第12話:侯爵家、使用人を募集します
第12話 侯爵家、使用人を募集します
「来ない」
朝の光が差し込む執務室で、ヴァレンティナは何度目になるのか分からないため息をつきながら、机の上に置かれた封筒を睨んでいた。
王都でも名の通った使用人紹介所から届いたもので、封を切れば正式な報告書が入っているはずだが、わざわざ中身を確認する必要もなさそうだった。応募者が一人でもいれば、向かいに立つセドリックがこんな申し訳なさそうな顔をしているはずがない。
「来ませんね」
「一人も?」
「一人もです」
「本当に?」
「残念ながら、一人もございません」
ヴァレンティナは信じられない気持ちで求人票を取り上げた。
雇用主はローゼンベルク侯爵家で、募集職種はメイド。経験者優遇、住み込み可、食事付きとし、給与についてもセドリックに王都の相場を調べさせたうえで、同格の貴族家よりわずかに高く設定してある。
募集人数は三名である。
それなのに応募者は、見事なまでにゼロだった。
「なんで?」
「さあ」
「侯爵家よ?」
「侯爵家ですね」
「しかも名門でしょう?」
「王都でローゼンベルク家の名を知らない者は、そう多くないかと」
「お給料だって悪くないわよね?」
「むしろ同格の家より、わずかに高くしております」
「だったら、なんで一人も来ないのよ!」
ヴァレンティナが求人票を机へ叩きつけると、乾いた音が静かな部屋へ響いた。
この屋敷に新しい人手が必要なのは、もはや議論するまでもない。
先日、メイド長のエレノアが過労で倒れたことで、それまで何となく見過ごされていた問題が一気に表面化した。冬物のリネンの保管場所から使用人の勤務表、客室の修繕予定、予備の食料庫の鍵に至るまで、屋敷を動かすために必要な情報と仕事が、あまりにも一人へ集中していたのである。
エレノアが数日寝込んだだけで、屋敷のあちこちから「これは誰に聞けばいいのか」という声が上がった。
そこで副メイド長に相当する者を置き、不足している一般のメイドも補充することにした。
給与を出し惜しみせず、名門侯爵家の求人として紹介所へ出せば、それなりに応募はあるだろうと考えていたのだが、現実は清々しいほどの無反応だった。
「……評判でしょうか」
しばらく考えていたセドリックが、静かに口を開いた。
「評判?」
「はい」
「うち、評判悪いの?」
「可能性はございます」
「何の!?」
「働き先としての評判です」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァレンティナの胸に嫌な予感が生まれた。
この屋敷へ嫁いで以来、何度も味わってきた感覚である。
雨漏りを見つけたときも、高級ワインの請求額を見たときも、同じジャムが三瓶開いている食料庫を見つけたときも、最初はいつも「まさか」と思った。
そして、その予感はだいたい当たる。
「セドリック」
「はい」
「調べて」
「何をでしょう」
「ローゼンベルク家が、使用人たちの間で何て言われてるのか」
「承知いたしました」
「私の名前は出さないでね」
「なぜです?」
「怖いから」
◇
三日後、セドリックは一枚の紙を手にして、午後の茶を飲んでいたヴァレンティナのもとへやってきた。
「分かりました」
その一言を聞いただけで、ヴァレンティナは嫌になった。
「聞きたくない」
「奥様が調べろとおっしゃったのですが」
「そうなんだけど、結果を聞くのは別の話なのよ」
「では、こちらの紙だけお渡ししましょうか」
「それはもっと怖いわ」
ヴァレンティナは紅茶のカップを両手で持ち、覚悟を決めるように一口飲んだ。
「……言って」
「かしこまりました」
セドリックが紙を開く。
「ローゼンベルク侯爵家は格式が高く、名門家での勤務経験を得られる」
「いいじゃない」
「礼儀作法について厳しいため、若いうちに勤めれば仕事を覚えられる」
「ますますいい職場じゃない」
「朝が早い」
「……うん」
「夜が遅い」
「……うん」
「休日が少ない」
「…………」
「慢性的に人手が足りない」
「…………」
「誰かが辞めると、その者が担当していた仕事が残った者へ振り分けられる」
ヴァレンティナはゆっくりカップを置いた。
「もういい」
「まだございます」
