Episode15:観察者たちと実証研究
このエピソードの登場人物
レイチェル・ジマーマン
プロフィール:現役の弁護士。並外れた共感力を持つ一方で、健全な境界線を引くことが慢性的かつ根本的に苦手。風変わりな依頼人に振り回されないよう必死に自分を鍛えているが、実は一番の研究対象は自分自身なのではないかと、少しずつ気づき始めている。
ルイーズ・ゴールドバーグ博士
プロフィール:シンディの母で、UCLAの心理学教授。知的で分析力に優れ、感情表現は極めて少ない。表向きは地域のサポートグループを運営しているが、その活動は、次回の学術論文に向けたデータ収集の場としても非常に効率よく機能している。
ゲイリー・ギブス
プロフィール:3A号室の住人。玄関には12個のデッドボルトを備え、室内でもサングラスが標準装備。政府の監視、動く影、そして日々のUFO活動を常に察知できるよう神経が研ぎ澄まされている。
ハリー(ハウイー)・ウォロフ
プロフィール:3B号室の大家。昼間は建物を完璧な状態に保つ非の打ちどころのないオーナー。しかし夜になると――正確には毎週金曜の夜になると――宇宙との交信儀式を行っており、その活動はついに学術研究の記録へ正式に登録されることとなった。
数日後。
ジマーマン法律事務所の手狭なオフィスに、デスクの電話が鋭く鳴り響いた。
プルルルル! プルルルル!
レイチェルは疲れ切った腕を持ち上げるようにして受話器を取った。
レイチェル
「はい、ジマーマン法律事務所です……」
依頼人の声
「今すぐ接近禁止命令を申請したいの! 私の彼氏が狼男なの! 満月になるたびにリビングのラグをズタズタに引き裂くのよ!」
受話器の向こうから、切羽詰まった甲高い声が飛び込んできた。
レイチェル
「……」
レイチェルは大きく深呼吸した。
そして、カヨから叩き込まれた防御プロトコルを即座に発動する。
レイチェル
「大変申し訳ございませんが、お客様。月の満ち欠けによる変身に関する案件は、当事務所ではお取り扱いしておりません。失礼いたします。」
ガチャ。
受話器を勢いよく置くと、そのまま両手で顔を覆った。
レイチェル
「……毎回これなんだから。」
カヨ特製「断る技術」短期集中講座は、理屈の上ではちゃんと効果を発揮していた。
問題は――奇妙で説明のつかない相談が、相変わらず途切れることなく彼女の元へ流れ込んできていることだった。
レイチェル
「……本気で限界かもしれない。」
誰もいない部屋へ向かって、小さくつぶやく。
その時だった。
机の上のスマートフォンが震えた。
画面にはエマの名前が表示されている。
エマ
「レイチェル! 今のメンタルバッテリー残量を至急報告して!」
レイチェル
「……ほぼゼロ。」
エマ
「まだ変な依頼人たちに振り回されてるの?」
レイチェル
「まあ……うん。そんな感じ。」
エマ
「そうだと思った! だから対策を見つけたの!」
エマは弾むような声で言った。
「近くでサポートグループをやってるの。ちゃんとプロの心理学者が運営してるんだよ。」
レイチェル
「サポートグループ?」
レイチェルは片眉を上げる。
エマ
「そう! 高ストレスな環境とか、人間関係がどうしようもなく大変な人向けの集まり。そしてね、運営してるのがシンディのお母さんなの!」
レイチェル
「シンディのお母さん?」
エマ
「ルイーズ・ゴールドバーグ博士。UCLAの心理学教授。」
レイチェルは少し考え込んだ。
レイチェル
「……本当に効果あると思う?」
エマ
「一回だけでも行ってみなよ! 失うものなんてないでしょ?」
レイチェル
「……そうね。その通りかもしれない。」
エマ
「決まり! 今すぐ住所送るね!」
⸻
翌週の金曜の夜。
地域コミュニティセンター。蛍光灯に照らされた小さな会議室には、プラスチック製の椅子がきれいな円形に並べられていた。レイチェルは入口で足を止める。
(……私、本当にこういう場所に来る人間なんだろうか。)
迷いを振り払うように扉を開ける。すでに数人の参加者が席についていた。
円の中央には、五十代半ばほどの女性が立っている。完璧に仕立てられたチャコールグレーのスーツ。鋭い眼鏡。そして、長年学術の世界に身を置いてきた者だけが持つ圧倒的な存在感。
ルイーズ
「あなたがレイチェル・ジマーマンですね。」
その声は正確で落ち着いていた。
「エマから事情は伺っています。私はルイーズ・ゴールドバーグです。」
