三日目 雨の日の約束。
二月十日
朝方、雨粒の落ちる音で目が覚めた。時計を見ても、まだ五時過ぎだった記憶がある。流石にその時間から起きようと思うほど俺は年を重ねていない。そんな時間に起きれるのは人生の酸いも甘いも体験してきた人達だろう。
寝返りを打ち、また俺は揺れる意識を闇に手放した。
次に目が覚めたのは九時八分。相変わらず外では雨粒が地面で弾ける音がしていて、風で揺れる葉の音や、屋根から滴り落ちる雨粒が重なり、音楽のように聞こえなくも無い。
「ちび助、起きたか?」
押入れの中のちび助に声を掛けるとワンテンポ遅れて返事が返ってくる。俺のこの問いかけがちび助にとっては目覚まし時計なのだろう。
まぁ、ちび助が此処に居るのも、魔法の国から修行に来たわけじゃない。俺の行動を十二日まで監視する事。それがちび助の居る理由で、監視対象が起きる数時間も前に起きる必要は無い。
もっと俺がヤンチャな性格をしていたら、その必要性が出てくるかもしれないが、ちび助が寝ている事をいいことに外に抜け出そうとかいう考えはさらさら無い。
ちび助を起こしたので、俺はキッチンからまた適当なパンを抱えて自室に戻る。
家の中に居ても多少ジメジメした感じがする。この分なら外の状態はもっと悪く、雨風がいつもより強いであろう。
『それにしても雨強いですねー』
ちび助パンを齧りながら外を眺め呟く。俺もそれに釣られるように窓のカーテンを開ける。
窓に打ち付ける雨であまり外の状況は確認できないが、雨音や水溜りの水面が波打っているところを見るとかなり雨風が酷いようだ。
今日は日曜日。土曜日の翌日だから当然である。
日曜日はかなり心躍る日で、理由を説明しろと言われても答えに困るが、兎に角心が躍るのである。
だが、今日は違う。
激しく降り注ぐ雨。自転車クラスの軽いものであれば簡単に倒してしまいそうな強い風。明日、人と今日の事で話すとするなら『雨の日』ではなく、『大雨の日』というだろう。そのようなレベルである。
生憎の天気だ。さぁ、今日は一日引きこもっておくか。
雨の日に外に出かける気など余程の事がなければ起きるはずもない。
『そういえば如月さーん。この枕に使っている本って相当高そうな本なんですけど、いいんですか?』
何? そういえばちび助に枕を渡した覚えはない。ずっと腕を枕にして眠っているものと思ったが、本を枕にしていただと!?
それに高い本というのがイマイチ頭に浮かばない。
「何の本だよ? 高い本なんて…」
「これです」
ちび助が取り出した本は、厚さは辞書並、大きさは週刊誌並の本である。タイトルは…『動物百科事典』こんなタイトルの本を買った覚えはないし、到底俺が買うとも思えない。
あれ、なんか引っかかる感じがするぞ。なんというか、思い出せそうで思い出せない……。
『それにしても如月さんも小さい頃はこんな図鑑を眺めていたんですねー。なんか微笑ましくって良いですよ』
いや、マジで買った覚えがない。というかそれは……。
「お、思い出したッ!」
記憶の中で風化していたものが甦る。
「その辞典は中一の自由研究で市の図書館から借りた物なんだよ。すっかり忘れていたぞ」
そう、それは中学校一年生のとき、夏休みの宿題で自由研究が出た時に、図鑑に書かれていることを写せば楽かと借りた物だった。
この家から図書館まで自転車で三十分以上掛かる距離で、行くのが面倒である。それに図鑑ともなれば本の重さも桁違い。そのような事もあって、ずっと本を借りたままになっていた。
『中一から今までって……おおよそ三年間以上借りてるじゃないですか!? 何してるんですか、この図鑑が借りられなくって困っている子供も沢山居るはずですよ、思い立ったが吉日。今日返しに行きましょう!』
ちび助は図鑑を鞄に詰め、それを俺に手渡す。
「いや、そのままでいいんじゃないかなぁ……」
返しに行く気にならない。それには色々と理由がある。
一つは外が雨だということ。そしてもう一つが、その図鑑を借りていた期間である。
一週間とかじゃ、返すのを忘れていたという理由になりそうだが、三年以上借りていたというのは、どんな理由になる?
