Episode 13:カラマーゾフのパン屋さん
登場人物
田所家
トシキ
東京大学を休学中。
ハーフマラソン後の生活リズムを再構築するため、なぜかロシア系ベーカリーでアルバイトを始める。
生地を触ると意外と飲み込みが早い。
カヨ
田所家の実質的な統治者。
どんな店でも最初に確認するのは衛生状態と栄養価。
パンの味より食物繊維量を重視する。
シンディ・ゴールドバーグ
トシキの恋人。
求人サイトの検索能力が異常に高い。
アルバイト探しから人生相談まで対応可能。
健一
元ハリウッド俳優、現在は作家。
家族の新しい日常を見守りながらホテルでライ麦パンを食べる係。
⸻
ベーカリー・カラマーゾヴァ
(※古典文学とは一切関係ありません)
ヴィクター・カラマーゾフ
店主。
旧ソ連生まれの職人パン職人。
あらゆる問題を「もっと生地を触れ」で解決しようとする。
個人的なウォッカ代を経費計上する癖がある。
ドミートリア(ミーチャ)・カラマーゾヴァ
長女。
店の看板娘。
太陽みたいな接客で常連客を量産する。
本人は気付いていないが、ある若手俳優が毎朝通っている原因の約八割を占めている。
イヴァンナ・カラマーゾヴァ
次女。
企業コンサルタント兼共同経営者。
週末になると店に現れ、帳簿監査を実施する。
父親の不正ウォッカ支出を絶対に見逃さない。
アレクサンドラ(サーシャ)・カラマーゾヴァ
三女。
穏やかで信心深いカトリック。
朝五時前から黙々とパンを作る。
人間関係の変化には気付いているが、余計なことは言わない。
⸻
常連客
ブレイディ・ヴァーデン
俳優志望。
毎朝ピロシキを買いに来る。
本人はパン目当てだと思っている。
周囲は全員それ以外の理由に気付いている。
ダーマ・ビーンズで文学談義を繰り広げてから数日後の朝。
近所のカフェ。窓から差し込む朝日がテーブルを斜めに照らしていた。トシキは紅茶を一口飲みながら口を開く。
トシキ
「アルバイトでも始めようかな。」
タブレットを見ていたシンディが顔を上げた。
シンディ
「へえ?どういう風の吹き回し?」
トシキ
「生活リズムを立て直したいんだ。」
トシキ
「朝早く起きて、身体を動かして、今までとは違う人たちと働く。そういう生活を一度やってみたい。」
シンディは頷いた。
シンディ
「いい考えだと思う。」
そう言うなり、指がタブレットの画面を素早く滑り始める。
シンディ
「パン屋さん……カフェ……古本屋……」
トシキ
「パン屋なんていいかも。」
シンディ
「あ。」
シンディが画面をこちらへ向けた。そこには、
Bakery Karamazovaという店名が表示されていた。
シンディ
「東ヨーロッパ系のパン屋さんみたい。早朝の製造スタッフを募集してる。」
画面には黒パンやライ麦パン、焼きたてのピロシキが並んでいる。トシキは少し身を乗り出した。
トシキ
「面白そう。」
シンディ
「じゃあ行ってみよう。」
午後二時。
ベーカリー・カラマゾヴァ。
少し年季の入ったレンガ造りの建物だった。
ガラスには、Хлеб(パン)Пирожки(ピロシキ)と手書きで書かれている。
チリン。
重たい木の扉を開けると、真鍮のベルが乾いた音を鳴らした。焼きたての穀物の香りが一気に押し寄せる。香ばしく、どこか懐かしい香りだった。
奥から一人の女性が姿を現す。二十代後半くらい。金髪をきっちりまとめた実用的なお団子頭。店全体が明るくなるような笑顔だった。
ミーチャ
「こんにちは!ベーカリー・カラマゾヴァへようこそ!」
あまりの勢いに、トシキは思わず背筋を伸ばした。
トシキ
「あ、こんにちは。求人を見て来たんですが、まだ募集していますか?」
ミーチャ
「もちろん!」
ミーチャは笑った。
ミーチャ
「今、人手不足で大変なの!汗をかく覚悟はある?」
トシキ
「あります。」
ミーチャ
「最高!」
小麦粉の付いた手を差し出す。
ミーチャ
「私はドミトリア・カラマゾヴァ。みんなにはミーチャって呼ばれてる。」
