五日目、親友
早朝、身支度を整えた私は、まだ寝ているお父さんとお母さんを起こさないように、静かに家を出た。二人に会ったら、私は今の幸せに甘えて足を止めてしまうかもしれない。そう思うと怖くなって、私は寝ている二人の寝室にすら近づくことが出来なかった。
村の早朝は静かだ。国道でさえ、人も車も通らない。私は孤独を胸に、一人“御射の森”に向かって歩いた。“御射の森”に入ったところで、“幻覚の森”に入ることが出来るとは限らない。しかし、不確実だとわかっていても、そうすることしか私には出来なかった。
学校の校庭が見える所まで来てから、国道を横断する。もうすでに、“御射の森”は目の前に在った。
入口、という古い看板がある。私はその前で立ち止まり、手を合わせて「”幻覚の森”に入ることが出来ますように」と祈った。“森神様”に、会えますように。そうしなければ、私は前に進めない。
目を開けて、私は森へ入った。早朝の薄明かりの中、もっと薄暗い森の中へ足を踏み入れるのだから、その不安と恐怖はとてつもないものだった。夏の朝露を生きる虫たちが、ひたすらに嘆き続ける。辺りにある音は、それだけだった。
暫く、私はロープを伝ってただひたすらに歩き続けた。夜のような、完全な暗闇ではないものの、薄闇の中で、私は何度も何度も石ころやら何やらに躓いた。その度に、ロープが大きく揺れて私を支える。私は、ロープを設置してくれた先人に感謝した。
どれくらい歩いただろうか、かなり進んだ気がする。私の前に“幻覚の森”なるものは未だ現れていなかった。いや、”幻覚の森”というものは、視覚的に見えるものでは無くて、きっと感覚的に“判る”ものであるに違いない。
そう思った時、突然虫の声が止んだ。ざあ、という木の揺れる音さえなくなる。私は立ち止まって、あたりを見回した。それから、先程まではそこに存在していなかった、あるものを見つけた。
大きな人型の石像である。
私は驚いて、ロープを一瞬だけ手放した。慌てて、もう一度ロープを握り直そうとして手を伸ばす。次に見たとき、つい今まで握っていたはずのロープは、消えてなくなっていた。後ろを振り向く。そこに続くのは、私が今まで歩いてきた、森林道では無かった。
点々と続く人型の石像と、直立不動の木々。風はない、音も、もしかしたら空気すらないのかもしれない。きっとこの空間の中に、生きた存在は一つもないのだ。
私は息を呑んだ。
ここは、“幻覚の森”だ。
足元に目を落とす。地面の上に立っている筈なのに、足の先まで、地面を踏みしめている感触が全く無い。数歩歩いて振り返る。私の足跡は一つも残っていない。体は軽く、まるで夢を見ているかのような感覚。心地よい、とも思う。この心地よさは、今の私にとっては、単に不気味であるだけであった。
ついに私は“幻覚の森”に入ることに成功した。しかし “幻覚の森”に入ることが、私の目的であったわけではない。ましてや、今のこの状況に対して、恐れを抱く暇など無い。
私は止まっていた足を無理やり動かして、歩みを進めた。神社を、“森神様”を、探さなければならない。
暫く歩き続けたが、いつまでも同じ光景が続くばかりで、一向に森は開けなかった。木と土と、そして不気味な人型の石像。まるで同じ場所をぐるぐるとまわっているようである。
歩き疲れた私は、少しでも何かにもたれかかって休憩したいと思って、人型の石像に歩み寄った。石像に手を置く。普通の岩石なんかと違って、表面は驚くほどなめらかであった。
それにしても、この不気味な石像、一体何なのだろうか。森神様に捧げる、若しくは森神様を守るような神秘的なものなのだろうか。そうだとしたら、狛犬などと同じ存在というわけになる。狛犬の人間バージョン。それにしても数が多い。
私はふと石像を見上げた。瞬間、私は思わず悲鳴を上げて、その場から飛びのいた。
石像と言う名にしては余りにリアルなそれには、首が無かった。
見渡すと、全ての石像が首なしである。
『これって、凄いことなのよ、”幻覚の森”から“生きて”出てこられるなんて』
朝香の言葉が脳裏を過る。私は、この人型の石像たちが、“単なる石像”でないという事を悟った。
きっとそれらは、“幻覚の森”に迷い込み、そして二度と出ることが出来なかった哀れな人間たちの、死骸なのである。
“幻覚の森”は、その哀れな人間たちの“頭”を、喰っているのだ。
私は恐怖にかられ、その場から逃げるように駆けだした。兎に角、この不気味な石像から逃げなければならない。私は我を忘れて走り続けた。
しかし、どんなに走っても、やはり森は開けない。辺りに転がる石像たちも、消えることなく、いつまでも私の視界の中に居座り続ける。
