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Episode 19: 悪魔とゴーストバスターズ(Part 2)

登場人物


田所カヨ

田所家の絶対的な司令塔。徹底した現実主義者で、あらゆる物事を論理・秩序・管理によって判断する女性。そんな彼女の揺るぎない現実認識が、生まれて初めて説明不能な事態に直面する。


エマ

ハリウッドを代表する人気女優。目の前で超常現象が起きても恐怖より興奮が勝ち、まるで超大作映画の最前列に座る観客のように、この悪夢を全力で楽しんでいる。


レイチェル・ジマーマン

慢性的なストレスを抱える弁護士。本来は非常に思いやりのある性格だが、事態があまりにも常軌を逸したせいで、共感能力が高速パニックモードに上書きされてしまっている。


⸻


学術・オカルト陣営


ルイーズ・ゴールドバーグ博士

シンディの母で、UCLAの心理学教授。そして認定マッドサイエンティスト。心理学では説明できない現象に遭遇すると、「超常現象の存在」を認める代わりに思考がシステムエラーを起こし、最新の科学機器を手に幽霊へ宣戦布告する。


グレッチェン

ゲーテの『フォースト』を専門とする、人文学専攻の大学院生。極度の睡眠不足に苦しんでおり、謎の存在が懐疑論者へ反応するたびに、その現象を受信してしまう「生体インターフェース」のような役割を担っている。


マダム・ザラ

安っぽいアクセサリーをこれでもかと身につけた謎の霊媒師。低予算の大げさな演技と、真偽不明のオカルト理論を武器にしている。

Scene 1:コールドリーディングと冷徹な科学


グレッチェンの薄暗く手狭なアパート。

紫色のローブをまとったマダム・ザラは、やつれ切ったグレッチェンの周りをゆっくりと歩き回っていた。

マダム・ザラ

「感じる……ええ……はっきりと感じる……。」

両手を宙へ伸ばしながら、小さくささやく。

「強大な気配。闇に満ち、太古から存在する、とてつもなく恐ろしい力……。」

ルイーズはすぐさまタブレットを持ち上げ、スタイラスペンを武器のように構えた。

ルイーズ

「典型的なコールドリーディングの手法ですね。」

ペンを素早く走らせる。

「曖昧で反証不能な形容を並べ、被験者に強い恐怖と畏怖を植え付ける。教科書通りの心理操作です。」

マダム・ザラは完全に無視すると、そのままグレッチェンの左肩の後ろへ歩いていった。


マダム・ザラ

「ここよ。」

芝居がかった仕草で目を閉じる。

「今、この場所に立ってる。」

エマが身を乗り出した。

エマ

「見えるの!?」

マダム・ザラ

「ええ、はっきりと。」

厳かにうなずく。

「非常に背が高く、真っ黒なロングコートをまとってる。」

カヨは部屋の隅を静かに見回した。

カヨ

「私には何も見えません。」

マダム・ザラ

「あなたの霊的な視力は、まだ十分に開かれていないからよ。」

淀みなく言い切る。

「ですが、私にははっきり見えます。彼は手に何かを持っています。」

レイチェル

「な、何を持ってるんですか!?」

不安に震える声で尋ねた。

マダム・ザラ

「杯です。」

見えないグラスを持ち上げるように口元へ運ぶ。

「深紅の液体で満たされた杯……。」

そして、低く不気味な声へ変わる。

マダム・ザラ

「それはワインじゃないわ……。血のように赤い液体。」

ゆっくりと一口飲む真似をした。ルイーズは鼻で笑った。

ルイーズ

「完全に演出ですね。」

タブレットへ高速で入力する。

「物的証拠ゼロ。心理的暗示一〇〇パーセント。」

しかし、マダム・ザラは止まらない。さらに声を低くし、悪魔のようなしゃがれ声で続けた。

マダム・ザラ

「……今、彼の声が聞こえる。」

グレッチェンの肩が大きく震えた。

グレッチェン

「な、何て言ってるんですか……?」

マダム・ザラ

「『この女は私のものだ』――『その魂はすでに契約済み。血の契約によってな!』」

グレッチェンの顔から血の気が引いた。

グレッチェン

「そんな……!」

充血した目に涙があふれる。

「私、何も契約なんてしてません!」

マダム・ザラ

「ですが、あなたは禁断の書を読んだ。」

鋭く指を突きつける。

「第六章の言葉を、声に出して読んだのです!

