第11話 侯爵家、壁から水が出ています
第11話 侯爵家、壁から水が出ています
「アルベルトォォォ!!」
朝の静けさを切り裂くように、ヴァレンティナの声がローゼンベルク侯爵邸の西側廊下へ響き渡った。
「早朝から叫ぶな!」
アルベルトが、不機嫌な顔で言い返す。
しかしヴァレンティナには、夫を気遣っている余裕などなかった。
つい三日前、ローゼンベルク侯爵家は三千百二十リルという大金を投じ、長年放置されていた屋根の修理をようやく終えた。
そして昨夜は、完成を試すかのような激しい雨が降った。
寝室の天井からは一滴の水も落ちなかった。
嫁いできた初日から、雨が降るたび寝室へバケツを置く生活を経験してきたヴァレンティナは、ただそれだけのことに感動した。
雨が降っても、家の中には雨が降らない。
世間では当たり前らしいその現象を、ローゼンベルク侯爵家もついに手に入れたのである。
そのはずだった。
「壁から出てるじゃない!!」
ヴァレンティナが指差した先では、西側廊下の古い壁紙が一部分だけ濃い色に変わっていた。
その中央から水がじわじわと染み出し、壁紙を伝って床へ流れている。
「屋根、直したわよね!?」
「直した」
「三千百二十リルもかけて!」
「金額まで覚えている」
「じゃあ、なんで水が出てるのよ!」
アルベルトは濡れた壁を見た。
「壁だからだろう」
「そういうこと聞いてない!」
「では、どういう答えを求めているんだ」
「私が知りたいわよ!」
ヴァレンティナは改めて壁を指差した。
「これ何!?」
「水だな」
「見れば分かる!」
二人の後ろで様子を見ていたメイド長エレノアが、わずかに眉を寄せた。
「奥様」
「何!?」
「朝ですので、もう少しお静かにお願いいたします」
「壁から水が出てるのよ!?」
「承知しております」
「なんでそんなに落ち着いてるの!?」
「以前にもございましたので」
ヴァレンティナの動きが止まった。
ゆっくりとエレノアを見る。
「……以前にも?」
「はい」
「いつ?」
「昨年の春頃だったかと」
「なんで言わなかったの!?」
「数日後には雨が止み、こちらの水も止まりましたので」
「それ、水が止まっただけでしょう! 壁は直ってないじゃない!」
「左様でございます」
「左様でございます、じゃないのよ!」
「申し訳ございません」
エレノアは迷いなく頭を下げた。
あまりにも素早い。
ヴァレンティナは怒るタイミングを失い、思わず目を瞬いた。
「……最近、謝るの早くない?」
「奥様に怒られる時間を短縮できますので」
「そこを効率化しなくていい!」
◇
昼前には、屋根の修理を担当した親方が再び侯爵邸へ呼び戻された。
ヴァレンティナは彼を西側廊下まで連れていくと、問題の壁を示した。
「ここ」
「なるほど」
「屋根は直したわよね?」
「直しました」
「ちゃんと?」
「もちろんです」
「本当に?」
親方が顔を上げた。
「侯爵夫人」
「何?」
「私どもの仕事を疑っておられますか?」
「少し」
「正直ですね」
親方は苦笑したものの、すぐに仕事へ取りかかった。
まず室内側の壁を確認し、次に庭へ出て梯子を掛ける。外壁を上から下まで調べたあと、雨樋、地面の排水路、さらに念のため屋根裏まで確認した。
ヴァレンティナたちは、その間ずっと庭で待っていた。
やがて戻ってきた親方は、開口一番に言った。
「屋根ではありません」
「じゃあ何?」
「外壁です」
「外壁?」
再び庭へ出ると、親方は西側の石壁を指した。
「こちらをご覧ください」
ヴァレンティナは目を凝らした。
年月を経て少しくすんだ石壁の一部に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っている。注意して見なければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな程度のものだった。
「こんな細いところから入るの?」
「入ります。水はわずかな隙間でもあれば入り込みますから」
「水ってしつこいわね」
「そういうものです」
親方はさらに、壁の上を走る雨樋へ視線を移した。
「もう一つ。西側の雨樋もかなり古くなっております。通常の雨なら問題ありませんが、昨夜ほど降ると排水が追いつきません」
「また雨樋?」
「北側は先日の工事で交換しております」
