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Episode 17 : 伝説たちの夜

第17話 登場人物


田所家(戦略司令部)


田所ケンイチ


ハリウッド映画化された作品を持つ元小説家。

現在は妻カヨの厳格な管理下で、週末限定のビールを楽しんでいる。


田所カヨ


ケンイチの妻にして田所家の絶対司令官。

卓越した管理能力と判断力を持つが、青春時代に憧れたロックスターを前にすると、完璧な精神防壁が崩壊し、ただの泣き虫な少女へと戻ってしまう。


田所トシキ


ケンイチとカヨの息子。

パン屋勤務により慢性的な疲労状態。

今回は母親の前代未聞の暴走を目撃し、深刻な混乱に陥る。



現場観測班


シンディ・ゴールドバーグ


トシキの恋人。

カヨの一番弟子でもある。

冷静で観察力に優れ、人間の行動分析を得意とするが、今回ばかりはカヨの完全崩壊を目撃して衝撃を受ける。



ダルマ・ビーンズ組(ビートの伝説たち)


アラン・ゼンズバーグ


シンディの叔父。

ダルマ・ビーンズの名物詩人。

陽気で騒がしく、どこか子供っぽい変人だが、実はカウンターカルチャー文学史を支えた伝説的人物の一人。


ジェイク・ケンドリック


アランの長年の親友にして放浪作家。

自由な旅人の精神を今なお言葉の中に生かし続けている。



便所の哲学者


地獄谷 劫火


通称「便所詩人」。

またの名を「便所のスナフキン」。

予告もなく現れ、妙に忘れられない一言を残し、気づけばどこかへ消えている謎の男。

彼が残したナプキンの落書きは、名言なのか便所の落書きなのか誰にも判別できない。



ニルヴィラ(グランジの神々)


クリス・ノヴァセリック


ニルヴィラの伝説的ベーシスト。

ロックスターでありながら気さくで謙虚な人物。

若き日の自分に影響を与えた詩人たちへの敬意を今も失っていない。


デヴィッド・グロウル


ニルヴィラのドラマー。

情熱的で親しみやすく、ビート詩人たちの持つ剥き出しのエネルギーを音楽の原点としている。


金曜の夜。

ダルマ・ビーンズ。


ケンイチは中央のテーブルで、いつものようにビールを飲んでいた。向かいにはアラン。隣にはジェイク。少し離れた隅の席には、劫火が静かに腰掛けている。

もちろん、ケンイチのビールは二杯まで。佳代との鉄の掟であった。

「ケンイチ!」

アランが身を乗り出した。いつになく興奮している。

「今夜は特別な夜だぞ!」

「特別?」

健一は首を傾げた。

「ああ。とんでもないゲストが来る。」

「誰なんだ?」

ジェイクが意味ありげに笑う。

「来れば分かるさ。」

「またそれか。」

「俺たちの古い友達さ。」

ジェイクはビールを一口飲んだ。

「正直に言えば、この店が今も続いている理由の一つでもある。」

ケンイチにはまったく見当がつかなかった。劫火は煙草の煙を細く吐き出す。

「入口を見ていろ。」

「そんなに有名なのか?」

「面白い夜になる。」

劫火はそれだけ言うと、また黙った。


午後八時。店内は満席だった。

すべての席が埋まり、壁際には立ち見の客までいる。ケンイチは店内を見回した。

「今日はすごい人だな……。」

その時だった。店の扉が開く。

背の高い男と、肩幅の広い男が店へ入ってきた。

一人は大きなギターケースを肩に担ぎ、もう一人はドラムスティックを指先で軽く回している。

ケンイチは固まった。

(……え。まさか。)

(いや、そんなはず……。)

次の瞬間。

アランとジェイクが同時に立ち上がる。

「クリスト!」

「デイブ!」

「アラン!」

「ジェイク!」

四人は店の真ん中で豪快に抱き合った。

何十年も会っていなかった兄弟のように、大声で笑い合う。

「久しぶりだな!」

「何年ぶりだ?」

「十年どころじゃないだろ!」

豪快な笑い声が店中に響く。健一の思考は完全に止まっていた。

(クリスト・ノヴァセリック。)

(デビッド・グロール。)

(ニルヴィラの……本物……!?)

