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20/26

Episode 20: ピロシキとレッドブル

今回の登場人物


田所トシキ

ごく普通の日常を支える青年。カラマーゾワ・ベーカリーで働いている。周囲に自然と溶け込み、環境へ柔軟に順応できるタイプだが、自分が周囲の人間関係に与えている微妙な影響にはまったく気付いていない。


サーシャ(アレクサンドラ・カラマゾヴァ)

敬虔な末妹。カラマゾヴァ三姉妹の末っ子で、心優しく敬虔なカトリック信者。精神的にはアリョーシャそのものと言える存在で、冷たい論理ではなく、穏やかな思いやりで人と人との関係を見つめている。


ミーチャ(ドミトリア・カラマゾヴァ)

ベーカリーの看板娘。店頭を切り盛りするカラマゾヴァ家の長女。接客用の完璧な笑顔を崩さない一方で、ブレイディの暴走には毎日のように振り回されている。根っからのツンデレで、心配すると無理やりピロシキを持たせるタイプ。


イヴァンナ・カラマゾヴァ

厳格な次女。カラマゾヴァ三姉妹の次女。寡黙で厳しく、一切ぶれない性格。その鋭く冷たい一言だけで、父ヴィクターさえ黙らせてしまう。


ヴィクター・カラマーゾワ

情熱あふれる職人パン職人。カラマゾヴァ家の父。パン作りを神聖な芸術と考えており、人工カフェインなどというものは、何世紀にもわたって受け継がれてきた酵母と薪窯への冒涜だと本気で信じている。


ブレイディ・ヴァーデン

止まらないエネルギー源。ハリウッドを目指す俳優志望。現在オーディション五十三連敗中。それでもまったく落ち込まず、レッドブルと底なしの前向きさだけで毎日を突き進んでいる。


シンディ・ゴールドバーグ

揺れる弟子。カヨの一番弟子であり、ルイーズの娘。何事も論理的に考えようとするが、トシキとサーシャの自然すぎる距離感を目の当たりにし、自分でも気付かないうちに心が揺れ始めている。


田所カヨ

純粋なデータ至上主義者。トシキの母。あらゆる出来事を観察データとリスク管理によって分析する。


ルイーズ・ゴールドバーグ博士

科学至上主義者。シンディの母。超常現象を、実証科学に対する個人的な挑戦と受け止めるほど徹底した合理主義者。


田所ケンイチ

唯一の常識人。トシキの父。カヨの機械のような専門用語を、人間にも分かる言葉へ翻訳する役目を、今日も黙々と務めている。


午前8時 ― ベーカリー・カラマゾヴァ


店のドアが開き、軽快な電子チャイムが鳴った。

「おはよう、ミーチャ!」

朝八時とは思えない勢いで、ブレイディ・ヴァーデンがベーカリーへ飛び込んできた。まるで朝日そのものが店内に突撃してきたような騒がしさだ。

開店と同時の来店は、これで五日連続だった。

「……おはよう、ブレイディ。」

ミーチャは即座に、完璧な接客用スマイルを浮かべる。背筋はまっすぐ、笑顔も非の打ちどころがない。

――ただし、その営業スマイルの奥では、片方のこめかみがぴくりと引きついていた。忍耐ゲージは、そろそろ危険水域に達している。

「昨日のオーディション? 見事に玉砕!」

ブレイディはカウンターへ身を乗り出し、誇らしげな笑顔で報告した。

「数えてみたら五十二連敗! 自己ベスト更新だ!」

「そう……。」

ミーチャは笑顔を崩さないまま答える。

「お祝いした方がいいのか、それともどこかへ連れて行ってもらった方がいいのかしら。」

「大丈夫! 俺は数秒で立ち直る男だから!」

ブレイディは胸を張る。

「今日の目標は、『マクベス』完全制覇!」

「ブレイディ。後ろでお客様が――」

「平気平気! すぐ終わるから!」

ブレイディは左腕を高々と掲げ、大げさな芝居の構えを取った。

「これは我が目の前に見える短剣か――!?」

「ブレイディィィ!!」

雷鳴のような怒声が厨房の奥から響き渡る。ヴィクターだった。

「芝居はやめろ! 注文するか帰れ!」

「悪い悪い!」

まったく動じる様子もなく、ブレイディは厨房へ向かって陽気に手を振った。

「ピロシキ二つお願い!」

「ただいま。」

ミーチャはトングで焼きたてのピロシキを二つ紙袋へ入れる。

その瞬間、ブレイディは慣れた手つきでリュックのファスナーを開け、冷え切ったアルミ缶をカウンターへ置く。

ゴトッ。銀と青。レッドブル。

「……」

ミーチャの手が止まった。カウンターの上に置かれたその缶を見つめたまま、思考が数秒停止する。

一方その頃、厨房ではトシキとサーシャが朝の生地をこねていた。中央の作業台で、二人は言葉を交わさなくても自然に動きを合わせている。片方が粉を振り、もう片方が生地をまとめる。互いの動線が重なることは一度もない。