走ることは、無駄なのだ。私は体力の限界を感じると同時に、やっとその事に気付いて足を止めた。どんなに走っても、この恐怖から逃げ出すことは出来ない。私は、何とか息を整えて、再び、静かに歩き始めた。
どんなに荒く走っても、強く地面を踏み鳴らしても、その行為に“音”が伴う事は無かった。異常な程の無音が、私の想像力を無意味に駆り立てる。妄想は、自分自身に勇気を与えるようなポジティブなものでは無くて、単に恐怖を煽るだけのものだった。
偶に、何処からともなく、ぼうん、という鈍い音が聞こえる。もしかしたらそれは、“幻覚の森”に迷い込んだ魂が、ここを抜け出すことが出来ないまま果てる時の音なのかもしれない。無音は恐ろしい。しかし、無音という空間が当たり前となった時現れる“音”程、ホラーなものは無い。
早くこの森を出たい。そう思った時である。
突如、視界が開けた。森が後退をはじめ、その向こうに、いつかに見た赤い鳥居の神社が出現した。
“森神様”だ。
ものすごい距離を歩き続けて、とても疲れている筈だった。しかし、鳥居を見た瞬間、それは何処かへ飛んで行ってしまった。急いで鳥居まで歩み寄る。やっとたどり着いたのだ、私の出口に。
涙さえ出るかもしれないと思った。そんなことをしている時間すら、私には無かった。
ふと目を落とすと、私の左の太ももに、大きな痣が出来ていた。私の死が、迫っているのである。
死んでなるものか。
私は目を閉じ、姿勢を正した。そして心の中で、私の願いを唱えた。
「森神様、森神様、私の願いを、叶えてください。どうか――――――」
どうか――――――。
ふわり、と宙に浮いたような、感覚があった。いや、宙に浮いている、と言うよりは、水の中へ沈んでいく、と言った方が正しいかもしれない。体が自由に動かない、しかし拘束されているのとは、少し違う感覚である。
その中で、私は不思議な声を聞いた。
不思議な声ではあったけれど、しかし、聞きなれた声であった。
―――夜未、覚えている?
何のことだろうか。
―――あの時の事を、覚えている?
あの時、いつの事だろうか。
―――あの時、あの人は、
あの人とは、一体誰の事だろうか。
―――あの人はあなたを選んだのだよ。
誰が、私を選んだのだろうか。
そして、この声は、
あなたは一体誰なのか。
目を開けた。私は誰かと手を握り合った状態で、通学路の土手の道に立っていた。隣ですすり泣く声がする。この声は、と少し考えたけれど、答えはすぐに出た。
きっと、私の願いは聞き届けられたのだろう。
辰樹を助けてほしいという、私の願いが、聞き届けられたのだろう。
「どうして」
彼は言った。私の手を握る彼の幼い手は、小刻みに震えていた。
「どうして僕はここに居るんだ」
私は何も答えなかった。
「どうしてお前は、ここに居るんだ」
辰樹が、私の手をギュッと握った。
「どうして!どうして僕を助けたりなんかしたんだ!」
少し間をおいて、私は口を開いた。
「わからない。けれど、その方が良いって思ったの」
「良いわけない。良いわけなんかない!だって、僕は、僕はこの“世界”の人間ではないんだ」
辰樹は泣きながら言って、それからずずっと鼻をすすった。私は少しだけ笑って、
「だからだよ」
と答えた。
「辰樹は、一度、全てを失ったんだ。家族も何もかも」
「でも、あれは僕が悪かったからなんだ。自業自得なんだよ」
「自業自得?」
「そうさ」
辰樹は、空を見上げた。
「僕は、死んだ母を生き返らせたかった。だから姉と一緒に、森神様に願いに行ったんだ。だけど二人同時に同じことを願ってしまった所為で、僕は“幻覚の森”から出ることが出来なくなってしまった。彷徨い続けてやっと森を抜け出した時にはもう、僕の世界は変わっていた。そして、色々調べた僕は、あの後母が、願い通りに生き返っていたことを知った。同時に、その五日後に、また死んでしまったことも。姉は何もかも忘れてしまったんだろう。だから幸せに、普通のおばさんになることが出来た。けど僕は全て覚えていた。これが、神様の下した罰だと思ったんだ。人の死を、変えようとした罰」
「辰樹は、悪くないよ」
「いいや、僕が悪いんだ。だから、夜未の代わりに森に入ったのも、贖罪のつもりだった」
辰樹は少しだけ間をおいて、すすり泣くように言った。
「それなのに、それなのにお前は僕を」
「私はね、辰樹が私を助けようとしてくれたから、お礼のつもりで辰樹を助けたんじゃないんだよ」
辰樹は私を見た。私は精一杯に微笑んだ。
「どうしてかわからないけど、ただ、どうしても、助けたくてさ」
辰樹は空いている方の手を目に押し付けた。