トシキ
「トシキです。」
二人は握手した。
シンディ
「私はシンディです。」
ミーチャ
「お二人ともよろしく!」
ミーチャはさらに笑顔を広げた。
ミーチャ
「最終的な判断は父がするから、ちょっと呼んでくるね!」
そう言うと、厨房の奥へ消えていった。
数分後。スイングドアがゆっくり開く。
トシキは思わず息を飲んだ。
現れたのは、六十代前半くらいの大男だった。
銀色の髪。無精ひげ。エプロンは真っ白になるほど粉まみれ。だが、その目だけは鋭かった。
ヴィクター
「お前。」
低く響く声だった。
ヴィクター
「日本人か。」
トシキ
「はい。」
ヴィクター
「ヴィクター・カラマゾフだ。」
ヴィクター
「ヴィックと呼べ。」
トシキ
「よろしくお願いします。」
ヴィクターは無言でトシキを頭の先から足元まで見つめた。まるで品定めでもするように。そして聞いた。
ヴィクター
「なぜ俺の店で働きたい。」
トシキ
「生活リズムを立て直したいんです。」
ヴィクターは鼻で笑った。
ヴィクター
「生活リズム?」
腕を組む。
ヴィクター
「抽象的な話はするな。うちは朝五時開始だ。」
店内が静かになる。
ヴィクター
「来られるか。」
トシキ
「はい。」
ヴィクター
「本当か。」
トシキ
「大丈夫です。」
ヴィクターは五秒ほど黙って見つめ続けた。そして一度だけ頷く。
ヴィクター
「よし。明日朝五時。一分でも遅れたらクビだ。」
トシキ
「分かりました。」
ヴィクター
「時給十二ドル。」
トシキ
「問題ありません。」
ヴィクター
「契約成立だ。」
それだけ言うと、ヴィクターは振り返り、そのまま厨房へ戻っていった。
ミーチャが苦笑しながら戻ってくる。
ミーチャ
「気にしないでね。パパの初期設定は、いつもあんな感じだから。」
トシキは笑った。
トシキ
「大丈夫です。」
シンディが少し心配そうな顔をする。
シンディ
「本当にここで働くの?」
トシキは力強く頷いた。
トシキ
「うん。ここに決めた。」
翌朝 4:30。スマートフォンのアラームがホテルの部屋の静寂を容赦なく切り裂いた。
トシキ
「うぅ……」
トシキは重い毛布から這い出した。
窓の外のロサンゼルスはまだ真っ暗だった。街灯の光だけが静かな道路を照らしている。まだ早い。とんでもなく早い。だが、自分で決めたことだ。トシキは素早く作業着に着替え、冷たい朝の空気の中へ出ていった。
午前5:00。ベーカリー・カラマゾヴァ 裏口。
コンコンコン。
トシキが金属製のドアをノックすると、すぐに重い錠前の外れる音がした。
ガチャリ。扉が開く。
そこに立っていたのは二十歳前後の若い女性だった。
真っ直ぐな黒髪。首元には小さな銀の十字架。静かで落ち着いた雰囲気をまとったその姿は、不思議なほど場の空気を和らげていた。
サーシャ
「トシキさんですね?」
穏やかな声だった。
サーシャ
「私はアレクサンドラです。サーシャと呼んでください。」
トシキ
「よろしくお願いします。」
サーシャ
「どうぞ中へ。」
サーシャは静かに道を空けた。
サーシャ
「朝の仕込みを始めましょう。」
午前8:00。休憩時間。
トシキは小さな木製の椅子に腰を下ろし、大きく肩の力を抜いた。思った以上に重労働だった。するとサーシャが湯気の立つマグカップを二つ持って近づいてきた。
サーシャ
「お疲れですか?」
トシキ
「少しだけ。でも、いい運動にはなってます。」
サーシャは柔らかく微笑み、一つのマグを差し出した。
サーシャ
「一週間もすれば慣れますよ。」
サーシャ
「どうぞ。蜂蜜を少し入れた紅茶です。」
トシキ
「ありがとうございます。」
トシキはマグを受け取り、一口飲んだ。温かさが身体の奥まで広がっていく。その時だった。
チリン。
店のベルが勢いよく鳴った。
ブレイディ
「おはよう、ミーチャ!」
聞き覚えのある大きな声が厨房まで響いてきた。
ミーチャ
「おはよう、ブレイディ!」
トシキは思わず顔を上げた。
(え? ブレイディ?)