レイチェル
「お会いできて光栄です。」
二人は握手を交わす。ルイーズの手は驚くほど冷たかったが、その握りはしっかりとしていて、迷いがなく力強かった。
ルイーズ
「どうぞ空いている席へ。間もなくセッションを始めます。」
レイチェルは空いている椅子に腰を下ろし、何気なく部屋を見回した。その視線が円になった参加者たちを一周した瞬間――彼女は固まった。
レイチェル
「……ゲイリー?」
そこにいたのは3A号室の住人だった。相変わらず、トレードマークのベースボールキャップと室内用サングラスを身につけている。
ゲイリー
「おっ! よう、レイチェル!」
ゲイリーは軽く手を挙げて挨拶した。
レイチェル
「あなた、ここで何してるの?」
ゲイリー
「たぶん君と同じさ。心の配線を安定させようと思ってね。」
レイチェル
「……」レイチェルの胃が一気に締めつけられる。
(……お願いだから、私の考えてる通りじゃありませんように。)
その瞬間だった。重たいドアが再び開く。
ハウイー
「遅れて申し訳ありません!」
部屋へ入ってきた男を見た途端、レイチェルの目は大きく見開かれた。
レイチェル
「ハウイー!?」
ハウイー
「レイチェル!? 君もこのノードに参加してたのか!?」
大家だった。レイチェルはプラスチック椅子へ沈み込むように腰を落とした。
(どうして今現在、私を悩ませてる依頼人リストの全員が、この部屋に揃ってるの……。)
ルイーズ・ゴールドバーグ博士が円の中央へ歩み出る。自然と部屋中の視線が彼女へ集まった。
ルイーズ
「それでは始めましょう。」
穏やかな口調で告げる。
「ここは、通常とは少し異なるストレスと向き合う方々のためのサポートグループです。」
レイチェルは黙ったままだった。
ルイーズ
「ここは安全な場所です。誰かを裁くことも、批判することもありません。どうぞ安心して、ご自身の悩みを話してください。」
そう言いながらルイーズは、上質な革張りのノートを開き、高級な万年筆を取り出した。その姿勢は、心を癒やすセラピストというより、臨床研究者そのものだった。
ルイーズ
「最初にお話しされる方は?」
ゲイリーの手が一瞬で挙がる。
ゲイリー
「俺が。」
ルイーズ
「どうぞ。」
ルイーズは万年筆を紙へ下ろした。ゲイリーは立ち上がり、帽子のつばを整えると、緊張した様子で咳払いをした。
ゲイリー
「俺はゲイリー。それで……いろんなものが見える。」
ルイーズ
「具体的に。」
ゲイリー
「動く影。UFO。あと政府の工作員が俺を監視してる。」
ルイーズ
「頻度は?」
ゲイリー
「毎日だ。」
ルイーズのペンが驚くほどの速さで走り始める。
ゲイリー
「そのせいで眠れないし、誰も信用できない。だから玄関にはデッドボルトを十二個付けた。」
ルイーズ
「なるほど。」
カリカリ。カリカリ。
ルイーズ
「記録しました。」
ゲイリーは胸を張り、周囲を警戒するように見回した。
ゲイリー
「でも勘違いしないでほしい。俺は頭がおかしいわけじゃない。本当のことなんだ。」
レイチェルは静かに目を閉じ、心の中でため息をつく。(……やっぱり。)
ルイーズの表情は一ミリたりとも変わらなかった。
ルイーズ
「もちろんです。」
その返事には慰めも共感もなく、ただ機械的な確認だけがあった。そして即座に次の対象へ視線を移す。
ルイーズ
「次の方、どうぞ。」
ハウイーが勢いよく手を挙げた。
ハウイー
「はい!」
ルイーズ
「どうぞ。」
ハウイーは姿勢を正して立ち上がり、きっちりとしたワイシャツの襟を整えた。
ハウイー
「私はハウイーです。そして私は定期的に、地球外知性と量子的な交信を行っています。」
レイチェルは天井を見上げた。(始まった……。)
ルイーズ
「地球外生命体ですか?」
ルイーズはペンを構えたまま尋ねる。
ハウイー
「その通り!」ハウイーは誇らしげに微笑んだ。
「毎週、屋上で観測セッションを行っていて、彼らの存在を実際に感じ取ることができるんです。」
ルイーズ
「身体的には、どのような感覚ですか?」
ハウイー
「大気圧が震えるような独特の感覚があります。」
ルイーズ
「承知しました。」
カリカリ。カリカリ。
ルイーズ
「実に興味深い記録です。」
そのやり取りを見つめながら、レイチェルの胸には疑念が膨らんでいく。
(この人、本当にこの人たちを治療しようとしてるの……? それとも、ただ観察してるだけ……?)
