Episode 16: The Eve of a Lovey-Dovey Couple
今回のエピソードの登場人物
エイミー・ヴァーデン
プロフィール:徹底したトレーニングと完璧な栄養管理を生活の中心に据える、規律の塊のようなアスリート。歴戦の女性指揮官を思わせる、厳格で揺るぎない空気をまとっている。兄ブレイディが暴走しそうになるたび、その圧倒的な存在感と威圧感だけで現実へ引き戻す、兄にとって最後のストッパーでもある。
ブレイディ・ヴァーデン
プロフィール:ハリウッドを目指す俳優志望。長年レッドブルに支えられた生活を送り続けた結果、感情のブレーキは完全に故障済み。幼い頃から妹エイミーの厳しい指揮下で育ったため、戦術用語や軍隊じみた言い回しが、日常会話にまで深く染みついている。
ミーチャ(ドミトリア・カラマゾヴァ)
プロフィール:カラマゾワ・ベーカリーの長女。底なしのエネルギーと、思い立ったら即行動する強烈な推進力の持ち主。ブレイディの最大出力に真正面からついていける、極めて珍しい人間の一人である。
サーシャ(アレクサンドラ・カラマゾヴァ)
プロフィール:カラマゾワ家の末妹。物静かで、とても穏やかで、敬虔なカトリック信者。店で最高の腕を持つパン職人でもある。
田所トシキ
プロフィール:現在は東京大学を正式に休学中。夜明け前から始まる過酷なパン屋の仕事と、ロサンゼルス住民たちの局地的な奇人変人対応に追われ、常にエネルギー切れ寸前。主な武器は皮肉と乾いたツッコミ。
シンディ・ゴールドバーグ
プロフィール:トシキの恋人であり、田所佳代の一番弟子。人間関係の構造変化や、表面には見えない力学のズレを察知する能力に極めて優れている。
午後。シンディのアパート。
玄関のドアは静かに開いたのではなかった。
勢いよく大きく開き、その場の空気を一瞬で支配した。
エイミー・ヴァーデンが室内へ足を踏み入れる。その姿は、まるで重大な戦場へ到着した上級指揮官そのものだった。
エイミー
「シンディ。そこで待機して。至急、最優先の状況報告が必要だわ。」
言い訳など許さない重みを帯びた、簡潔で鋭い口調だった。シンディは目をぱちぱちさせながら困惑し、グラスをゆっくり置いてソファへ腰を下ろす。
エイミーも向かいに座った。彼女は目を細め、眉間に深いしわを寄せたまま、絶対的な集中状態に入っていた。
エイミー
「ブレイディの件。」
シンディ
「また? 今度は何をやらかしたの?」
エイミー
「精神状態に重大な異常が確認されているわ。日常の思考が完全に基準現実から切り離されている。」
シンディ
「エイミー、それ普通の人間の言葉に翻訳してくれる?」
エイミー
「ここ数日、完全におかしくなっている。」
シンディは思わず吹き出した。
シンディ
「でも、それっていつものブレイディじゃない?」
エイミー
「違う。今回は極めて重大な変化よ。」
エイミーは腕を組み、まるで指揮官のような姿勢で言い切る。
エイミー
「毎日、一秒たりとも休むことなく、カラマゾヴァ・ベーカリーについて話し続けている。延々とだ。」
シンディ
「ああ……。」
シンディはすぐに察して笑った。
シンディ
「トシキの職場ね。」
エイミー
「その通り!」
エイミーは天井を見上げた。
「『ミーチャは最高のコメディセンスを持っている』『ミーチャは本当に心が優しい』『ミーチャのエネルギーは誰にも負けない』『ミーチャは素晴らしい人材だ』――」
「実の妹相手に、この女性の人物評価を延々と報告し続けている。終わりがない。」
シンディ
「わあ、それはかなり進行してるね。」
面白そうに笑いながら頷く。
「完全に恋してる。」
エイミー
「その通りだ。」
エイミーは真剣な目でシンディを見据えた。
「恋愛対象の女性について、毎日大量の人物情報をまとめ、それを妹に聞かせ続ける理性的な男など存在するか?」
シンディ
「私は可愛いと思うけどな。」
肩をすくめながら笑う。
「応援してあげればいいじゃない。」
エイミー
「原則として異論はないわ。」
エイミーの表情は完全に上官モードへ戻る。