「西側は?」
「今回の見積もりには含まれておりませんでしたので」
「なんで?」
「屋根の修理をご依頼いただきましたので」
「…………」
ヴァレンティナは口を閉じた。
言っていることは正しい。
自分たちが頼んだのは屋根の修理だった。
職人は屋根を直した。
そして実際、昨夜の大雨でも屋根からは一滴も漏れていない。
悪いのは職人ではなく、どうやら屋敷そのものらしい。
ヴァレンティナはしばらく巨大な侯爵邸を見上げていたが、やがて何かを決めたように親方へ向き直った。
「一度、全部調べて」
「全部、ですか?」
「屋根だけじゃなくて、外壁、雨樋、排水、窓、基礎も。今すぐ全部直す必要はないけど、どこが傷んでるのか知っておきたい」
親方は少し驚いたようだった。
「建物全体となりますと、調査費もかかりますが」
「いくら?」
「二十五リルほどです」
「やって」
即答だった。
隣にいたアルベルトがヴァレンティナを見る。
「いいのか?」
「何が?」
「二十五リルだぞ」
「今二十五リルを惜しんで、三年後に二千リルの修理が出てきたらどうするのよ」
「……なるほど」
「建物だって、悪いところは早く見つけた方が安く済むでしょう。壊れてから調べるんじゃ遅いの」
「病気みたいに言うな」
「似たようなものでしょう」
ヴァレンティナは先ほどまで水を吐き出していた壁を見る。
「この家、悪いところを隠す癖があるもの」
「家に人格を与えるな」
「住んでる人間も似たようなものでしょう?」
そう言って、ヴァレンティナはちらりとエレノアを見る。
視線を向けられたエレノアが眉を寄せた。
「なぜ私を見るのです」
「倒れるまで黙ってた人がいるから」
「……」
エレノアが静かに目を逸らした。
「ほら!」
◇
二日後。
屋敷全体の調査結果が届いた。
そしてヴァレンティナは、報告書を半分ほど読んだところで、調査など頼まなければよかったと一瞬だけ後悔した。
「……これ、全部?」
「はい」
親方は平然と答える。
机の上には四枚の紙が広げられていた。
西側外壁の亀裂。
古くなった雨樋。
排水能力の落ちた排水路。
南側の窓枠。
使用人棟の屋根。
厨房裏の石壁。
厩舎の一部。
そのほかにも、小さな補修箇所がいくつか並んでいる。
築年数を考えれば驚くことではないのだろうが、金額へ変換して考える癖のあるヴァレンティナには、紙に並んだ文字がすべて請求書の予告に見えた。
「多くない?」
「この規模と築年数の建物でしたら、特別多いわけではありません」
「もっと怖いこと言わないで」
ヴァレンティナは報告書を伏せた。
「アルベルト」
「何だ」
「見なかったことにしていい?」
「君が調べろと言ったんだろう」
「二日前の私を殴りたい」
「二日前ならまだ近くにいるな」
「間に合う?」
「何にだ」
親方が小さく咳払いした。
「侯爵夫人。すべてを今すぐ修理する必要はございません」
ヴァレンティナが勢いよく顔を上げる。
「本当?」
「はい。優先順位を分けております」
「それを先に言って!」
「今から申し上げようとしておりました」
「続けて!」
親方は報告書を三つに分けた。
まず、すぐに手を入れた方がいい箇所。
西側外壁、雨樋、排水路。
次に、一年から二年以内に修繕した方がいい箇所として、南側の窓枠と使用人棟。
厩舎や厨房裏などについては、現時点では大きな問題がなく、定期的に状態を確認すればよいという。
すべてが同じ危険度ではないと分かると、ヴァレンティナの表情が変わった。
「それなら話は簡単ね。緊急分はいくら?」
「全面的に修繕する場合は、千八百六十リルほどです」
「部分補修なら?」
「四百二十リルほどで済みます」
「それぞれ何年もつ?」
金額ではなく、先に耐用年数を聞かれた親方が少しだけ目を瞬いた。
「部分補修の場合、状態にもよりますが二年から五年ほどでしょう。全面的に補修して、その後も適切に手入れを続ければ、二十年以上は期待できます」
「じゃあ全面」
ヴァレンティナは迷わなかった。
「よろしいので?」
「四百二十リル払って、数年後にまた足場を組んで工賃を払って、その間に別の亀裂まで広がったら結局高くなるでしょう?」
「まあ……その可能性はございます」
「だったら今やる」
横で聞いていたアルベルトが、少し意外そうにヴァレンティナを見る。
「迷わないんだな」
「何を?」
