?」
「ちょっと待って」
「何だ」
「売ることしか考えてなかった」
アルベルトが目を閉じた。
「だろうな」
「どうしよう」
「俺に聞くな」
「一緒に考えてよ!」
ローゼンベルク侯爵家。
売れないことを心配して始めた果物加工品は、どうやら売れたらしい。
そしてヴァレンティナはこの日初めて、商売には売れないこととは正反対の問題が存在すると知った。
注文が多すぎても、困るのである。




