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Episode 11:『真実の壁』

このエピソードの登場人物

田所健一

元ハリウッド主演俳優で現在は小説家。商業的には成功しているが自己評価が異常に低く、奇妙で脱線した比喩を連発する癖がある。

田所カヨ

健一の妻。高度な運用戦略家。どんな奇妙なサブカルチャーを見せられても、鋭い懐疑心は一切揺るがない。

田所トシキ

田所家の息子。現在、東京大学を戦略的休学中。

シンディ・ゴールドバーグ

トシキの献身的な彼女であり、カヨの熱心な弟子。

アラン・ゼンズバーグ

シンディの風変わりな叔父でカフェ共同経営者。概念詩人として、宇宙を深く芸術的な視点で見つめ、トイレの壁の汚れにさえ神聖な詩を見出す。(注:アレン・ギンズバーグではない)

ジェイク・ケンドリック

アランの親友で共同経営者。意識の流れをそのまま吐き出す即興作家。(注:ジャック・ケルアックではない)

地獄谷劫火

謎めいた激しい気迫を持つ日本の地下文学作家。舞台で作品を読むことに強い嫌悪感を持ち、公衆トイレの壁を唯一の創作キャンバスとしている。

ロングビーチハーフマラソンの大惨事から数日後。

ヴァーデン家のアパートで、ブレイディはソファの横に立ち、アルミ製の松葉杖の高さを慎重に調整していた。左脛にはまだ分厚く清潔な白い包帯が巻かれている。

ブレイディ

「見てくれこの完璧なアライメント! 俺、回復が異常に早いんだぜ、エイミー!」

ブレイディは笑顔で、怪我した足を軽く慎重に振ってみせた。

エイミーはキッチンカウンターの近くで腕を組み、鋭く容赦のない目で兄を睨んでいた。

エイミー

「よかったわね。でも医者の指示は明確よ。二週間は完全に高負荷のランニング禁止。足をアスファルトに着けちゃダメ。」

ブレイディ

「了解了解、軍曹! 俺はもう完全にシステムに協力する善良な市民だよ!」

ブレイディは笑いながら、いい方の足で軽々とバランスを取った。


一方、トシキはロサンゼルスでの一時的な生活に、とても快適なリズムで順応していた。

朝は海岸沿いを軽くジョギングし、カヨとシンディの監修のもとで高タンパクの朝食を丁寧に摂る。午後は街をぶらぶら散策したりインディ映画を見たり、夜はホテルのスイートでゆったり過ごす。

トシキ

「正直、慣れてくるとロサンゼルスってかなりすごい環境だよね」

トシキはバルコニーの手すりに寄りかかりながら言った。

シンディ

「でしょ!?」シンディはサンバイザーを直しながらスマホを確認して笑顔になった。「滞在を延長したのは最高の判断だった!」


スイートの中では、健一が激しいリモートワークに没頭していた。

日本の企業向けの生成AI戦略コンサル、オンラインミーティング、新たなシンポジウムの基調講演原稿作成——。

健一

「回線さえ繋がれば、リモート作業って意外とイケるよな……」

健一が独り言を呟きながらキーボードを叩いていると、カヨが音もなく椅子の真後ろに現れた。

カヨ

「健一。直近90分以内に予定された休憩を実行しましたか?」

健一

「もちろんしてるさ」

健一は画面から目を離さずに答えた。

カヨ

「それは完全に誤りです。私の記録では、あなたはこの椅子に3時間連続で固定されています。」

健一

「……え、マジで? そんなに経ってたのか?」

カヨ

「すぐに立ち上がってください。腰のストレッチをフルセット実行してください。」

健一

「……わかったよ」

健一はため息をつきながら渋々立ち上がり、両手を上げた。


その日の午後。

アランからメッセージが届いた。

「今夜、ポエトリー・ナイトやるぜ! 家族全員で来い! 純粋な表現の時間だ! 19時きっかり!」

健一

「……またポエトリー・リーディングか」

健一は画面を見て、深いため息をついた。

カヨ

「どんな内容のメッセージですか?」

健一

「アランからだ。今夜もカフェで朗読会をやるらしい。」

カヨ

「参加しますか?」

健一はスケジュールを確認した。

健一

「まあ……今夜は特に予定もないしな。」

カヨ

「では、観察に行きましょう。」

カヨは落ち着いて決めた。


19時。Dharma Beans Cafe。

店内は即席のボヘミアン劇場に様変わりしていた。

大小さまざまな金属製の椅子が小さな木製ステージに向かって並べられ、古いマイクが一本立っている。約20人の地元客が集まり、店内は濃厚なカウンターカルチャーの空気で満ちていた。

