Episode 18: 悪魔とゴーストバスターズ
第18話 登場人物
調査チーム
田所カヨ
田所家の絶対司令官。
優れた管理能力と現実的判断力を持つ。
超常現象やオカルトの類は「生活習慣の乱れと判断力不足が生み出す概念的事故」だと考えている。
エマ
ハリウッドの人気女優。
カヨへの依存度が高い。
今回の騒動を、ホラー映画を観る観客のような純粋な興味と興奮で楽しんでいる。
レイチェル・ジマーマン
慢性的なストレスを抱える弁護士。
共感能力が高すぎる一方で、人を断る能力が極端に低い。
その結果、悪魔を名乗る存在に悩む依頼人の弁護まで引き受けることになった。
⸻
学術・オカルト関係者
ルイーズ・ゴールドバーグ
シンディの母。
UCLA心理学教授。
人間の苦悩を研究対象として愛する危険人物。
精神的な異常や破綻を発見すると、研究者として異様な興奮を見せる。
グレッチェン
ゲーテの『フォースト』を研究する大学院生。
研究への異常な没頭の結果、自分の左肩にメフィストフェレスが現れたと信じている。
慢性的な睡眠不足状態。
マダム・ザーラ
派手な装飾品を身に着けた霊媒師。
曖昧で神秘的な言葉を駆使し、人々を超常現象の世界へ導く。
その能力が本物かどうかは不明。
午後。
ロサンゼルス市内の、とあるカフェ。
カヨ、エマ、レイチェルの三人は、小さな丸テーブルを囲んで座っていた。エマはハーブティーを一口飲みながら、向かいに座るレイチェルの疲れ切った顔を眺める。
「それでレイチェル。最近、お仕事の方はいかがですか?」
「……ものすごく複雑なの。」
レイチェルはこめかみを指で押さえ、大きくうめいた。カヨは鋭い視線で彼女を見つめる。
「また厄介な依頼人を引き受けてしまったのですか?」
「……ええ。」
「今回は、どのような案件ですか?」
レイチェルは深いため息をついた。
「悪魔よ。」
カヨとエマは顔を見合わせた。
「悪魔?」
エマが目を丸くする。
「そう。」レイチェルは声を潜めた。「ある女性から相談を受けたの。召喚儀式に成功したって言うのよ。」
「召喚儀式ですか?」
「本人は、メフィストフェレスが自分の前に現れたと本気で信じているの。」
「メフィストフェレス!?」
エマの目が一気に輝く。
「ゲーテの『フォースト』に出てくる、あのメフィストフェレス!?」
「その通り。」レイチェルは頷いた。
「文学を研究している大学院生なんだけど、『フォースト』を読み込み続けていたら、本当に現れたって言うの。」
カヨは静かにエスプレッソカップを置き、ゆっくりと息を吐いた。
「レイチェル。」
「なに?」
「そのような案件で、依頼人は弁護士に何を期待しているのですか?」
「分からないわよ!」
レイチェルは両手で顔を覆った。
「でも、本当に切羽詰まっていたの。誰かが私の名前を教えたみたいで……。」
「それで引き受けてしまったのですか?」
カヨの声が一段低くなる。
「……断れなかったの。」
レイチェルは肩を落とした。
「本当に必死そうだったから。」
カヨは額に手を当てた。
「レイチェル……。」
エマが勢いよく身を乗り出す。
「ちょっと待って! すごく面白そうじゃない!」
「まったく面白くありません。」
「だってメフィストフェレスよ? しかも『フォースト』! 最高じゃない!」
「エマ。」
「なに?」
「私たちは心霊調査をする訳ではありません。」
「でも見てみたい!」
エマは子どものように目を輝かせる。
「社会科見学みたいなものじゃない!」
カヨはしばらく黙り込んだ。やがて手帳を閉じる。
「……いつですか?」
レイチェルが顔を上げる。
「明日の午後。住所ならここにあるわ。」
「やった!」
エマは両手を高く掲げた。
「突撃調査開始!」
カヨは疲れ切ったようにため息をつく。