グレッチェンは両手で顔を覆い、激しく泣き始めた。

グレッチェン

「あれは研究のためだったんです……! フォーストの韻律を分析していただけで……!」

ルイーズのスタイラスペンは、一瞬たりとも止まらない。

ルイーズ

「被験者は架空の物語構造をきっかけに、強い罪悪感を形成しています。」

淡々と入力を続ける。

「霊媒師は、その不安を利用しています。」

カヨはマダム・ザラを完全に無視し、そのままグレッチェンの前へしゃがみ込んだ。

カヨ

「グレッチェン。」

静かで落ち着いた声だった。

「私を見てください。」

グレッチェンは涙に濡れた顔をゆっくり上げた。

カヨ

「この部屋に悪魔はいません。」

その声は、微塵も揺るがなかった。

「あなたは極度の精神的ストレス状態にあります。」

グレッチェンは黙ったままだった。

カヨ

「社会から孤立し、深刻な睡眠不足のまま、何か月も十八世紀の暗い文学と向き合い続けてきた。」

穏やかな口調で続ける。

「心が疲れ切っているだけです。」

グレッチェン

「でも……。」

声が震える。

「毎日、あの声が聞こえるんです……。」

カヨ

「それはあなた自身の内なる声です。」

カヨは即座に答えた。

「典型的な侵入思考ですね。」

ルイーズが前へ出て、カヨの隣に並んだ。

ルイーズ

「その通りです。」

冷たく、事務的な口調だった。

「極度の孤立。深刻な睡眠不足。そして陰鬱な文学への過度な没頭。」

指を一本ずつ折りながら数えていく。

「精神状態を破綻させるには、理想的な条件がそろっています。」

ルイーズは白い名刺入れを取り出した。

ルイーズ

「専門的な精神医療を受けるべきです。」

名刺を一枚抜く。

「必要であればカウンセリングと投薬も行います。まずは包括的な心理評価から始めましょう。」

グレッチェンは、二人の理詰めの説明を前に、ただ圧倒されるばかりだった。


⸻


Scene 2:査読付き尋問


マダム・ザラ

「間違ってる!」

ターバンを揺らしながら大声で割って入る。

「これは本物なのよ!」

カヨとルイーズは同時に振り向いた。

マダム・ザラ

「あなたたちには見えていないだけ!」

二人の間へ割って入り、腕輪をジャラジャラ鳴らす。

「本物の超常的存在よ!」

ルイーズ

「実証的な証拠は?」

間髪入れずに尋ねた。

マダム・ザラ

「感じるんです!」

ルイーズ

「それは個人的な直感であって、証拠ではありません。」

マダム・ザラ

「霊的感受性です!」

ルイーズ

「どのように測定するのですか?」

マダム・ザラ

「測定?」

ルイーズ

「研究室で再現可能ですか?」

マダム・ザラ

「再現?」

ルイーズの高速尋問を受け、マダム・ザラは目に見えて汗をかき始めた。エマはニヤニヤしながらレイチェルへ身を寄せる。

エマ

「始まったわね。」

レイチェル

「科学モードに入っちゃった……。」

恐る恐るささやく。しかし、ルイーズに容赦はない。

ルイーズ

「あなたの診断能力は、第三者機関による検証を受けていますか?」

マダム・ザラ

「もちろん!」

ルイーズ

「機関名を。」

マダム・ザラ

「それは……その……。」

ルイーズ

「認可を受けた研究機関ですか?」

マダム・ザラ

「秘教団体で――」

ルイーズ

