四日目、忘れ物
あの後、私は辰樹の家に行った。しかし辰樹のお母さんは、辰樹の事を何一つ覚えていなかった。「おばさんには、辰樹っていう子がいたでしょう?」と言うと、彼女は「そんな子は居ないよ。夜未ちゃん、と言ったかしら、何かあったの?」と笑った。
家に帰って布団に入った後も、私はよく眠ることが出来ないまま朝を迎えた。もしかしたら、昨日のことは全て夢だったのかもしれない。本当に、辰樹は存在しなかったのかもしれない。最早誰かに「辰樹という子を知りませんか」と尋ねる気にもならなかった。
ぼんやりとしたままご飯を食べる私を見て、お母さんは心配そうに顔を歪める。私は誰とも会話をしたい気分では無かった。その心境を察したのか、お母さんは何も尋ねてこなかった。
その代わりに、というようにテレビをつける。アナログテレビのぼうん、という音がして、それから箱は光を発し始めた。少し遅れて、音が鳴り始める。画面は、いつものニュース番組であった。右上に文字が出ていて、最近この付近で起こっている恐ろしい事件の名が記されている。お母さんはそれを見て「あら、やだ」と言った。
「また“カミキリ事件”が起こったのね。物騒な世の中になったわ」
“カミキリ事件”というのは、近頃私が住んでいるこの村の周辺の地域で起こっている恐ろしい通り魔事件のことである。しかし、今のところ死者は出ていない。カミキリ、と言っても、噛み切るという意味のカミキリでは無くて、髪を切る方のカミキリなのだ。襲われるのは、私と同い年くらいで、髪の毛が長い女の子たちである。ニュースや新聞によると、後ろから突然襲われて、髪の毛をバッサリ切られてしまうのだそうだ。犯人はその髪の毛を持ちさるのだという。その後その髪をどうするのかは不明だが、売って金にしているとか、家に保管しているとか、埋めているとか、専門家なる人たちによって様々な見解が成されていた。
「あなたは短い髪だから大丈夫だとは思うけれど、心配ねえ、朝香ちゃん。危ないわよ、あの子、髪長いから」
お母さんが言った。私も同じ意見だった。しかし、あの長い髪があってこその朝香なのだ。もし、彼女の長い髪を傷めつけるような人間が現れたら、私はきっとそいつを一生許さない。
朝食を終えると、私はぼんやりと自分の部屋に戻って、ベッドに腰掛けた。私が落ちた窓がすぐそこに在る。それだけで、私は容易に“現実”を思い知ることが出来た。
辰樹は、本当に消えてしまったのだろうか。
辰樹は、本当に、最初からいなかったのだろうか…………。
私は居ても立っても居られず、ろくな着替えもしないまま、家を飛び出した。
私が向かったのは、学校だった。辰樹と一緒に勉強をして、辰樹と一緒に遊んだ、私たちの学び舎。私は小学校の受付に居る事務の人に、忘れ物を取りに来たと説明して、中へ入れてもらった。
夏休みは、三週間ある。今はその丁度半分くらいが終わったところだった。閑散とした教室。数日前まで生徒たちがいた痕跡が至る所にあった。
階段を一足一足踏みしめるように上がる。私たち六年二組の教室は、三階の一番端っこに在った。私は歩きながら、水道や階段の踊り場を見て、そこに居る辰樹を想像した。
教室の前まで来た私はすぐにドアを開けて中に入ることが出来なかった。もし、この教室に何もなかったら、辰樹という少年の存在が、忘れられたとか、消えたとかじゃなく、本当に最初からいなかったのだ、と思い知ることになるからである。
しかし、昨日のあの出来事は、きっと、いや、決して夢ではない。辰樹は、確かに居たのだ。そして私を助けるために……。
私は頭を振って、思い切りドアを開けた。がらがら、と聞きなれた音がする。教室の中は、夏休み前の大掃除によって綺麗に整頓されていた。乱れている机は一つとしてない。
静かな教室。
