01.逃げた幻獣を追え
“ロスト”の侵蝕から十二年の歳月が流れた。
「これでよしっと」
自身と目線の高さが変わらない白銀の巨狼のブラッシングを終え、リズは満足感から小さく頷いた。作業の邪魔にならないように、と青いリボンで一つに結っていた長い髪を解き、手櫛で軽く整える。そして、解いたリボンで今度はハーフアップにした。
二十歳になったリズは、幻獣保護機関の幻獣師として働いている。
十歳の頃から王都にある学園に通い、卒業したのが二年前。卒業と同時に結婚をしたり、働く者が多い中、リズの幻獣に懐かれやすい性質と、光属性の魔力による治癒が幻獣によく効くという話が機関の幻獣師の耳に入り、在学中だった十六歳の頃から見習いとして通っていた。
「うーん。やっぱり、テオのこのもふもふはいつ触っても飽きないね」
「わふっ」
ブラッシングにより、触り心地がさらに良くなった首元に抱きつけば、テオは嬉しそうに短く鳴いて尻尾を振る。
端から見れば飼い主に可愛がられて喜ぶ大型犬だ。主人は別だが。
幻獣保護機関の庭で手入れをしていたテオは、リズの同僚の「使役獣」だ。「ムーンウルフ」という種族の幻獣で、白銀の毛と琥珀色の瞳を持つ。月の満ち欠けによって魔力量は変化するが、どんな時でも狩りの能力は優れた幻獣だ。
使役獣は人と契約をした幻獣で、基本的に契約者と行動を共にする。そのため、今、契約者から離れてリズの側にいるのは不思議な光景だが、それも「幻獣に懐かれやすい」性質のせいだった。
すると、機関の本館から出てきた青年のリズを呼ぶ声が聞こえてくる。
「リーズー!」
「あっ。ルシアン! 見て見て。テオ、すっごく綺麗になったよ!」
やや焦った様子で走ってきた茶髪の青年、ルシアンは、リズが手入れをしていたテオの主だ。リズとは学園の同級生で、入学をした頃からの長い付き合いになる。
元々はルシアンが手入れをする予定だったが、テオは彼のやや力任せで荒いやり方が気にくわないようで、すぐに彼からブラシを取り上げてリズに持って行った。その代わり、リズの仕事をルシアンがやることになったのだ。
リズの嬉しそうな声に、思わず琥珀色の目から焦りを消してテオを見る。
「あ、ほんとだ。めちゃくちゃ綺麗になってる」
「ワンッ」
「分かった分かった。今度からはちゃんと優しくするから。ありがとな、リズ」
「いえいえ。私の仕事と変わってもらったし」
感心している場合か、とでも言いたげなテオの文句の一吠えに、ルシアンは軽く宥めながらリズにお礼を述べた。
そして、リズから引き受けた仕事、と話に上がったことでここに来た目的を思い出す。同時に、とてつもない罪悪感も。
「あー……その、変わったのにこんな事になって申し訳ないんだけど……」
「何かあったの?」
「かなりマズいことになってる」
そんな一大事が起こるような仕事だっただろうか。リズは、彼に変わってもらった仕事を思い浮かべる。
先週、魔獣に襲われて翼を負傷し、保護していた鳥型の幻獣の経過観察だ。リハビリを兼ねた飛行訓練をする予定で、ルシアンの他に数名の幻獣師もいるはず。
機関には、幻獣を一時的に保護するための別館があり、逃げ出したりしないよう本館も含めて結界を張っている。飛行訓練も、別館にある訓練場で行うはずだ。
しかし、今、ルシアンが出てきたのは別館ではなく、その隣にある本館。幻獣の研究や治療、事務作業をする部屋などがある場所だ。
「それが、翼がうまく広がらなくて、まだ何処か怪我をしているのかって思って、本館で検査しようとしたんだ。そしたら……」
本館に入ろうとした瞬間、それまで大人しかった幻獣が突然暴れ出し、移動のために入れていたケージの鍵を炎で焼き切って逃亡した。機関の外へ。
そこまでを聞いて、リズは早急に対応に当たらなければ、と思いつつも、どうしても引っ掛かることがあった。
「結界は?」
「ぶち破って行った」
「元気すぎる……」
早く住処に帰りたかったのだろう。元は野生なので仕方がない。
リズが見ていた時は飛び立とうとする様子もなかったのだが、そこまで元気ならば帰してしまってもいい気がする。勿論、飛行状態は確認してからだが。
幻獣の逃亡、結界の破損。確かに一大事だ。それも、機関の責任者である所長の不在時に。
今、所長であるレオハルト・アルドリックは、部長の下の役職である主任のダリル・パターソンと共に王国騎士団の魔獣討伐戦に参加している。
「部長は?」
「結界の修復に当たってる。『徹夜明けの老体を働かせるな』って怒られた」
「怒るとこそこじゃない気がするけど……」
所長の次席である部長のオズワルド・リンクスは、四十路手前の男性だ。幻獣の研究に没頭しやすい彼は、よく研究室で椅子を並べて寝ているが、結界が破損したとなれば研究どころではない。
注意の点が違うことに呆れつつ、リズは逃げた幻獣を追うためにルシアン、テオと共に庭を後にする。
「逃げた方角は?」
「…………」
「ルシアン?」
万が一の逃亡に備えて、幻獣にはそのサイズに合った小型の追跡用の魔石を着けるのが決まりだ。鳥型であれば大抵、足に取り付けている。
リズが今朝、幻獣を見た時にその魔石はしっかりとついていたため、その魔力を追えば捕獲は容易だ。
しかし、ルシアンの表情は芳しくない。
その理由は、逃げた方角にあった。
「北。しかも、追跡用の魔石の魔力がそこで途絶えてる」
「…………」
「一大事だろ?」
「結界の二重措置が必要になりそうね」
王都にある幻獣保護機関は、王宮の近くに位置する。仕事柄、王国騎士団や王宮魔導師団と協力することが多い他、各行政機関とも素早く連携を取る必要があるからだ。
そして、王宮は幻獣保護機関から見て北にある。つまり、幻獣が逃げ込んだ場所は王族も住む王宮だ。となれば、結界を補修している場合でもないのだが、二次被害を防ぐためにも仕方がないのだろう。
リズは、「走ろう」とふたりに声を掛けて駆け出した。




