第二話 運命の人(前編)
恋は、理由なんてなく始まるものだと思っていた。
好きになるのに、データも理屈もいらない。
少なくとも、私はそう信じていた。
朝七時四十分。
通勤電車は今日も少しだけ混んでいた。
窓ガラスに映る自分の顔をぼんやり眺めながら、揺れる車内で吊り革につかまる。
この時間の電車には、いつも同じ人たちが乗っている。
眠そうな高校生。
新聞を読む会社員。
イヤホンをつけた大学生。
そして――。
「おはようございます」
聞き慣れた声に振り向く。
「おはようございます」
佐伯さんが缶コーヒーを片手に立っていた。
「またブラックですか?」
「これしか目が覚めなくて」
そう言って笑う顔は、いつ見ても穏やかだった。
営業企画部の佐伯健一。
三十二歳。
私より六歳年上の先輩。
仕事は丁寧で、誰にでも分け隔てなく接する人だった。
困っている人がいれば自然に手を貸し、失敗した後輩を責めるより先にフォローへ回る。
たぶん、本人は意識していない。
だから余計にずるい。
「今日の会議、資料できました?」
「昨日のうちに」
「さすがですね」
「その代わり、プレゼンはお願いしてもいいですか?」
「またですか」
「僕、人前で話すの苦手なんですよ」
「絶対うそですよね」
二人で笑う。
駅に着くまでの十分ほど。
そんな何気ない会話が、私は好きだった。
会社へ着くと、ロビーの大型モニターに新しい広告が流れていた。
『婚姻最適化AI』
『あなたにとって、最も幸福な結婚を。』
画面には笑顔の夫婦と、小さな子どもが映っている。
利用率九八・四パーセント。
十年以内離婚率一・二パーセント。
結婚相談所はほとんど姿を消し、恋愛アプリも急速に利用者を減らしていた。
恋愛は偶然ではなく、最適化される時代。
それが当たり前になって、もう何年も経つ。
昼休み。
社員食堂で向かいに座った由香が、サラダを食べながら言った。
「ねえ、ハーモニー登録した?」
「まだしてない」
「珍しい。」
由香は本当に驚いた顔をした。
「今どき?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ好きな人でもいる?」
私は思わず味噌汁を飲み込む。
「なんで?」
「図星?」
「違うって」
否定したものの、自分でも声が少し上ずっているのが分かった。
由香はにやりと笑う。
「私は登録して一年で結婚決まったよ。」
スマホを見せてくる。
画面には婚約者との写真。
休日の公園で撮ったらしい。
二人とも自然な笑顔だった。
「相性九九・七パーセント。」
由香は少し照れながら画面を閉じる。
「最初は恋愛って感じじゃなかった。」
「そうなの?」
「でも、一緒にいると落ち着くの。」
少し考えてから続けた。
「恋って、ドキドキすることじゃなくて、安心することなのかもしれない。」
その言葉は、妙に心へ残った。
夕方。
コピー機の前で資料をそろえていると、佐伯さんがやって来た。
「今週の土曜日、予定ある?」
心臓が少しだけ跳ねる。
「午後なら空いてます。」
「本当?」
思わず期待してしまう。
「展示会の設営を手伝ってほしいんだ。」
「あ……。」
自分でも分かるくらい分かりやすく肩を落としてしまった。
佐伯さんは吹き出す。
「今、期待しました?」
「してません。」
「絶対しましたよね。」
「してません。」
二人で笑う。
「終わったら食事くらいは奢ります。」
「それなら頑張ります。」
「現金ですね。」
そんな他愛のない会話だけで、その日は少し幸せだった。
帰宅すると、母からメッセージが届いていた。
『今度の日曜日、時間ある?』
『会ってほしい人がいるの。』
嫌な予感しかしなかった。
電話をかける。
「もしもし。」
『あら、早かったわね。』
「紹介って何?」
『お見合い。』
やっぱり。
「今どき?」
『今どきだからよ。』
母は笑う。
『ハーモニーで相性九九・六パーセントなんだから、一度くらい会ってみてもいいでしょう?』
私はソファにもたれた。
「まだそういう気分じゃない。」
『好きな人でもいるの?』
返事ができなかった。
沈黙だけが流れる。
『もし違うなら、一度だけ会ってみなさい。』
母は優しく言った。
『運命って、自分では案外分からないものよ。』
電話を切る。
部屋には静けさだけが残った。
窓の外では、向かいのマンションに明かりが一つ、また一つと灯っていく。
その光景を眺めていると、テーブルの上のスマートフォンが震えた。
通知が一件。
《婚姻最適化AI》
『現在の生活履歴から、高い適合率を示す候補者が見つかっています。』
『登録しますか?』
青いボタンが、画面の中央で静かに光っていた。
私はその画面を閉じることも、ボタンを押すこともできず、しばらく動けなかった。