(なんでここにいるんだ……?)

店中がロックスターの登場に沸き返る中、ケンイチのスマートフォンが震えた。

画面には、KAYOの文字。

ケンイチは席を立ち、静かな路地へ出る。


「もしもし。」

『現在地を報告してください。』

いつものカヨだった。

冷静で、正確で、無駄がない。

「ダルマ・ビーンズ。」

『帰宅予定時刻を教えてください。』

「それがさ……。」

健一は苦笑した。

「ちょっと予想外のことが起きて。」

『何があったんですか?』

「ニルヴィラの二人が店に来た。」

電話の向こうが静まり返る。数秒。まったく音がしない。

『……今、何とおっしゃいましたか?』

「クリストとデイブ。本人だよ。」

再び沈黙が流れる。

『……私が若い頃に大好きだった、あのニルヴィラですか?』

「そう。そのニルヴィラ。」

『クリスト・ノヴァセリック本人がいらっしゃるんですか?』

「うん、本人。」

『デビッド・グロールも?』

「いる。」


ガシャーン!!受話器の向こうから、盛大な音が響いた。どうやら台所で何かを盛大に落としたらしい。


「カヨ? 大丈夫か?」

『その場から動かないでください。』

声がわずかに震えていた。

「え?」

『店を出ないでください。』

「いや、もともと帰るつもりは——」

『お二人も帰さないでください。』

「いやいや、相手はロックスターだから。」

『今から向かいます。』

「え?」

『トシキも連れて行きます。』

「なんで息子まで?」

返事はなかった。

通話は切れていた。

ケンイチはしばらく画面を眺めると、思わず吹き出した。

「鉄壁の冷静さが……見事に吹き飛んだな。」


三十分後。

ダルマ・ビーンズの扉が勢いよく開いた。

先頭を歩くカヨ。その後ろを、半ば連行されたような疲れ顔のトシキ。さらにシンディが続く。店へ入るなり、カヨは店内を一瞬で見渡した。そして、ステージ脇で談笑しているクリストとデイブを見つける。その場で動きが止まった。完全に固まっている。

「母さん?」

トシキが顔をのぞき込む。反応がない。

「母さん?」

「……。」

「大丈夫?」

「問題ありません。」

声だけが妙に高い。トシキは眉をひそめた。カヨの膝が、小刻みに震えている。こんな姿は、生まれて初めて見た。

「母さん。」

「問題ありません。」

「膝。」

「問題ありません。」

「めちゃくちゃ震えてるけど。」

「問題ありません。」

完全な嘘だった。完全に舞い上がっている。


シンディは目を丸くしていた。

「すごい……。カヨさんがこんな顔をするなんて思わなかった。」

「俺も初めて見る。」

トシキは真顔で答える。

「正直、母さんが取り乱してる方が怖い。」


ケンイチが二人のところへ歩いてくる。

「来たな。」

「……はい。」

カヨの視線はクリストとデイブから一瞬たりとも離れない。

「紹介しようか?」

「結構です。」

即答だった。

「遠くから拝見できるだけで十分です。」

「本当に?」

「十分です。」

「間違いなく?」

「十分です。」

もちろん、それも嘘だった。その時。クリストがこちらへ顔を向けた。カヨに気付く。

ぱっと大きく笑い、片手を上げた。

「おーい! カヨ!」

カヨの思考が真っ白になる。

「カヨ!」

デイブも笑顔で手を振る。

「久しぶり!」

「――――っ!!」

言葉にならない声が漏れた。人生で一度も発したことのないような音だった。

トシキは目を見開く。

(誰だ、この人。)

(うちの家庭司令官はどこへ行った……?)