手を止めないまま、サーシャが穏やかな瞳で売り場の方を見た。

「ブレイディさん、またいらしたのですね。」

「ああ。」

トシキは頬についた小麦粉を拭いながら笑う。

「これで五日連続。あの体力だけは本当に感心するよ。」

「ミーチャ、とても疲れてるようですね……。」

サーシャは優しく微笑んだ。

「あの方は場の空気を読むことが少し苦手ですけれど……。それでもミーチャさんは、心のどこかで彼のことを案じていらっしゃるのだと思います。」

「そう思う?」

サーシャは静かに頷く。

「ええ。人は心に余裕がなくなると、本当の優しさをきつい言葉で隠してしまうことがありますから。」

トシキは思わず笑みをこぼした。

「サーシャって、本当に誰の中にもいいところを見つけるよね。」

二人は静かに視線を交わす。その間も手は止まらない。まるで長年コンビを組んできた職人同士のような、息の合った動きだった。


2:00 PM — 静かな観察


昼の混雑もすっかり落ち着き、ベーカリーには穏やかな午後の空気が流れていた。

チリン、と控えめなベルが鳴る。

「こんにちは。」

シンディが肩にバッグを掛けたまま、店へ入ってきた。

「シンディ!」

厨房から顔を出したトシキの表情が、ぱっと明るくなる。

「どうしたの?」

「勉強の合間にちょっと気分転換。」

シンディは笑って店内へ足を進めた。

「近くまで来たから寄ってみただけ。」

奥からサーシャが現れ、白い布巾で手を拭きながら微笑む。

「またお会いできて嬉しいです、シンディ。」

「私もよ、サーシャ。」

二人は穏やかに笑みを交わした。

トシキも自然とサーシャの隣へ歩み寄り、焼き上がったパンを棚へ並べ始める。

「午後の仕込みがようやく終わったところなんだ。」

トシキが言う。

「二人とも、本当に息が合ってるわね。」

シンディは、その様子を眺めながら口にした。

トシキは楽しそうに笑う。

「まあ、毎日一緒にやってるからね。」

サーシャも穏やかに続けた。

「トシキさんは、本当に気が利く方なんです。私がお願いする前に、必要なことへ気づいてくださいます。」

トシキは照れくさそうに笑う。

「それはサーシャが教え方の上手な先生だからだよ。」

シンディは何も言わず、そのやり取りを見つめていた。笑顔も。会話の流れも。お互いの動きに自然と合わせる様子も。すべてがあまりにも自然だった。

シンディは笑顔を崩さなかったが、胸の奥に静かな重みが沈んでいくのを感じる。

(……本当に、ぴったりのコンビ。)