「査読付き論文は発表していますか?」

マダム・ザラ

「え?」

ルイーズ

「統計的有意性は?」

マダム・ザラ

「え?」

ルイーズ

「サンプルサイズは?」

マダム・ザラ

「何の話をしてるのよ!?」

カヨは冷ややかにそのやり取りを見つめていた。

カヨ

「ルイーズ。」

ルイーズ

「何でしょう。」

カヨ

「あなた、面接をしているようにしか見えません。」

ルイーズ

「科学における基本的な検証手順です。」

まったく表情を変えずに答える。

カヨ

「私には違いが分かりません。」

マダム・ザラの顔はみるみる真っ赤になった。

怒りと屈辱で肩を震わせる。

マダム・ザラ

「あなたたちは古代の力を何も分かってない!」

ルイーズ

「その通りです。」

落ち着いてうなずく。

「だからこそ、データを求めています。」

マダム・ザラ

「霊の世界にデータなんてない!」

ルイーズ

「では、診断はできません。」

マダム・ザラ

「できる!」

ルイーズ

「できません。」

マダム・ザラ

「できる!」

ルイーズ

「できません。」

いつの間にか、一流大学教授と自称霊媒師による、小学生の口げんかのような応酬になっていた。エマは吹き出しそうになりながら肩を震わせている。カヨはようやくマダム・ザラへ向き直った。

カヨ

「率直に申し上げます。」

マダム・ザラ

「何?」

カヨ

「あなたは、この子の力になっていません。」

部屋が静まり返る。グレッチェンまで顔を上げた。

カヨ

「この子は疲れ切っています。」

マダム・ザラは黙った。

カヨ

「眠れていません。」

沈黙。

カヨ

「恐怖に押し潰されそうになっています。そして、あなたはその恐怖を見世物にしている。」

マダム・ザラは体を強張らせた。

マダム・ザラ

「私は魂を救おうとして――」

カヨ

「いいえ。」

カヨは静かに首を振った。

「あなたが売っているのは、恐怖です。」

ルイーズが珍しく、即座に援護に入る。

ルイーズ

「同意します。」

タブレットのカバーを閉じる。

「現時点で、この部屋で最も有害な存在は悪魔ではありません。」

マダム・ザラ

「何ですって?」

ルイーズ

「あなたです。」

マダム・ザラ

「……っ!」

言葉を失った。

エマはついに吹き出し、レイチェルは両手で顔を覆った。

カヨ

「お帰りください。」

声を荒らげたわけではない。それでも、その一言には逆らう余地のない静かな威圧感があった。

マダム・ザラは口を開き、閉じ、もう一度開く。カヨの冷たい視線と、ルイーズの分析的な眼差しを見比べると、ついに観念した。

マダム・ザラ

「……後悔することになる!」

クリスタルボールを乱暴にバッグへ押し込む。

「みんな後悔するんだ!」

ルイーズ

「その可能性は統計的には否定できません。」

礼儀正しくうなずく。

「ただし、現時点ではそれを裏付ける予測データは存在しません。」

マダム・ザラ

「もう帰る!」

ベルベットのテーブルクロスをひったくるように畳み、アクセサリーをガチャガチャ鳴らしながら荷物をまとめる。そのまま玄関へ向かい、振り返って叫んだ。

マダム・ザラ

「冥界の力を侮辱したんだ!」

ルイーズ

「査読付き学術誌へ論文を投稿される日を楽しみにしています。」


バタン!!