「だが、その前に局地偵察任務を実施する。」
シンディ
「偵察任務?」
エイミー
「私自身の目で彼女を確認する。彼女が本当にふさわしい人物か、私が判断する。」
シンディは一秒も迷わなかった。
シンディ
「じゃあ明日の朝、行こう。私が案内する。」
エイミー
「よし。」
エイミーは拳を手のひらへ打ち付けた。
「ベーカリー潜入作戦を正式に承認する。夜明けとともに行動開始だ。」
翌朝、午前10時。
カラマゾヴァ・ベーカリー。
チリン、チリン。入口の真鍮製のベルが軽やかに鳴った。カウンターの奥に立っていたミーチャが、すぐに顔を上げる。
ミーチャ
「シンディ!」
顔いっぱいに大きな笑みが広がった。
「すっごく久しぶり!」
シンディ
「ミーチャ!」
シンディも元気よく手を振る。
「今日はお客さんを連れてきたの。」
ミーチャ
「えっ?」
シンディ
「こちら、エイミー。ブレイディの妹よ。」
ミーチャ
「うそっ!」
ミーチャの目がぱっと輝いた。
「ブレイディの妹さんなの!?」
一瞬の迷いもなく、勢いよくカウンター越しに手を差し出す。
ミーチャ
「お会いできて本当にうれしい!」
バシッ!ギュッ!
エイミー
「うっ……」
握手の圧倒的な力に思わず顔をしかめる。それでも姿勢は崩さず、しっかり踏ん張った。
「……こちらこそ。」
ミーチャ
「ブレイディから、私のこと何か聞いてる?」
エイミー
「ええ。」
エイミーは目を細め、ミーチャを頭の先から足元まで冷静に観察した。
「あなたに関する人物データは、異常なほど大量に受信しているわ。」
ミーチャ
「あはは!」
豪快に笑う。
「全部いい評価だったって信じることにする!」
エイミーは無言で分析を開始した。
(エネルギー量は極めて高い。存在感も申し分ない。発声も支配的……。)
(……データと完全に一致しているわ。)
(兄の暴走気味な精神が、このレベルの人物に惹きつけられたのも納得ね。)
その時だった。店の奥の厨房から、一人の若い女性が姿を現した。
長く美しい黒髪。首元には、小さな十字架のネックレス。静かで穏やかで、包み込むように優しい空気をまとっている。
サーシャ
「ミーチャ……小麦粉の在庫が、そろそろ厳しくなってきています……」
朝の風のように柔らかな声だった。
ミーチャ
「あっ、ちょうどいいところに来た!」
ミーチャは勢いよく振り向き、妹の肩へ腕を回す。そのままカウンターまで連れてくる。
「紹介するね!」
サーシャは少し戸惑いながらも、礼儀正しく微笑んだ。
ミーチャ
「こちら、シンディとエイミー!」
サーシャ
「初めまして。」
小さく頭を下げる。
「正式な名前はアレクサンドラですが、どうぞサーシャと呼んでください。」
エイミー
「分かったわ。」
シンディとエイミーも笑顔で挨拶を返す。軽く手を触れ合った、その瞬間。エイミーはすぐに違いへ気付いた。
(興味深いわ。毎日重労働のパン作りをしている主要戦力とは思えないほど、手が柔らかい。)
(ミーチャとは、まるで正反対の構造ね。)
ミーチャ
「サーシャ!」
人差し指を立てて、まるでエイミーを真似るように言った。
「この区画へ焼きたてのパンを一部隊、至急配備して!」
サーシャ
「すぐに持ってきますね。」
柔らかく微笑み、再び厨房へ戻っていった。ミーチャはカウンターへ両肘をつき、身を乗り出す。
ミーチャ
「それで、今日は何しにきたの?」
シンディ
「ちょっと遊びに来ただけ。」
笑顔で答える。
「それと、エイミーが正式な偵察任務を希望したの。」
ミーチャ
「偵察任務?」目を輝かせる。
「なんだかすっごくワクワクする響き!」
エイミー
「あなたを直接評価しに来たのよ。」
揺るぎない口調で答える。
「兄が毎日、あなたの名前を家庭内通信で流し続けているものだから。」
ミーチャ
「えっ!?」首を傾げる。
「私って、そんなに話題になってるの?」
エイミー
「ええ。」
シンディ
「かなりね。」
二人はぴったり息を合わせてうなずいた。
しかし当のミーチャは、自分へ恋愛レーダーが完全に向けられていることなど、まるで気付いていない様子だった。