厨房の小窓から店内を覗く。そこには松葉杖のないブレイディがいた。ショーケースにもたれながら満面の笑みを浮かべている。
ブレイディ
「トシキ!?」
ブレイディはトシキを発見した瞬間に叫んだ。
ブレイディ
「なんでお前がそこにいるんだ!?」
トシキ
「ここでバイト始めたんだよ。」
トシキは笑いながらドアを少し開けた。
ブレイディ
「マジか!?それは最高のニュースだ!」
ブレイディは心底嬉しそうに笑ったあと、すぐにミーチャへ向き直った。
ブレイディ
「ミーチャ!いつものやつ頼む!それと今日はビーフピロシキを二つ追加で!」
ミーチャ
「はーい!」
ミーチャは笑顔で紙袋を準備し始めた。
しばらくしてブレイディは商品を受け取り、そのまま休憩中のトシキのテーブルへやって来た。大きくピロシキをかじる。
ブレイディ
「俺さ、毎朝ここまで来てるんだ。ロサンゼルスで一番うまいピロシキだと思う。」
トシキ
「へぇ。」
トシキは少し驚いた。
トシキ
「知らなかった。」
ブレイディは少し身を乗り出し、声を潜めた。
ブレイディ
「それにさ。ミーチャの笑顔、わかるだろ?」
「あれを見るだけで、一日分のやる気がチャージされるんだよ。」
トシキ
「……なるほど。」
トシキは小さく笑った。
(完全に常連だな。)
午前9:00。再び店のベルが鳴った。
だが今度は空気が明らかに変わった。
カツ、カツ、カツ。鋭いヒールの音が床を打つ。
店に入ってきたのは、シャープなパンツスーツを着た女性だった。細いフレームの眼鏡。
視線はスマートフォンから一度も離れない。まるで会議室からそのまま転送されてきたような雰囲気だった。
ミーチャの表情がわずかに曇る。
ミーチャ
「イヴァンナ……」
イヴァンナ
「ミーチャ。」
イヴァンナはスマホから目を離さないまま言った。
イヴァンナ
「財務監査に来たわ。」
イヴァンナ
「十時からクライアントとの打ち合わせがあるから、無駄なやり取りは省略しましょう。」
ミーチャ
「今から?」
ミーチャは困ったように厨房を指差した。
ミーチャ
「朝のピーク中なんだけど。」
イヴァンナ
「だからこそリアルタイムの数字が確認できる。」
冷たく言い放ち、そのまま事務スペースへ向かう。厨房ではヴィクターが大きく眉をひそめた。
ヴィクター
「また来たな。」
イヴァンナ
「当然よ。」
イヴァンナは平然としていた。
イヴァンナ
「私は共同オーナーなんだから。」
ヴィクター
「お前には別の仕事があるだろう。」
イヴァンナ
「だから週末に監査しているの。」
ノートパソコンを開く。指が高速でキーボードを叩き始めた。
イヴァンナ
「それとも何か隠したい数字でもあるのかしら?」
ヴィクター
「好きにしろ。」
ヴィクターは不機嫌そうに新しい生地を作業台へ叩きつけた。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
イヴァンナは数秒で帳簿を確認した。そして眉がぴくりと動く。
イヴァンナ
「お父さん。」
ヴィクター
「何だ。」イヴァンナ
「これを説明して。」
ノートパソコンを向ける。
そこには一行だけ強調表示されていた。Vodka - $200
厨房が静まり返る。
ヴィクターはわざと窓の外を見た。
ヴィクター
「必要経費だ。」
イヴァンナ
「却下。」
即答だった。
イヴァンナ
「個人的なウォッカ代を店舗経費に計上しないで。」
ヴィクター
「ストレス対策だ。」
イヴァンナ
「それでも却下。」
イヴァンナ
「二百ドルは次回の利益配分から差し引きます。」
ヴィクター
「何だと!?」
厨房に怒号が響いた。しかしイヴァンナは微動だにしない。
イヴァンナ
「決定事項よ。」