「聞きたくない!」
「奥様」
「分かった! 聞く!」
セドリックは最後の一行へ視線を落とした。
「まとめますと、『給料は悪くないが、命を削る』とのことです」
しばらく部屋に沈黙が落ちた。
ヴァレンティナは両手で顔を覆った。
給料は悪くないが、命を削る。
前半だけなら褒め言葉なのに、後半がすべてを台無しにしている。
「うち、そんなに酷いの?」
少し離れた机で帳簿を整理していたエレノアが顔を上げた。
「少々、大袈裟かと存じます」
ヴァレンティナは勢いよく彼女を振り返った。
「あなた倒れたでしょうが!」
「一度だけです」
「一度でも駄目なの!」
「現在は元気です」
「そういう問題じゃない!」
エレノアは納得していない顔をしていた。
医師から休養を命じられて以来、以前より勤務時間を減らしてはいるものの、本人としてはそれを労働環境の改善とは認識していないらしい。
ヴァレンティナがうるさく言うので仕方なく休んでいる、という態度である。
この女を基準に労働環境を考えてはいけない。
ヴァレンティナは、この屋敷へ来て二か月あまりで得た知識のなかでも、かなり重要なものとしてそれを覚えていた。
◇
調べ直してみると、ローゼンベルク侯爵家には、かつて現在の倍近い使用人がいたことが分かった。
客室を専門に整える者がおり、洗濯を担当する者がおり、衣類の補修や裁縫を専門とする者がおり、銀器の管理だけを担当する使用人までいた。
屋敷そのものが大きいうえ、かつては来客も多かったのだから、それだけの人数が必要だったのだろう。
ところが家計が傾き始めると、一人辞めても後任を雇わず、二人辞めても残った者で仕事を分担するようになった。
人は減ったのに、仕事だけはほとんど減らなかったのである。
「おかしいでしょう」
過去の使用人名簿と現在の勤務表を並べながら、ヴァレンティナは言った。
「人が半分近くまで減ったなら、仕事だって減らさないと回るわけないじゃない」
「侯爵家として維持すべき水準がございますので」
エレノアは相変わらず真面目な顔で答える。
「その水準の話なんだけど、銀器を毎週全部磨く必要ある?」
「本来であれば必要です」
「使わない銀器も?」
「……本来であれば」
「誰も泊まっていない客室を毎日掃除する必要ある?」
「本来であれば、いつお客様がお見えになってもよい状態にしておくべきです」
「北棟の三階なんて、半年くらい誰も使ってないでしょう?」
「放置すれば家具が傷みますので」
「だったら家具に布をかけて、掃除は月に二回でいいでしょう!」
「しかし、侯爵家としては」
「エレノア」
「はい」
「その『本来は』を全部守ろうとして、あなたが倒れたのよ」
エレノアの口がぴたりと閉じた。
過労で倒れた本人に対してだけ使える、非常に強力な切り札である。
ヴァレンティナとしても、こんなカードを手に入れたくはなかった。
「とにかく、一度全部の仕事を書き出しましょう。何人必要なのか考えるのは、それからよ」
◇
それから三日間、ヴァレンティナはエレノアやセドリックと一緒に、屋敷の使用人が行っている仕事を一つずつ洗い出した。
朝の火起こしから始まり、玄関と廊下の掃除、主人夫妻の寝室の整備、洗濯とアイロン、食堂の準備、食器と銀器の管理、客室の清掃、花の交換、リネンの管理、来客対応、買い出し、食料庫の確認、衣類の補修、夕食後の片付け、夜の戸締まりまで、書き出せば書き出すほど紙の枚数が増えていく。
さらに、季節ごとの大掃除や冬支度、客人が宿泊するときだけ発生する仕事まで加えると、三枚目の紙にも細かな文字がびっしりと並んだ。
「多い!」
ヴァレンティナは完成した一覧を見て、思わず声を上げた。
「屋敷が広いので」
エレノアは当然のことのように答えた。
「誰よ、こんな大きな家を建てたの!」
「旦那様のご先祖様かと」
「アルベルト呼んできて!」
「旦那様ご本人に責任はないと思われます」
「分かってるわよ!」
ヴァレンティナは紙を四つの区分に分けた。
毎日必ず必要な仕事、数日に一度で問題のない仕事、来客や行事の前だけ必要な仕事、そして最後に、今のローゼンベルク家ではやらなくても困らない仕事である。
「やらなくていい仕事、でございますか」