田所家四人——健一、カヨ、トシキ、シンディ——は後ろの方の席に静かに入った。

アランがステージに上がり、メガネを直しながらマイクを握った。

アラン

「ようこそ、みんな! ダルマ・ビーンズ Poetry Nightへ!」

観客はまばらな拍手とリズミカルな指パッチンで応えた。

アラン

「今夜は、人間の魂の生々しく剥き出しのビートを祝おう! 自由を! 主権を! 純粋な表現を!」

「Hell yeah, Alan! いけいけ!」

アランはポケットからくしゃくしゃの黄色い紙を取り出した。

アラン

「まずは俺の決定版『Heard』から始めるぜ。」

彼は目を閉じ、マイクに身を寄せてリズミカルに朗読を始めた。

健一は席で固まっていた。

(……相変わらず一言も理解できない……)

隣のカヨは完全に無表情。トシキとシンディは顔を手で覆って笑いを必死に堪えていた。

アランが大きな拍手を受けて終えると、今度はジェイクがステージに上がり、即興の意識の流れを爆発させた。その後も数人の地元客が抽象的な詩を読み上げた。


その時。

ギィ……

重い木製の入り口のドアが開いた。

一人の男が影から出て、薄暗い店内に入ってきた。

40代後半くらいの日本人男性。重いオーラをまとっている。くたびれた黒いフェドーラ帽、皺だらけの黒いシャツ、色褪せたデニム。全身が暗い色に包まれていた。

健一はすぐにその男に目が釘付けになった。

(日本人……? こんなニッチな場所に?)

男は後ろの空いている席に静かに座った。誰も近づかない。しかし、その存在感は異様に重かった。鋭く激しい目で店内を静かに見渡しながら、朗読を聞いている。

15分間の休憩中、黒い服の男は立ち上がり、店の奥の単独のトイレに向かった。

なぜか健一は目が離せなかった。

(あの人、誰なんだ……?)

5分後、男は無表情でトイレから出て、再び後ろの席に戻った。

その直後、アランが同じトイレに向かった。

3秒後。

アラン

「うわああああ!! なんてこった!!!」

店内に響き渡る狂喜の叫び声。

全員が一斉に後ろの廊下を振り返った。

シンディ

「どうしたの!? 壁が崩れた!?」

トイレのドアが勢いよく開き、アランが興奮で震えながら飛び出してきた。

アラン

「日本人だ! 生の日本の詩が! 壁に直接刻まれてる!!」

ジェイク

「何を騒いでるんだ、アラン?」

店内がざわめきに包まれた。アランは震える指で廊下を指差した。

アラン

「来い! みんな来い! 聖なる啓示を目撃するんだ!」

客たちが狭い廊下に殺到した。白い壁に太い黒マーカーで大胆に書かれた日本語がそこにあった。


便所は真実の壁だ

俺たちは此処で嘘をつかない

糞と共に、虚栄も流す

残るのは、ただの人


アランは芸術的な畏怖で全身を震わせていた。

アラン

「美しい……重い……生々しい……! ケンイチ! 翻訳してくれ! この福音を!」

健一は咳払いをして読み上げた。

健一

「えっと……『便所は真実の壁だ。俺たちは此処で嘘をつかない。糞と共に、虚栄も流す。残るのは、ただの人』」

ジェイク

「Wow……」ジェイクは呆然と壁を見つめた。「これは深い……」

アランは両手を広げ、天井に向かって叫んだ。

アラン

「誰だ!? この真実を我々の聖域に刻んだ至高の芸術家は誰だ!?」

客たちが顔を見合わせた。廊下の奥から、傷だらけでごつごつした手がゆっくりと上がった。

劫火

「俺だ。」

声は静かで平坦だったが、信じられないほどの重みがあった。客たちが自然と道を開けた。アランは一直線に近づいた。

アラン

「君か!? この真実を壁に刻んだのは君なのか!?」

劫火

「ああ。」

男は気楽に答えた。

アラン

「これは……これは禅だ! 純粋で、混じりけのない禅だ!」

劫火

「禅じゃない。ただの公衆便所の落書きだ。」

アラン

「いや! 自分の光を矮小化するな! これは文学だ! 君の名前は!?」

劫火

「……地獄谷。地獄谷劫火だ。」

男はフェドーラのつばを指で軽く直した。

アラン

「地獄谷……劫火……」アランはその名前を聖なる呪文のように繰り返した。「なんて重くて素晴らしい名前だ!」

劫火

「……どうでもいい。」

劫火は全く興味なさそうに答えた。

アランは劫火の肩を掴み、目を輝かせた。

アラン

「劫火! 今夜は絶対にステージに上がってくれ! 自分の作品をみんなに読んでくれ!」

劫火

「いやだ。」

アラン

「なぜだ!?」

劫火

「群衆の前で文章を読むことに興味はない。ただ便所の壁に書くだけだ。」

アラン

「どうして!?」

劫火

「ステージは虚栄の温床だからだ。」

廊下のざわめきが一瞬で静まった。

劫火

「人は好かれたいから着飾る。声を張り上げる。嘘を作る。」劫火はトイレのドアに顎を向けた。「しかしトイレは違う。基本的な生理現象を処理している間、人は見栄を張れない。トイレの壁に書かれた落書きこそ、人が無防備に真実を漏らす唯一の場所だ。そこでこそ本物の文学が生まれる。」

