【第2話】護衛も御者も逃げ出しましたが、実家の空気よりは澄んでいます
「……お嬢さん、悪いがここで降りてくれないか」
王都を出発して半日。窓もない荷馬車のような馬車が唐突に止まったかと思えば、御台から降りてきた中年の御者が、ひどく気まずそうな、それでいてどこか居直ったような顔で私を見下ろしてきた。
「降りる、とは?」
「言葉通りの意味だよ! 悪いがな、俺だってこんな仕事、本当は引き受けたくなかったんだ。あのレオンハルトとかいうお坊ちゃんが、どうしても今日中にあんたを王都から追い出したい、金ならいくらでも出すって言うから無理して馬を出したんだぜ? だがな、これ以上先は冗談じゃねえ。この先は魔物がうようよしてる正真正銘の『死の森』だ。護衛の一人もつけずに突っ込むなんて、自殺志願者のやることだ!」
まくしたてる御者の男は、興奮して唾を飛ばしながら、私の粗末なトランクを地面に放り投げた。
ガツン、と鈍い音がして、トランクの留め金が外れかける。
「俺にはな、王都で帰りを待ってる女房と、まだ三つになる可愛い娘がいるんだよ! こんな薄気味悪い森で犬死にして、あいつらを路頭に迷わせるわけにはいかねえんだわ。お坊ちゃんからもらった金は手付けの半分だけだが、もうそれで手打ちにしてやる。だから、ここからは自分の足で歩いてくれ。……恨むなら、こんなふざけた依頼をしてきたあんたの元婚約者を恨むんだな!」
言い訳と自己正当化をひとしきり並べ立てた後、御者は私の返事すら待たずに馬車の向きを変え、逃げるように王都の方角へ走り去ってしまった。
巻き上げられた砂埃の中、私はぽつんと一人、森の入り口に取り残された。
辺りには鬱蒼とした木々が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。どこからか、正体の知れない獣の低い唸り声さえ聞こえてくる。
普通なら、絶望して泣き崩れる場面なのだろう。
けれど、私の口からこぼれたのは、深くて長い安堵の溜息だった。
「……はぁ。やっと、一人になれた」
胸いっぱいに空気を吸い込む。
土と緑の匂いが混ざった少し湿った風は、実家の澱んだ空気よりもずっと美味しく感じられた。
「奥さんや娘さんのために命を大事にするのは、素晴らしいことよね。むしろ、こんなギリギリまで馬車を出してくれて感謝したいくらいだわ」
誰に言うでもなく呟きながら、私はトランクを拾い上げた。
実家での生活は、常に『妹の邪魔にならないように』息を潜め、夜な夜な領地を覆う巨大な結界に魔力を注ぎ込み続けるだけの日々だった。それに比べれば、自分の足で土を踏みしめて歩ける今の状況は、驚くほど心が軽い。
「さて、とりあえず雨風をしのげそうな場所を探さないと――」
言いかけたその時だった。
ガサガサッ! と前方の茂みが大きく揺れ、中から二メートルはあろうかという巨大な黒い猪が飛び出してきた。
鋭い牙からは涎が滴り、血走った赤い眼球が私をしっかりと捉えている。間違いなく、ただの動物ではない。いわゆる魔物というやつだ。
「ブモォォォォッ!!」
地響きを立てて突進してくる凶悪な魔物。
しかし、連日の徹夜仕事で感覚が麻痺している私は、恐怖よりも先に『泥を跳ね上げないでほしい』という苛立ちを感じていた。このドレス、追い出される時に着せられたボロボロのお仕着せとはいえ、替えがないのだ。
「ダメよ。泥が跳ねるから、あっちに行っててね」
私はトランクを持っていない方の手を、まるで迷い犬を追い払うかのように、シッシッと軽く振った。
その瞬間――パァァァァッ! と、私の手のひらから眩い純白の光が波紋のように広がった。
光の波は突進してくる巨大猪を飲み込み、森の木々を通り抜け、視界の先まで一瞬にして吹き抜けていく。
「……ピギィ?」
光が収まった後。
あれほど凶暴だった黒い猪は、なぜか神々しいほど真っ白な毛並みへと変化し、キラキラと澄んだ瞳で私を一度見つめると、ペコリと頭を下げて森の奥へと走り去ってしまった。
「……あら? 辺境の野生動物って、ずいぶんと躾が行き届いているのね。挨拶までできるなんて」
そんな呑気な感想を抱きながら、私は再び歩き出した。
自分が今放ったものが、高位の神官数十人がかりでようやく発動できるレベルの『超広域浄化魔法』であり、この森一帯の魔物を一瞬にして無害化してしまったことなど、この時の私は知る由もなかった。




