第十二話 ルシアン・クロード
母親である女は、これから産まれる我が子に期待をしていた。
父親である人物と自分の血を受け継ぐ我が子に、期待していた。
自らの理想通りの人間が誕生するだろう。そう、期待しすぎていた。
だが、そうはいかなかった。
薄い金髪に緑の瞳を持つ子供。その全てが、期待外れであった。
目の前の我が子に対し、女は愛情など全く感じなかった。愛おしいだとか、可愛らしいだとか、そんなことは微塵も思わない。
ただ、『必要ない』とだけ、思っていた。
そして、同時に思うのは、あの子はやはり『特別』なのだと。
産まれたばかりの子供を路地裏に捨てると、女はその場から離れた。
表通りへと出た後、女は振り返りながら呟く。
「私、何をしてたんだっけ?」
◇◇◇
運が良いのか悪いのか、路地裏で鳴き声を上げるだけの赤子を、奴隷商が拾い上げた。
その結果、生き延びることが出来てしまった。
産まれてから与えられたものと言えば、最低限の食事のみ。
人間に必要とされる衣食住であるうちの、食だけだ。
水もまともに与えられず、喉は常に乾いたまま。
ボロ布を身に纏い、衣服とは呼び難い形状で寒さから身を守った。
勿論自分の部屋などは存在せず、薄暗い地下室で冷たい床に膝を抱えて蹲る。
似たような境遇の子どもたちと共に、『死』が迫りくる恐怖から目を晒す。そんな生活だった。
「働かない者に食事は与えない。ここまで育ててやったのは誰だと思っているんだ」
毎日毎日、奴隷商はその言葉を口にしていた。
働け、働け、働け。ただ、働くしかなかった。
それしか、生き残る方法が見つからなかった。
ある日、奴隷商の付き添いで外に出る機会があった。
勿論、側を離れることは許されておらず、路地裏から出ることも出来なかった。
表通りを歩く子供。両親と手を繋ぎ、楽しそうに買い物をしている。
欲しいものは何でも買ってもらえるのだろうか。
食べたくないものがあれば、残すのだろうか。
温かいベッドの中で、今日も眠りにつくのだろうか。
考えないほうが幸せなはずなのに、どうしても考えてしまう。
自分との境遇の差に、殺意が湧いてくる。
もし自分が親に捨てられていなければ、あんなに幸せそうに暮らせていたのだろうか。
一体、自分の親はどんな人だったんだろう。
光が溢れる表通りから視線を反らす。
薄暗い路地裏は、自分の環境を思い出させてくれる。
だが、何か光る物が落ちているように見えた。
奴隷商に気付かれないようにそれを手に取り、身に纏う布の中へと押し込んだ。
ボロボロのそれをよく確認すると、文字が書いてあるのが分かった。
これはきっと、本だろう。
最低限の読み書きは教えられていたが、簡単なところしか読むことが出来ない。
完璧に理解することは難しかったが、それでも構わなかった。
本に描かれている絵が、全てを教えてくれたから。
囚われたお姫様が助けを求め、剣を持った王子様が助けに来る。
なんて素敵な話なんだろうか。
何度も何度も読み返した。
言葉の意味は理解できなくても、王子様がお姫様を救う。それだけが分かれば充分。
その日から暗闇を進むだけの人生に、初めて光が差したような気がした。
この本だけが、救いだった。
生きてさえいれば、いつかは本の中のお姫様のように幸せになれるのだと思えたから。
◇◇◇
七歳を過ぎた頃、貴族に売られた。
煩いくらいに輝く宝石を数え切れないほど身につけているその男こそ、自分を買った貴族だ。
悪趣味な格好をしていると思いながらも、この男に逆らってはいけないとすぐに理解した。
「随分とキレイな顔をしているな」
顎に手を添えられ、上から下へと視線を巡らせる貴族。
最初にかけられたその言葉に対し、褒められているのだと思った。
だから、笑った。
何かが破裂したような音が無駄に広い部屋へと響く。
「……いっ」
「勝手に笑うな」
床に転がる自分の身体。
理解が追いつかなかった。
奴隷商は働けとは言うものの、手を出すことはしなかった。
商品に傷がつくことを嫌がったからだ。
空腹の苦しみを味わうことはあれど、人に殴られる痛みなど知らなかった。
次は腹を、その次は腕を、足を。何度も殴られ、蹴られる。
死の恐怖から目を背けられなかった。
真正面から感じる『死』の恐怖は、これまでの短い人生を全て『幸せ』だったと感じてしまうほどだった。
貴族には他にも十人の奴隷がいた。
毎日その中から気分で自室へと呼ぶものを選び、想いのままに扱う。
顔が気に入られていたのか、呼ばれる回数が多かった。