その時、サーシャが厨房から戻ってきた。
濃い木製のトレーには、焼きたての黒パンが載っている。香ばしい湯気が立ち上った。
サーシャ
「どうぞ召し上がってください。」
エイミー
「いただくわ。」
エイミーは一枚だけパンを取り、まるで精鋭部隊の監察官が重要物資を検査するかのような真剣な表情で持ち上げた。
そして、迷いなく一口。もぐ、もぐ。次の瞬間。エイミーの目が大きく見開かれた。
エイミー
「……この品は、極めて高い性能を有しているわ。」
シンディ
「高い性能?」
シンディは吹き出した。
「エイミー、それ『すごくおいしい』って意味よね?」
エイミー
「訂正するわ。」
真剣な表情のままシンディを見る。
「これは極めて完成度の高い炭水化物ユニットよ。一切の無駄がないわ。」
ミーチャ
「でしょ!?」
誇らしげに叫ぶと、妹の背中を思い切り叩いた。バシン!!
ミーチャ
「サーシャのパン作りは無敵なんだから!」
サーシャ
「あっ……!」
衝撃で半歩よろめきながらも、頬を真っ赤に染めて俯く。
「ありがとうございます……。」
そのちょうどその時。厨房の奥からトシキが姿を現した。額の汗を腕で拭いながら、店内を見回す。
トシキ
「お。」
視線がシンディで止まる。
「シンディ。」
シンディ
「トシキ!」表情が明るくなる。
「休憩中?」
トシキ
「ああ。」疲れたように息をつく。
「……あ、エイミーもいたのか。偵察任務ってこういう事ね。」
エイミー
「おはよう。」
トシキ
「おはよう。」
短く、必要最低限のやり取り。いつも通りだった。
シンディ
「今は回復時間を利用中なの?」
トシキ
「はは。」乾いた笑いが漏れる。
「とうとうシンディまで、エイミーの軍隊用語がうつったか。」
シンディ
「ちょっと感染しただけ。」
肩をすくめる。
その瞬間だった。ミーチャが勢いよく両手を打ち鳴らした。
パンッ!!
店中の視線が彼女へ集まる。
ミーチャ
「今、とってもいいこと思いついた!」
トシキ
(嫌な予感しかしない。)
反射的に全身が危険信号を発した。
ミーチャ
「みんなで夜ご飯食べよう!」
トシキの神経系に、戦術レベルの危機感が一気に押し寄せる。
トシキ
「……夜ご飯?」
ミーチャ
「そう!」
満面の笑み。
「私とサーシャ!」
サーシャ
「ええ。」
ミーチャ
「トシキとシンディ!」
シンディ
「いいね!」
ミーチャ
「それからエイミーとブレイディ!」
エイミー
「戦術的にも問題ないわ。予定は空いている。」
ミーチャ
「これで全員集合!」
トシキは黙った。シンディを見る。楽しそうに笑っている。
サーシャを見る。穏やかに微笑んでいる。
エイミーを見る。すでに会食当日の行動計画でも組み立てていそうな顔をしている。
交渉の余地はゼロだった。
逃げ道もない。
トシキ
「……まあ、いいんじゃない。」
完全に諦めた声だった。
ミーチャ
「やったー!」
拳を高々と突き上げる。
「金曜日の夜ね!」
エイミー
「金曜日の作戦開始を確認。」
鋭くうなずく。
「了解したわ。これより直ちにブレイディへ座標と任務内容を送信する。遅刻は許可しない。」
トシキ
「普通の人は、それを『夕飯に誘う』って言うんだけどな……。」
トシキはぼそりと呟いた。
その夜。
エイミーは兄へ音声通話をかけた。
エイミー
「ブレイディ。」
ブレイディ
「報告をどうぞ、エイミー! 状況は!?」
エイミー
「金曜日。十八時。」
ブレイディ
「了解!」
エイミー
「合同夕食会を実施する。」
わざと一拍置く。
「ミーチャの参加は確定している。最高の状態で待機しなさい。」
電話の向こうが、完全に静まり返った。
そして。
ブレイディ
「ミーチャが来るのかぁぁぁぁぁっ!?!?」
爆発的な絶叫が、アパート中の壁を震わせる勢いで響き渡った。
金曜日の夜。地元のイタリアンレストラン。
大きな木製テーブルを囲んでいたのは六人。
トシキ、シンディ、エイミー、ブレイディ、ミーチャ、そしてサーシャ。
ミーチャ
「みんな、かんぱーい!」
カチン!