思い出してみれば、返却期間を過ぎた一ヶ月ぐらいは図書館から本の返却を催促する手紙が来た気もするが、しばらく放置し続けたら来なくなった。そんな忘れられた本を今更返しに行くのはちょっとな。
それに何食わぬ顔で返却したとしても、コンピューター管理されている図書館の本なら、貸し出した日なんかが一発で出てくると思う。
流石に何年も前の年が出てきたら気まずいよな。
『駄目です、昨日は如月さんに付き合ったんですから、今日は私に付き合ってもらいますよ』
もうどうにでもなれ。
「やっと着いたなぁ…」
ちび助に無理矢理この大雨の中重い本を持って外に連れ出され、強い雨風の中、一時間かけてやっと図書館に着いた。
図書館に着く頃には靴や衣服はほんのりと湿り気を帯びていた。水溜りなんかを避けて慎重に歩いてきたのだが、やはり濡れるんだね。
「こんなに雨風が強いとは思いませんでしたよ…」
ちび助も家を出てからステルスモードを解いて一緒に歩いてきた。靴が濡れるのが嫌だったのか、ちび助は微妙に宙に浮いていたが。
身長の高い俺と身長の低いちび助が並んで歩いたらいつもならかなりの身長差がわかるのだが、今回はそれが小さかった。
流石に晴れの日にそんな事をすればたちまちちび助は『浮いてる子』になってしまうが、この大雨のおかげで、足元をあまり凝視する人は居なかったようだ。
「ささ、受付のおねーさんに早く返してきなさいです」
ちび助は俺の背中を押す。
貸し出し、返却カウンターに陣取っている職員の人はいかにも説教好きそうなおばさんだった。こんな奴に返したらどうなるか想像できるぞ。
「もう少ししたら返すよ。ほら、人並んでるし、なにせ借りていた期間が期間だから、検索に時間掛かるかも知れないしさ」
ちび助はその理由を聞いて納得したのか、ちび助の注目は本に向けられていた。
良かった、こいつがあんまり返却システムを理解していなくって。検索に五分も十分も掛かるなら、とっくにこの返却カウンターは人であふれているぞ。
「何か興味あるんだったら読んでみれば?」
俺の提案にちび助は驚きの表情を隠せない。
「借りるのは登録がいるけど、此処で読むのは自由だぜ?」
余程読みたい本があったのか、ちび助の表情が輝く。
「迷子にならないように、読みたい本が見つかったらあのテーブルで読んでろよ」
窓際の小さな机を指して言う。椅子の多きさからして、三人掛けの机のようで、あまり人も居ないこの状況なら特に迷惑にならないだろう。
ちび助は『はい』と返事をして、本を探しに駆け出す。そして職員の方に注意を受ける。周りの人がやり取りを見ていたのか、笑いを堪える。あれは他人、あれは他人。
何度か謝るちび助を見て、恥ずかしくなってきてその場を離れる。
定期的に本が入荷される図書館ではあるが、小学生から老人まで利用するこの図書館。入荷される本もその事も配慮して、あまり高校生向けの本が入荷されることは少ない。
あるとするなら、テレビなどで話題になった本とか。流石に最近人気の漫画などは取り扱っておらず、読む本が見当たらない。
とりあえず本を探す前に、図鑑をどうにかしなくては。
ラベルに示してある数字とアルファベットからこの図鑑の本来あるべき場所を探し出す。
その後は簡単だ。後はその図鑑を棚の奥深くに押し詰めて、他の図鑑で隠す。これで一年に何回かある本の整理の日に発見されるだろう。
流石にコンピューターで記録されているから、見落としていたとは思われないが、かと言ってレンタルCDショップのように延滞料金など取られるはずもないだろう。
これで任務終了っと。
それから二十分ほど本を探したのだが、これといって読みたい本はなく、映画雑誌など数冊持って机へと向かう。
俺よりも早く本を見つけたちび助は一人テーブルで薄笑いを浮かべ、本を眺めている。
ちょっと不気味な光景に笑いが出そうになったが、それを堪え、ちび助の元へ。
「何読んでるんだ?」
ちらりとちび助の本を覗き見ると、美味そうなケーキなどが載っていた。その下には手抜きの絵でボールをかき混ぜる絵や、カップで何かを入れている絵が載っており、レシピ本だということはすぐに理解できた。
やっぱりちび助も女の子だなと思いつつ、映画雑誌を眺め始める。
真面目に記事など読む気になれず、写真を眺めるだけとなってしまった。相変わらずちび助は薄笑いを浮かべ、レシピ本を眺めている。
ページを捲る速さから、特に調理法を読んでるわけじゃなく、俺と同じで写真を眺めているだけだということはすぐにわかった。
「如月君?」
肩を突然叩かれ、振り返ると相澤由紀が其処に居た。
小さな手提げ鞄を持っているところを見ると、どうやらお出かけのようだ。でも、この雨の中何処へ?