「千八百六十リルだぞ。安い金額ではない」
「安くないわよ」
ヴァレンティナは当然のように答えた。
「だからこそ、二回払いたくないの」
安いものを選ぶことと、安く済ませることは同じではない。
六リルのドレスで十分なら六リルを選ぶ。
けれど、四百二十リルの修理を繰り返した結果、最終的に二千リル以上払うのなら、最初から必要な金を使った方がいい。
ヴァレンティナにとっては、それだけの話だった。
アルベルトは少し黙って彼女を見た。
「何?」
「いや」
「褒めてる?」
「まだ何も言っていない」
「じゃあ褒めて」
「なぜだ」
「千八百六十リル使う決断したんだから!」
「俺の家の修理だぞ」
「私の家でもあるでしょう!」
言った直後。
二人とも黙った。
ヴァレンティナ自身、特に深く考えて口にしたわけではなかった。
けれど、以前なら「あなたの家」と呼んでいたはずのローゼンベルク侯爵邸を、いつの間にか自然に「私の家」と言っていた。
アルベルトもそれに気づいたらしい。
一瞬だけ、彼の目がわずかに見開かれる。
「……何よ」
「いや」
「変な顔しないで」
「していない」
「してる」
「していない」
少し離れたところで帳面を持っていたセドリックが、二人の応酬が終わるのを待ってから静かに口を挟んだ。
「お二人とも、そろそろ支払い方法の話をしてもよろしいでしょうか」
「……お願い」
◇
「一括では払いません」
場所を移した書斎で、ヴァレンティナは帳簿を開きながら宣言した。
全面修繕を即決した直後だっただけに、今度はアルベルトが意外そうな顔をする。
「なぜだ? 修理代そのものは用意できるだろう」
「払えることと、払っていいことは別よ」
ヴァレンティナは現在の手元資金と今後の支出予定を紙へ書き出した。
「この家、何が起こるか分からないもの。現金を全部修理に突っ込んだ直後に別の出費が出たら、また困るでしょう?」
「具体的には?」
「王族が突然来る」
「突然ではない」
「メイド長が倒れる」
エレノアが無言になる。
「屋根を直した三日後に壁から水が出る」
「それについては否定できないな」
「でしょう?」
これまでのヴァレンティナなら、必要な修理なら必要な額を払えばいい、と考えただろう。
その判断自体は今も変わっていない。
ただ、この家で暮らすうちに、必要な支出は一つずつ順番にやって来るわけではないことを嫌というほど学んだ。
建物の修理も。
来客も。
使用人の問題も。
こちらの財布の都合など待ってくれない。
「だから、緊急用の現金は残す。修理費は三回払いにしてもらうわ。多少手数料がかかっても、手元のお金を空にするよりいい」
アルベルトは紙に並んだ数字を見たあと、素直に頷いた。
「その方が安全だな」
「でしょう?」
「奥様」
セドリックが声をかける。
「その手数料ですが」
「何?」
「私から先方へ交渉してまいりましょうか」
ヴァレンティナの顔が明るくなった。
「お願い」
「承知いたしました」
「二十リルくらい下げて」
「努力いたします」
「三十」
「増えましたね」
「あなたならできる」
セドリックは一瞬だけ遠い目をした。
「その信頼が、最近少々重いのですが」
◇
翌日。
交渉結果が届いた。
当初提示された分割手数料は四十リル。
セドリックが交渉した結果、二十八リルになった。
「十二リルしか下がらなかった」
ヴァレンティナが少し不満そうに言うと、セドリックはすぐに訂正した。
「十二リルも、です」
「もう少しいけると思った」
「先方も商売ですので、利益をすべて放棄していただくわけにはまいりません」
「あなたでも無理なものあるのね」
「私は何だと思われているのでしょう」
ヴァレンティナは少し考えた。
「笑顔で値切る人」
「執事です」
「知ってる」
◇
こうして、西側外壁の全面修繕が始まった。
屋根の工事が終わって、ようやく静かになったと思ったばかりの侯爵邸に、再び足場が組まれる。
朝から職人たちが出入りし、庭には木材や道具が積まれた。石壁の古い目地を削る音と、槌を打つ音が、分厚い壁を通して屋敷の中まで響いてくる。
朝食室にも例外なく届いた。
ガン、ガン、と一定の間隔で壁の向こうから音がする。
ヴァレンティナはパンをちぎりながら眉を寄せた。
「……うるさい」
「修理しておりますので」
エレノアが紅茶を注ぎながら答える。