クリストとデイブは、そのまま二人のところまで歩いてきた。

カヨは反射的に背筋を伸ばす。まるで先生の前に立たされた優等生だった。


「元気だったか?」

クリストが穏やかに笑う。

「は、はい! おかげさまで! とても元気です!」

自分でも驚くほど声が高い。

「それはよかった。」

デイブが笑う。

「また会えて本当に嬉しいよ。」

「こちらこそ、本当に……!」

「わざわざ来てくれてありがとう。」

「い、いえ! こちらこそありがとうございます!」

「いやいや、こっちがお礼を言いたいくらいだよ。」


トシキの混乱は限界に達していた。目の前で震えている女性が、本当に自分の母親なのか、自信がなくなってくる。少し離れたところでは、ケンイチが肩を震わせながら笑いをこらえていた。

さらにその奥。レンガ壁にもたれた劫火が、静かに煙を吐き出す。

「どう思う、哲学者。」

ケンイチが笑いをこらえながら尋ねる。

劫火は肩をすくめた。

「伝説ってのは、不思議なもんだ。」

「どういう意味だ?」

「会うまでは神様だ。」煙をゆっくり吐く。

「会ってしまえば、ただの人間になる。」

「確かにな。」

「だが――」

劫火は震え続けるカヨへ目を向けた。

「その境目で、一番壊れるのはファンの方だ。」

ケンイチはとうとう吹き出した。

「まったくだ。」


しばらくして。アランが軽やかにステージへ上がる。マイクを軽く叩くと、店内へ乾いた音が響いた。

「よーし、お前ら! 少し静かにしてくれ!」

賑やかだった店内が、少しずつ静まり返っていく。全員の視線がステージへ集まった。

「今夜は、とびきり特別なゲストが来てくれた!」

店中から歓声が上がる。アランは両腕を大きく広げた。

「ニルヴィラの中核を担う二人――クリスト・ノヴァセリックとデビッド・グロールだ!」

拍手と歓声、口笛が一斉に響き、店全体が震えるような熱気に包まれる。

クリストとデイブは笑顔のまま、小さなステージへ上がった。

「みんな、ありがとう!」

クリストがマイクを握る。大柄な体が小さなステージいっぱいに収まっていた。

「今夜、このダルマ・ビーンズに来られたことを、本当に光栄に思ってる。」

再び大きな拍手。

「でも正直に言うと……今日はライブをやるために来たわけじゃない。」

店内が少しざわつく。クリストは振り返り、アランとジェイクを見る。

「俺たちは、この二人に会いに来た。」

その一言で、店内は静まり返った。

「俺たちがまだ若かった頃。」

クリストは懐かしそうに笑う。

「音楽業界のことなんて何も知らなかった。世の中がどう動いてるのかも分からなかった。」

デイブが隣のマイクへ顔を寄せる。

「ただ、何もかもに腹を立ててた。」

店内からクスッと笑いが漏れる。

「世の中全部にな。」クリストは続けた。

「そんな頃、俺たちはインディーズ書店をふらふら歩き回っていて、この二人の詩に出会った。」

アランとジェイクを真っすぐ指差す。

「あれで人生が変わった。」

デイブがマイクを受け取る。その表情は真剣だった。


「気取ってなかった。」

「偉そうでもなかった。」

「何かを演じてもいなかった。」

一拍置く。

「ただ、ひたすら本物だった。」

その低く響く声が、古いレンガ壁へ静かに反射する。

「俺たちは思ったんだ。」

「この空気を、そのまま音にしたいって。」

ケンイチは静かに耳を傾けていた。アランを見る。ジェイクを見る。普段はコーヒーカウンター越しにくだらない言い合いばかりしている二人。だが今は、まるで別人に見えた。

クリストは二人へ向き直る。

「だから。」

「ありがとう、アラン。」

「ありがとう、ジェイク。」

「俺たちの人生を変えてくれて。」


一瞬。店内に深い静寂が訪れる。

次の瞬間だった。割れんばかりの拍手が店内を埋め尽くした。アランは照れくさそうに後頭部をかく。

「おいおい、そういう湿っぽい話はやめろよ。」

髭の奥から少年みたいな笑顔がこぼれる。

「照れるじゃねぇか。」

ジェイクは肩をすくめた。目元だけが優しく笑っている。

「昔は好き勝手遊んでただけだ。」

「だから最高だったんだよ!」

デイブが笑いながらドラムスティックを向ける。

「本気で遊んでたからな!」

店内は再び笑いと拍手に包まれた。


カヨは呆然と立ち尽くしていた。

アランを見る。ジェイクを見る。もう一度アランを見る。そしてまたジェイクを見る。頭が追いつかない。

(この二人が……?)

