六日目、幻覚の森
次の日、夜未の訃報を知った僕は、最早悲しみを感じることさえ出来なかった。ただただ、悔しくて、血が滲むくらい、拳を握った。
僕の所為で、死んだ夜未。僕は最後まで、彼女に“幻覚の森”の真実と、“森神様”の正体を明かすことが出来なかった。
“幻覚の森”は、あの“御射の森”の中に在るのではない。“幻覚の森”は、現実世界には、存在しないもの。そして、何処にでもあるもの。
在る、と無い、は、矛盾しているようで、実は紙一重だ。
妖怪だって、幽霊だって、魔法だってそうだ。在ると信じる者の中には、存在し、影響を及ぼす。信じない者にとっては、単なる迷信でしかない。しかし、確証がなく、証明する方法がないから、在る、とも、無い、とはっきり言い切ることが出来ない。
だが、“幻覚の森”はそれらとは比べ物にならないほど、大きな力を持っている。信じない者にも、有無を言わせ、死んだものをも、生き返らせる力。
それは、『呪い』。
古代より、人は何かにすがって生きることしかできなかった。それは神であったり、あるいは悪魔、あるいは魔法、今でいえば科学や医療もそうである。絶対的な何かを信じ、宗教的にそれを崇拝することでしか、人間は自らの心を癒すことが出来なかった。逆に言えば、そうすることで、人間は救われた。
『呪い』も、そうやって生まれた。『呪い』は、人の“思い”によって形作られる。人の“思い”は、人類が考えていたよりも強い“力”を持っていた。“力”は文字を通じて、言葉を通じて、独りでに世を渡り歩いた。そして『呪い』は、その種を人類に植え付けながら、やがて一つに結集した。
“幻覚の森”、それは、人類の闇。そして“森神様”は、人が作り出した『呪い』なのである。
三十年近く森を彷徨い続けた僕は、体は幼かったけれど、心と頭脳は時間通りに成長していた。だから森からやっと解放された後、僕は“幻覚の森”の謎を解明することにすべてを注いだ。調べていくうちに、“幻覚の森”のような伝承が、全国に在ることを僕は知った。
願いを叶えてくれる神様。
迷ったら、出てこられない空間。
辺りに転がる、無数の、人の形をした石。
静かな空間に、たまに響く大きな音。
伝承の中の森のイメージは、皆似ていた。これは、偶然だろうか、いや、偶然にしては余りに出来すぎている。そこで僕は、ある仮説を立てた。
―――これは、人間の潜在意識に共通するものなのではないか。
まだ、確証はない。だが、二度目に“幻覚の森”に迷い込んで、僕は気付いた。この問題は、これ以上深く考えてはいけないのだ。
真実の中に在る更なる真実、それを見出した時、きっと人類は絶望する。生きる希望を失うかもしれない。
そうなるくらいなら、僕は、目を閉じようと思う。
夜未がくれたこの命を、大切に守りながら。
僕は、ベッドに横たわった。幼かったあの日の記憶が、じんわりと甦ってくる。
静かになって横たわる母を見て、僕は言った。
『お母さん、死んでしまったの?』
姉は頷いた。
『ええ。そうよ』
『もう、動かない?』
『ええ、そうよ』
『どうすれば、動く?』
『そうね、神様に願えば、もしかしたら生き返るかもしれないわね』
『じゃあ、祈ろう』
『けれど、特殊なことをしなくてはいけないわ』
『特殊なこと?』
『そうよ、森に行くの』
『森に何かいるの?』
『神様よ』
「辰樹、たっちゃん。一登君がいらしたわよ」
下の階から、“今の”母が呼んだ。僕は目を開けて、返事をしながら階段を下った。
玄関へ行くと、苦い顔をした一登が立っていた。僕は彼が、夜未に好意を寄せていたことを知っていたけれど、それを気遣う気の利いた言葉を発することが出来なかった。
「……おう、一登」
「おう、じゃないだろ」
一登は、今にも泣きそうだった。
「夜未が、死んだ」
「……知ってる」