「分かりました。私も同行します。」
「本当に!?」
「レイチェルが誤って『事故物件付き住宅』の売買契約書へ署名しないよう、監督するためです。」
⸻
翌日、午後二時。
カヨ、エマ、レイチェルの三人は、指定されたアパートの前へ到着した。かなり古い建物だった。外壁の塗装は剥がれ、非常階段には赤茶けた錆が浮き、決して管理状態が良いとは言えない。
「三階、三〇三号室です。」
レイチェルはスマートフォンを確認した。エマは薄暗い入口を見上げ、嬉しそうに笑う。
「古びたアパートに一人で暮らす文学研究者。ホラー映画のお手本みたいな舞台ね。」
「重度の睡眠不足と社会的孤立状態にある大学院生です。」
カヨは淡々と訂正した。その時だった。
「皆さんも上へ行かれるんですか?」
聞き覚えのある声が背後から響く。三人が振り返ると、そこにはルイーズ・ゴールドバーグが立っていた。革張りのノート、性能の高いボイスレコーダー、そしてタブレットまで抱え、まるで学会へ向かう研究者そのものだった。
「……ルイーズ。」
カヨは嫌な予感しかしなかった。
「どうしてここにいるのですか?」
「こんにちは。」
ルイーズはにこやかに微笑む。
「先日、レイチェルからこの件を聞きました。『フォースト』の研究者がメフィストフェレスを召喚したと信じている。極めて興味深い臨床例です。」
「そのためだけに来たのですか?」
「もちろんです。」ルイーズは即答した。
「文学への過度な没頭によって形成された妄想。研究対象として非常に魅力的です。見逃す理由が見当たりません。」
そう言いながら、彼女は自然な動作でポケットへボイスレコーダーを滑り込ませた。
カヨは眉をひそめる。
「録音するおつもりですか?」
「当然です。論文に使用したいと考えています。」
「本人の同意は取っているのですか?」
「これから取得します。おそらく。」
「おそらく?」
「取得できる見込みです。」
カヨは静かにこめかみを押さえた。
「……好きにしてください。ただし、一般市民へ余計な精神的負担を与えないようお願いします。」
「努力します。」
まったく信用できない返事だった。
四人は古い木造階段を上り始めた。一歩踏み出すたびに、床板がギシギシと大きく軋む。
ルイーズはすでにタブレットを取り出し、猛烈な勢いで文字を打ち込んでいた。
「老朽化した住環境。社会的孤立。慢性的なストレス。この環境は精神的不安定を育む条件として、非常に優秀です。」
「人の住まいを実験動物の飼育環境のように分析するのは、おやめください。」
カヨは呆れたように言った。やがて一行は三階へ到着する。
三〇三号室。レイチェルがドアを三回ノックした。しばらく静寂が続き――やがて、カチャリと鍵が外れる音がした。ゆっくりとドアが開く。
現れたのは二十代半ばほどの女性だった。
痩せた身体。目の下には濃い隈。長い黒髪はあちこち跳ね、黒いタートルネックには目立つ皺が寄っている。しかし、その瞳だけは異様なほど鋭い光を宿していた。
「……レイチェル?」
震えるような小さな声だった。
「ええ。」
レイチェルは安心させるように頷く。
「今日は何人か協力してくれる人を連れてきたの。」
「来てくださって……ありがとうございます。」
女性は小さく息を吐いた。
「私はグレッチェンです。」
「田所カヨです。」
「エマよ!」
「ルイーズ・ゴールドバーグです。心理学を教えています。」
その瞬間、グレッチェンの表情が強張った。
「……心理学者?」
「ご安心ください。」
ルイーズは慣れた口調で微笑む。
「あなたを精神異常者として扱うために来たわけではありません。」
「私は、おかしくありません。」
グレッチェンは即座に言い返した。
「もちろんです。」
ルイーズは穏やかに頷く。
「ちなみに『精神異常者』という言葉には、医学的な定義は存在しません。」