(この店に住んでる……あの二人が……?)

先週はエスプレッソマシンの前で、サックスの真似をしながら踊っていた。

一昨日はコーヒー豆の麻袋を枕にして豪快に昼寝していた。

昨日は暇つぶしにコーヒーフィルターで折り鶴を作っていた。

(伝説……?)

(本当に……?)

隣でトシキが小さく声を掛ける。

「母さん。」

「何ですか。」

「今、すごい顔してる。」

「少し考え事をしています。」

「いや、思考がショートしてる顔だけど。」

シンディは、そのやり取りを楽しそうに眺めていた。

「カヨさん。」

「何でしょう。」

「叔父たちを見る目、少し変わりましたか?」

カヨは真顔のまま答える。

「大変混乱しています。」

「やっぱり。」

「私の中で、『困った変人』と『本物のレジェンド』という二つの認識が、完全に同じ場所に存在しています。」

少し間を置いて、

「理解が追いつきません。」

シンディは思わず笑った。

「両方だったら駄目ですか?」

「理解できません。」

横でトシキがぼそりと言う。

「俺は『困った変人』だけで処理しておくよ。その方が安全だ。」


その時だった。

アランがこちらを振り向き、大きな声で叫ぶ。

「おーい! カヨ!」

カヨの背筋が反射的に伸びた。

「はい!」

店中から笑いが起こる。

「そんなに固くなるなって!」

アランが豪快に笑う。ジェイクもコーヒーを一口飲みながら口を開いた。

「肩書なんて気にするな、カヨ。」

「そうそう。」

アランはマグカップを掲げる。

「結局のところ、俺たちはコーヒー中毒のじいさん二人組だ。」

店内は再び笑いに包まれる。その空気につられるように、カヨの口元がわずかに緩んだ。

そして、とても穏やかな笑みを浮かべる。


「それじゃ。」

クリストがギターケースを開く。金具が静かに鳴った。

「せっかくだし、一曲やろうか。」

デイブもポケットからドラムスティックを取り出す。

店内にどよめきが走った。

「本当に演奏するのか!?」

誰かが叫ぶ。

デイブが笑う。

「ああ。でも今日はアンプなし。」

クリストもうなずく。

「ドラムセットもなし。」

木製のスツールへ腰掛ける。

「ダルマ・ビーンズ流だ。生音だけでいこう。」


店内が静まり返る。クリストが最初のコードを鳴らした。柔らかく。それでいて芯のあるアコースティックギターの音色が、古いレンガの壁へ優しく響いていく。どこか懐かしく、少しだけ荒々しさを残した音だった。

デイブは近くの木のテーブルへ両手を置く。手のひらで一定のリズムを刻み始める。

シンプルなのに、驚くほど心地いいグルーヴが店中へ広がっていく。誰も話さない。誰も身じろぎすらしない。

その場にいる全員が、その音だけに耳を傾けていた。

カヨはゆっくりと目を閉じる。一瞬で、高校時代へ引き戻された。

自室。小さなステレオ。毎日のように繰り返し聴いた、この曲。世界が冷たく感じていた日々。うまくいった日の高揚感。受験勉強で夜遅くまで机に向かっていた時間。

あの頃の記憶が、鮮明によみがえってくる。

気付けば、一筋の涙が静かに頬を伝っていた。

シンディはそっとカヨへ視線を向ける。

涙を流しながらも、その表情はとても穏やかだった。

普段の厳格な家庭司令官からは想像もできない、優しく満たされた表情。

シンディは小さく微笑む。

(本当に好きだったんだ。)

(この音楽は、カヨさんの一部なんだ。)


最後のコードが静かに消えていく。

ほんの一瞬。店内は完全な静寂に包まれた。

そして次の瞬間――

拍手が爆発した。歓声。口笛。あちこちから飛び交う「ブラボー!」の声。客たちは一斉に立ち上がり、自然とスタンディングオベーションになっていた。

カヨも立ち上がる。

誰よりも力いっぱい拍手を送っていた。瞳にはまだ涙が残っている。それでも視線はまっすぐ二人へ向けられていた。

「……ありがとうございました。」

小さくつぶやく。その声は歓声にかき消されたが、本人にはそれで十分だった。 


演奏が終わっても、店の熱気は少しも冷めなかった。クリストとデイブはステージを降り、そのまま店の客たちと気さくに話し始める。まるで昔からの仲間が集まった同窓会のような空気だった。

