三日目、夏祭り
ついに、待ちに待ったお祭りの日がやってきた。村をあげて行う、この辺では結構有名なお祭り、「御射山祭」。私たち子どもにとっても、勿論、大人にとっても、夏の最大のイベントだ。
私と朝香は、お祭りが始まった昼からずっと一緒だった。綿飴を食べたり、焼きそばを食べたり、金魚を掬ったり。ビンゴ大会にだって参加した。ビンゴ大会では、朝香は十番目くらいに上がって、可愛らしいキャラクターの絵がついた扇風機を貰っていた。私が貰えた景品は、残念賞の「うまい棒」だったけれど、朝香の嬉しそうな顔を見ることが出来たから、まあ、いいか、と自分に言い聞かせた。
私たちがまだ保育園児だったころ、クラスメイトに、「夜未ちゃんは朝香ちゃんの事が好きなの?」と聞かれたことがある。私は迷わず「うん」と頷いたけれども、その「好き」は、決して“レズビアン”的な意味では無かった。勿論今だってそうだけれど、朝香は、私にとって私以上の存在なのだ。だからその「好き」は、愛だとか恋なんていうものよりも、信仰とか、崇拝とかいう言葉の方がより近いのかもしれない。朝香にはそれくらいの魅力があった。
夕方になると、私たちは一旦、家に帰って、浴衣に着替えてから再び参上することにした。何せ、夜になったら花火大会がある。花火というものは、浴衣を着て見るものだ。その方が、風流に決まっている。
思いの他、早く着付けが終わってしまって、私は家の前でぼうっと朝香を待っていた。空の色が、だんだんと黄色がかってきている。オレンジ色になってから暗くなるまでの時間は本当に短いから、そうなる前に、小学校の校庭に戻って、花火を見る準備をしなくてはいけない。
その時、不意に視界が遮られた。誰かの手で、目が覆われたのだ。犯人は、わかっていた。私は私の目を塞いだしなやかな手をそっと掴んで、
「朝香でしょう」
と言って振り向いた。桃色の花柄浴衣を着ている朝香が微笑んでいた。いつもよりずっと輝いて見える。
―――綺麗……。
ついつい見とれてしまった。朝香は私の肩に優しく手を置く。
「ほら、ぼうっとしていないで、行きましょう。花火が始まっちゃうわ」
小学校の校庭はいつもと違ってとても賑やかだった。露店は、村道だけでなく校庭の至る所に出ていて、集まる人々を誘惑する。私たちも、誘惑に負けて、チョコバナナを食べることにした。一本三百円。祭りの雰囲気の中で食べるチョコバナナは、格別に美味しい。
チョコバナナを頬張りながら、ふと、“射的”の露店の方に目をやる。見知った男の子たちの姿があった。辰樹も居る。きっとこの年頃の男の子は、ああいうものが大好きなのだ。
その中の一際大きな影が、私の方に振り返った。クラスで一番人気の男の子、神崎一登だ。一登は私を見つけたのか、にっこりと微笑んで、それから小さく手を上げた。私もつい嬉しくなって、手を上げようと、浴衣の袖を掴む。それと同時に、隣に居た朝香が、感嘆の声を漏らした。
「夜未、今の見たかしら。神崎君が、私に手を振ってくれたわ」
私は恥ずかしさで顔を伏せながら、上げかけた手で頭を掻いて誤魔化した。一登は、私に手を振ってくれたわけでは無かった。朝香に向かって、手を振ったのだ。当たり前だ。私のような地味で男っぽい女の子を、ハンサムな一登が気にかけてくれているはずがない。それに、私なんかよりも、朝香の方が、一登とはお似合いなのだ。
小学校の入学式で、初めて一登を見たとき、私は、もしかしたらこれが「恋」かもしれない、と思った。一登はその時から背が高くて、こんがりと色が黒くて、鼻が高くて、小学生とは思えないくらい凛々しかった。成長していくにつれて、一登の美しさは、朝香と同じように際立っていった。私なんかとは吊り合わない。それでも、辰樹と仲がいい一登は、よく辰樹と一緒にいる私に、優しく話しかけてくれる。見た目もよくて、性格も、愛想もいい。一登は、本当に「王子様」のような人だった。
しかし、私は彼を諦めざるを得なかった。何故なら、朝香も、彼の事が好きだったからだ。知ったのは、小学三年生の時だった。
朝香の気持ちを知った私は、一登のことをきっぱりと諦めることが出来た。一登は綺麗で、美しくて、好きだけれど、やはり朝香にはかえられない。それに、一登と朝香が並ぶと、まるで絵本の世界を彷彿とさせる。容姿端麗、頭脳明晰、それを兼ね備えた二人が並べば、最早他の誰をも寄せ付けない。
「夜未、そろそろ花火が始まるわ」
朝香が言った。私は急いで残り半分になったチョコバナナを口の中へ放り込んで、それから空を見上げた。
同時に、ひゅーという、花火が天へ舞い上がる時の静かな音が聞こえた。光は黒くなった大空へ舞い上がり、どん、とはじけた。黄色と赤の美しい花が咲く。私はあまりの音の大きさに耳をふさぎながら、周りにいる多くの人たちと同じように感嘆の声を上げた。花火は、とても綺麗だった。
