00.プロローグ
シンシア伯爵領は、自然に溢れた長閑な地だった。
その地で生まれ育ったリズ・シンシアは、両親と四つ上の兄と共に、屋敷から少し離れた場所に出掛けていた。
最近、開拓した新しい農地の下見が目的だが、まだ八歳になったばかりのリズも連れてこられたのは、領地の様子を実際に見て学んで欲しいという両親の思いからだ。
農民と話をする両親と、そんな二人から必死に学ぼうと隣で聞いている兄のカイルを他所に、リズは耕された土地や周囲の風景を眺める。
広大な畑の近くには森があり、木々の合間には奥へと続く小道があった。
吹き抜けた強めの風がリズのミルクティーベージュの髪を靡かせ、反射的に母親譲りの薄紫の目を閉じる。
風が落ちついてからゆっくりと目を開けると、先ほど見た小道の脇に白い影を見つけた。
(わっ。あの幻獣さん、可愛い……!)
小道の脇にいたのは、白い兎に似た獣だ。しかし、普通の兎と違い、額には小さな角が生えており、野生動物ではなく幻獣だと分かる。
物心がついた頃から動物だけでなく、幻獣のことが好きなリズにとって、その兎に似た幻獣は農地よりも興味をそそられた。
「お母様。私、向こうを見てきてもいいですか?」
「分かったわ。でも、危ないから、あまり奥まで行っちゃダメよ? お母様達が見える所までね?」
「はーい」
母の服を軽く引き、話の邪魔にならないよう小声で言えば、あっさりと許可が下りた。開拓の際に周辺の状況を確認しているため、大きな危険はないことが分かっているからだ。
勿論、野生動物や幻獣がどういう動きをするかまでの予測は難しい。
母は一緒に来ていた侍従の青年に目をやると、リズの後をついて行くように指示を出す。
小さく頭を下げた侍従は、森へと走り出したリズの後をすぐに追った。
森の入口に着くと、幻獣の姿は既に消えていた。リズが駆け出したのとほぼ同時に茂みに飛び込んだのは見えたが、もう遠くに行ってしまったのか。
周囲を見渡していると、道の奥から微かに声が聞こえてきた。
ーー……で。
「?」
「お嬢様、幻獣がいないのであれば戻りますよ」
「待って。奥に何かいるわ」
森の奥に意識を取られているリズを見て、侍従が連れ戻そうとする。
しかし、リズは彼に視線を向けず、森の奥を見たまま制した。
時折、風が木々の葉を揺らしているが、耳に届いた声はそのざわめきとは違うものだ。
「これ以上先は、奥様達からも見えない場所です。気になるようでしたら、またあとで来ましょう」
ーー行かないで。こっちに……。
「聞こえないの? 誰か呼んでる」
「え? ……いえ、私にはまったく……」
リズの真剣な眼差しに、嘘ではないと思いつつ耳を澄ましてみるが何も聞こえない。
だが、リズにははっきりと届いていた。
「苦しそう。さっきの幻獣の仲間が何かに襲われているのかも」
「分かりました。ご主人様達を呼んできますから、お嬢様はここを動かずに待っていてください」
「うん。急いでね!」
声の主は分からないが、もし、リズの言っているように幻獣が何かの被害に遭っているのであれば、相応の対処が必要だ。
このクローディア国では、人間と幻獣が互いに尊重し合って暮らしている。人間は幻獣の特異な力を借り、幻獣が何者かに襲われていれば助けるというのが決まりだ。そのため、王都には幻獣を保護・管理する組織もできている。
走り去った侍従が早く戻ってくるようにと願いつつ、リズはその場から動かず、視線は森の奥に向けたままで両親達の到着を待とうとした。
その間も、声の主は早く奥に来いと囁いてくる。
(争っているような声は聞こえないし、もしかして、何かの下敷きになっているとか? さっきの子も、来て欲しいからわざと姿を隠したとか?)
ちらりと後ろを見やれば、侍従が両親達に話をしているところだった。
すると、リズを見たカイルが何かに気づくと、顔色を変えてこちらへと駆け出した。
「お兄様! 早くーーえ?」
「リズ!」
リズがカイルを急かそうとした瞬間、足に何か冷たいものが触れた。
足元を見れば、黒い影のようなものが足首に纏わり付いていた。かと思えば、さらに大きな影が背後からリズを包み込む。
伸ばされた兄の手を掴もうとしたが、それよりも早く視界が黒一色に染まった。
「っ!」
周りの音も遮断され、ひやりとした空気が肌を刺す。
まるで首を絞められているかのように呼吸がし辛く、その場に膝をついて倒れ込む。僅かに吸えた酸素も肺を刺すように痛い。
(これ、前にお母様達に聞いた、“ロスト”……?)
