第13話 侯爵家、領地も赤字でした
第13話 侯爵家、領地も赤字でした
翌朝、ローゼンベルク侯爵邸の執務室には、いつもの家計簿とは違う種類の書類が山のように積み上げられていた。
前日の夕方、領地からの収入が二年続けて減っていることを発見したヴァレンティナは、その場で過去三年分の報告書を出すようアルベルトに要求した。
アルベルトは「今日はもう遅い」と抵抗したものの、まだ夕日すら沈んでいない時間だったため、その主張は当然ながら却下された。
ただし、執事長セドリックとメイド長エレノアまで加わって「本日はお休みください」と言い始めたため、さすがのヴァレンティナもその日は引き下がった。
そして翌朝。
「……分からない」
ヴァレンティナは机いっぱいに広げた書類を前に、眉間へ深い皺を寄せていた。
屋敷の帳簿なら、もうだいぶ読める。
食費、使用人の給与、衣服費、屋敷の維持費、社交費、日用品の購入費といった項目については、どこにどれだけ金が流れているのか、おおよその感覚まで掴めるようになっていた。
ところが領地の帳簿は、同じ金の話でもまるで別物だった。
小麦の収穫量、農地ごとの地代、種子の購入費、家畜の飼育費、灌漑用水路の維持費、道路や橋の補修費、倉庫の管理費、王都までの輸送費に加えて、村ごとの人口や耕作地の変化まで記録されている。
数字を追うだけならできる。
問題は、その数字が何を意味しているのか分からないことだった。
「アルベルト」
「何だ」
向かいで手紙を読んでいた夫が、嫌そうな顔もせずに返事をした。
ここ二か月で諦めを覚えたらしい。
「この用水路維持費って、毎年ほとんど同じでしょう?」
「ああ」
「収入が減ってるなら、少しくらい削れないの?」
「削れば畑が枯れる可能性がある」
「……じゃあ駄目ね」
「駄目だな」
ヴァレンティナはその項目の横へ、小さく印をつけた。
「この橋は?」
「西側の三村が市場へ出るために使う」
「削れない?」
「橋をなくすつもりか?」
「補修の回数を減らせないか聞いてるのよ!」
「崩れてから直す方が高くつく」
「それはそうね」
ヴァレンティナはまた印をつけた。
屋敷の帳簿なら、高すぎるワインや余分な食材のように、見つけた瞬間に「これはおかしい」と分かる支出があった。
領地は違う。
道路を直すにも金がかかる。
水路を維持するにも金がかかる。
倉庫を残すにも金がかかる。
だからといって、収入が減ったからという理由だけで、それらを片っ端から削ればいいわけではない。
屋根の修理を先延ばしにした結果、梁まで傷んで余計に金がかかったのと同じことを、領地全体でやるわけにはいかなかった。
「……家より面倒くさい」
「今ごろ気づいたのか」
「家は歩かないでしょう」
「領地も歩かないが」
「そういう意味じゃない!」
アルベルトは黙って紅茶を飲んだ。
◇
まずヴァレンティナが調べたのは、もっとも分かりやすい収入の推移だった。
過去三年の報告書を横へ並べ、同じ項目を一つずつ比較していく。
「去年が、その前の年より六パーセントくらい減ってる」
「ああ」
「その前も四パーセントくらい減ってるわね」
「そうだな」
「二年で急に悪くなったわけじゃないのね」
ヴァレンティナは紙の上へ数字を書き写した。
少しずつ減っている。
その一方で、道路や水路、倉庫といった領地を維持するための支出は大きく変わっていない。
収入だけが緩やかに下がり続けているため、結果として余裕が消えているのである。
「原因は?」
「昨年は春の雨が長かった」
「雨?」
「小麦の出来が悪かった。特に西側の村で影響が大きい」
「どれくらい?」
アルベルトが別の報告書を探し、該当する頁を開いた。
「平年より一割ほど少ない」
「それは大きいわね」
「農家の収入も落ちている」
「じゃあ、地代を上げるのは駄目ね」
ヴァレンティナが即答すると、アルベルトが顔を上げた。
「上げるつもりだったのか?」
「収入だけ見たら最初に思いつくでしょう。でも収穫が減ってる農家から取る金を増やしたら、種とか農具に使うお金までなくなるじゃない」
「その通りだ」
「翌年もっと収穫が減ったら意味ないもの」