その時だった。
ルイーズの鋭い視線が、まっすぐレイチェルへ向けられる。
ルイーズ
「レイチェル。」
レイチェル
「あ……はい?」
ルイーズ
「次はあなたです。」
レイチェルは椅子の上で固まった。
レイチェル
「私ですか?」
ルイーズ
「初参加ですよね?」
レイチェル
「ええ……そうですけど……。」
しぶしぶ立ち上がる。法廷に立つ時よりも、ずっと肩に力が入っているのを感じた。
レイチェル
「レイチェルです。弁護士をしています。」浅く息を吸う。
「それで……理由は本当にわからないんですが、私のところには、なぜか変わった依頼人ばかり来るんです。」
ルイーズ
「『変わった』とは?」
ルイーズは即座に切り返した。
レイチェル
「幽霊とか、狼男相手の接近禁止命令とか、大規模な政府陰謀論とか……そういう類です。」
ゲイリーは深くうなずいた。ハウイーも「わかる」と言わんばかりに手を振る。その反応を見て、レイチェルはますます居心地が悪くなった。
ルイーズ
「その結果、どうなっていますか?」
ルイーズはさらに問いかけた。
レイチェル
「……どうしても、お断りできないんです。」
ルイーズ
「なぜですか?」
レイチェル
「みんな困っているからです。本気で助けを必要としているんです。」
ルイーズ
「それが理由のすべてですか?」
レイチェル
「え?」
ルイーズ
「なぜ、困っている人を断れないのですか?」
レイチェルは言葉に詰まり、答えを探した。その沈黙を見届けるように、ルイーズは落ち着き払った口調で結論を述べる。
ルイーズ
「典型的な、根深い罪悪感の表れですね。」
ペンがさらさらと紙の上を走る。
「まさに教科書どおりです。」
レイチェル
「教科書どおり?」
ルイーズ
「重度の『救世主コンプレックス』です。」
ルイーズは淡々と言った。
「周囲で起こるあらゆる問題を、自分が解決しなければならないと思い込んでしまう心理傾向です。」
レイチェル
「それは……少し大げさじゃ――」
ルイーズ
「さらに、その症状はかなり進行しています。」
ルイーズはノートへ書き込みながら続ける。
「あなたの境界線は、機能しているとは言えないほど希薄です。自己犠牲が完全に習慣化している。そしてその防御の弱さが、極めて風変わりな人物ばかりを自然と引き寄せているのです。」
レイチェル
「ちょ、ちょっと待ってください!」
レイチェルは顔を赤くして抗議する。
「私はただ、みんなを助けたいだけなんです!」
ルイーズ
「善意はデータには関係ありません。」
ルイーズは即座に言い切った。
「境界線を引く能力が完全に欠如している人間は、その空白を生み出します。そしてその空白は、他人の境界線を日常的に踏み越える人々によって、自然と埋め尽くされるのです。」
部屋は静まり返った。誰一人、反論しなかった。もちろん、レイチェルも。
教授の言葉は、一つ残らず――痛いほど正しかったからだ。
⸻
セッション終了後。
参加者たちはコミュニティセンターを後にし、静かな部屋にはレイチェルとルイーズだけが残っていた。
ルイーズはノートをパタンと心地よい音を立てて閉じる。
ルイーズ
「初めてのセッションはいかがでしたか、レイチェル?」
レイチェルは腕を組み、まっすぐ彼女を見た。
レイチェル
「正直に言います、先生。」
「あなたが本当に人を助けようとしているのか、それとも顕微鏡で観察しているだけなのか……私には判断がつきません。」
ルイーズの口元が、ごくわずかにほころぶ。
本当に微かな笑みだった。
ルイーズ
「非常に鋭く観察できてます。」
レイチェル
「じゃあ、図星なんですか?」
ルイーズ
「両方です。」
ルイーズは一切ためらわず答えた。
「私は心理学者です。人間の行動を観察することは、本質的な性分ですから。」
レイチェル
「やっぱり。」
ルイーズ
「ですが、観察と支援は相反する概念ではありません。」
レイチェルは少し目を細める。
レイチェル
「つまり私たちは、あなたの次の論文の研究材料ってことですか?」
ルイーズ
「ええ。」
驚くほど悪びれる様子もない。
「その代わりに、あなた方は高度な臨床分析を完全無料で受けています。極めて公平な取引です。」
レイチェルは思わず吹き出した。信じられない、という笑いだった。
レイチェル
「先生って、本当に変わった人ですね。」
ルイーズ
「その評価はよくいただきます。」
