第14話 侯爵家、お茶会を開きます
第14話 侯爵家、お茶会を開きます
ローゼンベルク領への出発を三日後に控えた朝、ヴァレンティナは応接室の中央に立ち、長いテーブルの上へ並べられていく茶器と菓子を眺めながら、どうして自分はこんなに忙しい時期にお茶会を開くことになっているのだろう、と考えていた。
答えは簡単で、領地が赤字だと知るよりも前から決まっていた予定だからである。
「延期じゃ駄目?」
「駄目です」
即答したのはエレノアだった。
いつもの黒いドレスに白い襟を合わせ、濃い茶色の髪を一分の乱れもなくまとめたメイド長は、テーブルクロスの端を確認しながら、ヴァレンティナの方すら見なかった。
「まだ理由も言ってないでしょう」
「領地へ向かわれる準備がお忙しいので、お茶会を延期したいと仰るのでしょう?」
「なんで分かったの?」
「二か月以上お仕えしておりますので」
「二か月でそんなに分かるもの?」
「奥様は分かりやすいので」
「失礼ね」
少し離れた場所では、新しくメイド長補佐となったミレイユが、当日の使用人配置を書いた紙を確認していた。
「本日の招待客は六名でございますので、予定通りであれば午後五時までには終了いたします。その後、旅支度の最終確認を行えば問題ございません」
「ミレイユまで」
「私は日程を申し上げただけです」
「延期してもいいとは言ってくれないのね」
「招待状を出したあとで侯爵家側の都合により延期するのであれば、それなりの理由が必要かと存じます」
「エレノアが二人になった気がする」
「それは光栄です」
「褒めてないわよ!」
ミレイユはわずかに首を傾けたが、すぐに手元の予定表へ視線を戻した。
採用からまだそれほど経っていないというのに、すでに屋敷の仕事へかなり馴染んでいる。エレノアとは銀器を毎週確認するか二週に一度にするかで今なお揉めているものの、それ以外の仕事では驚くほど連携が取れていた。
少なくとも、エレノアが一人で客室、使用人、食器、リネン、当日の配置まで抱えていた頃より、準備が落ち着いていることだけはヴァレンティナにも分かる。
「ところで、このお茶会って、そもそも何のお茶会だったっけ?」
何気なく尋ねると、エレノアが初めて手を止めた。
「奥様」
「何よ」
「ご自分でお招きになった方々です」
「それは覚えてるわよ!」
「では、なぜお尋ねになるのですか」
「最初に決めたときと今で状況が変わりすぎたのよ。領地が赤字だなんて知らなかったし」
正確には、ヴァレンティナが積極的に六人全員を招いたわけではない。
きっかけは、以前王宮の晩餐会へ着ていったベル・モードの深紅のドレスだった。
六リルで購入した服へ自分で裏地を付け、母から譲られたレースや手持ちのボタンを使って仕立て直しただけだったのだが、それが思いのほか王都の女性たちの興味を引いた。
どこの仕立屋なのか。
本当にベル・モードなのか。
六リルというのは本当なのか。
どうやって安価な服をあのように見せたのか。
その後ベル・モードとの仕事まで始まったことで、ヴァレンティナのところには服装について尋ねる手紙が届くようになり、その中でも付き合いのある夫人や令嬢を小規模なお茶会へ招くことになったのである。
「服の話をするだけなら、領地から戻ってからでもいいじゃない」
「服の話だけになるとは限らない」
背後から聞こえた声に振り返ると、アルベルトが応接室へ入ってくるところだった。
「何よ」
「今日の招待客の顔触れを覚えているか?」
「もちろん」
「では、誰がどの家の人間かは?」
「……だいたい」
「だいたいか」
「顔と名前は全部覚えてるわよ!」
「そこは最低限だ」
アルベルトはテーブルの上に置かれていた招待客の一覧へ目を落とした。
「ウェストン伯爵夫人の実家は、西部に広い小麦畑を持っている。ラングレー子爵夫人の兄は王都で穀物取引に関わっているし、エヴァンス男爵夫人の夫は北部との交易に出資している」
ヴァレンティナの表情が変わった。
「ちょっと待って」
「何だ」
「それ、先に言ってよ」
「何をだ」
「ものすごく大事な人たちじゃない!」
「以前から大事な人たちだ」
「領地が赤字だと分かった今は、もっと大事なの!」
アルベルトがわずかに眉を上げた。
「だから延期しない方がいいと言っている」
ヴァレンティナは招待客一覧を奪うように手に取った。
「ウェストン伯爵夫人は小麦で、ラングレー子爵夫人は穀物取引、エヴァンス男爵夫人は北部との交易……」
「奥様」