ヴァレンティナは地代の欄に大きく線を引いた。
支出を削ることだけが節約ではないのと同じで、収入を増やすことだけが経営ではない。
今日だけ数字を良くして、そのせいで来年悪くなるなら、それは改善ではない。
その程度のことは、商家で育ったヴァレンティナにも分かった。
問題は、雨だけでは説明がつかなかったことである。
「でも、今年は?」
「天候は悪くない」
「なのに収入は戻ってないでしょう?」
「ああ」
ヴァレンティナは椅子へ深く座り直した。
「じゃあ、別の原因もあるわね」
◇
昼を過ぎるころには、机の上にさらに多くの書類が増えていた。
小麦。
羊毛。
果物。
蜂蜜。
わずかだが薬草もある。
ローゼンベルク領は何か一つの産物だけで成り立っている土地ではなく、平地では穀物、丘陵では果樹や羊の飼育が行われ、森に近い地域では蜂蜜や薬草も採れるらしい。
それ自体は悪くない。
問題は売り方だった。
「小麦の値段、下がってない?」
ヴァレンティナが過去の取引記録を指差す。
「隣領で生産量が増えた」
「なるほど。向こうがたくさん作るようになったから、値段が下がったのね」
「そういうことだ」
「羊毛も?」
「北部から安い羊毛が入るようになった」
「こっちも値段が落ちてる」
ヴァレンティナは紙へ書き込んだ。
収穫量。
販売価格。
輸送費。
売れ残り。
倉庫費。
最初はばらばらに見えていた数字が、少しずつ線でつながり始めていた。
作物を作れば、そのまま金になるわけではない。
収穫して、運んで、売って、ようやく金になる。
途中のどこかで値段が落ちたり、運ぶ金が増えたり、売れ残って腐ったりすれば、畑では豊作でも領地の収入は増えない。
「果物は?」
ヴァレンティナは別の頁を開いた。
「収穫量、あまり変わってないわね」
「果樹園には大きな被害は出ていない」
「なのに売上は減ってる」
「王都へ運ぶ途中で傷むものが多い」
「どれくらい?」
「年によるが、二割前後は商品にならない」
ヴァレンティナの手が止まった。
「二割?」
「ああ」
「五個作ったら一個捨ててるってこと?」
「単純に言えばな」
「それ、食料庫でやったでしょうが!」
「俺に怒鳴るな」
「だって同じじゃない!」
屋敷の食料庫では、古い食材が奥へ押し込まれ、新しいものから使われていた。
領地では、せっかく作った果物が売り場へ届く前に商品価値を失っている。
規模こそ違うが、起きていることは似ていた。
「王都まで遠いから?」
「それもある」
「何日?」
「天候と道にもよるが、荷馬車で二日以上かかる」
「もっと近くで売れないの?」
「近隣の町でも売っているが、すべてを捌けるほど大きな市場ではない」
ヴァレンティナは果物の項目へ丸をつけた。
「これ、気になる」
「果物が?」
「捨ててるものがあるってことは、作ってるのにお金になってないものがあるってことでしょう?」
「ああ」
「だったら、売れる形に変えられないか考える価値はあるわ」
アルベルトが少しだけ眉を上げた。
「何か考えがあるのか?」
「まだない」
「ないのか」
「現物も見てないのに決める方が怖いでしょう」
ヴァレンティナは当然のように答えた。
その瞬間、扉が軽く叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、先日採用したばかりのミレイユだった。
黒と白のメイド服にもすでに違和感がなく、深い栗色の髪はいつも通り低い位置でまとめられている。
「奥様、昼食のお時間です」
「もう?」
「一時間前からです」
ヴァレンティナは時計を見た。
「……本当だ」
「先ほどもお声をかけました」
「そうだっけ?」
「『あと少し』とお答えになりました」
「…………」
向かいにいたアルベルトが書類から顔を上げた。
「人の働きすぎにはうるさいくせに、自分のことになると随分と都合がいいな」
「これは仕事じゃないもの」
「では何だ」
「調査」
「仕事だろう」
「違うわよ」
「何が違う」
「気持ち?」
「一番信用できない基準だな」
ヴァレンティナが睨んでも、アルベルトは平然としていた。
ミレイユは二人のやり取りが終わるのを待ってから、淡々と続けた。