ルイーズは眼鏡を直し、手元のファイルへ目を落とす。
「ですが、レイチェル……あなたは非常に興味深いケーススタディです。」
レイチェル
「私が?」
ルイーズ
「ええ、もちろん。」
ルイーズは一ページ戻した。そこには、びっしりと手書きのメモが並んでいた。その中央には、大きく太い文字でこう書かれている。
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Rachel Zimmerman
高度な救世主コンプレックス
慢性的な境界線設定能力の欠如
高い共依存傾向
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レイチェルはうめき声を上げながら顔を両手で覆った。
レイチェル
「うわぁ……文字になると最悪ですね。」
ルイーズ
「むしろ逆です。」
ルイーズは心からそう思っている様子で言った。
「非常に質の高いデータです。来週もお待ちしています。」
レイチェル
「治療のためですか? それとも観察のためですか?」
ルイーズ
「純粋に観察のためです。」
レイチェル
「そこまで正直だと、逆に清々しいですね。」
ルイーズ
「私は学者です。誠実さは基本要件です。」
レイチェルは微笑んだ。そして、自分でも驚くほど胸の重荷が少し軽くなっていることに気づく。
レイチェル
「……わかりました。また来ます。」
ルイーズ
「素晴らしい返答です。」
ルイーズは満足そうにうなずいた。
「来週も観察を継続しましょう。」
レイチェルは小さくため息をついた。けれど今度は、その顔に本当の笑顔が残っていた。
レイチェル
「また来週、先生。」
(……とんでもなく妙な状況に入り込んでしまったのは十分わかってる。)
レイチェルは夜風の中へ歩き出しながら思う。
(でも正直……今の私には、こういう場所が必要なのかもしれない。)
その夜。ルイーズ・ゴールドバーグ博士の書斎。
デスクライトの澄んだ光に照らされながら、ルイーズは整然とした書斎で、セッション中に取った手書きの記録を見返していた。
アルミ製のノートパソコンを開き、流れるような手つきでデータを安全な研究データベースへ入力していく。
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観察記録 — サポートグループ 第47回セッション
対象者:ゲイリー・ギブス
所見: 高度な被害妄想的思考を確認。統合失調型パーソナリティ障害である可能性が統計的に高い。
対象者:ハリー(ハウイー)・ウォロフ
所見: 誇大型妄想性障害の明確な傾向を確認。地球外生命体との量子的交信に対して、慢性的かつ強い執着を示す。
対象者:レイチェル・ジマーマン
所見: 重度の共依存を伴う、高度な救世主コンプレックスを確認。共感性指数は極めて高い一方で、対人関係における境界線を構築する機能は、事実上ほぼ存在しない。
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ルイーズは大きく満足そうにうなずいた。
モニターの冷たいLEDの光が、眼鏡のレンズに鋭く反射する。
ルイーズ
「実に豊かな研究対象の集まりですね……。」
彼女は小さく独り言をつぶやいた。そして、Enterキーを迷いなく押す。画面には、新しいファイルが作成された。
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対象者プロフィール:レイチェル・ジマーマン
ステータス:
長期学術観察対象として承認。
今後の観察プロトコル
1. グループ環境における週次観察を継続する。
2. 境界線形成能力の発達について、すべての進行データを記録する。
3. 異常な環境刺激に対する耐性閾値の変化を測定する。
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ルイーズはノートパソコンを静かに閉じた。
パタン。
その心地よい音が、静まり返った書斎へ響く。
静寂の中で立ち上がると、彼女の口元には、ようやく小さな勝利の笑みが浮かんだ。
ルイーズ
「これほど完璧なデータセットなら……。」
誰もいない部屋へ向かって静かにつぶやく。知的な高揚に目を輝かせながら。
「……間違いなく、素晴らしい学位論文になるわね。」