嫌な予感を覚えたらしいエレノアが口を挟んだ。
「何?」
「本日はお茶会でございます」
「分かってるわよ」
「商談会ではございません」
「似たようなものでしょう?」
「違います」
「即答しなくてもいいじゃない!」
◇
午後二時になるころには、応接室の雰囲気は朝とはすっかり変わっていた。
秋の柔らかな日差しが大きな窓から入り、磨かれた茶器の縁を淡く光らせている。庭から切った花を中心に据えたテーブルには、マルセルが用意した小さな焼き菓子や果実のタルト、薄く切ったサンドイッチが並び、紅茶も来客用に残している上等なものが選ばれていた。
節約を始めたからといって、客人へ出すものまで何もかも安物へ変えたわけではない。
必要なところには使う。
この家へ来てから何度も繰り返してきた考え方は、社交でも同じだった。
やがて馬車が到着し、招待客が順番に案内されてくる。
最初に現れたのはウェストン伯爵夫人で、四十歳前後の穏やかな女性だった。落ち着いた灰青色のドレスを着ており、派手さはないが、生地も仕立てもひと目で上質だと分かる。
続いてラングレー子爵夫人、エヴァンス男爵夫人、それに三人の若い令嬢が入室し、応接室は一気に華やかになった。
そして予想通り、最初に話題になったのは服だった。
「まあ、それもベル・モードなのですか?」
若い令嬢の一人が、ヴァレンティナの淡い葡萄色のドレスを見て尋ねた。
「そうよ。これは八リル」
「八リル?」
「元はね。袖だけ少し変えたの」
「ご自分で?」
「ええ。この形のままだと私には肩が少し広く見えたから、ここを詰めて――」
ヴァレンティナが袖口を示すと、令嬢たちが一斉に身を乗り出した。
「こちらもベル・モードへ提案なさるの?」
「まだ決めてないわ。自分に似合うように直しただけだもの」
「でも、同じ形があれば欲しいわ」
「私も」
「じゃあクララに言っておこうかしら」
少し離れた壁際で控えていたエレノアと目が合った。
エレノアは何も言わなかった。
ただし、その目は明らかに「今日は商談会ではございません」と訴えていた。
ヴァレンティナは見なかったことにした。
◇
服の話が一段落すると、話題は王都の流行や最近の舞踏会、秋の食べ物へと移っていった。
ヴァレンティナも最初は普通に聞いていた。
ところがウェストン伯爵夫人が何気なく口にした言葉に、耳が反応した。
「今年は小麦が随分安くなりましたものね」
ヴァレンティナの手が止まった。
「安いんですか?」
「ええ。うちの実家でも父が困っておりますわ。昨年ほどではありませんけれど、以前の値にはなかなか戻りませんの」
「どうして?」
質問が少し早すぎたらしく、ウェストン伯爵夫人が目を瞬いた。
「どうして、と申しますと?」
「生産量が増えたから? それとも買う人が減ったんですか?」
「奥様」
壁際からエレノアの声が飛んできた。
「何よ」
「質問が商人です」
「伯爵夫人が困ってるって言うから!」
ウェストン伯爵夫人は口元へ扇を当てて笑った。
「構いませんわ。ベルモンド男爵のお嬢様らしいですもの」
「でしょう?」
「褒められているのでしょうか」
エレノアが小さく呟いたが、ヴァレンティナは無視した。
「それで、どうして安くなったんです?」
「東の方で新しく農地を広げた家がいくつかあるそうですわ。収穫量そのものが増えているのでしょうね」
「やっぱり供給が増えてるのね」
昨日まで見ていた領地報告書の数字と一致する。
ローゼンベルク領だけの問題ではない。
市場そのものが変わっている。
「羊毛も似たようなものですわよ」
今度はエヴァンス男爵夫人が会話へ加わった。
「北部から安いものが随分入るようになりましたもの」
ヴァレンティナはそちらを向いた。
「品質は?」
「普段使いには十分だそうですわ。最高級品を求める仕立屋は別でしょうけれど」
「どれくらい安いんです?」
「奥様」
「何よ!」
「完全に商談になっております」
「聞くだけよ!」
エヴァンス男爵夫人が楽しそうに笑った。
「主人に聞けば、もっと詳しく分かると思いますわ」
「本当?」
「ええ。ただ、ローゼンベルク領でも羊を?」
「少しだけ。でも羊毛の値段が落ちてるの」
「それなら影響はあるでしょうね」
ヴァレンティナの頭の中で、昨日見た数字が次々につながっていった。
小麦価格の下落。
羊毛価格の下落。
それはローゼンベルク領だけが何か失敗した結果ではなく、周囲の生産量や交易そのものが変化した結果でもある。