私の席は、一番奥の、窓際の席である。そして辰樹の席はその隣だ。辰樹は帰りのホームルームの時間になると、必ず私の机に落書きをする。最初はとても嫌だったけれど、今ではもう慣れっこだった。
一学期最後のあの日もそうだった。辰樹は私の机の方に身を乗り出して、学級委員が話をしているというのに、それを聞かずに楽しそうに絵を描いていた。勿論、気付いた学級委員は顔を赤くして怒った。それでも、辰樹は然程気にする様子もなく、いつもみたいにへらへらと笑いながら平謝りをしていた。
私は、机の前まで来て立ち止まり、机上に手を乗せた。そこには、あの不細工な落書きがまだ残っていた。辰樹曰く、この不細工な顔は、私なのだそうだ。
「全然、似てないよ」
私は呟いて、拳を握った。辰樹は、ちゃんと存在していた。
その後、学校を後にした私は、途方に暮れながら、帰り道をぶらぶらと歩いていた。何も考えることが出来なかった。辰樹は消えてしまった、けれど、最早私には、何も出来ないのである。きっと、何をしても、無意味なのだ。
だって、辰樹は”幻覚の森”に飲み込まれてしまったのだから。“森神様”と言う、得体の知れない、そして偉大で恐ろしい存在に、取り込まれてしまったのだから。
「あら、夜未じゃない」
声がして、私は振り向いた。朝香である。朝香は真っ白な、カーテンのようなひらひらのスカートを穿いていて、その可憐に、私は一瞬だけ言葉を失った。
「どうしたの」
朝香が心配そうに私を覗き込む。私は慌てて首を振ると、
「ちょっとぼうっとしちゃったんだ、夏バテで」
と言って誤魔化した。
「それより、朝香こそどうしたの。こんな所で」
「私は夜未を探しに来たのよ。おばさんに聞いたら、学校に行ったって言うから。昨日の夜未の話で、気になって、私いろいろ調べてみたのよ。それで、夜未に話があって」
朝香は、手提げかばんの中から、何やら冊子のようなものを取り出した。様子からして、長話になりそうだ。私は朝香の白い肌が日焼けしないように、何とか誤魔化しながら、朝香を木陰まで誘導した。木陰、と言っても、道端にあるような陳腐な日陰の事では無くて、近くの公園のベンチである。私と朝香は、錆びたそのベンチに腰を掛けた。それからすぐ、朝香は冊子を開いて、私の方に見せた。
「これは、お母さんの日記よ。お母さんに話をしたら、私に貸してくれたの」
冊子の紙の色は、汚い色に変色していた。ところどころに、変な色のシミがある。年期を感じさせる代物だった。
「ここを見て」
朝香が細い指で、ある文字を示す。私は目を細めて、それからそこに”たつき”と書いてあることに気付いて目を見開いた。
「こ、これは!」
「夜未が言っていた辰樹っていうのは、もしかして私のお母さんの弟の事なんじゃないかと思って」
「弟って、あの、“幻覚の森”の神隠しで消えたっていう?」
「そうよ。お母さんは、もう覚えていないって言ったけれど、この日記に書いてあるには、どうやら彼が消えたのは、彼が五歳だった時らしいのよ」
五歳――――――。そう言えば、私は辰樹が小学校に上がる前の事を全く知らない。こんなに近くに住んでいるのだから、同じ保育園に通っていてもいいはずなのに。
「でも、待ってよ朝香。辰樹には、ちゃんとお母さんがいたわ」
「いいえ、夜未。私、この前お母さんから聞いたけれどね、あなたが昨日“辰樹のお母さん”だって言って訪ねて行ったお家あったじゃない。柏木さん。あそこは、孤児院から、親のいない子供を引き取って育てているお家なんだそうよ。だからあそこは男の子が二人いるけれど、二人とも全然似ていないでしょう」
私は全身が小刻みに震えるのを感じた。朝香はそんな私に気付いてか気付かないでか、もう一つのもっと大きな冊子を手提げカバンから取り出して、私に差し出した。
「おばあちゃんがつけていたアルバムよ。写真が入っているの」