グラスがあちこちで軽やかにぶつかり合う。
焼きたてのピザとガーリックパスタの香ばしい匂いが店内に広がり、場の空気は心地よく和んでいた。
ミーチャ
「それで、ブレイディ!」
大きなペパロニピザを持ち上げながら尋ねる。
「俳優のお仕事は最近どう?」
ブレイディ
「軌道は極めて順調だよ!」
エイミーの視線を感じて頬を少し赤くしながら答える。
「現在も高密度のオーディション訓練を継続中だ!」
トシキ
「俳優の仕事探しを『オーディション訓練』って呼ぶ人類を初めて見た……。」
グラスに口をつけながら、小さく呟く。
エイミー
「必要な考え方よ。」
真剣な表情でブレイディを見る。
「訓練という意識を持たせないと、この人はすぐに暴走するもの。」
ミーチャ
「大きなお仕事は取れた?」
ブレイディ
「まだ大きな成果は報告できない!」
それでも勢いはまったく衰えない。
「だが、俺のプログラムには戦術的撤退という概念は存在しない!」
ミーチャ
「その考え方、大好き!」
豪快に笑う。
「そういう情熱って応援したくなるよ!」
その瞬間。ブレイディの心拍数は一気に跳ね上がった。
(近くで見ると……。)
(ビジュアルデータが強すぎる……。)
(いや待て、落ち着けブレイディ。作戦通りに行動しろ。……無理だ。)
(完全にシステム障害だ。このプレッシャーには耐えられない。)
夕食は順調に進んでいった。会話は途切れることなく続き、笑い声も絶えない。サーシャは静かにパスタを巻きながら、向かい側に座る二人を見つめていた。
ブレイディとミーチャ。
(二人の同期率、本当に高い……。素敵。)
その時だった。ブレイディが突然立ち上がる。
ブレイディ
「皆さん。」
一度深呼吸する。
「少しだけ、お耳を拝借したい。」
その瞬間。トシキの脳内に最悪の予感が走った。
シンディは覚悟を決める。
エイミーは目を細め、鋭い圧力を放つ。
ミーチャだけが目を輝かせていた。
ミーチャ
「おっ、何なに?」
ブレイディは大きく息を吸う。胸いっぱいに空気をため込む。
そして――ゆっくりと片膝をついた。
……。
トシキが固まる。シンディも固まる。エイミーも固まる。
顎を引き締め、恐ろしいほど重たい威圧感を放っていた。
(しまった。)(イベントが始まった。)
サーシャだけが、瞳を輝かせて見守っていた。
ブレイディはミーチャを真っ直ぐ見上げる。その表情は、舞台俳優そのものだった。
ブレイディ
「だが見よ! あの窓から射し込む光は何だ?」
レストラン全体が、一瞬で静まり返る。
「あれは東の空――そしてジュリエットは太陽だ!」
トシキは両手で顔を覆った。
トシキ
「……本当にやりやがった、この大馬鹿。」
シンディは軽くテーブルへ額を打ちつける。
シンディ
「現在、極めて高度な社会的事故が進行中ね。」
エイミーも両手で目を覆った。
声は低く響く。
エイミー
「人前で過度な自己展開はするなと、私は明確に命令したはずよ……。」
「命令違反ね。」
しかし。
次の瞬間だった。
ミーチャが腹を抱えて笑い出した。
ミーチャ
「あははははは!!」
店中へ響く豪快な笑い声。そして彼女は立ち上がる。姿勢が変わる。一瞬で舞台女優へ切り替わった。
ミーチャ
「ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの?」
その美しい声が店中へ響き渡る。
ミーチャ
「お父様を捨て、その名を捨てて。それができないなら、せめて私を愛すると誓って――」
ブレイディの目が大きく見開かれる。顔いっぱいに笑みが広がった。
ミーチャ
「そうすれば私は、もうキャピュレットではなくなる!」
ブレイディ
