8 彼女は腹を立て、舌舐めずりをする
と言うか、本当にこんな朝早い時間から何をしているんだ、こいつは。
自分のことを棚に上げて、訝しげな思いでエミールの来た方にチラリと視線を向ける。
あっちは校舎裏で、雑木林以外はゴミ捨て場や焼却炉くらいしかなかったと思うが。
早朝の清々しい空気を台無しにするような胡散臭い笑みを浮かべて、エミールは私に尋ねる。
「君も朝から自習かい?」
こっくりと頷く。
「ええ。本試験まであと一週間しかありませんもの。本腰を入れて取り掛かろうかと……」
君も、と言う事で自分も勉強をしに来たように印象付けているが、本人一言もそんな事言っていないな。
まあ、こいつが何をしていようと、私には何の興味もないが。
「そう言えば、アイリスの状況はどうだい?」
思い出したように尋ねてくるエミールに、私は答える。
「ヴィルヘルム殿下やテオドール様、それにルーカス様が頑張ってくださってますから」
と言うか、誰よりもアイリス本人が苦労するべきなんだがな。
はたから見ていると、どうにものんきと言うか、逼迫した状況と言う自覚があまりないように感じられる。焦っている方が効率が良いかと言うと必ずしもそうでもないけど……。
「君もだろう、シャーリン・グイシェント。アイリス達のために、随分と頑張ってくれていると聞いているよ」
「とんでもありませんわ。私がしていることは、皆様のほんの手助け程度に過ぎませんもの」
最終的にアイリスがどのような結果を迎えようと私への影響は少ないが、エミールとの密約の件もあるので、私は私の役目を果たすつもりではある。
と言うか、後から素知らぬ顔で無かったことにしたら、分かっているんだろうな。
嫋やかに微笑みながら、じんわりと圧を掛ける。掛けられた本人が圧を感じないように、さりとて無意識下で重圧を覚えるようにするのが、匠の技だ。
「聞けばアイリスも何とか試験への足掛かりを掴めたようだし、このまま順調に進んでいって欲しいね」
「そうですわね」
何と言っても、あと一週間しかないのだ。
あとは試験勉強に飽きたアイリスが、余計なことに首を突っ込まなければ良いのだが。
エミールは僅かに乱れた黒髪を耳に掛けながら、ため息混じりのぼやきをこぼす。
「今回の試験は、そうでなくとも色々と良くない噂を聞くし。君も少し気をつけた方がいい」
「確か、不正をしている方がいる、でしたかしら」
その噂なら、私も耳にした。と言うか、シアから受け取った資料にも、そんな噂が広まっていることが記載されていた。
なにやら試験問題を不正に入手している生徒がいる、というものだ。この手の噂は定期的に湧くものではあるけれど、今回ばかりは普段よりも信憑性の高い噂として流布している気配を感じる。
普段なら、その噂を源流まで遡って、どうやってその噂が広まっているか、変質の方向性や人脈の流れを調べていきたいところだけれど、流石に手が回らない。
シアと言う便利な手駒を手に入れても、まだ私にはやるべき事が数多くあった。
もう少し優先順位を精査してもいいような気がするが、やりたいものはやりたいのだから仕方がない。
多少寝食を削ろうが、己の欲するところに忠実であった方が気分は高まる。
「それもあるが、試験勝負についてもね。ブリジッタ嬢は真面目で卑怯な手を嫌う真っ直ぐな人間だけれど、あの一門も一枚板と言う訳ではない。よからぬ事を考える者もいるかも知れないから、気を付けて」
「まあ、そうなんですのね」
私は頷いてみせる。
正直な話、不正も卑怯な手口も、私は否定する気はない。それらはただ、努力の方向が違うだけだ。世の中、真っ向勝負ではどうしても勝てない人間もいる。
だけど、正道ではない方法を選ぶのなら、より邪道な方法で叩き潰されても文句は言えないし、詳らかになった場合に糾弾されることも覚悟しないといけない。少なくとも私はそうしている。
一方で、単に小狡い手で楽をしようとするだけの輩は、見るに耐えない。何らかの目的の途中で、重要ではない箇所を省略するのなら分かる。他に割く分を増やす為に、工夫を凝らして労を減らすのも分かる。だが、楽する為に手を抜くのはちがう。やるならどんな手も全力を尽くすべきだ。
「エミール様もお気を付けなさって」
「ふふ、そうだね。分かっているよ」
「いえ、そうではなく……」
私は手を伸ばしてエミールの頬に触れる……前に手を引っ込める。
「お顔の色が悪くていらっしゃるわ。無理をなさっているのではありませんか?」
元より色白のエミールだが、午前の日差しの元だと言うのに、いっそ青白いほどだ。彼が裏でどのように動いているのかは知らないけれど、それなりに多忙を極めているのだろう。
彼が倒れようと寝込もうと知った事ではないが、いきなり自滅されるとそれはそれで想定外の事態が増えるので面倒だ。
こちらの邪魔にはなるなよ、という思いでの台詞だったが、彼はそれこそ想定外の言葉を聞いたとばかりに目を瞬かせると、おもむろにふっと口元を緩めた。
「そう言う君こそ」
エミールは、引っ込み掛けた私の手を素早く掴む。
「目の下に隈が浮かんでいる。寝る間を惜しんで勉強でもしているのかい? 頑張り屋なのは君の美徳だけど、寝不足は肌に悪いよ」
逆の手がスッと伸びてくる。避ける間もなく指の背が撫でるように私の頬を掠め、そのままこめかみの髪を耳に掛けた。後退ろうとするも、掴まれた腕が私の身を留める。
(私は触る手前で止めただろうが……っ! 図星を突かれたからって、意趣返しをするな!)