玄関のドアが勢いよく閉まり、アパート全体が揺れた。静寂が戻る。

ルイーズはタブレットを軽く操作した。

ルイーズ

「外部からの誤情報源を排除しました。」

カヨは深いため息をついた。


カヨ

「人とのやり取りまで、システム保守のように表現するのはやめてください。」

ルイーズ

「事実を正確に要約しただけです。」

グレッチェンはぼう然と二人を見つめ、小さくつぶやいた。

グレッチェン

「じゃあ……もしかしたら、本当に全部……私の思い込みだったのかな……。」

部屋を覆っていた重苦しい空気が、少しだけ和らいだ。ルイーズは白い名刺を取り出し、グレッチェンへ差し出す。

ルイーズ

「月曜日に、あなたの心理状態を改めて評価します。」

名刺を手渡す。

「午前九時に私のオフィスへ電話してください。」

グレッチェンは震える手で名刺を受け取った。

グレッチェン

「ありがとうございます……。」


⸻


Scene 3:システムエラー


四人は帰る支度を始めた。

グレッチェンの表情には、先ほどよりもわずかな落ち着きが戻っていた。

ルイーズ

「ご家族に精神疾患の既往歴はありますか?」

カヨ

「ルイーズ。」

間髪入れずに遮る。

「今はやめてください。」

ルイーズ

「失礼しました。」

そう言ったものの、表情に反省の色はまったくない。レイチェルは出口へ向かい、エマは大きく伸びをした。

エマ

「これで一件落着……ってことでいいのよね?」

グレッチェン

「はい……少しだけ、気持ちが楽になりました……。」

部屋は穏やかだった。いつもの日常が戻ったように思えた。


ドン!


突然、重い衝撃音が静寂を切り裂いた。全員が一斉に振り向く。本棚の奥。一冊の分厚い本が床へ落ちていた。誰も近くにはいない。誰も触れていない。


エマ

「……落ちた。」

レイチェル

「うん……落ちた。」

ルイーズはすでに動き出していた。

ルイーズ

「興味深いですね。」

本棚へ歩み寄り、その場にしゃがみ込む。床には、一冊の重厚な革表紙の本が開いたまま転がっていた。


『フォースト』


グレッチェンの顔から、一瞬で血の気が引いた。その本は、偶然開いたわけではなかった。

ある特定のページが、きれいに開かれていた。

そして、一文だけに赤い線が引かれていた。

カヨは身をかがめ、その一節を読み上げる。

カヨ

「『これが、あのプードルの正体だったのか。』」

ルイーズが片眉を上げる。

ルイーズ

「有名な一節なのですか?」

グレッチェン

「それは……。」

声はかすれ、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

「メフィストフェレスが、自分の正体が悪魔だと明かす場面なんです……。」

沈黙が部屋を支配した。エマの目だけが、興奮に輝く。

エマ

「ちょっと待って。このタイミング、映画みたいなんだけど!」

ルイーズ

「偶然です。」

即答だった。あまりにも早すぎる返答。

カヨは、その反応の速さに気付いた。

ルイーズはすぐに本棚の調査を始める。

ルイーズ

「棚がわずかに傾いています。」

ペンで角度を測る。

「私たちの足音による振動で重心が移動し、本が落下したのでしょう。」

エマ

「じゃあ、どうしてそのページが開いたの?」

ルイーズ

「偶然です。」

エマ

「このタイミングで?」

ルイーズ

「偶然です。」

今度は、ほんの少しだけ声が高くなった。カヨは腕を組む。

カヨ

「ルイーズ。」

ルイーズ

「何でしょう。」

カヨ

「汗をかいていますか?」

ルイーズ

「実証的観察によって発汗することはありません。」

グレッチェンは震えながら、その一節を見つめていた。

グレッチェン

「あの言葉……。」

エマ

「何かあるの?」

グレッチェン

「彼が……毎日口にする、一番好きな言葉なんです……。」

ルイーズは勢いよくタブレットへペンを走らせた。

ルイーズ

「被験者は、無関係な物理現象と幻聴を結び付ける確証バイアスを示しています。」

まるで自分自身へ言い聞かせるようにつぶやく。

その時だった。エマが突然、小さく身震いし、ジャケットを胸元へ引き寄せた。

エマ

「……ねえ。私だけ? 急に寒くなってない?」

カヨも気付いていた。部屋の温度が、一気に落ちた。ほんの数秒で、室内は冷凍庫のような寒さへ変わる。レイチェルは両腕で自分を抱き締めた。白い息が、はっきりと空中へ浮かぶ。

レイチェル

「な、何これ!? どうなってるの!?」

グレッチェンはベッドの上で小さく身を縮め、歯をガタガタ鳴らしていた。

グレッチェン

「怒ってる……。」

カヨ

「誰がですか?」

グレッチェン

「ザラじゃない……。」

恐怖に震えながら、ゆっくり顔を上げる。

グレッチェン

「彼が……私たちを見てる……。」

ルイーズは、すでに窓へ向かって歩き始めていた。

ルイーズ

「急激な温度低下を確認。」

スマートウォッチを見て時間を記録し、そのまま窓枠を調べ始める。

「建物の隙間風を確認します……。」

そして、動きが止まった。窓は完全に閉まっていた。鍵もかかっている。外から冷気が入り込む隙間は、どこにもない。ルイーズの冷静な仮面に、小さな亀裂が走った。

ルイーズ

「……理屈に合いません。」

エマ

「理屈に合わないって、どういうこと!?」

ルイーズ

「熱が逃げる経路が存在しません。」

言い終えるより早く――


バーン!!!