僕の淡々とした返事に、一登は激情した。一登は僕の胸倉を掴んで、床に激しく押し倒した。
「お前、夜未が、友達が死んだんだぞ!それなのにそんな飄々としやがって。何も感じないのかよ!」
僕は一登から顔を背けた。
「死んじまったものは、生き返らない。どんなにあがいたって」
一登は顔を歪めて、それから僕を開放して立ち上がった。反論は、しないらしい。僕の言ったことは、自分でも悔しいくらいの正論だ。仕方がない。
「お前は、そうやって割り切れるかもしれない。でも、俺は悔しい」
一登は言った。
「夜未は一昨日まで、あんなに元気だったのに」
「……そうだな」
僕には、起き上がる気力すらなかった。ましてや、一登を慰めてやるような、そんな力も、勇気も、僕には残っていなかった。
一登は、ついに泣き出してしまった。それでも僕は、一登の顔を見ることすらできなかった。
「悔しい、悔しいんだ」
泣きながら、一登が言った。
「どうしてあいつが、殺されなきゃいけなかったんだ!」
殺された?
僕は立ち上がった。
「殺されたって、どういうこと?」
「カミキリ事件の犯人に、きっとやられたんだ。でも夜未に限ってそいつ、髪の毛じゃなくて、首まで持っていっちゃったんだ」
僕は息を呑んだ。
脳内が、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。今まであった様々な出来事が、一つ一つ、合致していった。
考えてみれば、最初からおかしな話だった。母が死んだ時から、全て、おかしかった。いや、もしかしたらその前から、僕の家はずっとおかしかったのかもしれない。僕はあの家に生まれながら、父も、祖父母も見たことがなかった。母と姉しか知らなかった。
そして、僕は、此の世界へ帰ってきて一度も、姉を見ていない。
「ああ、そうか、そういうことか……」
だから彼女は、邪魔な僕を”幻覚の森”に“入れた”のだ。
だから僕は、“幻覚の森”で迷ったにもかかわらず、石にならなかったのだ。
だから“幻覚の森”は、僕を守るかのように、三十年も外に出さなかったのだ。
姉が“殺される”まで、外に出さなかったのだ。
だから“彼女”は、あんなにも美しく、不気味な顔をしていたのだ。
全ては、昔から続く、あの家の『呪い』だったのだ。
“幻覚の森”は、決して、僕の考えていたような、単純なものでは無かった。民俗学的見解ですべてが解明できるような、そんなおとぎ話では無かった。
もっと恐ろしく、そして悍ましい、あの家の、女の呪い。
『愛するものを自ら手にかける、あの家の女の呪い』。
そして要らなくなった部位を捨てる場所、それが“幻覚の森”。
ぼうん、というあの音の正体、それは、要らなくなった部位が、“幻覚の森”に投げ込まれる音。
五日間だけ続く願いの正体は、“呪われた彼女たち”の施したせめてもの“慈悲”なのだ。死ぬまで五日間猶予を与えよう、しかし、五日後、その首を貰いに行くぞ、という、恐ろしい慈悲。それが“森神様”。
これから、この『呪い』は、噂として、怪談として、ここに残り続けるだろう。
“幻覚の森”は、繰り返される、今までもそうだったように、これからもずっと。
だが、知ったところで、最早僕にできることは何一つない。
「……たつき?」
一登が僕の肩に手を置く。しかし、今の僕には、彼の気持ちを察することも、自分の感情を抑えることも出来なかった。
ただ、笑いがこみあげてくる。僕は涙を流しながら、笑い続けた。
ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…………。
母は、幼い僕と姉を残して病で死んだ。僕と姉はその後、“幻覚の森”の呪いで、母を甦らせた。しかし、その五日後、母はまた死んでしまった。
発見されたとき、その死体には首が無かったという。