しかし、カヨだけはまだ現実へ戻って来られていない。椅子へ座り直し、何もないステージをぼんやり見つめている。

「母さん。」

トシキが目の前で手を振る。

「もしもし。」

「……。」

「母さん、帰ってきて。」

「……努力しています。」

夢を見るような声だった。

トシキは大きくため息をつく。

その時。

「カヨ!」店の向こうからクリストが手を振った。カヨの姿勢が反射的に正される。

「は、はい!」

周りの客が思わず吹き出す。

「帰る前に、ちょっとこっちへ来てくれる?」

「はい! ただ今!」

また声が裏返る。店内から温かな笑いが起こった。

クリストはギターケースの横へ手を伸ばす。取り出したのは、一枚のレコードジャケットだった。古い作品にもかかわらず保存状態は完璧。

ニルヴィラ初期の限定盤だった。

カヨの目が大きく見開かれる。

「今日はこれを持ってきたんだ。」

「……え?」

「最高のファンへの、お礼。」

デイブがポケットから黒いサインペンを取り出した。

「じゃあ、サインしよう。」

その瞬間。カヨの思考は完全に停止した。

「母さん?」

「……。」

「返事して。」

「……。」

トシキは静かにうなずく。

「完全にフリーズしてる。」

デイブは豪快に笑いながら、レコードジャケットへ名前を書いた。続いてクリストも、力強いサインを書き加える。それだけでも十分すぎるほどだった。だが、まだ終わらなかった。

デイブが店の奥へ向かって声を張る。

「アラン!」

「おう!」

「ジェイク!」

「何だ?」

「二人とも来てくれ!」

二人の老詩人がゆっくり歩いてくる。デイブはレコードジャケットを差し出した。

「二人もサインして。」

アランが豪快に笑う。

「俺たちはロックスターじゃないぞ。」

「関係ない。」

デイブは即答した。クリストもうなずく。

「正直に言うと、このレコードで一番価値があるのは二人の名前なんだ。」

アランとジェイクは顔を見合わせる。そして同時に肩をすくめた。

「世界的ロックスターにそこまで言われたら断れねぇな。」

「そういうことだ。」

二人はペンを受け取る。空いているスペースへ、それぞれの名前を書き込んだ。少し癖のある、いかにも本人らしい文字だった。

四つのサイン。グランジのレジェンド。ビート・ジェネレーションのレジェンド。その名前が一枚のレコードジャケットに並んでいる。

クリストは笑顔で差し出した。

「大事にしてくれ。」

カヨは震える手で受け取る。

「ありがとうございます……。本当に……本当にありがとうございます……。」

声がうまく出ない。涙が次々と頬を伝っていく。デイブは優しく肩を叩いた。

「そんなに喜んでもらえるなら、来た甲斐があったよ。」

穏やかに笑う。

「これからも、思い切り音楽を楽しんでくれ。」

カヨはレコードジャケットを胸へ強く抱きしめた。まるで宝物を抱えるように。いや、彼女にとっては、どんな宝石よりも価値のある宝物だった。少し離れた場所では、ケンイチが笑いをこらえて肩を震わせている。