最後の欄を見たエレノアの眉が、露骨に動いた。
「そうよ。人手が足りないなら、必要性の低い仕事から減らすの」
「侯爵家に、そのような仕事がございますでしょうか」
「あるわよ。誰も使っていない北棟三階を毎日掃除すること」
「埃が積もります」
「家具に布をかけて月二回!」
「しかし」
「エレノア」
「はい」
「休んで」
「…………」
「あなた、仕事を見つける才能だけは本当にすごいわね」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めてない!」
◇
仕事内容を整理したあと、求人票も最初から作り直すことにした。
給与は下げず、むしろ曖昧だった労働条件をはっきり書く。
休日は月四日以上とし、早番と遅番を交代制にする。休憩時間も明記し、採用後に「聞いていた仕事と違う」とならないよう、担当する業務についてもできる限り具体的に記載した。
求人票を書き終えたところで、ヴァレンティナはもう一つ気になっていたことを思い出した。
「住み込みの人が寝る部屋、見せて」
「使用人部屋でございますか?」
「そう。住み込み可って書くなら、どんな部屋なのか私も知っておきたいもの」
リナに案内され、ヴァレンティナたちは使用人棟の二階へ向かった。
本館の豪華な廊下とは違い、使用人棟は装飾をほとんど施していない実用的な造りになっている。細い廊下の左右には同じ形の扉が並び、若い使用人には基本的に一人一室が与えられているらしい。
一人部屋なのは悪くない。
ところが空いている部屋へ入ってみると、中にあるのは古い木製のベッドと小さな机、それに衣装箱だけだった。
壁紙もなく、白い漆喰の壁にはところどころ細かな亀裂があり、小さな窓から入る光も弱い。
ヴァレンティナが窓辺へ近づくと、閉じているはずの窓枠の隙間から、わずかに風が頬へ当たった。
「……冬、寒くない?」
リナが困ったように笑った。
「少し寒いです」
「少し?」
「……かなり」
「直そう」
即答すると、後ろにいたエレノアがすぐ口を開いた。
「費用がかかります」
「人が来ない方が高くつく!」
「ですが、使用人棟すべてとなりますと」
「壁を全部張り替えろとは言ってないわよ。まず窓の隙間を塞ぐだけなら、そこまで大した金額にはならないでしょう。セドリック、見積もりを取って」
「承知いたしました」
「それから毛布も確認しましょう」
「毛布はございます」
「何年使ってる?」
エレノアが黙った。
リナも視線を逸らした。
その反応だけで十分だった。
「毛布も!」
◇
二週間後、セドリックが紹介所から届いた書類を持って執務室へ入ってきた。
今度は前回とは違い、その表情に申し訳なさはない。
「来ました」
ヴァレンティナは読んでいた帳簿から勢いよく顔を上げた。
「何人!?」
「七名です」
「七!?」
「はい。面接を希望している者が七名おります」
「前はゼロだったのに?」
「ゼロでしたね」
「休日ってすごい」
「普通です」
「……そうね」
◇
面接は数日後、屋敷の応接室で行われた。
ヴァレンティナの隣にはエレノアが座り、少し後ろにはセドリックが控えている。
一人目は三十八歳で、伯爵家で十五年働いた経験のある女性だった。二人目は二十一歳で、子爵家に三年勤めていたという。三人目は十九歳で経験は一年ほどだったが、受け答えはしっかりしていた。
そして四人目の女性が部屋へ入ってきた瞬間、ヴァレンティナは無意識に少しだけ姿勢を正した。
「ミレイユ・カーターと申します」
年齢は二十八歳で、背丈はヴァレンティナより少し高い。
身体つきは細身だったが、華奢というより、立ち姿にも動きにも余計なものがないという印象を受けた。
深い栗色の髪は肩よりも長そうだったが、後頭部の低い位置でひとつにまとめられ、飾りと呼べるものは細い黒のリボンだけだった。白い肌に灰色がかった切れ長の瞳、真っ直ぐな鼻筋と薄い唇を持つ顔立ちは端正で、美人と呼んで差し支えない。
ただし、愛想のいい美人ではない。
黙って立っているだけで、顔に「仕事中です」と書いてあるような女だった。
面接用に着てきた黒いワンピースも質素だったが、襟元から袖口まできちんと整えられており、靴にも汚れ一つ見当たらない。