グレッチェンの警戒が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……そうなんですね。」
「はい。ところで、この会話を録音してもよろしいでしょうか?」
「え?」
「研究目的です。」
「研究……?」
「研究目的です。」
グレッチェンは困惑した顔でレイチェルを見る。レイチェルは静かに目を逸らした。
「……構いません。」
「ありがとうございます。」
ルイーズは即座に録音ボタンを押した。カヨは小さくため息をつく。
「早すぎます。」
「同意が得られた時点で、勝負は決まっています。」
「何の勝負なのですか。」
言葉を交わしながら、一行は部屋の中へ入った。室内は思っていた以上に狭かった。そして――思っていた以上に、本だらけだった。
床。机。椅子。棚。ありとあらゆる場所に、本の山が積み上げられている。
「すごい……。」
エマが思わず息をのむ。
「本当に圧倒されるわね。」
カヨも部屋を見渡した。
壁際には『フォースト』の各種版がぎっしり並んでいる。ゲーテ版。マーロウ版。現代英語訳。注釈書。研究書。学術論文。それだけではない。ノートやルーズリーフが部屋中に散らばり、壁にはマスキングテープで紙が何枚も貼られていた。
『悪魔とは究極の利己主義者である』
『欲望のままに生きよ』
『知識には代償がある』
無数の書き込みが、部屋を埋め尽くしているルイーズの指が再び猛烈な勢いでタブレットの上を走る。
「強迫的な記録行動。研究対象への過度な没入。生活空間が完全に研究テーマへ占拠されています。非常に典型的な症例です。」
「全部聞こえています。」
グレッチェンは疲れた声で言った。
「もちろんです。」
ルイーズは真顔で答える。
「聞こえるように話しています。」
「どうしてですか?」
「透明性を確保するためです。」
カヨは眉をひそめた。
「それは透明性とは言いません。」
その時だった。部屋の中央に座る、もう一人の人物へ全員の視線が集まる。
紫色の派手なローブ。巨大なターバン。両腕を埋め尽くすほどのアクセサリー。そしてテーブルの上には、大きな水晶玉。どう見ても、普通ではない。ルイーズはその姿を一瞬で視界に収めると、ゆっくりと、大きなため息をついた。
「……ああ。」たった一言。
しかしその「ああ」には、
「やはり、こういう方もいらっしゃいましたか。」という意味が、すべて込められていた。
グレッチェンはその女性を紹介した。
「こちらは、マダム・ザラです。」
女性はゆっくりと立ち上がる。
「私は霊媒師です。」
低く芝居がかった声が部屋に響く。
「目には見えない世界と交信し――」
「なるほど。」
ルイーズは最後まで聞かずに言葉を挟んだ。
「疑似科学的権威への依存ですね。」
「……何ですって?」
「不安を抱えた人間が、外部の権威へ判断を委ねようとする現象です。ごく一般的に見られます。」
マダム・ザハラの眉がぴくりと動く。エマは今にも吹き出しそうな顔をしていた。レイチェルはすでに頭痛が再発しそうだった。カヨだけは、ほぼ平静を保っている。
「私は誰にも頼らせてなどいません。」
マダム・ザラは胸を張る。
「この部屋には、強大な闇の存在が確かに宿っています。」
ルイーズは即座にタブレットへ入力した。
「曖昧で誰にでも当てはまる表現。典型的なコールドリーディングです。」
「書かないでください!」
マダム・ザラが声を荒げる。
「続けます。」
「どうして!?」
「非常に興味深いからです。」
「ルイーズ。」
カヨの声が静かに低くなる。
「申し訳ありません。」
そう言ったものの、反省している様子はまったくなかった。グレッチェンはベッドの縁へ腰を下ろした。その表情には深い疲労がにじんでいる。
「……彼は、ここにいます。」