私はアルバムを開いた。一番初めのページは、白黒写真であった。しかし、ページが進むにつれて、だんだん黄色がかった色になり、真ん中あたりまで来ると、現代の写真と殆ど同じくらい色のついたものとなった。
「このアルバムは、お母さんのものなのだけれどね、知らない男の子が、沢山写っているんですって……」
朝香は写真を指差した。朝香と同じ顔をした、美しい少女がこちらに向かって微笑んでいる。その隣に、幼い少年が座っていた。それを見て、私は息を呑んだ。
それは、辰樹であった。
『何せ、三十年近く、あの森の中に居たんだから』
辰樹の言葉が脳裏を過る。冗談だと笑っていたけれど、本当の事だったのかもしれない……。
「夜未、大丈夫?」
朝香が私の肩を揺すった。私は慌てて頷くと、朝香に二冊の冊子を返した。
帰り道、私と朝香は殆ど言葉を交わさなかった。朝香が悪いのではなく、多分、私がずっと上の空だったのが原因だろう。
家が見えてくる辺りまで来た。その時、朝香は私の方を見て、小さな悲鳴を上げた。私は立ち止まる。朝香は、手で口を押さえながら、驚きを隠しているようだった。それから私の腕に優しく触れて、
「どうしたの、この痣」
と言った。
「痣?」
私は聞き返しながら、自分の右腕に目を落とし、私は息を呑んだ。
そこには拳くらいの大きさの、紫色のひどい痣があった。
「さっきはこんな痣無かった気がするけど……何処かでぶつけたりしたかしら?」
私は首を振った。
「そりゃあ私はドジだけど、でも、こんなに大きな痣ができたら、普通気付くもの……」
言ってから私ははっとした。“幻覚の森”の願いの期限が切れ始めているのだ。
辰樹は、“森神様は時間を操作できる”と言っていた。確かに、もし本当に、辰樹が朝香のお母さんの弟だとしたら、若すぎる。そして辰樹は、昨日、私の願いを叶えるために“森”に入って、まだ帰ってきていない。私が“幻覚の森”に入った時は、一瞬にして帰ってきたというのに。
私は気付いてしまった。辰樹は、“森神様”に会うことが出来なかったか、願いを聞き入れてもらえなかったのだ。そして今、“幻覚の森”を彷徨っている……。
「どうしよう朝香」
私は言った。
「私、死んじゃう……」
朝香は目を丸くした。
「何を言っているの、夜未。あなたは死なないわ。だって、森神様があなたを生き返らせたのだもの。あなたは、“森神様”に選ばれたのよ」
「でも、辰樹が言ってたんだ、“森神様”は、人間の生を操ることは出来ないんだって、だから、五日経ったら、私は死んでしまうんだって」
私はそのままうずくまった。
「私は、明日、死ぬんだ……」
「いいえ!夜未」
朝香は強い口調で言った。
「あなたは死なない。簡単なことだわ」
私は朝香を見上げた。朝香は優しく微笑む。
「もう一度、“森神様”に会いに行けばいいのよ」
「もう一度?」
「ええ。もう一度、“森神様”に会いに行って、そして、もう一度願いを叶えてもらえばいいのよ。そうすれば、あなたは死なない」
「でも、でもそうしようとして、辰樹は“幻覚の森”に吸い込まれちゃったんだよ」
私が言うと、朝香は腕を組んだ。
「そうね、でも、こうも考えられる。彼がもし、私のお母さんの弟の“たつき”なのだとしたら、彼は、もう二度も“幻覚の森”に呑まれていることになるわ。つまり、きっと彼は、変な体質の持ち主なのよ。“幻覚の森”に迷い込む体質、または、“森神様”の“お気に入り”なのかもしれないわ」
朝香は私の髪を撫でた。
「彼が特別なのよ。だから、夜未は大丈夫。だってあなたは、ちゃんと出てこられたんだもの」
風が吹いた。私は地面に膝をついたまま、心当たりのない右腕の痣を、左腕で隠していた。朝香は、ピアノ教室があるからと言って先に帰ってしまった。私はただ孤独に、その場に居続けた。
不意に、誰かが私を呼んだ気がして振り向いた。十メートル位向こうの所に、少年が立っている。蜃気楼のようにぼんやりとしている彼。目を凝らして、私はようやくその少年が、見覚えのある、彼の友人であることに気付いた。