ヴァレンティナは彼女を一目見て、エレノアとは気が合いそうだと思った。
同時に、仕事のやり方をめぐってものすごく揉めそうだとも思った。
「以前はどちらにお勤めでしたか?」
エレノアが尋ねると、ミレイユは背筋を伸ばしたまま答えた。
「ハミルトン伯爵家で、メイド長補佐を務めておりました」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの目がわずかに変わった。
「メイド長補佐を?」
「はい。六年間務めております」
「退職理由を伺っても?」
「伯爵令嬢のご結婚後、屋敷の規模を縮小することになり、使用人の整理がございましたので」
「銀器の管理経験は?」
「ございます」
「リネンは?」
「担当しておりました」
「使用人の勤務表作成については?」
「メイド長と分担しておりました」
「客室管理は?」
「ございます」
「新人教育については?」
「四年間、担当しております」
「食料庫は?」
「在庫確認の補助のみですので、専門的に管理した経験はございません」
「裁縫は?」
「簡単なほつれやボタンの付け直し程度であれば可能ですが、仕立て直しはできません」
答えが速いうえ、余計なことを言わない。
自分をよく見せようとして、できないことまで「できます」と答える様子もなかった。
エレノアが質問するたびにミレイユは真っ直ぐ彼女を見て、経験のあることとないことを明確に分けて答えていく。
ヴァレンティナには使用人管理の専門的な細部までは分からないが、途中からエレノアの質問が明らかに細かくなっていることには気づいた。
おそらく、かなり気に入っている。
「私からもいい?」
ヴァレンティナが尋ねると、ミレイユがこちらへ顔を向けた。
「はい、侯爵夫人」
「休日は月四日以上にしているわ」
その瞬間、ミレイユが初めてわずかに目を瞬いた。
「四日ですか?」
「少ない?」
「いえ。同格のお屋敷と比べれば、多い方かと存じます」
「よかった」
「ただ、一つ確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「来客が続く時期も、基本的には同じでしょうか」
「そのつもりよ」
「急な来客などで、一時的に人手が不足した場合は?」
「増やす」
ミレイユが黙った。
「……増やすのですか?」
「だって、人が足りないんでしょう?」
「通常であれば、その場にいる使用人で対応するものかと」
「それを続けてエレノアが倒れたの」
「奥様」
隣から低い声が飛んできた。
「何よ。本当でしょう?」
「面接中でございます」
「だから説明してるのよ」
「私の失態まで説明する必要はございません」
ヴァレンティナはエレノアを見た。
「失態じゃなくて、この家の失態よ」
エレノアが黙った。
その言葉を聞いたミレイユは、二人を交互に見たあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それまでほとんど表情を変えなかっただけに、笑うと想像していたよりもずっと若く見える。
「何か?」
ヴァレンティナが尋ねる。
「失礼いたしました」
「今、笑ったでしょう」
「少しだけ」
「何がおかしかったの?」
「侯爵夫人が、メイド長に休めと叱っている光景を初めて見ましたので」
「私が叱ってるの!」
「左様でしたか」
ヴァレンティナはじっとミレイユを見た。
真面目そうな顔をしているが、この女も案外いい性格をしているらしい。
◇
七人すべての面接が終わったあと、ヴァレンティナは候補者の書類を机へ並べた。
「ミレイユ」
迷う時間はほとんど必要なかった。
「私も異論ございません」
セドリックもすぐ同意する。
二人の視線がエレノアへ向くと、彼女は書類をもう一度確認してから小さく頷いた。
「……問題ございません」
「じゃあ決まりね?」
「ただし」
「来た」
「何がです」
「何でもない」
エレノアは姿勢を正し、いかにもメイド長らしい厳格な表情へ戻った。
「仕事のやり方については、私が教育いたします。ローゼンベルク家にはローゼンベルク家のやり方がございますので」
「もちろん」
「それから、奥様」
「まだある?」
「使用人を甘やかすのはお控えください」