その一言だけで、部屋の空気が変わった。エマは身を乗り出す。レイチェルは息をのむ。マダム・ザハラは神秘的な表情を浮かべ、ルイーズはボイスレコーダーの位置を静かに調整した。そしてカヨが落ち着いた声で尋ねる。
「その『彼』とは、どなたですか?」
グレッチェンは自分の左肩へ手を伸ばした。
「メフィストフェレスです。」
「どちらにいるのですか?」
「どこにでもいます。でも、一番近い場所は……。」
彼女の指先が左肩の真上で止まる。
「ここです。」
わずかに身体を震わせながら続けた。
「ずっと話しかけてくるんです。」
「どのようなことを言うのですか?」
カヨの声は驚くほど穏やかだった。
グレッチェンは目を閉じる。
「誘惑です。そして嘲笑です。」
小さく息を吐く。
「いつも私に囁くんです。『もっと自分勝手になれ。もっと傲慢になれ。欲しいものは全部奪え。この世界は、お前だけのためにある』って。」
「なるほど。」
カヨは静かに頷く。
「それで?」
グレッチェンの表情がさらに暗くなる。
「でも、本当にそうしようとすると……笑うんです。」
「笑う?」
「『お前には無理だ』って。」
拳をぎゅっと握り締める。
「『欲しいものを奪う勇気もない。誰かを踏み越える覚悟もない。結局、お前は中途半端で平凡な人間だ』って……何度も、何度も。」
グレッチェンは視線を床へ落とした。
部屋は静まり返る。
その横でルイーズだけは、猛烈な勢いで画面へ文字を入力していた。
「非常に興味深いです。」
「興味深い話ではありません。」
カヨは即座に言う。
「いえ、極めて興味深いです。」
ルイーズは真顔のまま返した。
「万能感を与える一方で、徹底的に自己否定を繰り返す。依存を形成する構造として、非常によくできています。」
「ルイーズ。」
「何でしょう。」
「本人は、あなたの目の前にいます。」
「失礼しました。」
今回も反省している気配はなかった。
エマはグレッチェンを見る。
「それって毎日なの?」
「ほとんど毎日です。」
「それは……かなりつらそうね。」
「本当につらいです。」
グレッチェンは力なく笑った。
「勉強していても。食事をしていても。眠ろうとしても。ずっと聞こえてきます。」
レイチェルは眉をひそめる。
「ちゃんと眠れているの?」
「あまり……。」
「どのくらい?」
「三時間か、四時間くらいです。」
その瞬間、
ルイーズが勢いよく顔を上げた。
「睡眠不足です!」
「どうしてそんなに嬉しそうなのですか。」
カヨは疲れ切った声で言う。
「重要な情報だからです。」
ルイーズは真面目な表情のまま答えた。
「慢性的な睡眠不足は、認知機能と感情制御能力を大きく低下させます。」
「その程度のことは承知しています。」
「極めて重要です。」
「承知している、と申し上げました。」
エマは笑いをこらえるのに必死だった。
一方のグレッチェンは、この集団の中には、自分以上に妙な人間が一人混ざっているのではないか、と少しずつ気付き始めていた。
「それで。」
カヨが静かに話を戻した。
「彼は、具体的にはどのような指示を出すのですか?」
グレッチェンは少し考えてから答えた。
「先週、バスに乗っていた時のことです。」
部屋の全員が耳を傾ける。
「酔っ払った乗客が、大声を出して騒いでいました。」
誰もが頷いた。ロサンゼルスでは、決して珍しい光景ではない。
「その時、彼が言ったんです。」
グレッチェンは左肩へ視線を向ける。
まるで、本当に誰かがそこへ座っているかのようだった。
「『酒を取り上げろ。そのまま頭からぶちまけろ。本当の混沌というものを、この世界へ見せてやれ』って。」
エマの目が輝く。
「おお……映画みたい。」
完全に観客モードだった。カヨは落ち着いた声で尋ねる。
「実行したのですか?」
「いいえ。」