「馬鹿夜未……。だから、お前は馬鹿なんだ」
私は笑った。そうやって、いつもみたいに笑う事しか、私には出来なかった。
その時、どっという鈍い音がして、私の腕が力なく垂れた。変な風に曲がっているから、どうやら折れているらしい。
きっと、もうすぐ私は死ぬのだろう。そして、見るも無残な姿になってしまうに違いない。
それを、辰樹が眺めるのだろうか。
死んだ私を、汚い私を、辰樹が見るのだろうか。
それは、嫌だ。
「辰樹、もう、さよならをしようか」
私は辰樹の手を静かに放した。
辰樹には、綺麗なままの私を覚えていてほしいのだ。
いつまでも、この夏の、綺麗だった私を、覚えておいてほしいのだ。
辰樹は、何も言わず、一歩、私から離れた。
「もう、お別れなのか」
私は頷かなかった。その代わりに、辰樹の方を向いて、先程と同じように精一杯に微笑んだ。
「ばいばい、辰樹。また明日」
辰樹は、目を腫らして私を見た。けれどすぐに、いつもみたいににっこり笑って、
「じゃあな、風邪、ひくなよ」
と言った。
去っていく、辰樹の後姿を目で追う。何度も何度も、肩が上下している。きっとまだ泣いているのだ。目を腫らして。ずっとそうやって、彼は泣き続けてきたのだろう。
“幻覚の森”の中で、彼は三十年近く彷徨い続けた。子供のままで。寂しかっただろう、辛かっただろう。きっと、ずっと泣いていたのだろう。
もう、彼は泣かずに生きていけるだろうか。この時代で、この世界で、彼には笑って、生きていてほしい。私は心から願った。彼が、永久に幸せである事を。
その時である。
背後から、何かが近づいてくるのを、私は感じた。不気味なもの、しかし、幽霊だとか悪魔だとか、そういうものとは違う。
人である。
しかし、それは人であって人でない、異質なものであった。死を目前にした私だからわかる、不気味な“気”であった。
「ねえ、覚えている?あなたの髪の毛が長かったときにね」
よく聞く声。愛しい人の声。
しかし、私は恐怖した。
「彼は、長い髪の子が好きだと言ったのよ」
そうか、だから彼女は、髪を伸ばしたのだ。そして同時に、私は髪の毛を切った。
「だからね、私だけでいいって思ったのよ、髪の長い女の子は。彼が好きになるのは、私だけでいいって、そう思ったの。この世から、髪の長い女の子が、皆消えてしまえばいい」
髪の長い少女ばかりが襲われた、あの事件の事が思い出される。もしかして、彼女が、その犯人だったのだろうか。
「けれどもね、違ったの。この前聞いたら、彼、短い髪の方が好きだって言ったのよ」
風が止んで、より鮮明に彼女の声が聞き取れるようになった。
「彼はね、あなたが好きだったの、私よりも」
そんな筈はない。だって彼は私なんかより、彼女との方がお似合いなのだ。
「悔しかったけれど、私にとって、あなたも愛おしい存在だった。だから私は、あなたたちを呪ったの。そして」
気配はずっと後ろに在るのに、声だけが私のすぐ耳元まで来て、低く囁いた。
「待っていたわ、大好きなものが、両方手に入る、この素晴らしき日を」
私の頬を、冷や汗が伝った。私の親友、私の恋人、私の崇拝した人物、彼女は、美しい人だった。けれどその美しさは、闇を併せ持った、不気味な美しさだったのだ。
こんな彼女を、私は初めて見た。いや――――――。
私は知っていた。
私は彼女が闇であると知っていた。
忘れていた記憶がよみがえる。昔、私が朝香の家のコレクションルームに入った時の記憶である。あの時、私はあの部屋の奥に在る、古びた扉を、開いてしまった。
そして見てしまった。
無数に並ぶ、人の首を。
そうか、私はこうなることを望んでいたのだ。
彼女の所有物となり、愛されることを、望んでいたのだ。
だが、辰樹との出会いが、私を彼女から引きはがそうとした。辰樹は無意識下で、私の心を救い上げようとしていた。
私は、それに手を伸ばしかけていた。
いや、もうすでに、掴んでいたのだ。掴んでいたのに――――――。
彼女の笑顔が私を過る。全て、彼女の計算通りだったに違いない。
私が死んだ日、朝起きてすぐ窓を開ける習慣がある私の部屋の窓が、閉め切られている筈がなかった。きっと彼女が閉めたのだ。
私が死んだ日、彼女は空に“青い蝶”が飛んでいると言った。しかし、そんなものは居なかった。
私が死んだ日、私の背中を押して、窓から突き落としたのは、
彼女だった。
彼女を溺愛していた私にとって、その現実は、余りに受け入れがたいものであった。だから心の奥にしまった。そして、今やっと、思い出した。
最早、手遅れだ。
首のあたりで、血液がどくりと脈を打った。
バキ、バキバキ…………。
私は音を立てて壊れた。