パタン。ノートパソコンを閉じる。
イヴァンナ
「では私はクライアントとの打ち合わせに向かうわ。」
「良い一日を。」
そのまま店を出ていった。ガラス越しに見える彼女は、すでにBluetoothイヤホンを装着し、流れるようなビジネス英語で誰かと話している。
トシキはサーシャへ小声で囁いた。
トシキ
「この家族さ……全員が別の世界で生きてる感じしない?」
サーシャはかすかに微笑んだ。
サーシャ
「はい。その認識は正しいと思います。」
午前10:00。初日の勤務終了。
トシキが片付けを終えていると、ミーチャが厨房へ顔を出した。
ミーチャ
「トシキ!」
肩を軽く叩く。
ミーチャ
「初日お疲れさま!無事にカラマゾヴァ家の洗礼を生き残ったね!」
トシキ
「何とか。」
トシキは笑った。
トシキ
「色々教えてもらえたおかげです。」
ミーチャ
「また明日来る?」
トシキ
「もちろん。」
ミーチャ
「最高!」
ミーチャは満足そうに頷いた。
ミーチャ
「じゃあ明日も五時ね!」
裏口から外へ出る。
カリフォルニアの太陽が一気に身体を包んだ。
腕も肩も重い。全身が疲れている。だが頭の中は驚くほどスッキリしていた。
(疲れたな……でも気分はいい。)
その時。スマホが震えた。
シンディからのメッセージだった。
「初出勤どうだった?」
トシキはすぐ返信する。
「かなりハード。でも楽しかった。」
数秒後。返信が返ってきた。
「よく頑張ったね!その調子!」
トシキは思わず笑った。
「ありがとう。」
スマホをポケットへしまい、ホテルへ向かって歩き出した。
その夜。ホテルの部屋。
カヨはダイニングカウンターに座り、タブレットを操作していた。そこへトシキが戻ってくる。
トシキ
「ただいま。」
カヨ
「お帰りなさい。」
カヨは視線を上げた。
カヨ
「アルバイト先について報告してください。」
トシキ
「順調だったよ。」
カヨ
「ロシア系のパン屋さんだったわね。」
トシキ
「うん。」
カヨの目が鋭くなる。
カヨ
「主力商品は?」
トシキ
「黒パンとライ麦パンとピロシキ。」
カヨは少し考えている。
カヨ
「ライ麦パン……」
そして静かに頷く。
カヨ
「非常に優秀な選択です。」
トシキ
「そうなの?」
カヨ
「食物繊維が豊富です。」
カヨ
「血糖値の急激な上昇も抑えられます。」
トシキ
「そこを見るんだ……」
カヨ
「重要です。」
真顔だった。
カヨ
「とても重要です。」
トシキは思わず笑う。(やっぱりそこなんだな。)
カヨは時計を確認した。
カヨ
「明日も五時出勤ですか?」
トシキ
「うん。」
カヨ
「それなら早く寝なさい。」
カヨ
「規則正しい生活を維持するには休息も必要です。」
トシキ
「了解。」
トシキは肩を回しながら立ち上がった。
(新しい生活が始まったな。)
翌朝。午前5:00。ベーカリー・カラマゾヴァ。
いつものように酵母の香りが漂っている。サーシャが静かに挨拶した。
サーシャ
「おはようございます、トシキ。」
トシキ
「おはよう。」
サーシャ
「今日はブリヌイを作ります。」
トシキ
「ブリヌイ?」
サーシャ
「ロシア風のクレープです。」
サーシャ
「繊細な作業になります。」
トシキ
「わかった。」
二人は並んで作業を始めた。生地を混ぜる。発酵具合を確認する。鉄板の温度を調整する。
サーシャはほとんど喋らない。だが沈黙は不思議と心地よかった。トシキも自然と作業へ集中していく。
二時間後。ヴィクターがやってきた。
大きな身体を作業台へ乗り出す。トシキが仕上げた生地をじっと見つめる。数秒。沈黙。そして一言だけ。
ヴィクター
「良くなった。」
それだけだった。説明もない。褒め言葉もない。だがトシキには十分だった。