グレッチェンは即座に首を振った。
「でも……少しだけ、本当にやってしまいたいと思いました。あまりにも迷惑だったので。」
レイチェルが思わず吹き出す。
「それは……ちょっと分かるかも。」
「レイチェル。」
「ごめんなさい。」
ルイーズは再びタブレットへ入力する。
「衝動は発生しているものの、実際の行動には移行していません。自己制御能力は維持されています。」
「その通りです。」
カヨも静かに頷いた。
「少なくとも現時点では、ご自身の行動をきちんと制御できています。」
グレッチェンの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。しかし、すぐに再び曇った。
「……でも。」
「何でしょう。」
「最近は、研究まで邪魔されるようになりました。」
ルイーズの指が止まる。研究の話となれば、彼女にとっては別問題だった。
「どのようにですか?」
グレッチェンは机いっぱいに積まれた本へ目を向けた。
「翻訳をしていると、ずっと口を出してくるんです。」
ルイーズは目を細めた。
「どのようなことを?」
「『その訳は間違っている。もっと正確な表現がある』って。」
部屋が静まり返る。ルイーズは腕を組んだまま、まだ落ち着いていた。
「最初は無視していました。」
グレッチェンは静かに続ける。
「でも確認すると……。」
浅く息を吐く。
「全部、向こうが正しかったんです。」
ルイーズの眉がわずかに動いた。
「一度だけではありません。」
グレッチェンは本棚を見る。
「何度もです。」
今度はルイーズも黙った。エマは興味津々で彼女を見つめる。カヨも、その変化を見逃さなかった。
レイチェルは心の中で思う。
(あれ……。ルイーズが、本当に困った顔をしてる。)
極めて珍しい光景だった。
グレッチェンは袖で目をこすった。
「最初は偶然だと思っていました。」
ルイーズは何も言わない。
「でも、一度や二度じゃないんです。」
部屋の空気が少し変わる。ほんの数分前まで猛烈な勢いで記録を取っていたルイーズが、タブレットを見つめたまま、完全に動きを止めていた。
カヨが静かに尋ねる。
「具体例を挙げていただけますか。」
グレッチェンは積み上がった本の一冊を手に取った。ページの間から大量の付箋が飛び出している。
「中高ドイツ語の表現でした。」
「私はある解釈を採用していたんですが、彼は『違う』と言ったんです。」
「確認した結果は?」
「彼の方が正しかったです。」
グレッチェンは頷いた。
「研究書を確認しました。大学のデータベースも調べました。すべて、彼の指摘と一致していました。」
乾いた笑みを浮かべる。ルイーズは短く息を吐いただけだった。先ほどまでの勢いは、完全に消えている。
「そのようなことは、およそ何回ありましたか?」
「もう数え切れません。」
「それまで一度も知らなかった情報ですか?」
「はい。」
「以前どこかで読んで、忘れていただけという可能性は?」
「覚えていません。」
「潜在記憶の可能性はありますか?」
「あるかもしれません。」
グレッチェンは正直に答えた。
「でも、それが毎回なんです。」
「毎回……ですか?」
ルイーズは腕を組んだまま尋ねた。
「はい。」
グレッチェンは頷く。
「毎回です。」
「百発百中なのですか?」
「今のところは。」
エマはレイチェルへ身を寄せ、小声で囁いた。
「ねえ。」
「なに?」
「ルイーズ、本当に困ってる顔してない?」
「してるわね。」
「ちょっと可愛い。」
「その『可愛い』の基準は、かなり疑問だけど。」
カヨは聞こえなかったことにした。グレッチェンは話を続ける。
「最近は翻訳だけじゃありません。」
「まだあるのですか?」
「論文の構成です。」
ルイーズの表情がわずかに変わる。