食事は充分に与えられ、貴族の機嫌が良ければ好きなものを用意してくれる。
たらふく食べさせられた後、全てそれらは無へと帰った。
顔に痣はなく、綺麗な顔だと散々言われた。それに反して、身体のどこを見ても大きな痣が目立つ。
鏡を見るたび、自分の身体が嫌になる。
痩せ細った身体に、首筋に滲む歯型と赤い跡。
これ以上何も考えないようにと、ベッドに身を潜めた。
だが、眠りにつこうと目を瞑ったところであの悪夢からは逃げられない。
先ほどまでの出来事が瞼に映し出され、嗚咽が止まらなくなった。
気持ち悪い、気持ち悪い。
——死にたい。
そう思うようになったのは、いつからだろうか。
初めの頃はどんなことがあっても生き延びてやるという強い意志があった。
いつかきっと、王子様が助けに来てくれる。
そんな子供だましの幻想に縋っていた。
本当は心の底では分かっていた。
王子様なんて存在しないと。
◇◇◇
貴族に買われてから六年が経った頃、奴隷八人が逃げ出した。
屋敷に残った他二人の奴隷は鬱憤はらしのため殺されたらしい。
運よく自分は殺されなかったものの、いつも以上に乱暴な扱いをされていた。
「そういえば、お前は大切にしている本があっただろう? ボロ雑巾のように汚らしかったなぁ。安心しろ。処分しておいた」
言葉の意味が理解できなかった。
あの本を、処分した?
生きる希望が、光が、全て消え去る感覚があった。
暗闇の中を、一筋の光を目指して進んでいた。
それなのに、必死に目指していたのに、全てが真っ暗に変わってしまった。
もう、良いのかも知れない。
——どうせなら、このまま殺してくれ。
「ジジイ、趣味が悪いな」
声の方へと目を向けると、扉の前に見慣れない男が立っていた。
貴族の取引相手だろうか。
機嫌が悪い日に当たるとは、この人も可哀想だな。
……いや、どこか様子がおかしい。
黒いマントでわかりにくいが、服には血が染み込んでいる。
この黒いマント、まさか……。
「お前は誰だ!! 見張りは?? おい、見張りが何をしている! コイツをさっさと取り押さえろ!」
「ここに俺が立っている。なら、当然見張りを片付けた後だと分からないか? 今この屋敷の中で意識があるのは、俺と優秀なバディ。そして、お前ら二人だけだ」
「わかる?」と、右手に持つ剣をこちらに向けながら問いかけてくる。
「お前は誰なんだ! 一体、何者なんだよ! こんなことしやがって、ただじゃ済まねぇからな!!」
「悪役すぎるセリフだな。もういいから黙れよ」
そう言い切った後、貴族はその場で倒れ込んだ。
首元には黒いモヤが現れ、首を締め付けられたように見える。
気付かない内に黒いマントの男が近付いてきていた。
きっと、コイツがやったんだろう。
このまま、殺されるのか?
——やっと、解放されるんだ。
「俺の名前はヘクトル・エルカディオン。この国の『英雄』になる男だ。お前は? ここから抜け出し、未来を掴み取る気はあるか?」
黒いフードから現れたのは、青。
見惚れるほどの美しさを秘めたその瞳。
あぁ、そうか。
僕はこの人と出会うために産まれてきたのか。
生きているのか死んでいるのか、分からないような人生を歩んできた。
分からなくても良かったんだ。
この瞬間の感動のために、今までの人生があったんだ。
「僕の名前は……ルシアンです。ファミリーネームはありません。この人生を、全てヘクトル様に捧げることを誓います」
青い髪を揺らしながら、ヘクトル様は笑った。
無邪気に笑う彼の姿は、王子様と言うよりもお姫様のように見える。
「なら、今日からは『ルシアン・クロード』と名乗れ」
感情が高ぶる。
心臓がどくどくと素早く鼓動し、顔は熱を帯びていた。
——彼が、僕のお姫様なんだ。
「ちょっと、何をしてるんですか? その子……奴隷? まさか、拾う気じゃないですよね? 飼うなら責任を持って最期まで。半端な気持ちで拾うことはワタクシが許しませんよ」
扉からまた一人、女性が入ってきた。
同じ服装をしており、先程言っていたバディというのはこの人のことなのだろう。
「コイツ、カリスタのところで雇ってやれ。魔法が使える人間の使用人を探してるんだろ? 見たところ、才能は充分にある」
◇◇◇
カリスタ様に雇ってもらい、まともな人間の生活が出来るようになった。
本当に、ヘクトル様には感謝してもしきれない。
だからこそ、僕は神にでも誓える。
——今度は僕が、ヘクトル様を救ってみせると