窓が爆発したかのような勢いで開いた。書類が一斉に宙へ舞う。研究ノート、付箋、分厚いカーテンまでもが、突然吹き荒れた暴風に激しくあおられた。床に落ちていた『フォースト』のページが、ものすごい勢いでめくれ始める。

レイチェル

「いやあああ!! いや、いや、いや、いや!!」

悲鳴を上げながら壁際まで後ずさる。エマは恐怖と興奮が半々になったような表情で叫んだ。

エマ

「嘘でしょ!? これ、四D映画じゃない!」

カヨは開いた窓の外へ目を向け――動きを止めた。街灯は静止したまま。歩道の木々も、一枚たりとも葉を揺らしていない。外には風がまったく吹いていなかった。嵐は、この部屋の中だけで起きていた。ルイーズは舞い散る紙をかき分けながら窓へ突進し、窓枠をつかんだ。

ルイーズ

「真鍮製ラッチの機構を確認します!」

レイチェル

「今なの!? 今、点検するの!?」

ルイーズ

「実証的分析は天候では中断しません!」

吹き荒れる風に負けじと叫ぶ。

髪は激しく乱れていた。

「金具の経年劣化、あるいは室内外の気圧差によって――」

言葉が止まった。カヨはすぐに異変へ気付く。

カヨ

「ルイーズ?」

返事はない。ルイーズは真鍮のラッチを見つめたまま、目だけを忙しく動かしていた。計算している。しかし、その計算が成立しない。

ルイーズ

「……違います。」

カヨ

「何がですか?」

ルイーズ

「私の記憶です。」

エマ

「え?」

ルイーズ

「午後二時ちょうど、この部屋へ入った際、私はこの窓を目視で確認しています。」

レイチェル

「それで!?」

ルイーズ

「鍵は閉まっていました。内側のデッドボルトも、完全に掛かっていました。」

誰も口を開かなかった。ルイーズはゆっくり振り返る。

ルイーズ

「機械的な故障だけで、内側から掛かったデッドボルトが解除されることはありません。」

レイチェルは恐怖で一歩後ずさった。

レイチェル

「じゃあ……どうやって開いたの?」

ルイーズ

「説明できません。」

その一言が、凍りついた空気の中へ重く落ちた。

現実を数式と理論で説明し続けてきた女。ルイーズ・ゴールドバーグ博士が、生まれて初めて『説明できません』と認めた。

外の木々は、なお静止したままだった。しかし部屋の中だけでは、局地的な嵐が吹き荒れ続けている。

グレッチェン

「言ったでしょう……。」

ベッドの上で泣きながらつぶやく。

「彼は……疑う人が嫌いなの……。」

その瞬間――


パタッ。


風が止んだ。宙を舞っていた紙は、雪のように静かに床へ落ちる。カーテンも真っすぐ垂れ下がった。

そして――開いていた窓が、ゆっくりと、静かに閉じていく。


カチリ。


真鍮のラッチが、ひとりでに音を立てて掛かった。誰一人、触れていない。レイチェルの顔から血の気が引く。

レイチェル

「……今の、見た?」

エマは荒く息をつきながら、引きつった笑みを浮かべた。

エマ

「うん……見た。みんな見たわ。」

カヨは鍵の掛かった窓をじっと見つめたまま、頭の中で状況を整理していた。ルイーズはタブレットへ目を落とす。これまで、どんな場面でも止まることのなかったペンが――完全に止まっていた。