エミール・クレッシェンの陰湿さに内心身を震わせていると、気が済んだのか彼はぱっと手を離した。
「無理はしないように。君に何かあれば、アイリスもヴィルたちも心配する」
(余計なお世話だっ!)
しれっと助言を口にするエミールに、私は内心の反発をおくびにも出さずに、にっこりと笑って返事をした。
「心しておきますわ」
◆ ◇ ◆
20年ほど前から、東方より様々な文化や技術がこの国に入ってくるようになった。その中でも、国に多大な影響を与えたものの代表格が、印刷文化と植物紙だ。
これらが取り入れられて以降、印刷物はかなり一般的なものとして国中に広まるようになった。読売やチラシなどがそうだ。
だけど、より顕著なのが、書物ーー本だろう。それ以前の本は羊皮紙が大半で、王侯貴族など一部の社会的地位のある人間しか所有できなかった。
それが、今では少し生活に余裕のある庶民までもが、娯楽として本を購入できるまでになった。
この学院でも、専用の印刷機があるくらい、印刷文化というのはごく当たり前のものとなっているのだ。
だがそれでも、本を単なる情報の集積という以上に大切にする文化は残っている。
どこぞの貴族のように、足で踏み付けることができる人間は、そう多くはないだろう。
エミールと別れた後、私は図書館へ向かう。図書館は嫌いではない。
様々な知識や情報が蓄積されたこの場所は、私にとって良い刺激になる。過去に起きた成功も失敗も、現在の私にとっては良い教材であり、新たな策を練る時の手掛かりになる。
ただ、今は悠長に本を読んでいる暇がないのが残念だ。
試験勝負における私の担当は古典だけれど、この教科だけに注力して他を疎かにするわけにもいかない。
エミール・クレッシェンなどは、教科書を一度読めばある適度内容は覚えられるなどと嘯いていたが、普通の人間はコツコツ勉強していくしかない。ほんとアイツ一度酷い目に遭えばいいのに。
そうやって地道に勉強していた私の手元に影が落ちる。誰かが近付いているのには気が付いていたけれど、私は顔を上げて驚いたように目を瞬かせる。
「あ、あの……何でしょうか……?」
「シャーリン・グイシェントだな。少し我々に付き合ってもらおう」
有無を言わさぬ調子で顎をしゃくって見せた男たちに、私は見覚えがあった。
あの日、彼女の背後に控えていたのを見た気もする。ブリジッタの家門に連なる者達だ。
私はおずおずとした足取りで彼らに連れられながら、エミールの言葉を思い出す。
流石にあまりにも早急過ぎる。もしや、彼らの動きをどこかから聞き及んでの、警告のつもりだったのか。だとしても、心構えくらいしかできないぞ。
図書館を出て、人のいない廊下の隅で、私が彼らに言われたのはこのような事だ。
ひとつは、試験勝負でわざと手を抜いて、確実に負けるようにしろ。
もうひとつは、アイリス達の陣営の情報を横流しにしろ。
「勘違いされないようにあらかじめ言っておくけどね、これは君の為でもあるんだ」
そう声を掛けてくるのは、エドワード・メリル伯爵令息。私の試験勝負の相手だ。
どこかヒョロリとした印象で、あまり身体を鍛えることに興味がないように見える。
文官じみた体型は、フィルハート一門にはよく見る風体だ。褪せた麦穂のような淡い色合いの髪は、尖った顎の輪郭と相まって少し神経質そうに見える。
「君のような家柄の人間が、彼らのような高位貴族とよしみを結んだところで持て余すだけだろう。我々であれば、適切な縁を君に与えるができる」
そもそも、と彼は不快そうに眉を顰めて見せる。
「女子生徒が試験勝負を挑むということ自体、はしたないとは思わないか? 一般的に見ても、女が賢しらに振る舞うことは良いこととは思えないな」
目の前でくどくどと言葉を重ねられながら、私はふむと考える。
彼らの言葉や態度には、妙に違和感を覚える。
そも、必要以上に長ったらしい説明や、予め取り繕っておくような物言いは、建前の裏に本音を隠している時によく見る兆候だ。
(少し揺さぶってみるか……)
私は不安げに見える素振りで視線をさまよわせ、彼らをおずおずと見上げてみせる。
きっと目の奥の鋭い光に、彼らが気付くことはないだろう。
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