「よっしゃああああ!!!」
この瞬間、ブレイディの出力は1200%へ到達した。
その瞬間から、状況は完全に制御不能になった。いや、正確には――制御不能なエンターテインメント。即興舞台芸術の傑作だった。
二人は猛烈な勢いで『ロミオとジュリエット』を演じ始める。台詞は飛ぶ。場面は入り混じる。思いつきのアドリブまで次々と飛び出す。
それなのに、不思議なほど成立していた。
ブレイディ
「愛の翼に乗って、この壁を飛び越えてきた!」
力いっぱい響かせる。
ミーチャ
「石の壁では愛を閉じ込めることなんてできない!」
即座に返す。
ブレイディ
「愛ができることなら!」
ミーチャ
「愛は必ずやってみせる!」
気付けば、店中の客が食事の手を止めていたフォークは空中で止まり、ワイングラスは口元で静止し、全員の視線が二人へ集中する。
「何なんだ、あれ?」
「プロの役者?」
「ゲリラ公演か?」
「発声すごくない?」
トシキは椅子へ深く沈み込んだ。背骨がほとんど水平になるほどだった。
トシキ
「誰か……今すぐここから避難させてくれ……。」
エイミーも心の底から同意していた。鋭い視線が兄を射抜く。
エイミー
「私も一緒に撤退したいわ。アイツの命令違反は想像以上ね。」
ブレイディ
「愛ができることなら!」
ミーチャ
「愛は必ずやってみせる!」
二人は同時に、大げさなくらい優雅に腕を広げた。店内が静まり返る。
一秒。二秒。三秒。
そして――パチ。
バーの近くにいた一人の客が拍手した。
パチ、パチ。パチパチパチパチ!!
次の瞬間。レストラン全体が、雷鳴のような拍手に包まれた。
「ブラボー!」「最高だ!」「素晴らしい!」
客たちは次々と立ち上がる。まさかの総立ちだった。店中が歓声で埋め尽くされる。
ブレイディとミーチャは顔を見合わせた。
ミーチャ
「え?」
ブレイディ
「うわぁ。」
驚いたのはほんの一瞬。二人は同時に満面の笑みを浮かべると、息ぴったりに深々とお辞儀をした。
ブレイディ
「皆さん、本当にありがとうございます!」
ミーチャ
「ありがとうございましたー!」
拍手はさらに大きくなる。歓声が天井へ響く。ブレイディがミーチャを見る。ミーチャもブレイディを見る。言葉はなかった。それなのに、ごく自然に。あまりにも自然に。二人の指先が重なり、そのまま手をつないだ。
ブレイディ
「撤収開始だ!」
ミーチャ
「うん、行こう!」
二人は出口へ向かって歩き出す。
……
トシキ
「ちょっと待て。」
平坦な声だった。二人が振り返る。
トシキ
「本気でこのまま帰る気か?」
ブレイディ
「え?」
トシキ
「ピザ、まだかなり残ってるぞ。」
テーブルの中央には、食べかけの大きなピザが堂々と鎮座していた。
ミーチャ
「あっ、本当だ。」
ブレイディ
「確認完了。」
二人は顔を見合わせる。それでも手はつないだまま。再びテーブルへ戻ると、拍手を続ける客たちへ向かって、もう一度深く一礼した。
ブレイディ
「引き続きご来店ありがとうございます!」
ミーチャ
「また次回公演でお会いしましょう!」
レストラン中が大爆笑に包まれた。
「アンコール!」「もう一幕!」「ロミオ!」「ジュリエット!」
拍手はまったく鳴り止まない。
トシキは再びグラスへ顔を埋めた。
トシキ
「……この人たち、何かがおかしいだろ。」
シンディは肩を震わせながら笑い続けている。
シンディ
「ああもう……今年一番楽しい夕食だったかも。」
トシキ
「楽しいのは認める。怖さも今年一番だけどな。」
エイミーは兄をじっと見つめていた。恐ろしいほど静かな目だった。
エイミー
「この公開暴走に対する懲戒処分を、今から検討するわ。」
シンディ