カヨ

「……ルイーズ。」

返事はない。

カヨ

「ルイーズ。」

五秒にも及ぶ重苦しい沈黙のあと、ようやくルイーズが口を開いた。その声は、ささやき声のように小さかった。

ルイーズ

「現在の観測データは……私の心理学的モデル、および物理学的モデルでは説明できません。」

誰も笑わなかった。

ルイーズ

「局所的な急激な温度低下。機械式ラッチへの物理的干渉。そして現象同士の正確な時間的一致……。」

唇を強く噛みしめる。

「個々であれば、統計上の異常として扱えます。しかし、それらが同時に発生したとなると……。」

彼女は何も書かれていないタブレットの画面を見つめた。

ルイーズ

「……その確率は、計算したくありません。」

沈黙が流れる。部屋の温度は少しずつ元へ戻り始めていたが、誰一人として安心はできなかった。

レイチェル

「もう……お願いだから帰らない? 今すぐ!」

エマ

「賛成! 全会一致で!」

カヨは静かに声を掛けた。

カヨ

「ルイーズ。帰ります。」

ルイーズは窓の前から動かなかった。まるで、真鍮のラッチそのものに、自分の学者人生を裏切られたかのような目で見つめ続けている。

カヨ

「ルイーズ。」

それでも反応はない。カヨはため息をついた。

カヨ

「その窓枠と結婚するおつもりですか?」

ルイーズ

「そのような家庭設計は予定していません。」

カヨ

「でしたら、足を動かしてください。」

ルイーズはようやく振り返った。その表情には、生まれて初めてと言っていいほどの戸惑いが浮かんでいた。理屈では説明できないものを前にした、一人の科学者の顔だった。


⸻


Scene 4:現実主義者のバグ


四人は無言のまま階段を駆け下りた。

コツ、コツ、コツ……

足音だけが暗い階段へ響く。

二階。一階。そして出口。外へ出ると、ロサンゼルスの夜風が頬をなでた。穏やかな、本物の風だった。

レイチェルは大きく息を吐く。

レイチェル

「……何だったの、あれ。」

誰も答えない。

レイチェル

「悪魔? 幽霊? 集団ヒステリー?」

エマ

「集団ヒステリーで窓の鍵は開かないでしょ、レイチェル。」

レイチェル

「そうよね! そんなわけないじゃない!」

両手で顔を覆う。

「じゃあ何だったのよ!?」

カヨは静かな夜空を見上げた。

カヨ

「……分かりません。」

エマは目を丸くして振り返る。カヨが、「分からない」と口にした。それ自体が異常事態だった。

カヨ

「現時点では、結論を導くには観測データが不足しています。」

エマ

「じゃあ、公式見解は?」

カヨはしばらく黙っていた。そして短く答える。

カヨ

「保留です。」

エマは思わず吹き出した。

エマ

「今の、人類史上一番カヨらしい答えだったわ!」

その隣では、ルイーズがタブレットを見つめていた。しかし、ペンはまだ一文字も動いていなかった。

レイチェル

「ルイーズ……何か言ってよ。何でもいいから。」

ルイーズはしばらく沈黙したあと、ゆっくり口を開いた。

ルイーズ

「データセットに、根本的な破綻が生じています。」

レイチェル

「破綻?」

ルイーズ

「急激な温度低下、書籍の運動、そして機械式ラッチの解除。」

ゆっくり首を横へ振る。

「これらを一つの現象として統合すると……私の基礎方程式そのものに、致命的な誤りがあるという結論になってしまいます。」

誰も笑わなかった。ルイーズにとって、自分の方程式が間違っていたと認めることは、自分の世界そのものが崩れるのと同じ意味だった。


⸻


Scene 5:真夜中の田所家


深夜。や田所家。

家の中は静まり返っている。壁の時計が午前零時を回った。

カヨはベッドに横になったまま、天井を見つめ続けていた。一睡もできない。普段の彼女にとって睡眠は管理すべき資源に過ぎない。だが今夜だけは違った。頭の中で、現実を処理するシステムが延々と同じ計算を繰り返している。

