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裏(男性視点)

俺は妻に初めて出逢った日のことを一生忘れないだろう。


「ひ、日野原佐和ひのはらさわと申します、よろしくお願いします…!」


総務部に配属された新入社員の中で、一番緊張しているように見えた。震える手を無理矢理抑えようとしているのが丸分かりだった。

途中噛みそうになりながらなんとか挨拶をした彼女は、腰を直角に折る。ストレートの黒髪がそれに合わせて揺れる。周りの女はどいつもこいつも茶髪を鬱陶しいほど巻いているのに対して、真っ黒な彼女の髪は妙に印象に残った。視線に気付いた彼女が遠慮がちに微笑んだから、俺はその日1日彼女から目を離すことができなかった。つまるところ、一目惚れだったんだと思う。


俺は出世だけを生き甲斐にしてその頃既に課長を務めていたのに対して、正直彼女はキャリアウーマンになれるタイプではなかった。不器用なのか、1つの仕事を覚えるのに人より時間がかかる。動作自体もゆっくりだし、人と積極的にコミュニケーションを取ろうとする方でもない。多分5年もしないうちに寿退社していくタイプ。それまでは危なっかしいから面倒を見てやるか―上司としてそんな風に考えていた。まさかその相手が自分になるとは、その時は露程にも思っていなかったんだ。


周りは着飾ることが得意な女が多いことで、彼女はより一層地味に見えた。化粧品メーカーの中では珍しいタイプなのかもしれない、意外にも隠れファンが多かった気がする。直接食事に誘ったりプレゼントを渡したりというアプローチはなく、こっそり見ているだけ。例えるなら、匂いがきつすぎる香水が漂う中での石鹸の香りはただただ癒しだったのだろう。

そんな彼女を雨の日自宅まで送り届けて、お礼だなんだと数日交流が続いて、いつの間にか彼女に近づく男が我慢できなくなって、終いには総務全員の前で公開プロポーズをやってのけたのには自分自身が一番驚いた。その場にいた誰もが思ったはずだ、その前にもう一段階あるだろう、と。





「―課長。―水無瀬みなせ課長?」


部下が俺を呼ぶ声で我に返った。どうやら気付かないうちに意識をどこかへ飛ばしていたらしい。


「あ、ああ。何だ?」

「えっと、この書類に印鑑をお願いしたいんですが」


そう言って数枚の書類を差し出したのは平中。確か佐和と同期入社だったと思う。佐和がその年で一番地味な女子社員なら、多分男子はこいつだろう。そして退社前、想いを寄せていた男の1人。


「少し待っていてくれ。すぐに目を通す」

「課長がぼんやりしているなんて珍しいですね。何かあったんですか?」

「まあ無理もないよ、今日は愛しのマイハニーと結婚した記念日だからね。それも初めての!馴れ初めでも思い出してたんじゃないの?」


いきなり口を挟んできたのは、俺と同期の鹿島だ。総務と営業で部署は別だが、研修中に知りあって今でも時々一緒に飲みにいく仲。色恋沙汰にあまり興味がない俺とは違って、いい年をしてふらふらした噂が後を絶たなかった。見合いをした相手と結婚してようやく落ち着いたのはつい半年前のことだ。…どうしてこいつがここにいるんだ?


「いやあ、備品の申し込みにねー」

「人の心を読むな!その程度ならわざわざ出向かなくてもメールで済ませればいいだろう」

「いやあ、今日はちょっと時間が出来たから水無瀬の課長姿を見物しに」

「申し込み用紙はそこに置いておけばいいから、今すぐ帰れ」

「ええ〜、同期を邪険にするなんて酷いなあ。そんな態度だと部下に愛されないよ?」

「うるさい。平中、全部判押したぞ」

「えっ…、あ、はい。ありがとうございます」

「おお、THE 部下って感じ!ほらほら、こういう子を大事にしないと!」

「受け取ったんならさっさと自分の席に戻れ。でないと仕事増やすぞ」

「だからあ、そういう態度はダメだって!」

「よしお前、営業部の備品の手配しておけよ。明日俺が朝イチで来る時までに済ませておくように」

「そ、そんなあ。あんまりです。って、明日?今日中にじゃなくてですか?」

「水無瀬はあと30分で定時退社して真っ直ぐ愛しのマイハニーの元へ帰るんだよー」


足軽に帰ろうとする鹿島の後頭部に、俺は自分のペンケースをぶん投げた。





ドアの前に立つと、すぐに中からぱたぱたと足音が聞こえてきて間もなくドアが開いた。不思議なことに、1年の結婚生活でこのタイミングが狂ったことは1度もない。


「おかえりなさい」


甲斐甲斐しく差し出された手に鞄を乗せる。まるで子どもの頃に見ていた国民的アニメの光景だ。

佐和は今日は早いのね、なんてことは言わない。遠回りして市役所に寄ってきたから結局いつもの時間になった。スーツの内側にあるのは離婚届だ。勿論、これを本気で提出するつもりなんて毛頭ない。ただ佐和の気持ちを確かめたいだけ。