「もう手遅れだと思うけど。」
笑いながら言う。サーシャだけは最後まで拍手を送り続けていた。その瞳は、純粋な感動で潤んでいた。
サーシャ
「……本当に、素敵でした。」
やがて店内も少しずつ落ち着きを取り戻した。
しかしその頃には、ブレイディとミーチャだけが、完全に二人だけの会話の世界へ入っていた。
好きな映画。尊敬する俳優。伝説的な舞台作品。話題は尽きることがない。トシキはその様子を眺めながら、水を一口飲んだ。
トシキ
「信じられないな。」
シンディ
「何が?」
少し身を乗り出しながら尋ねる。
トシキ
「あの二人だよ。」
シンディ
「うん。」
トシキ
「知り合ってから、まだ数週間も経ってない。」
シンディ
「そうね。」
トシキ
「なのに、十年来の親友みたいなテンポで会話してる。」
シンディは意味ありげに微笑んだ。
シンディ
「人間同士の相性って、時間の長さを飛び越えることがあるのよ、トシキ。」
トシキは少し考え込む。
トシキ
「……そのデータには同意する。」
シンディ
「ちゃんと納得できた?」
トシキ
「いや。」
シンディ
「どうして?」
トシキ
「もし俺だったら、イタリアンレストランでシェイクスピアを演じるくらいなら、その場で消滅する方を選ぶ。」
シンディは声を上げて笑った。
シンディ
「引っ掛かるところ、そこなの!?」
⸻
帰り道。
夜風が心地よく吹いていた。エイミーは兄の隣を乱れない歩調で歩いている。その堂々とした姿は、夜道に長い影を落としていた。
エイミー
「さて。」
ブレイディ
「は、はい。」
ブレイディは思わず背筋を伸ばむ。
エイミー
「最終報告を聞かせてちょうだい。簡潔に。」
ブレイディは待ってましたと言わんばかりに即答した。
ブレイディ
「最高! 本当に最高だったよ、エイミー!」
エイミー
「根拠は?」
ブレイディ
「彼女は信じられないくらい素晴らしい人なんだ! あんな人、今まで会ったことがない!」
エイミー
「そこまで高評価なのね。」
ブレイディ
「見ただろ!?」
興奮気味に叫ぶ。
「俺が片膝をついた瞬間の反応速度!」
エイミー
「反応速度。優秀ね。」
ブレイディ
「舞台での表現力!」
エイミー
「表現力。申し分ないわ。」
ブレイディ
「ユーモアのセンス!」
エイミー
「確認済みよ。」
ブレイディ
「全部が完璧だった!」
エイミーは、小さく息をついた。それは滅多に見せない、穏やかなため息だった。目元の厳しさがわずかに和らぎ、小さくうなずく。
エイミー
「あなたの評価は、私の偵察結果とも一致しているわ。」
「彼女は極めて優秀な人物ね。」
ブレイディ
「だろ!?」
エイミー
「普通の人なら、あなたのあの振る舞いを見た時点で即座に撤退していたでしょう。」
ブレイディ
「そうなんだよ!」
エイミー
「九九パーセントの人間は、恥ずかしくなってその場を離れていたはずよ。」
ブレイディ
「その通り!」
エイミー
「でも彼女は違った。」
静かに言う。
「真正面から受け止めて、あなた以上の勢いで応えてみせた。」
ブレイディは胸に手を当てる。目は真剣そのものだった。
ブレイディ
「……そうなんだ。」
「本当に。」
心から感動していた。エイミーは再び、いつもの厳しい表情へ戻る。
エイミー
「恋愛が成立する可能性は十分あるわ。」
一拍置く。
「交際許可を与えます。」
ブレイディはその場で固まった。
ブレイディ
「ほ、本当に!?」
エイミー
「ええ。」
「同じ評価を二度繰り返すつもりはないわ。」
ブレイディの顔が一気に輝く。
ブレイディ
「やったぁぁぁ!! 最高!!」
エイミー
「ただし。」
一言で空気が引き締まる。
ブレイディ