頭では理解していた。

毎日ここで一緒に働いているのだから当然だ、と。

それでも、その光景を外側から見つめている自分は、どこか取り残されているように感じてしまう。

「シンディ?」

トシキが首をかしげる。

「何か考え事?」

「え? あ、ううん!」

シンディは一瞬でいつもの笑顔を取り戻した。

「さっきまで勉強してた内容を思い出してただけ。」

トシキは安心したように笑う。

「はは、あんまり根を詰めすぎるなよ。」

「ありがとう。」

シンディも笑って返した。けれど胸の奥にできた小さなしこりだけは、そのまま消えずに残っていた。


3:00 PM — ティーブレイク


夕方の忙しい時間帯を前に、トシキとサーシャは店の片隅で温かい紅茶を飲みながら、一息ついていた。

「今夜もブレイディは来るだろうな。」

トシキは湯気の立つマグカップを両手で包みながら言った。

サーシャは静かにうなずく。

「ええ。本当に粘り強い方ですね。」

「最初の頃は、ミーチャもあいつのことをそこまで気にしてないのかと思ってたんだけど。」

トシキは苦笑した。

「最近は、姿を見るだけでぐったりしてる感じがする。」

サーシャは紅茶へ視線を落とし、穏やかに言った。

「ブレイディさんは、人との距離感を察することがあまり得意ではありません。」

少し間を置いて続ける。

「そしてミーチャは、自分の気力を内側で保ちながら生きる人です。絶えずブレイディさんの勢いを受け止め続けるのは、とても疲れることなのでしょう。」

トシキは笑う。

「レッドブルとウォッカみたいな感じ?」

サーシャは顔を上げ、いつものように真剣な表情で答えた。

「そうかもしれません。一方は勢いのまま突き進み、もう一方は凝縮された強さを秘めています。」

穏やかに微笑む。

「無理に混ざれば、お互いを疲れさせてしまいます。でも、時間をかけて理解し合えれば、きっとちょうど良い距離を見つけられるのではないでしょうか。」

トシキは思わず吹き出した。

「そんな二人の話まで、ありがたい教えみたいに聞こえさせるのはサーシャくらいだよ。」

サーシャは少し首をかしげ、穏やかに微笑んだ。


5:00 PM — 夕暮れ


太陽が地平線へ沈み始め、店内の床に長いオレンジ色の影が伸びる頃、シンディは再びベーカリーの扉を開いた。

「おや?」

レジの奥にいたミーチャが、少し面白そうな笑みを浮かべる。

「今日二回目ね?」

「家に帰る前に少し散歩してただけ。」

シンディは何でもないように答えた。

厨房では、閉店前の片付けのため、トシキとサーシャが大きなシンクの前に並んで立っていた。二人は焼き上げた天板を洗いながら、小さな声で会話を交わしている。時々、何気ないことで静かに笑う。その空間は、まるで二人だけで完成しているようだった。

(……また。)

シンディの胸に、小さな痛みが走る。

「あ、シンディ!」

トシキが彼女に気づき、明るく手を振った。

「座ってて。何か温かいもの淹れるよ。」

サーシャはすぐに手を拭き、慣れた動きで紅茶を淹れる。そして、シンディの前へそっと置いた。

「どうぞ、シンディ。」

「ありがとう、サーシャ。」

三人はしばらく談笑した。トシキはいつも通り明るく、サーシャは穏やかで礼儀正しい。そしてシンディも、いつものように完璧な笑顔を保っていた。しかし、帰る時間になる。

「それじゃあ、そろそろ行くね。」

「うん。またね、シンディ!」

トシキは笑顔で手を振った。そしてシンディがドアノブへ手を伸ばした、その瞬間。トシキはもうサーシャの方へ向き直っていた。

「次は上の棚のラックだよね?」

一切の間もなく、自然な流れで次の作業へ戻る。

カチッ。ドアが閉まる音。

店の外へ出たシンディの頬を、冷たい夕方の風が撫でた。彼女はコートを少し引き寄せながら、足元を見つめる。

(私がいても……いなくても……あの二人の世界は何も変わらない。)

それは燃え上がるような嫉妬ではなかった。

ただ静かで、重い疎外感だった。


6:00 PM — 閉店時間


店の明かりを落とし始めた頃、最後の来客を知らせるベルが鳴った。入ってきたのは、カヨとケンイチだった。

「ライ麦パンを一つ。」

カヨはいつもの落ち着いた声で注文し、きっちり用意した代金をカウンターへ置いた。

ミーチャから紙袋を受け取ると、カヨはパンの端をほんの少しだけちぎり、口へ運ぶ。

三秒。完全な沈黙。

「栄養バランス:優秀。密度:最適。風味構成:高度に洗練されている。」

ケンイチは隣で肩を落とし、大きくため息をついた。

「カヨ……朝食用のパンを買いに来ただけだよな? 毎回そんな成績表みたいな評価を出す必要ある?」

カヨはまったく動じない。

「私は正確な評価を伝えているだけです。」

その視線がカウンター越しに厨房へ向く。

そこではトシキとサーシャが、木製のトレーを一緒に片付けていた。

「トシキとサーシャ。」

カヨは淡々と分析を続ける。

「立ち位置の距離:約45センチ。動作の同期頻度:非常に高い。感情的安定性:最適。」

ケンイチは妻を見つめ、鼻の付け根を指で押さえた。

「カヨ……自分が何を言ってるか分かってる?」

少し困ったように続ける。

「最近の君、単に頭が切れるってレベルを超えてるよ。AIとかシステムプログラムみたいな話し方になってる。」

カヨは眼鏡の奥で、少しだけ首を傾げた。

「私は人間関係の動きを正確に観察しているだけです。」

「いや、それが怖いんだよ……。」

ケンイチは小声で呟いた。

その時。チリン。力のないベルの音が店内に響いた。入ってきたのはブレイディだった。

いつもの輝くようなエネルギーは完全に消え失せ、肩は落ち、目の下には疲労の影がある。

「こんばんは……。」

「ブレイディ。」

カヨは淡々と彼を見る。

「状態報告を。」

「今日の二回目のオーディション……53連敗……。」

ブレイディは床を見つめながら呟いた。ミーチャはカウンター越しに彼を見る。いつもの接客用の笑顔は消えていた。そこにあるのは、呆れと、ほんの少しの心配が混じった表情だった。彼女は何も言わず紙袋を取り出す。