「甘やかしてない!」
「先日はリナに菓子を与えておられました」
「あれは余ったから!」
「厨房でつまみ食いもなさっていました」
「あれは味見!」
「先日は若いメイドと一緒に洗濯物を畳んでおられました」
「暇だったの!」
「侯爵夫人が暇だからという理由で洗濯物を畳むのはおやめください」
「なんでよ!」
それまで黙っていたセドリックが、静かに口を挟んだ。
「その点については、私もエレノアに賛成です」
「セドリックまで!?」
◇
最終的に、メイド長補佐としてミレイユを採用し、それとは別に若いメイドを二名雇うことになった。
勤務初日の朝、ミレイユは長い栗色の髪を手早く低い位置でまとめ、支給された黒と白のメイド服へ着替えると、これまでの習慣通り、かなり早い時間に使用人棟へ下りてきた。
ところが、六時になっても本格的に仕事を始める者がいない。
使用人用食堂では、早番の者たちが落ち着いて朝食を取っている。
ミレイユも促されるまま席につき、朝食を済ませたあと、六時半になってようやく仕事が始まった。
「……」
廊下の時計を確認するミレイユに、近くで食器を片づけていたリナが首を傾げた。
「どうしました?」
「本当に六時半からなの?」
「そうですよ」
「五時ではなく?」
「前は五時でしたけど」
「では、なぜ変わったの?」
「奥様が変えました」
ミレイユは何も言わなかったが、もう一度時計を見た。
その日は午前中の仕事を終えると昼食の時間があり、そのあとには短い休憩まで設けられていた。
午後の仕事を進め、夕方になったところで、早番の者は勤務終了となる。
使用人用食堂で再び時計を確認したミレイユは、帰り支度を始めたリナを不思議そうに見た。
「……帰っていいの?」
「いいですよ」
「まだ夕食がありますが」
「遅番がいますから」
「でも、まだ仕事が残っています」
「残ってても帰らないと、奥様に怒られますよ」
「侯爵夫人に?」
「はい」
「なぜ?」
「休まないから」
ミレイユはしばらく考え込んだあと、小さく呟いた。
「……変わった方ね」
「慣れますよ」
リナはすでに完全に慣れていた。
◇
そして一週間後、ヴァレンティナが面接のときに予想したことは、見事に現実となった。
「銀器は毎週確認します」
銀器保管室の前で、エレノアがきっぱりと言った。
「使用予定のないものもですか?」
向かいに立つミレイユが尋ねる。
「当然です」
「来客予定がない週でも?」
「銀は放置すれば変色しますので」
「使用前にも確認するのでしょう?」
「もちろんです」
「でしたら、普段の確認は二週に一度でも問題ないかと存じます」
「毎週です」
「二週で十分です」
「毎週」
「二週」
声を荒らげる者は一人もいない。
エレノアはいつもの厳格な顔を崩さず、ミレイユも相変わらず「仕事中です」と書いてあるような無表情のままである。
だからこそ、妙に怖い。
少し離れた廊下の角から、ヴァレンティナは顔だけを出して様子を窺った。
隣にはセドリックもいる。
「……仲悪い?」
「いいえ」
「そう?」
「仕事の方法について意見が違うだけでしょう」
「エレノア、怒ってない?」
「いつもの顔です」
「ミレイユも怒ってない?」
「元からあのお顔です」
「二人とも怖い」
「奥様」
「何?」
「聞こえますよ」
その瞬間、エレノアとミレイユが同時にこちらを向いた。
「奥様」
「侯爵夫人」
「ほら!」
「逃げないでください」
「逃げる!」
ヴァレンティナは踵を返した。
◇
さらに一週間が過ぎた昼下がり、ヴァレンティナは使用人用食堂の前を通りかかったところで、ふと足を止めた。
開いた扉の向こうで、エレノアが昼食を取っている。
温かいスープにパン、肉と野菜が盛られた皿まであり、きちんと一食分が揃っていた。
しかも椅子に座っている。
ヴァレンティナはしばらく入口からその光景を眺めていた。
視線に気づいたエレノアが顔を上げる。
「何でしょう」
「食べてる」
「昼食ですので」
「座って」
「通常、食事は座って取るものかと存じます」
「前は仕事しながら、立ったままパン食べてたじゃない」
「…………」
「進歩!」
「奥様」
「何?」
「見られていると食べにくいのですが」
「あ、ごめん」