落ちた本。赤い下線。異常な低温。ひとりでに閉まり、施錠された窓。

そして――打ちのめされたルイーズの表情。カヨは一度目を閉じた。だが、すぐにまた開く。隣では健一が寝返りを打った。

健一

「……カヨ?」

カヨ

「起きています。」

健一

「だろうと思った。」

健一は小さく苦笑する。

「なんだか珍しいね。」

カヨ

「そうでしょうか。」

健一

「ものすごく珍しいよ。」

優しく答える。

「仕事で何かあった?」

カヨ

「いいえ。」

健一

「シンディ?」

カヨ

「違います。」

健一

「エマ?」

カヨ

「それは常に平常運転です。」

暗闇の中で健一は笑った。

健一

「じゃあ、何があったの?」

寝室は静まり返る。しばらく天井を見つめていたカヨは、ようやく口を開いた。

カヨ

「今日……論理では説明できない現象を目にしました。」

健一は一気に目を覚ました。

健一

「説明できない? 君が?」

カヨ

「はい。」

健一は少し体を起こす。これは歴史的事件だった。カヨは人生でずっと、「分からない」と言わない人だった。調べ、分類し、結論を出す。それが彼女だった。

健一

「何があったの?」

カヨ

「……一言では説明できません。」

健一

「宇宙人?」

カヨ

「違います。」

健一

「CIA?」

カヨ

「違います。」

健一

「国税庁?」

カヨ

「それも別の意味で恐ろしいですね。」

健一は声を立てて笑う。カヨも、ごくわずかに笑みを浮かべた。けれど、その奥に残る緊張を健一は見逃さなかった。

健一

「大丈夫かい、カヨ?」

カヨはすぐには答えなかった。そして、とても小さな声で尋ねる。

カヨ

「健一。」

健一

「うん?」

カヨ

「人間には理解できないものが、この世界には存在すると思いますか?」

健一は数秒だけ考え、それから穏やかに答えた。

健一

「たぶん、あるんじゃないかな。」

カヨは彼のほうへ顔を向ける。

カヨ

「そんなにあっさりですか?」

健一

「うん。」

健一は布団の中で肩をすくめた。

「世の中って、人間がまだ分かってないことだらけでしょ。」

少し笑う。

「人間が全部解明し終わってるって考えるほうが、むしろ不自然じゃない?」

カヨは黙った。健一は続ける。

健一

「もちろん、幽霊がいるって言いたいわけじゃないよ。でもさ。」

「現実って、思ってるよりずっと色々あるんじゃないかな、カヨ。」

その言葉は静かに、しかし確かにカヨの胸へ残った。

ブルブル。ブルブル。

サイドテーブルのスマートフォンが震える。暗い寝室に画面の明かりが灯る。カヨは手を伸ばいて画面を確認した。


【送信者:ルイーズ・ゴールドバーグ】


明日0900時。

軍用サーマルセンサーおよび電磁場測定器を至急手配しました。

被験者の部屋を再調査します。

異常現象を定量化せず放置することは、科学への侮辱です。


健一は画面をのぞき込み、思わず吹き出した。


健一

「立ち直るの、早いね。」

カヨ

「ええ。非常に早いです。」

カヨは短く返信を打つ。


【宛先:ルイーズ・ゴールドバーグ】


72時間待機してください。

まずはグレッチェンの睡眠と精神的回復を優先します。


三秒後。再びスマートフォンが震えた。


【送信者:ルイーズ・ゴールドバーグ】


了解しました。

ただし、軍用センサー類はすでに購入済みです。

科学は民間人の都合を待ちません。


カヨ

「……本当に困った方ですね。」

小さくつぶやく。健一は声を上げて笑い、そのまま枕へ頭を戻した。

健一

「君たちも大変だ。」

カヨ

「まったくです。」

カヨはスマートフォンを伏せ、ベッドサイドへ置いた。

寝室は再び静寂に包まれる。健一の寝息は、ほどなく穏やかなリズムへ戻っていった。カヨはもう一度だけ、静かな天井を見上げる。明日になれば、世界はまた秩序だった日常へ戻る。

――そう願っていた。

しかし心の奥底には、小さな疑問が残り続けていた。まだ答えは出ない。静かな闇の中で、その問いだけが、わずかなノイズのように点滅し続けていた。


To Be Continued…

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