「うっ……何、司令官?」
エイミー
「焦って距離を縮めようとしないこと。」
「相手の時間を尊重しなさい。」
ブレイディ
「了解!」
エイミー
「規律を乱すような異常行動は慎むこと。」
ブレイディ
「最大限努力します!」
エイミーは険しい表情のまま前を向く。
エイミー
「その返事が一番不安なのよ。」
そう言って、兄より一歩前を歩き始めた。
その頃――。
ミーチャとサーシャもまた、ベーカリーへの帰り道を歩いていた。
ミーチャ
「それでさ、サーシャ!」
楽しそうに振り返る。
「今日の夕食、どうだった?」
サーシャは柔らかく微笑んだ。
サーシャ
「とても素敵な時間だったと思います。」
ミーチャ
「だよね!」
サーシャ
「ブレイディさんは、とても楽しくて、周りを明るくしてくださる方ですね。」
ミーチャ
「ほんとそうなの! あの人、一緒にいるだけで面白いんだよ!」
サーシャは少しだけ笑みを深めた。
サーシャ
「それに……。」
ミーチャ
「ん?」
サーシャは小さく、愛らしく笑う。
サーシャ
「ブレイディさんは、本当にあなたのことがお好きなんですね。」
「あなたを見る目が、この部屋にはあなたしかいない、という目でした。」
ミーチャの足が、ぴたりと止まった。
ミーチャ
「……そう、思う?」
視線を少し逸らす。
その頬には、いつもの彼女らしくない、ほんのりとした照れが浮かんでいた。
サーシャ
「ええ。」
優しくうなずく。
「間違いありません。」
二人がベーカリー二階の住居へ戻ると、部屋の中央には父、ヴィック・カラマゾワが腕を組んで立っていた。まるでレンガ造りの要塞のような威圧感だった。
ヴィック
「帰宅予定時刻を超過している。」
ミーチャ
「みんなで夕食だったの、パパ。」
ヴィック
「参加者を報告しろ。」
ミーチャ
「いつもの友達。」
ヴィック
「名前。」
ミーチャ
「トシキ、シンディ、エイミー、それからブレイディ。」
ヴィックの眉がぴくりと動いた。
ヴィック
「ブレイディ。」
ミーチャ
「うん。」
ヴィック
「毎朝、店のコーヒーを飲み尽くしていく俳優志望の若造か。」
ミーチャ
「そのブレイディ。」
ヴィックは鼻を鳴らした。
ヴィック
「ふん。」
しかし。長女の表情へ目を向けると、その明るい笑顔を見て、険しかった表情が少しだけ和らぐ。
ヴィック
「よし。外出は承認する。」
「もう寝ろ。」
ミーチャ
「おやすみ、パパ。」
ヴィック
「おやすみ。」
⸻
その夜。
ミーチャはベッドへ仰向けになり、静かな天井をぼんやり見つめていた。
(……ブレイディ、か。)
思わず小さく笑みがこぼれる。静かな夜だった。
⸻
翌朝。
ブレイディ
「おはよう、ミーチャーーーっ!!」
いつものように、店の入口を揺らす勢いの大声が響く。
ミーチャ
「おはよう、ブレイディーーーっ!!」
ミーチャも負けないくらい大きな声で返した。豪快な笑い声が店いっぱいに広がる。一見すると、昨日までと何も変わらない朝。けれど、その空気のどこかには、確かに小さな変化が生まれていた。
ブレイディ
「金曜日の夜は、歴史に残るくらい楽しかった!」
ミーチャ
「最高だったよね!」
ブレイディ
「ぜひ第二回を開催しよう!」
ミーチャ
「もちろん!」
「絶対やろう!」
二人は同時に笑い出した。
厨房の奥では、サーシャがサービス窓からその様子を見つめている。穏やかで優しい笑顔だった。その隣にはトシキ。カウンターからあふれ出すエネルギーを眺めながら、小さくつぶやく。
トシキ
「……見てるだけで胸焼けしそうなくらい幸せそうだな。」
サーシャ
「はい。」
静かに微笑む。
「本当に幸せそうですね。」