「章立てがおかしいとか、論理の流れが弱いとか……そういうことまで指摘してくるんです。」
「結果は、どうでしたか?」
「だいたい全部、その通りでした。」
今度こそ、ルイーズは完全に黙り込んだ。
マダム・ザラは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ようやく現実を理解なさいましたか。」
ルイーズはゆっくりと視線を向けた。
「何を、でしょうか。」
「人間の理解を超えた存在が、この世には実在するということです。」
「いいえ。」即答だった。
「そのようなことは、何一つ理解していません。」
マダム・ザラの笑みが消える。
「ですが……。」
ルイーズは慎重に言葉を選んだ。
「通常の幻聴という枠組みだけでは、説明が非常に困難になってきました。」
エマは目を丸くする。レイチェルも思わず顔を上げた。
カヨは静かに尋ねる。
「説明が困難、ということですか?」
「通常、幻聴は本人の認知の枠組みの中から生じます。」
ルイーズは、いつもの教授らしい口調で説明を始めた。
「しかし、本人が意識的には知らない情報を継続的かつ正確に提示し続ける存在となると、前提そのものを見直す必要があります。」
「つまり?」
エマが身を乗り出す。ルイーズは人差し指を一本立てた。
「仮説その一。」
「グレッチェンは、本人も自覚していない膨大な知識を潜在的に保持している。」
「なるほど。」
「十分に成立する仮説です。」
グレッチェンの表情が、少しだけ和らぐ。しかし、ルイーズは続けた。
「ですが。」
その一言で、部屋の視線が再び彼女へ集まる。
「その仮説だけでは、正答率が高すぎます。」
「高すぎる?」
「はい。」
ルイーズは本棚を見回した。そこには『フォースト』に関する本だけでも数百冊は並んでいる。
「仮にすべてを潜在記憶で説明するとしても、その精度は異常です。」
エマはにやりと笑う。
「じゃあ、仮説その二は?」
ルイーズは口を開き――止まった。本当に止まった。
ルイーズ・ゴールドバーグが、言葉を失っている。前例がないほど珍しい光景だった。部屋を数秒間の沈黙が包む。
エマは嬉しそうに目を輝かせる。マダム・ザラは満足そうに腕を組む。レイチェルは息を呑み、カヨは静かに待っていた。
やがてルイーズは、小さな声で呟いた。
「……仮説その二は、現在構築中です。」
「構築中?」
「はい。」
エマが笑顔でまとめる。
「つまり、まだ何も思いついてないのね。」
「現時点では、その通りです。」
ルイーズは驚くほど素直に認めた。そしてゆっくりと、グレッチェンの左肩へ視線を向ける。
もちろん、そこには何もいない。少なくとも、彼女の目には。
それでも――
「……非常に興味深い。」
その声は、これまでとは少し違っていた。もはや研究対象を観察する学者の声ではない。理解の及ばない何かを前にした、一人の人間の声だった。
「私は、さらに膨大な追加データが必要です」
グレッチェンが不安そうに尋ねる。
「それは……どういう意味ですか?」
ルイーズは真顔で答えた。
「定期的に訪問させていただきます。毎週です」
「えっ?」
「可能であれば毎日が望ましいです」
カヨが即座に口を挟んだ。
「却下します」
「なぜですか?」
「居住者の平穏な生活を守るためです」
「しかし、これは極めて貴重な研究機会です」
「却下します」
「では、週三回でお願いします」
「却下します」
「週二回ではいかがでしょうか」
「私と交渉しないでください」
エマはとうとう吹き出した。レイチェルも笑いを堪え切れない。当のグレッチェンだけが、状況をまったく理解できず立ち尽くしていた。
どうやら、このままではメフィストフェレスが彼女を追い詰めるよりも先に、心理学教授がこの部屋へ住み着いてしまいそうだった。