「勤務初日に、エレノア様から申し送りを受けております」
「何の?」
「『奥様は帳簿を読み始めると時間を忘れることがある』と」
「エレノア!」
「それから、『昼食を抜かせないように』とも」
ヴァレンティナはしばらく言葉を失った。
「……あなたたち、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「業務上の連絡は円滑です」
「銀器は?」
「別件です」
「まだ二週間に一回って言ってる?」
「その件については譲る予定はございません」
どうやらエレノアとの銀器戦争は継続中らしい。
それでも、屋敷へ新しい人間を入れた結果、ヴァレンティナ自身まで管理されるようになるとは思っていなかった。
「昼食をいただいたら戻るから」
「午後一時までは休憩なさってください」
「えっ」
「エレノア様からの申し送りです」
「あなた、エレノアの手下なの?」
「メイド長補佐です」
「そうだったわね!」
◇
午後、調査を再開したヴァレンティナは、今度は輸送と倉庫に目を向けた。
果物の廃棄が多いなら、運び方に問題がある可能性もある。
「この運送業者、ずっと同じね」
「二十二年ほど使っている」
「また長い!」
「嫌そうな顔をするな」
「だって長い取引を見ると、最近ちょっと怖いのよ」
「ハリソン商会の件か」
「そう」
四十三年間変わらなかった特注石鹸や蝋燭の契約を思い出し、ヴァレンティナは輸送費の推移を確認した。
ところが今回は、単純に高すぎるというわけではなかった。
「冬の山道も運んでくれるの?」
「ああ。雪が多少降っても動く」
「他の業者は?」
「冬季は断るところも多い」
「……じゃあ、簡単には切れないわね」
「珍しいな」
「何が?」
「すぐ安い業者を探すと言わない」
ヴァレンティナはむっとしてアルベルトを見た。
「私だって学習するのよ」
「それは失礼した」
「二十二年続いてるなら、続いてる理由があるかもしれないでしょう。値段だけ見て変えて、冬になって荷物を運べませんって言われたら困るもの」
ヴァレンティナは輸送業者の横へ「保留」と書いた。
以前なら、高い数字を見つければすぐ削る方法を考えていた。
今は、その金が何のために払われているのか確認してからでなければ、触る気になれなかった。
高いことと、無駄なことは同じではない。
ローゼンベルク家へ来てから、その違いだけは嫌というほど学んでいる。
「こっちの倉庫は?」
「東部の穀物倉庫だ」
「使用率、半分以下でしょう?」
「農地の中心が少しずつ西へ移ったからな」
「だったら売る?」
「洪水が起きた年には、東側の備蓄倉庫として使う」
「……また削れない」
「残念だったな」
「嬉しそうに言わないでよ」
ヴァレンティナは倉庫の記録を睨んだ。
普段は半分も使わない。
しかし非常時には必要になる。
それなら、手放すのではなく、普段だけ別の用途に使えないか。
「半分だけ貸せないの?」
「貸す?」
「倉庫全部を売る必要はないでしょう。使ってない区画だけ誰かに貸して、洪水のときには空けてもらう契約にするとか」
アルベルトが少し考えた。
「借り手がいれば、できなくはない」
「近くに商人はいないの?」
「調べさせよう」
ヴァレンティナは倉庫の項目にも丸をつけた。
◇
夕方になるころには、最初は意味の分からない数字の塊に見えていた領地の報告書に、ヴァレンティナの書き込みがびっしりと増えていた。
収穫量。
販売価格。
輸送費。
廃棄量。
倉庫。
農地ごとの作物。
市場までの距離。
何か一つを変えれば、別の何かにも影響が出る。
屋敷の食費を減らすより、ずっと複雑だった。
「アルベルト」
「何だ」
「領地へ行く」
アルベルトの手が止まった。
「急だな」
「だって、これ以上は紙だけ見ても分からないもの」
「何を見るつもりだ?」
「畑と倉庫と市場。それから、果物がどんな状態で出荷されてるのかも見たい」
「全部見るなら、一日では無理だぞ」
「何日?」
「王都から領地まで二日ほどかかる。主要な場所を回るなら、向こうで一週間は見ておいた方がいい」
「じゃあ一週間」
「即答か」
「あなたも来るでしょう?」