私は立ち上がった。
「辰樹!」
辰樹は、私の方に近づいてこようとはしなかった。ただそこに立って、穏やかに笑っていた。
「何よ、心配したじゃない!一体、どうしていたっていうのよ!」
「ごめん、ちび夜未」
彼は何故か謝った。私はそれ以上怒る気にはなれなかった。彼が無事に帰ってきたことが嬉しくて仕方がなかった。
「もう、辰樹ったら……」
「聞いてくれ、夜未」
辰樹は私の言葉を遮って、言った。
「お前はお前の人生を生きろ。僕は、もう逝く」
私は首をかしげた。何を言っているのか、よくわからない。
「だから、もう僕を探さないでくれ――――――」
ひゅう、と風が吹いて、辰樹の幻が、煙のように消えて行った。次の瞬間、辰樹が立っていたそこには、辰樹では無くて、神崎一登の姿があった。一登は私の方に駆け寄り、心配そうに私の顔を覗き込む。
「どうしたんだ、夜未。俺の事を辰樹って言うし、昨日から、お前、なんだかおかしいぞ」
「ご、ごめん……」
私は顔を赤くした。辰樹の幻覚を見て、狐に化かされたように叫ぶ姿を、一度でも好きになってしまった一登に見られたことが、無性に恥ずかしくて仕方がなかった。
「謝ってほしくて言ったんじゃないんだ。俺はただ……お前が心配なんだ」
一登が私の頭を撫でる。朝香のするのよりも力強くて、私の火照った顔はいっそう赤みを増した。
「一人で悩むんじゃなくて、俺にも相談しろよ」
「うん、ありがとう。でも、本当に何でもないんだ」
私は不自然じゃない程度に微笑んで言った。一登はそんな私を見て、尚も心配そうに眉を顰めた。
一登と別れた私は、罪悪感に苛まれていた。私は一登に触れてしまった。朝香の好きな一登に、そして、辰樹の親友である一登に。
辰樹は、もう一登に触れることが出来ないのだ。あんなに仲が良くて、あんなに一緒に居たのに、それなのに一登は、もう辰樹の名前すら覚えていない。
そんなの、虚しいじゃないか。
そして、私は、その辰樹を見捨てて、自分を救おうとしているのだ。自分の命が恋しいが故に、私を助けようとして自らの身をも投げ出した辰樹を、見捨てようとしているのだ。
私は、酷い奴だ。
私は右腕の痣を、ギュッと握った。贖罪のつもりでした行為だったけれど、何故か、痛みが全くなかった。今の私の体は、まるで生きていなかった。死んでいるようでしかなかった。
どれくらい、立ち尽くしていただろうか。いつの間にか空はオレンジ色になっていて、私がそれに気付くのとほぼ同じくらいに、六時を知らせる鐘の音が、村中に鳴り響いた。そろそろ家に帰らないと、お母さんが私を心配するだろう。でも、私ばかりずるい。辰樹にだって、遅くに家に帰って、お母さんに心配される権利はあるというのに。
辰樹は、最早どんなに帰りが遅くなっても、誰にも心配されることは無いのだ。
誰も、辰樹の事を、覚えていないのだから。
辰樹、辰樹。私の友人の、辰樹。
大切な友人の…………。
私の頬を、冷や汗が伝った。
―――辰樹は一体、どんな顔だっただろうか。
その時、私はやっと気付いた。私もいつか忘れてしまうのだ、辰樹の事を。朝香のお母さんが“たつき”の事を忘れてしまったように。
そして、その時は、近いのだ。
辰樹のいた過去を、思い出を、私はいつか「あれは夢だったのだ」と思うのだろう。
それが、正しい、自然の摂理なのかもしれない。
しかし、私は辰樹の事を、忘れたくなかった。忘れてはいけない気がした。
明日“幻覚の森”に行って、森神様に何を願ったとしても、誰も私を責めないし、咎めない。きっと辰樹もそうだろう。それ故に、私の心は揺れていた。
オレンジ色だった空は、いつの間にか真っ黒に染まっていた。それでも私は動くことが出来ないまま、いつまでもその場で立ち尽くしていた。