「完全に壊れたな。」

シンディも満面の笑みでうなずいた。

「見事なくらいに。」

トシキだけは終始真顔だった。

「父さん。」

「ん?」

「母さんって、いつ元に戻る?」

ケンイチは少し考えた。

「経験上……数日はかかるな。」

トシキは静かに天井を見上げた。

「しばらく田所家は無法地帯か……。」


やがて閉店時間になり、客たちは少しずつ店を後にしていった。

ケンイチは店内を見回し、あることに気付く。

「あれ?」

劫火の姿がない。さっきまで座っていた隅の席には、空になったビールグラスだけが残されていた。

「いつの間に帰ったんだ、あの人。」

誰一人として、劫火が店を出た瞬間を見ていなかった。グラスの下には、一枚のくしゃくしゃになった紙ナプキンが挟まれている。

ケンイチはそれを取り上げ、丁寧に広げた。黒い炭で書いたような、乱れた文字。そこには、短い言葉だけが残されていた。



伝説というものは、便所の落書きと同じだ。


文字は消えても、誰かの記憶には残る。



ケンイチは小さく笑う。

「さすが劫火だ。」

「最後まで決まってる。」

彼はその紙ナプキンをベストのポケットへ大切にしまった。きっとあの詩人は、もうどこか街外れの薄暗い路地で、何事もなかったように一本の煙草を吸っているのだろう。


その夜 田所家

カヨはリビングのテーブルに座っていた。

視線の先には、サイン入りのレコードジャケット。十分が過ぎる。視線は一ミリも動かない。

二十分。やはり変わらない。


「母さん。」

キッチンの入口からトシキが声を掛けた。

「はい、トシキ。」

「あと何時間、それを見つめてるつもり?」

「正直、自分でも分かりません。」

視線はレコードから一切離れない。肘掛け椅子のケンイチが優しく笑った。

「まだ現実感がないか、カヨ。」

カヨはゆっくりとうなずく。いつもの家庭司令官の面影はなかった。

「夢を見ているようです。」


部屋には穏やかな沈黙が流れる。しばらくしてから、カヨが静かに口を開いた。

「……ですが。」

「ん?」

「これまでのアランさんとジェイクさんへの私の態度ですが。」

「うん。」

「少々、失礼だったかもしれません。」

ケンイチは湯飲みに口を付けながら笑う。

「やっと気付いたか。」

「はい。」

「明日、謝るの?」

「はい。明日、お伝えします。」


翌日 ダルマ・ビーンズ


アランとジェイクは、いつものようにブラックコーヒーを飲みながら、積み上がった原稿に目を通していた。

そこへカヨが真っ直ぐ歩み寄る。二人のテーブルの前で立ち止まった。

「少々、お時間をいただけますでしょうか。」

アランは原稿から顔を上げ、まばたきをする。

「どうした、ボスレディ?」

カヨは真剣な表情で口を開いた。

「これまで私は、お二人のことを、少々風変わりで問題の多いご老人だと思っていました。」

「その評価は百点満点だ!」

アランは即座に大笑いした。

ジェイクもページをめくりながら静かにうなずく。

「異論はない。」

近くの客席から笑いが起こる。

「ですが。」

カヨは続けた。

「私は、お二人を正しく評価できていませんでした。」

アランとジェイクは顔を見合わせる。そして同時に笑った。

「なあ、カヨ。」

アランはペンを置いた。

「俺たちを特別扱いするのはやめてくれ。」

「ですが――」

「昨日も変わり者だった。」

ジェイクがコーヒーを一口飲む。

「今日も変わり者だ。」

アランが続ける。

「明日も、きっと変わり者のままだ。」

ジェイクが笑う。

「それで十分なんだ。」

アランもうなずいた。

「その生き方が、俺たちらしい。」

カヨはしばらく黙っていた。

二人の言葉をゆっくり噛みしめる。そして。心から自然な笑顔が浮かんだ。

「承知しました。」

少しだけ、いつもの司令官らしい目つきに戻る。

「では今後も、お客様用テーブルへ飲み終えたコーヒーカップを放置されていましたら、容赦なく注意させていただきます。」

「それだ!」

アランが嬉しそうに笑う。

「その調子のほうが、よっぽど落ち着く!」

ジェイクも静かに笑った。店の中には、いつもの穏やかな空気が戻っていた。


その日の夕方 カヨの書斎

カヨはサイン入りレコードジャケットを保護ケースへ丁寧に収めていた。指紋一つ付かないよう、慎重に。ゆっくりと。ケースを閉じる。

そして壁へ目を向けた。ニルヴィラの大きなポスター。その真下には、新しく飾られた四人のサイン入りレコード。

カヨは腕を組み、一歩下がって全体を眺める。

ゆっくりとうなずいた。

「完璧です。」

静かな書斎で。

その表情には、飾ることのない、心からの幸せが浮かんでいた。


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