つまり、昔と同じものを、昔と同じように作り続けているだけでは、以前と同じ収入には戻らない可能性が高い。
「最近は保存の利く果物菓子も増えましたわね」
若い令嬢の一人が、何気なくテーブルのタルトへ手を伸ばしながら言った。
ヴァレンティナの視線が動いた。
「保存の利く?」
「ええ。砂糖で煮た果物を瓶に詰めたものです。パンにつけるものもありますし、お菓子に使うものも」
「どこで売ってるの?」
「王都の南通りに新しい店が――」
「値段は?」
「奥様」
「何よ、エレノア!」
「お茶をお召し上がりください」
ヴァレンティナは自分のカップを見た。
いつの間にか、ほとんど手をつけないまま冷めかけていた。
「飲んでるわよ」
「先ほどから一口も」
「細かいわね」
「お茶会ですので」
仕方なく紅茶を一口飲みながらも、ヴァレンティナの頭から果物の話は離れなかった。
ローゼンベルク領では、果物の収穫量そのものは落ちていない。
しかし王都へ運ぶ途中で傷み、二割前後が商品にならない。
もし保存できる形へ変えられるなら。
ただし、それだけで売れるとは限らない。
王都ですでに似た商品があるなら、値段も品質も知らなければならない。
「その店、名前を教えてくださる?」
「もちろんですわ」
エレノアが小さく息を吐いた。
◇
お茶会が終わり、最後の馬車が門を出たころには、午後五時を少し回っていた。
応接室には使い終えた茶器が残り、メイドたちが静かに片づけを始めている。
ヴァレンティナは椅子へ座ったまま、紙へ何かを書き続けていた。
小麦。
東部で生産増。
羊毛。
北部から安価な品。
果物加工品。
王都南通り。
価格確認。
「楽しかったか?」
声に顔を上げると、アルベルトが扉のところに立っていた。
「楽しかったわよ」
「その割には、茶会の感想とは思えないものを書いているな」
「大事なこと聞けたもの」
ヴァレンティナは紙を持ち上げた。
「小麦が安くなってるのは、やっぱりうちだけの問題じゃない。羊毛も北部から安いものが入ってる。それから、王都で果物を保存した商品が売られてるみたい」
「そうか」
「驚かないの?」
「おおよそ知っている」
「知ってたの!?」
「俺を何だと思っている」
「高いワイン飲みながら雨漏りを――」
「それはもういい」
アルベルトは向かいの椅子へ座った。
「領地を持つ家なら、周辺の相場くらいはある程度把握している」
「じゃあ昨日教えてよ!」
「報告書にも書いてあっただろう」
「数字で見るのと、人から聞くのは違うのよ」
ヴァレンティナは紙へ目を落とした。
「ウェストン伯爵家も困ってるって聞いたら、小麦価格の下落がうちだけの問題じゃないって実感できたし、エヴァンス男爵夫人の話を聞いたら、北部の羊毛が実際に王都で使われ始めてるって分かったもの」
「それが社交の役目の一つだ」
「社交?」
「そうだ」
アルベルトは、片づけられていく茶器を眺めながら続けた。
「貴族は茶を飲んで、服や舞踏会の話だけをしているわけじゃない。誰の領地で何が採れた、どこの商人が伸びている、どの道が使えなくなった、今年はどこの作物が高い、誰が誰と取引を始めた。そういう話も流れる」
「……情報交換なのね」
「その情報をどう使うかは、その家次第だがな」
ヴァレンティナは少し考えた。
これまで彼女にとって社交は、商家出身の娘が貴族社会で生きていくために必要なものだった。
母から礼儀作法を叩き込まれ、誰にどう挨拶し、どんな話題を避けるべきかを覚えたのも、そのためである。
しかしアルベルトにとっては、それだけではないらしい。
人と人とのつながりそのものが、情報網になっている。
帳簿には書かれない情報が、紅茶と菓子の間を流れている。
「……あなた、こういうの得意なの?」
「何がだ」
「誰が何を知ってるか覚えておくの」
「普通だろう」
「普通じゃないわよ。私、ウェストン伯爵夫人の実家で小麦作ってるなんて知らなかったもの」
「君はベル・モードの品番なら覚えているだろう」
「覚えてる」
「似たようなものだ」
「一緒にしないで」
「俺もそう思う」
「何よ!」
アルベルトの口元がわずかに緩んだ。
◇
その夜、ヴァレンティナは寝室で領地へ持っていく書類を整理していた。
机の上には、三年間の収支報告の写しと、農産物ごとの売上、輸送費、倉庫の利用状況をまとめた紙が積まれている。
その横には、今日のお茶会で書いたメモも置いた。
小麦。
羊毛。
果物。
市場。
昨日まで数字でしかなかったものに、少しずつ実際の人間の話が重なってきた。