(認められた。)そんな気がした。
ヴィクターは何事もなかったように去っていく。トシキは思わず笑う。
(職人だな、この人。)
数日後。
チリン。店のベルが鳴った。カヨが店へ入ってくる。
ミーチャ
「いらっしゃいませ!」
いつもの太陽みたいな笑顔。
カヨ
「こんにちは。」
カヨ
「トシキの母です。」
ミーチャ
「えっ!」
ミーチャの顔がぱっと明るくなる。
ミーチャ
「トシキのお母さん!?」
ミーチャ
「お会いできて光栄です!」
カヨ
「こちらこそ。」
カヨの目が店内を見渡す。清潔さ。整理整頓。商品の配置。無意識に採点していた。
(高評価。)
カヨ
「ライ麦パンはありますか?」
ミーチャ
「もちろんです!」
焼き立てのパンを袋へ入れる。
ミーチャ
「今朝焼いたばかりですよ!」
カヨが受け取ろうとしたその時だった。厨房の窓越しにトシキが見える。真剣な顔で生地をこねている。
(ちゃんと働いている。)
少し安心した。だがその視界を巨大な影が遮った。ヴィクターだった。
ヴィクター
「お前があの坊主の母親か。」
カヨ
「そうです。」
ヴィクターは腕を組んだ。
ヴィクター
「坊主は真面目だ。よく働く。」
カヨ
「ありがとうございます。」
しかしヴィクターは続ける。
ヴィクター
「だが手が柔らかい。」
カヨ
「手?」
ヴィクターは自分の両手を見せた。岩みたいな手だった。
ヴィクター
「パンは身体で作る。」
ヴィクター
「酵母の声を聞くには火に耐えた手が必要だ。」
カヨはその手を見つめた。言葉は粗野だ。だが嘘はない。
カヨ
「貴重なご意見をありがとうございます。」
カヨは軽く頭を下げた。ヴィクターは鼻を鳴らしただけだった。
その日の午後。ホテルの部屋。
カヨはキッチンカウンターで、カラマゾヴァのライ麦パンを丁寧に切り分けていた。まるで研究者が標本を扱うかのような真剣さだった。
ケンイチ
「カヨ。」
ソファから顔を上げる。
ケンイチ
「パン一個にそこまで分析はいらないと思うぞ。」
カヨ
「必要です。」
即答だった。
カヨ
「炭水化物は人体活動の基盤です。」
ケンイチ
「はいはい。」
カヨは小さく切った一切れを口へ運ぶ。ゆっくり噛む。しばらく沈黙。そして。
カヨ
「……非常に優秀です。」
ケンイチ
「お?」
ケンイチも一切れ食べた。噛んだ瞬間に広がる深い香り。しっかりした食感。ほどよい酸味。
ケンイチ
「おお。」
ケンイチ
「これは確かに美味いな。」
カヨ
「ライ麦比率が高いですね。」
ケンイチ
「一口で分かるのか?」
カヨ
「当然です。」
カヨはすでにタブレットを開いていた。何かを入力している。
カヨ
「食物繊維。」
タップ。
カヨ
「非常に優秀。」
タップ。
カヨ
「ビタミンB群。」
タップ。
カヨ
「高評価。」
タップ。
カヨ
「推定血糖値上昇率。」
タップ。
カヨ
「理想的。」
タップ。
カヨ
「総合評価。」
タップ。
カヨ
「Aプラス。」
ケンイチは吹き出した。
ケンイチ
「お前だけだぞ。」
ケンイチ
「パン食って成績表つけてるの。」
カヨ
「味だけで評価するのは不十分です。」
真顔で返す。だが口元だけは少し緩んでいた。
カヨ
「最適化に終わりはありません。」
その少し後。トシキが帰宅した。
トシキ
「ただいま。」
カヨ
「お帰りなさい。」
カヨ
「今日、職場を視察してきました。」
トシキ
「マジで?」
トシキは少し身構えた。
トシキ
「で、結果は?」
カヨはライ麦パンを掲げた。
カヨ
「商品品質は非常に高いです。」
カヨ
「栄養学的にも優秀です。」
トシキ
「よかった。」
トシキは安堵した。カヨは続ける。
カヨ
「従業員も優秀でした。」
カヨ
「特にサーシャ。」