アランは完全に沈黙し、劫火の言葉の重みを吸収するようにゆっくり頷いた。

アラン

「わかった……つまり便所は真実の大聖堂なんだな。」

劫火

「大聖堂じゃない。ただの便所だ。」

アラン

「だが君の言葉がこの場所を聖なる場所にしたんだ!」

劫火は鼻の頭を揉んだ。

劫火

「……好きにしろ。」

彼は振り返り、後ろの席に戻っていった。アランはドア枠を叩きながら店内に叫んだ。

アラン

「これよりこのトイレは正式に『真実の壁』と命名する! 誰でも自由に魂をこの壁に刻め!」

店内が歓声に包まれた。

健一とカヨは廊下の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。

健一

「……公衆便所が文学の聖地に格上げされたぞ。」

カヨ

「そのようです。」

カヨは全く動じていなかった。隣でトシキとシンディは笑いを堪えるのに必死で目が潤んでいた。


イベントが終わった後、劫火は黒いジャケットを直して帰り支度を始めた。健一は出口で彼に声をかけた。

健一

「すみません……」

劫火が鋭く刺すような視線を向けた。

劫火

「何だ。」

健一

「日本人ですよね?」

劫火

「ああ。」

健一

「ロサンゼルスには何しに来たんですか?」

健一が日本語で聞くと、劫火は少し面倒くさそうに答えた。

劫火

「国際文学シンポジウムだ。審査員に引っ張り出された。完全に空虚な企業イベントだな。だが……」劫火はダルマ・ビーンズの店内を振り返った。「この場所は悪くない。」

健一

「気に入ったんですか?」

劫火

「古い守護者たちの気配がある。ゼンズバーグとケンドリック。1980年代のカウンターカルチャーの巨頭だ。このカフェは彼らの活動拠点の一つだった。本物のアウトサイダー達 がまだ集まっている。」劫火は乾いた笑いを漏らした。「もっとも、東洋哲学の解釈は完全に笑い話だがな。魂の部分は本物だ。」

健一

「……待ってください。」健一は目を丸くした。「ゼンズバーグとケンドリックが……ここでは本物の有名人なんですか?」

劫火は少し失望したような目で健一を見た。

劫火

「知らなかったのか? まあ、日本では相当マイナーだろうがな。ここでは生きる伝説だ。」

健一は完全に驚いていた。

(……つまりアランとジェイクは、ただの変なおじさんじゃなかったのか……?)

劫火は健一を一瞬見つめた。

劫火

「家族で来てるのか?」

健一

「はい。息子が大学を休学中なので、サポートに来ています。」

劫火

「ふん。若いうちに線路の外を歩くのも悪くない。」

そう言うと、劫火は鮮やかなロサンゼルスの夜の闇に溶けるように去っていった。健一は空になった入り口をじっと見つめた。

(なんて重くて面白い人物なんだ……)


その夜、ホテルのスイート。

健一はベッドにどっかりと倒れ込んだ。

健一

「今日は……本当に変な一日だったな。」

カヨはベッドの端に座り、スキンケア用品を取り出しながら言った。

カヨ

「確かに。公衆便所がサブカルチャーの聖地に昇格しましたからね。そして同胞がそのきっかけでした。」

健一

「ああ」健一は天井を見つめて小さく笑った。「地獄谷劫火……どんな人物なんだろうな。」

カヨ

「簡単な検索では、地下文学界でかなり著名な人物のようです。」

健一

「地下文学か……」健一は考え込んだ。「そういえばアランとジェイクも、あの世界では有名らしいな。完全に読み違えてた。ただの風変わりなおじさんだと思ってたよ。」

カヨは少し首を傾げた。

カヨ

「地下文学とは、実際にはどういう意味ですか?」

健一は説明しようとした。

健一

「簡単に言うと……地下アイドルみたいなもんだよな。大きなスタジアムじゃなく、小さなライブハウスで熱心なインディー層にだけ演奏するような……文学版だよ。」

カヨ

「……」

カヨは完全に静止し、3秒間、健一を突き刺すような無言の視線で見た。

健一

「……この例え、伝わってない?」

健一の自信は一瞬で崩壊した。

健一

「俺は一応、言葉や物語を扱う仕事をしてるんだけど……せめて基本的な語彙の信頼くらいはしてほしいな……」

カヨ

「……」

カヨは何も言わず、ただ「本当に自分が言ってることを理解していますか?」という視線を保っていた。

健一は敗北を認め、枕に顔を埋めた。

(俺の言語権威としての地位は完全にゼロだ……)

カヨはベッドサイドランプを消し、スイートを穏やかな暗闇に包んだ。

カヨ

「おやすみなさい、健一。」

健一

「……おやすみ……」

健一は枕に顔を埋めたまま小さく呟いた。

(本当に……この街は変な奴だらけだな。)

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