だからこそ、余計に現地を見たくなった。
畑では何を作っているのか。
農民たちは何に困っているのか。
売れない果物は、本当にどうしようもないものなのか。
帳簿を眺めているだけでは、そこまでは分からない。
扉が軽く叩かれ、ミレイユが入ってきた。
「奥様、明後日の出発準備について確認がございます」
「何?」
「お召し物は六着で準備いたしました」
「本当に六着持っていくの?」
「エレノア様の指示です」
「一週間なのに?」
「一週間ですので」
「三着で着回せるのに」
「村長や代官との面会に、畑から戻られた泥のついた服で出席なさるのであれば、三着でも可能です」
「……六着でいいわ」
「賢明かと存じます」
ミレイユは予定表へ印をつけたあと、机の上の大量の書類を見た。
「こちらもすべてお持ちになりますか?」
「必要なものだけ選ぶわ」
「今夜中に?」
「そのつもりだけど」
ミレイユは壁の時計を確認した。
「あと一時間で就寝のお時間です」
「誰が決めたの?」
「エレノア様です」
「私の寝る時間まで決められてるの!?」
「最近、奥様が夜遅くまで帳簿をご覧になることが増えましたので」
「子供じゃないのよ!」
「存じております」
「だったら――」
「一時間ございます」
「…………」
「十分かと」
ヴァレンティナは反論しようとしたものの、ミレイユの灰色の目がまったく揺らがないのを見て諦めた。
「分かったわよ」
「では、一時間後に参ります」
「本当に来るの?」
「参ります」
ミレイユは一礼して出ていった。
扉が閉まったあと、ヴァレンティナはしばらくその方向を睨んでいた。
「……エレノアより厳しくない?」
返事をする者はいなかった。
◇
二日後の早朝、ローゼンベルク侯爵邸の正面玄関には二台の馬車が用意されていた。
秋の朝はまだ薄暗く、吐く息にはわずかに白さが混じっている。使用人たちが荷物を積み込み、セドリックが旅程を確認する横で、エレノアは忘れ物がないか最後の点検をしていた。
今回領地へ向かうのは、ヴァレンティナとアルベルト、それに必要最低限の使用人たちである。
ミレイユも同行することになった。
領地の館での滞在中、部屋や日程の管理を担当するためだ。
「全部ある?」
ヴァレンティナが尋ねると、ミレイユが手元の一覧を確認した。
「お召し物六着、外套二着、歩きやすい靴二足、夜会用ではない正式な靴一足、帳簿と報告書、筆記具、薬、その他必要品は積み込み済みです」
「夜会用じゃない正式な靴って何よ」
「畑用の靴で村長とお会いにならないための靴です」
「分かったわよ」
アルベルトはすでに馬車の前に立っており、二人のやり取りを聞きながら呆れたような顔をしていた。
「行くぞ」
「今行く」
ヴァレンティナは馬車へ向かいながら、一度だけ侯爵邸を振り返った。
嫁いできた日に初めて見たときは、ただ大きくて古い屋敷だと思った。
その屋根から雨が漏れ、食料庫では食材が無駄になり、使用人は足りず、請求書を開けば四十年以上前の契約がそのまま残っていた。
それでも、一つずつ調べれば原因はあった。
原因が分かれば、少なくとも考えることはできた。
領地も同じなのかは、まだ分からない。
ただ、帳簿の数字が悪いからといって、土地そのものが悪いとは限らない。
ヴァレンティナは馬車へ乗り込むと、膝の上に『領地』と書いたノートを置いた。
「まず何を見る?」
向かいに座ったアルベルトが尋ねる。
「畑」
「次は?」
「倉庫」
「その次は?」
「果樹園と出荷場」
「市場は?」
「もちろん見る」
「一週間で足りるか?」
ヴァレンティナは少し考えたあと、ノートを開いた。
「足りなかったら、また来ればいいでしょう」
アルベルトが一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そうだな」
馬車がゆっくりと動き出し、ローゼンベルク侯爵邸の門が後ろへ遠ざかっていく。
屋敷の中で削れる無駄を探すだけなら、もう何度もやってきた。
けれど今度は違う。
何を削るかではなく、何を残し、何を変え、そして何を新しく作るのか。
ヴァレンティナがこれから見るのは、帳簿の中に並ぶ数字ではなく、その数字を生み出している土地そのものだった。
ローゼンベルク侯爵家。
屋敷の家計を立て直し始めた侯爵夫人は、とうとう領地へ向かう。
そして本人はまだ知らない。
その土地では、金にならないという理由だけで、毎年かなりの量の果物が捨てられている。