そして、ピロシキを次々と詰め始めた。一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。

「ミーチャ……?」

ブレイディは袋を見つめて目を瞬かせる。

「こんなに注文してないけど?」

「計算ミスよ。」

ミーチャはぶっきらぼうに言いながら、膨らんだ袋を彼の胸へ押しつける。

「余計なことは聞かないで。持って帰って食べなさい。」

ブレイディの顔に、ゆっくりと本物の笑顔が戻る。

「……ありがとう、ミーチャ。」

ブレイディが夜の街へ戻っていく背中を、カヨは興味深そうに見つめていた。

「ミーチャの保護行動パターンは、高い感情的効率性を示しています。」

ケンイチはさらに深く鼻の付け根を押さえる。

「ほら、また『パターン』って言ってる……。」


8:00 PM — メッセージ


その夜、タドコロ家のリビング。

ガラスのテーブルの上に置かれたカヨのスマートフォンが振動した。ルイーズからの着信だった。

「もしもし。」

『カヨ! 専用機材の調達が正式に完了したわ!』

スピーカー越しのルイーズの声は、いつものように勢いがあった。

『来週、第二回グレッチェン・アパート調査を開始するわよ!』

「了解しました。」

カヨは落ち着いた声で答える。

「チーム構成は?」

『あなた、私、エマ、そしてレイチェル!』

カヨは眼鏡を指で押し上げる。

「現場のバランスを調整するため、特定の変数を追加することを推奨します。」

『誰?』

「サーシャ・カラマゾヴァ。」

カヨは淡々と続ける。

「彼女は敬虔なカトリック信者であり、精神的な支柱として機能します。」

電話の向こうで、キーボードを叩く音が響いた。

『……合理的ね! 追加!』

「さらに、トシキ。」

カヨは続ける。

「サーシャが参加する際の最適な接続役になります。」

『了解! 追加!』

「そして最後に、シンディ。」

その瞬間。電話の向こうで激しく響いていたキーボードの音が、突然止まった。

『……あなた、私の娘を超常現象調査に参加させるつもり?』

「現在の彼女には、自分の環境を直接観察し、精神状態を整理する機会が必要です。」

少し沈黙。

そして。

『……分かったわ。許可する。』


数マイル離れた場所。

自室の机に座っていたシンディのスマートフォンが震えた。カヨからのメッセージだった。


【来週、ルイーズの現地調査を実行します。トシキとサーシャも参加します。あなたも参加してください。】


シンディは光る画面を見つめた。

「トシキとサーシャも参加します。」

その言葉だけが、強く目に入った。今日のベーカリーで見た光景が蘇る。並んで立つ二人。静かで、誰にも入り込めないような、二人だけの空間。

(行かなかったら……自分がどこにいるのか、永遠に分からない。)

シンディはスマートフォンを強く握り、短く返信を打ち込んだ。


【参加します。】


同じ頃。

ルイーズの地下研究室。点滅するモニターと最新鋭の観測機器に囲まれながら、ルイーズは前回の調査ノートを開いていた。赤いインクで書かれた結論。


【結論:説明不能な超常現象??】


ルイーズは黒いマーカーを取り出す。そして、紙が破れそうなほど激しく疑問符を塗り潰した。

「却下。」

誰もいない研究室へ、冷たい声が響く。

「科学は疑問符を認めない。」

新しいページを開く。そして、揺るぎない確信を込めて書き込んだ。


【第二回グレッチェン・アパート完全説明作戦】

目的:精密な科学的観察によって、全ての未知変数を排除する。

参加者:

カヨ、エマ、レイチェル、トシキ、サーシャ、シンディ。

パタン。ルイーズはノートを勢いよく閉じた。

「完璧。」

ガラス窓の向こうに広がる、光り輝くロサンゼルスの夜景。その景色を眺めながら、ルイーズの顔に危険なほど自信に満ちた笑みが浮かんだ。

調査は決定した。

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