「俺の領地だからな」
「よかった」
「何がだ」
「私一人じゃ、誰に何を聞けばいいか分からないもの」
ヴァレンティナは当然のように答えた。
それを聞いたアルベルトは、ほんの一瞬だけ黙った。
以前のヴァレンティナなら、帳簿を見て「ここが高い」「これを削る」と一人で決めようとしたかもしれない。
しかし今は、自分に分からないことがあると分かっている。
領地の歴史も、村との関係も、土地の事情も、アルベルトの方がずっと詳しい。
「……分かった。日程を調整する」
「お願い」
ヴァレンティナは新しい紙を一枚取り出し、持っていくものを書き始めた。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
今度はエレノアとミレイユが一緒に入ってきた。
「旦那様から、領地へ向かわれる可能性があると伺いました」
「もう聞いたの?」
「旦那様がお出かけになる以上、準備が必要ですので」
エレノアはすでに旅程を書き込むための紙を持っている。
「領地の館について、寝具と客室の状態を確認させます。しばらく使用していない部屋もございますので」
続いてミレイユが口を開いた。
「奥様、お召し物は何着お持ちになりますか?」
「三着くらい?」
「一週間の滞在予定です」
「着回せばいいでしょう」
「領地の代官や村長との面会が入る可能性がございます」
エレノアが即座に加わった。
「最低でも六着はお持ちください」
「畑を見に行くのに!?」
「畑以外にも行かれるのでしょう?」
「そうだけど!」
「でしたら六着です」
ミレイユが手元の紙へ何かを書き込んだ。
「何書いたの?」
「六着」
「私の意見は!?」
「伺いました」
「採用されてない!」
「必要性を検討した結果です」
「あなた、二週間でエレノアに似てきてない!?」
「それは褒め言葉でしょうか」
「分からない!」
エレノアだけが、ほんの少し満足そうな顔をしていた。
◇
翌日、執事長セドリックから一つの報告が届いた。
「東部の倉庫についてですが、借り手の候補がございます」
「もう?」
「近隣の町にある織物商が、以前から保管場所を探していたそうです」
「織物?」
「はい。完成した布を一時的に置く倉庫が必要とのことです」
「穀物と一緒でも大丈夫なの?」
「区画を分ければ問題ないとのことです」
ヴァレンティナは目を輝かせた。
「貸せるじゃない!」
「まだ条件の確認が必要です」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「最近の私を何だと思ってるの?」
セドリックは少し考えた。
「以前よりは、すぐ契約書へ署名なさらなくなった方でしょうか」
「褒めてる?」
「もちろんです」
「絶対違うでしょう」
それでも、悪い話ではなかった。
使っていないものを売り払うのではなく、必要なときに戻せる形で収入へ変える。
まだ一リルも利益になったわけではないが、少なくとも一つ、可能性は見つかった。
ヴァレンティナは机へ戻り、これまで屋敷の帳簿を書いていたものとは別の、新しいノートを取り出した。
表紙へ大きな字で書く。
『領地』
その下に、さらに小さく項目を並べていく。
小麦の価格。
羊毛。
果物の廃棄。
輸送。
倉庫。
市場。
そして最後に、現地で確認すること。
「よし」
ヴァレンティナはペンを置いた。
屋敷の雨漏りは、屋根を直せば止められた。
食料庫の無駄は、買い方と使い方を変えれば減らせた。
使用人の問題は、仕事を整理して人を増やすことで改善し始めている。
けれど、領地はもっと大きく、そこで暮らす人間も多い。
帳簿の数字だけを動かせば、その向こうにいる誰かの生活まで動く。
だからこそ、簡単には決められない。
まずは見なければならない。
何を作っているのか。
何が売れていないのか。
何を捨てているのか。
そして、どこに金になる可能性が残っているのか。
ローゼンベルク侯爵家。
屋敷の家計を調べていたはずが、とうとう領地まで来てしまった。
どうやらヴァレンティナが立て直さなければならないものは、雨漏りする屋根より、ずっと大きかった。