「分かってる。でもうるさい」
「修理を止めますか?」
「絶対駄目」
「では、お我慢ください」
「必要なのは分かってるのよ。必要なものでも、うるさいものはうるさいの!」
「難しい方ですね」
「エレノアに言われたくない!」
向かいで新聞を読んでいたアルベルトは、何も言わずにページをめくった。
肩がわずかに揺れていたので、たぶん笑っている。
◇
その日の午後。
ヴァレンティナは書斎の壁に、大きな紙を貼った。
そこへ入ってきたアルベルトが、足を止める。
「何だ、それは」
「修繕計画」
「修繕計画?」
「そう。今回調べてもらったところを、全部まとめたの」
大きな紙には、屋敷の補修箇所が優先順位ごとに整理されていた。
最上段は緊急。
現在工事中の西側外壁、雨樋、排水路。
その下には一年以内を目安に手を入れる場所として、南側の窓枠と使用人棟。
さらに下には、厩舎や厨房裏など、現時点では経過観察でよい場所。
それだけではない。
それぞれの横には予想費用、実施時期、毎月積み立てる金額まで細かく書き込まれていた。
「これからは、壊れてから慌てるのをやめる」
ヴァレンティナは紙の一番下に線を引いた。
「毎月、修繕用のお金を先に取り分ける。使わなかったら翌月へ回して、大きな修理が必要になったときにそこから出すの」
「屋根の箱か?」
「屋根は卒業」
「そうか」
「今度はこれ」
ヴァレンティナが机の上を指した。
そこには新しい木箱が置かれている。
以前のものと同じく飾り気はなく、蓋には彼女の字で大きく一文字だけ書かれていた。
『家』
アルベルトはしばらく箱を見た。
「……範囲が広くなったな」
「屋根って書いたら壁に使えないでしょう」
「別に使っていいだろう」
「気分の問題よ」
「そうか」
アルベルトはそれ以上追及せず、壁の修繕計画へ目を移した。
「これを全部やるのか?」
「少しずつね。全部一度には無理だから、危ないところから順番に」
「何年かかる?」
「分からない」
アルベルトが少し意外そうに彼女を見る。
「君が分からないと言うのは珍しいな」
「だって、この家、大きすぎるもの」
ヴァレンティナは天井を見上げた。
広い屋敷。
長い廊下。
いくつもの客室。
使用人棟。
厨房。
厩舎。
庭。
最初は豪華に見えたものが、今ではすべて将来の維持費に見える。
「侯爵家って、本当に不便ね」
「今さらだな」
「大きければいいってものじゃないわよ」
「建てた先祖に言ってくれ」
「呼んできて」
「無理を言うな」
ヴァレンティナは笑いながら机へ戻った。
そこで、修繕計画とは別の書類が目に入る。
何気なく手を伸ばした。
「これ何?」
その瞬間。
アルベルトの表情がほんの少しだけ変わった。
ヴァレンティナは見逃さなかった。
「何でもない」
「何でもない紙を机に置く?」
「領地からの報告だ」
「領地?」
「ああ」
ヴァレンティナは書類を開いた。
そこには、屋敷の帳簿とは少し違う数字が並んでいる。
農地からの収入。
収穫量。
領内施設の維持費。
税収。
支出。
項目を一つずつ追っていくうちに、ヴァレンティナの眉間へ皺が寄った。
「……アルベルト」
「何だ」
「今日はもう遅い」
「まだ何も聞いてないわよ」
「先に言っておこうと思って」
「まだ三時よ」
「壁の工事も始まったことだし、今日は休んだ方がいい」
「それとこれ、何の関係があるの?」
「ある」
「ないでしょう」
「ある」
ヴァレンティナは無視して数字を追った。
一年前。
二年前。
今年。
並べて見れば分かる。
屋敷の壁ほど派手ではない。
水も出ていない。
けれど。
確実に悪くなっている数字だった。
ヴァレンティナはゆっくり顔を上げた。
「アルベルト」
「何だ」
「領地の収入、二年続けて減ってない?」
「…………」
「ねえ」
「ヴァレンティナ」
「何?」
「茶でも飲まないか」
「誤魔化すな」
「いい茶葉がある」
「領地」
「菓子もある」
「領地!」
ローゼンベルク侯爵家では、屋根の修理が終わり、外壁の修理も始まった。
今後の補修箇所をまとめた修繕計画も作られ、壊れてから金策に走る生活から、少しずつ抜け出そうとしている。
少なくとも、屋敷については。
どうやら次に直さなければならないものは、壁でも屋根でもない。
ヴァレンティナが今まで相手にしてきたものより、ずっと大きいらしい。