「もう、この雨の中映画を見に行こうって愛と約束していたんだけど、愛ったら雨だから今日はパスーって急にドタキャンするんだよ。で、雨が強くなってきたから、雨宿りに図書館に入ったら、如月君が居たからね」
相澤さんの肩が濡れているところを見ると、結構外で待っていたようだ。外に目をやると、数メートル先が見えないような強い雨であった。
「まぁ、らしいといえばらしいよね。もう少し雨が弱かったら良いんだけどさ」
映画雑誌を閉じて相澤さんとの会話に集中する。
「如月君は何? デート?」
相澤さんはちび助を見て俺をからかうような口調で言う。
「こんな味気ないデート嫌だよ。とゆーかちび助は…まぁ…近所の知り合い」
学校での知り合いにちび助を見られ、答えに困る。ちょっとありきたりな答えであるが、これで大丈夫だろう。
「面倒見がいいんだね」
相澤さんはそう笑うとちび助の本を覗き見る。
「お菓子作りが趣味なんだ」
ちび助に話しかける相澤さん。心の中でちび助がボロを出さないように祈る。
「いや、作るのは趣味じゃないです。どちらかというと食べるほう」
ちび助の答えに相澤さんは声を殺して笑い始める。ちび助らしい答えに俺も思わず噴出しそうになる。
そして相澤さんは名案が浮かんだとばかりにちび助に声を掛ける。
「今度一緒にケーキバイキング行かない?駅前にすっごく美味しい店があるんだよ、どうかな?」
提案を聞いて、ちび助の表情が輝き、ちらりと俺を見てくる。
その目は明らかに『いいですよね、行ってもいいですよね、如月さんのお金で』と語っていた。
「まぁ、良いんじゃない、確かにそういうとこは一人で行き辛そうだし、ちび助のお母さんには俺から言っておくから」
「何言ってるの、如月君も一緒に決まってるじゃない。同じ女の子だけでケーキバイキングに行くとなれば、やっぱりお互いの間で体重のことが頭によぎって、食べれなくなるじゃない。如月君が居ればそういうの気にしなくてもよさそうだし」
男ではあまり気にしない事ではあるが、女の子同士の食べ放題の席では、目線で会話が行われているのであろう。
これ食べたいけどカロリーが……いいじゃん、食べちゃえば……そっちこそまだお皿残ってるよ……今小休憩中だから。
うわ、怖い! きっとその場に居れば殺気に当てられているな。
「んじゃー来週の日曜日でどう?」
「そうですねー来週の日曜でいいですよね、如月さん」
「あぁ、構わない。来週は晴れるといいな」
三人で窓の外を眺めると、強かった雨足が弱くなり、この分なら傘も差さないでも移動できる程度まで雨が弱まっていた。
「あ、雨上がってきたね。うん、じゃぁこの辺で。デート楽しんでね、如月君。明日また学校でね!」
そう告げると相澤さんは図書館を後にした。
残された俺たちも家に帰る事にして、図書館を出た。
「如月さーん日曜日、楽しみですね」
「そうだな、ケーキバイキングなんて行った事ないから余計にな」
ちび助は何かを思い出した表情を浮かべる。
…あ、来週の日曜日……。
もう俺は死んでるんじゃないか。
もうじきラストです。
色々と失敗の多いこの作品。
この失敗を次にいかせればいいと思います。
後もう少し、お付き合いお願いいたします。