―結婚記念日なのに?だからこそ。


「あの、丁度ごはんができたところで」

「ああ。…その前に、書いてほしいものがあるんだ」

「書いてほしいもの…?」


食卓の上に離婚届を置く。並べられていたいつもより豪華な夕飯に少しだけ胸が痛んだ。


「…これ」

「見ての通り、離婚届だ」

「…なんで、だって今日は」

「知っている。結婚記念日だろう?区切りになっていいじゃないか」

「わ、私が何か気に障ることをしてしまいましたか…」

「分からないのか?自分のことだろう?」

「…………………」


今にも泣きそうな佐和の顔が痛々しい。

ごめんな、でも君が悪いんだよ?君がいつまでも捕まえさせてくれないから。

だから、わざとらしく深い深い溜息を吐いてみせた。


「まず、結婚して1年も経つのに敬語のままだし”さん”を取らない」

「だ、だってそれは一眞さんの方が年上だから」

「休みの日に構ってやらなくても何も言わないし」

「仕事で疲れてると思って…」

「無理な家事を強要しても大人しく従うし」

「一眞さんが喜ぶかなって…」

「全然誘ってこないし」

「誘って…?」

「SEXしたがらないってこと」

「…………………っっ!!だだだだって、そんなの女の人からすることじゃっ…!」


そう、俺と佐和はまだ成功経験がない。鹿島辺りは今頃よろしくやっているとでも思っているんだろうが、まだ一切ない。でも、今の一連の言葉を聞いて分かったことがある。

そもそも佐和の両親は、徹底的に昭和の考えを貫く人達。初めてお目にかかった時も、つま先から頭の天辺まで吟味するような視線が落ち着かなかった。言動を少しでも間違えれば殴りかかりそうなオーラを放っていたし、きちんとスーツを着て行かなければ門前払いだっただろう。危なかったと胸を撫で下ろしたのをよく覚えている。

そんな両親に育てられた佐和だから男慣れしていなくて当然だし、結婚前の性交なんてもってのほかだろうし、ましてや男の誘い方なんて知るわけがない。

長いこと胸の中で燻っていたことは、あっさり解決してしまったらしい。年上への言葉遣いに厳しいのも、嫁に行っても恥ずかしくないようにと家事を完璧に叩きこまれたのも、あの両親なら簡単に想像できることで。

…でもまだだ。まだ離婚届をなかったことにしてはあげない。君が俺を欲しがるまでは。


「…はっきり言うけど、お前俺のこと好きじゃないだろ」

「そんなことっ…!」

「いい、この1年でお前の気持ちはよく分かったから。俺は家政婦と結婚したわけじゃない。こっちで勝手に結婚話進めて悪かったな。もう付き合ってくれなくていいから」


右手でネクタイを緩めながら寝室に向かう、佐和の呼び止める声を待ちながら。

だから俺はその瞬間が訪れた時、口角が上がるのを抑えられなかった。


「ま、待って…!待ってください!」

「………何?」

「わ、私頑張ります!敬語も名前も、…えっち…も、全部頑張ります。だから」


生唾をごくりと飲み込んだ。佐和の口から飛び出した思いがけない言葉に、早くも下半身は悦んでいる。


「…捨てないで…」


震えた涙声でそう訴えてくるものだから、俺の理性はもう崩壊寸前だった。

よく分からないが、佐和は俺にいつか捨てられるとでも思っているんだろうか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。どうやら明日の夜にでもじっくり話し合う必要があるらしい。

完璧な家政婦として仕えてほしいわけじゃない。どこか抜けていても傍にいてくれるならそれでいい。敬語はやめてほしいし、ちゃんと名前で呼んでほしいし、たまには我儘を言ったっていい。ありのままがいいってこと、どうすれば伝わるだろう。


「…へえ。そこまで言われるとは思ってなかったよ」


なけなしの理性を総動員させて振り返った。実際は有無を言わせず寝室に連れ込みたいのが本音だ。というか同じ寝室で寝ていて1年も手を出さなかった自分が不思議で仕方ない。


「いいよ。そこまで言うなら、離婚は考え直しても」

「ほ、本当ですか!?」

「ただし条件がある」

「じょ、条件…?」

「そう、条件。1つ目は敬語をやめること。2つ目はさん付けをやめること。3つ目は完璧な家政婦を演じないこと。最後に4つ目は」


佐和の喉元が動く。ああ、早くその喉で啼かせてやりたい。


「毎日俺に抱かれること」

「えっ…」

「君の方から誘ってくるのを待っていたら年寄りになりそうだからな。ということで今日も今から」

「ま、待って…!ごはん…!」

「そんなもの、後で温め直して食べればいいだろう」


肢体をばたつかせて慌てふためく佐和を抱き抱える。手に持っていたエプロンがはらりと落ちた。お構いなしに寝室へ連れていく。少しだけ乱暴に落としたのはダブルベッドの真ん中。


「待って…っ!今すぐなんてそんな…」

「全部頑張るんだろう?」

「それは…でも」


両側を腕で挟みこむ。これでもう逃げられない。


「―佐和さわ


耳元で甘く名前を囁く。可愛く啼いてみせて?俺が好きだというのなら。そして心も体も俺じゃなきゃダメになればいい。





翌朝。まだ上手く立てない佐和の目の前に、離婚届を持っていった。何も書かれることのなかったそれを、真ん中から真っ二つに引き裂いていく。もう必要ないだろう?と笑うと、彼女も笑い返した。

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