ヴァレンティナは素直に立ち去ろうとしたものの、数歩進んだところで思い直し、もう一度入口から顔を覗かせた。
「エレノア」
「はい」
「ミレイユ、どう?」
エレノアはスプーンを置き、少し考えてから答えた。
「まだローゼンベルク家のやり方を覚えていただく必要はございますが、優秀です」
「そう」
「仕事も速く、判断も的確です。分からないことを勝手に判断せず、確認もいたします」
「うん」
エレノアは一度言葉を切り、ほんの少しだけ視線をスープへ落とした。
「……助かっております」
最後の一言だけ、わずかに声が小さかった。
ヴァレンティナはそれ以上からかわず、素直に笑った。
「よかった」
「ただし」
「何?」
「銀器は毎週確認します」
「まだ揉めてるの!?」
◇
その日の夜、ヴァレンティナは執務室で今月の支出を確認していた。
新たに三人を雇った以上、当然ながら人件費は増えている。
さらに使用人棟の窓枠を補修し、傷みのひどかった毛布を買い替え、いくつかの部屋には細かな修繕まで入れたため、今月だけを見れば支出は明らかに増加していた。
向かいで別の書類を読んでいたアルベルトも数字に気づいたらしく、帳簿へ視線を落とした。
「増えたな」
「増えたわね」
「いいのか?」
「必要経費よ」
ヴァレンティナは迷わず答えた。
「人を減らして、残った人に仕事を押しつけて、その人まで倒れたり辞めたりしたら、もっと困るでしょう?」
「ああ」
「新しい人を一から育てるのにも時間がかかるし、エレノアが持ってる知識だって、お金を払えば明日すぐ買えるものじゃないもの」
「なるほど」
「だから、安く済ませることと、必要なお金まで使わないことは別なのよ」
アルベルトは書類から顔を上げると、しばらくヴァレンティナを見ていた。
「何?」
「君の言う節約というのは、金を使わないことではないらしいな」
「今さら?」
「今さらだな」
「遅い!」
「悪かった」
あまりにも素直に謝られ、ヴァレンティナは逆に目を瞬いた。
「珍しく素直ね」
「君に怒鳴られる時間を短縮しようと思って」
「エレノアの真似しないで!」
アルベルトが小さく笑った。
ヴァレンティナは不満そうに唇を尖らせたものの、その視線がふと机の端に積まれた書類へ移った。
領地から届いた報告書である。
これまでは屋敷の修繕や家計の立て直しに追われていたため、領地についてはアルベルトと家令に任せ、ヴァレンティナが細かく目を通すことはほとんどなかった。
ところが一番上の報告書に記された数字を何気なく見た瞬間、彼女の目が止まった。
「ところで」
アルベルトの笑みが消えた。
「……何だ」
「これ」
「何でもない」
「まだ何も言ってないわよ」
「…………」
「なんで先に『何でもない』って言ったの?」
「気のせいだ」
「アルベルト」
「何だ」
ヴァレンティナは報告書を手に取り、前年と前々年の数字が並んでいる箇所を指で示した。
「領地からの収入、二年続けて減ってるでしょう」
アルベルトは答えなかった。
「ねえ」
「ヴァレンティナ」
「何?」
「今日はもう遅い」
ヴァレンティナは窓の外を見た。
秋の日は短くなってきたとはいえ、空にはまだ夕日の赤みすら差していない。
「まだ夕方よ」
「夕食まで少し休んだ方がいい」
「その逃げ方、前にもやったわよ」
「そうだったか?」
「お茶とお菓子で誤魔化そうとしたでしょう」
「では今日はワインにするか」
「しない!」
アルベルトは目を逸らしたが、ヴァレンティナは報告書を机へ戻さなかった。
使用人は三人増え、休日も増え、勤務時間も以前より短くなった。エレノアはようやく昼食を椅子に座って食べるようになり、長いあいだ一人の頭の中だけにあった仕事も、少しずつ他の者へ引き継がれ始めている。
そのために人件費は増えたが、ヴァレンティナはもう、その数字だけを見て「高い」とは思わなかった。
必要なところには金を使い、不要なところからは無駄を省く。
それが家を立て直すということなのだろう。
そして今、彼女の手には屋敷の帳簿よりもはるかに厄介そうな数字が並んでいる。
ローゼンベルク侯爵家の問題は、雨漏りする屋敷の中だけに収まってはいなかった。
次にヴァレンティナが手をつける場所は、この屋敷よりもずっと広い。