トシキ
「サーシャ?」
カヨ
「落ち着いています。」
カヨ
「集中力があります。」
カヨ
「精神的成熟度も高い。」
トシキ
「うん。」
トシキ
「一緒に働きやすいよ。」
カヨは小さく頷いた。そして付け加える。
カヨ
「ただし。」
トシキ
「ただし?」
カヨ
「ヴィクターは極めて特殊です。」
トシキは吹き出した。
トシキ
「だよね。」
カヨ
「手の硬さで人格評価をする人間に会ったのは初めてです。」
トシキ
「俺も最初意味分からなかった。」
カヨ
「ですが。」
カヨの表情が少し変わる。
カヨ
「本物です。」
カヨ
「言葉は粗雑ですが。」
カヨ
「仕事への姿勢に偽りがありません。」
そして静かに頷いた。
カヨ
「その職場で働き続けることを推奨します。」
トシキ
「了解。」
トシキは満足そうに笑った。
翌朝。午前8:00。
チリン。
店のベルが鳴る。ミーチャが顔を上げた。
ミーチャ
「おはようございます!」
そしてすぐに笑顔になる。
ミーチャ
「おはよう、ブレイディ!」
ブレイディがいつもの調子で入ってきた。
ブレイディ
「おはよう!」
ブレイディ
「いつものお願い!」
ミーチャ
「了解!」
もはや説明不要だった。ミーチャは慣れた手つきで紙袋を準備する。だが今日は少し違った。
ブレイディが珍しく静かだった。ショーケースにもたれながら言う。
ブレイディ
「あとさ。」
ブレイディ
「今日はピロシキを一個追加で。」
ミーチャ
「え?」
ミーチャは笑った。
ミーチャ
「そんなにお腹空いてるの?」
ブレイディ
「いや。」
視線が泳ぐ。
ブレイディ
「そういう理由じゃなくて。」
一瞬。空気が止まった。
厨房の向こうではトシキが作業の手を止める。
サーシャも静かに視線を向けた。ヴィクターだけが何も気にせず生地を叩いている。
ドン。ドン。ドン。
ブレイディ
「正直に言うとさ。」
ミーチャが首を傾げる。
ミーチャ
「うん?」
ブレイディ
「ここに来るのが。」
ブレイディはミーチャを見た。
ブレイディ
「一日の中で一番楽しみなんだ。」
ミーチャが固まった。
ブレイディ
「ピロシキも最高だし。パンも最高だ。」
ブレイディ
「でも。それだけじゃなくて。」
少し照れながら笑う。
ブレイディ
「ここへ来ると元気になれるんだ。」
ブレイディ
「世界と戦える気がする。」
それは役者の声じゃなかった。本音だった。ミーチャの頬が少し赤くなる。
ミーチャ
「それは……」
小さく笑った。
ミーチャ
「すごく嬉しい。」
そして紙袋へもう一個ピロシキを入れた。
ミーチャ
「これはサービス。」
ブレイディ
「本当に!?」
ミーチャ
「お気に入りの常連さん特典。」
ブレイディ
「ミーチャ最高!!」
一瞬でテンションが戻る。厨房の窓越しに見ていたトシキは笑った。
(ああ。)
(完全にそういうやつか。)
横でサーシャが静かに呟く。
サーシャ
「ブレイディさんは毎朝来ます。」
サーシャ
「そして帰る時はいつも幸せそうです。」
トシキ
「だな。」
店を出ていくブレイディ。それを見送るミーチャ。その様子を見ながらトシキは思った。
(たぶん本人はまだ気付いてないな。)
サーシャも無言で同意した。その瞬間だった。
ドン!!!ヴィクターが作業台を叩く。
ヴィクター
「トシキ!」
トシキ
「はい!」
ヴィクター
「恋愛観察は後だ!」
ヴィクター
「発酵を見ろ!」
トシキ
「はい!」
ヴィクター
「パンが先だ!」
トシキ
「了解!」
サーシャが珍しくクスッと笑った。トシキも笑う。そして再び生地へ向き直る。
厨房には酵母の香りが満ちていた。
カラマゾヴァ家の慌ただしくも温かな朝は、今日も変わらず続いていくのだった。