魔力の源であり、自然界に宿る「マナ」に富んだこの国では、時折、何らかの影響によってそのマナが穢れ、「瘴気」と呼ばれるものが発生する。その瘴気が濃くなると、“ロスト”というものが現れる。
周囲を汚染し、あらゆる害の源である瘴気。それよりも濃い“ロスト”は、魔獣の発生源となる他、生物の命さえも奪うことがある。
「たす……け、て……」
ぼやける意識の中、必死に声を振り絞った。
体温が奪われているのか、強い寒気に襲われる。真っ暗な景色は、自分が目を開けているのかさえ曖昧になってきた。
このまま死んでしまうのか、と思った時だった。
「……?」
突然、黒一色の世界が裂けた。
どうにか顔を動かしたリズの視界に、小型犬のような足が入った。眩く光を放っているせいで、はっきりとした姿は分かりにくい。
リズのことを庇っているのか、その足の主は何かに向かって低く唸っている。
小さな足が僅かに沈んだ直後、力強く地を蹴って飛び上がった。壁に当たったのか、バチン、と弾ける音が数度響く。
次の瞬間、辺りを包んでいた黒い影が消え去った。同時に、水中から顔を出した時のように、一気に肺に空気が入ってくる。
「っ、は……っ!」
「リズ! 大丈夫か!?」
いつの間にか場所が移っていた。周囲の景色が、木々に覆われた森に変わっている。
傍らに膝をついたのは、不安の色を浮かべたカイルだ。
「お、にい……げほっ、ごほっ!」
うまく息ができず、激しく噎せてしまう。
そんなリズの背中に手を回したカイルを、護衛騎士が慌てて止める。
「カイル様、まだ触れてはいけません! “ロスト”の残滓が……!」
「妹が死にそうなんだぞ!?」
瘴気や“ロスト”に汚染、侵蝕された者は、その穢れの影響を受ける。また、影響を受けた者に触れれば、穢れが移ることも。
万が一、穢れを受けた場合は、浄化魔法による浄化が必要になる。だからこそ、まだ浄化を受けていないリズには誰も近づかないというのに、カイルは一切、気にもしていない様子だ。
噛みつかんばかりの勢いのカイルを窘めたのは、両親や護衛騎士ではなく、落ち着いた少し高めの青年の声だった。
「まあまあ、落ち着いて。僕が飛んできたんだから大丈夫だよ」
白いローブに身を包んだその人物は、フードを目深に被っているせいでどんな見た目かは分かりにくい。声色から、若い青年だろうと予想が出来るくらいだ。
リズが“ロスト”に呑まれた後、父はすぐに王都の魔導師団に連絡を取った。通信用の魔石を持っていたのが不幸中の幸いだ。
ただ、シンシア伯領から王都までは、早馬でも三日はかかる距離。それも準備等が入るとなると、“ロスト”の浄化はともかく、リズの命は保つのかと思われた。
しかし、魔導師団で通信を取ってくれたその人から出た言葉は、「ちょうど『公爵』が一緒にいるから、今からそっちに行くよ」だった。そして、一時間も経たない内に転移魔法で現れたのだ。
青い魔石がついた杖を持つその人は、ゆったりとリズの隣にしゃがんで容態を見る。ついでに、リズに触れているカイルの手から侵蝕しようとしていた残滓を、彼に気づかれる前に自身の魔力で弾き飛ばした。
(……うん。呑まれたのに、寿命まで削られていないのはすごいね。さっきの光が関係しているのかな?)
到着した時、現場は膠着状態だった。“ロスト”に対して対抗手段がなかったので仕方がないが、護衛騎士をはじめ、リズの家族達も歯痒かっただろう。
すぐに浄化をしてしまおうとした時、どこからともなく飛んできた光が“ロスト”を切り裂き、あっという間に消し去ってしまったのだ。
(あっちは公爵達が追っているから、捕まえていたら見せてもらおうっと)
一緒に来た公爵は、幻獣に詳しい人物だ。幻獣の保護・管理を行う幻獣保護機関の所長を務める程に。
そんな彼が追っているのだからきっと逃しはしないだろうと見て、浄化に集中することにした。
カイルにリズを支えてもらったまま、浄化魔法を発動する。
「魔導師様、わたし……」
「よく頑張ったね。もう大丈夫。寝てていいよ」
浄化のおかげで、体から不快感と痛みが消えていく。
優しく頭を撫でられ、リズはゆっくりと目を閉じて意識を手放した。