アナウンスが流れて、花火の紹介をする。そのあとすぐに、次の花火が上がる。それが何度も繰り返された。
隣に立つ朝香を見る。花火が光るたびに、朝香の白い肌が美しく照らし出された。それは、花火に勝らずとも劣らない、優美な光景であった。私は、朝香や周りの人たちに不信感を持たれない程度に、ちらちらとたまに朝香の美しい顔を覗いた。
花火大会の大トリであるスターマインが終わり、祭り終了のアナウンスがされると、会場となっていた小学校の校庭は、祭りの終わり特有のざわめきに包まれた。今までの賑わいが一気に消え失せ、祭りは、ひと夏の淡い思い出へと化していく。なんだか寂しい気持ちになって、私は朝香の浴衣の袖を握った。それに気付いてか気付かないでか、朝香は太陽のようにパッと微笑んで、
「あら、夜未。まだお祭りは終わっていないわよ。むしろ、これからじゃないの」
と言った。そうだ、まだ「肝試し」が残っているじゃないか。
肝試しは、夜九時から、小学校の校庭を出発地点として行われることになっていた。このように言うと、とても大きな行事のようだけれど、実際は、夜中に親の目を盗んで家を抜け出すことが出来る少人数で、ひっそりと行われる。大人数でやるよりも、そのくらい厳かな方が、スリリングだ。私と朝香は時間になるまで家に帰り、また浴衣から普通の服に着替えて出直すことにした。
他の人たちはどうなのかはわからないけれど、私は、一応お母さんに肝試しの許可を貰った。勿論、一人で行く、なんて言ったら絶対に許してくれなかっただろうけれど、朝香と一緒に行くと言った途端、お母さんはすんなり許可してくれた。お母さんは、朝香のことを、私の“姉”のような存在だと言っていた。朝香は、私の家族にも愛されていた。
私の家族は、父、母、娘の私で構成されている、所謂“核家族”という奴だ。しかし、現代の核家族が抱えているような、コミュニケーション不足だとか、親のいない食卓だとかいう問題は、私たちには無関係だった。朝夕食は、いつも家族三人でとっているし、仲だって、他のどんな家族よりも良いに違いない。
朝香と別れて家に帰って、お父さん、お母さんと少しだけ会話をしてから、私は着物を着替えて、すぐに家を出た。あまり、ゆっくりしている時間は無い。
浴衣に着替えた時とは違って、今度は朝香が私を待っていた。私たちはお互いに懐中電灯を持って、暗い学校までの夜道を足元ばかりを照らしながら歩いた。もうこれだけで十分肝試しのようだ。しかし、きっと本番の緊張はこれを上回るに違いない。何せこれから行う肝試しの舞台は、あの“幻覚の森”なのだから。
小学校の校庭には、私たちが到着する前に、既に数人来ていた。その中には、辰樹と神崎一登の姿もある。彼らは私たちがやっと到着したのを見て、おい、とか、ほら、とか言いながら歩み寄ってきた。
「遅かったじゃないか、ちび夜未」
辰樹は、まるで昨日の事が嘘であるかのように、いつもと同じ調子で言った。私は違和感を感じながら、それでもほっとして、「ごめん」と言って頭を掻いた。
「今、丁度九時だね」
一登が言った。それを合図に、その場にいた全員が、それが当たり前であるかのように、朝香を囲って輪を作った。朝香は、心なしかとても楽しそうである。それもそのはずだ。きっと朝香はこの日のために、“幻覚の森”の怖い話を、ずっと封印してきたのである。
「ぱんぱかぱーん。それじゃあまず、朝香ちゃんの怖い話を」
気の抜けるような声で辰樹が言った。私は辰樹の腰を肘でごつんと殴る。折角の肝試しなんだから、恐怖や、おどろおどろしさを感じていたい。辰樹は小さく「痛」と言ったけれど、どうやら私の意図を察したらしく、その後は何も言わなかった。
誰がともなく、皆その場に座る。朝香も、円の中心に座って、自分の顔を懐中電灯で下から照らした。私の隣で辰樹が「おお、怖い怖い」と小さい声で茶化す。そんな風にふざけているのは辰樹だけで、他の皆は真剣なまなざしで朝香を見ていた。
朝香がすうっと息を吸う。怖い話が始まった。
「“幻覚の森”、知らない人は、居ないわよね。“幻覚の森”には『森神様』が居て、私たち人間の願いを、何でも叶えてくれる」
「知ってるわ」
輪の中のクラスメイトの誰かが言った。他にも、その意見に同意するという声が、ざわざわと挙がる。朝香はそれを制するように、唇の前に人差し指を置いて、「しっ」と息を吐いた。
「だけれどね、森神様は、全ての人の願いを聞き入れてくださるわけではないのよ。それでは、昔“幻覚の森”に迷い込んだ、私のお母さんと、その弟の話をするわ」
さあ、っと風が吹いて、私はぶるっと震えた。朝香の声は、この夏の夜に相応しく、不気味に響き渡った。
「その日も、今夜みたいに蒸し暑くで、だけれどたまに夏だとは思えないほど冷たい風が吹く、そんな夜だった。丁度私と同い年だったお母さんは、弟を連れて、あの森に入ったんですって。“幻覚の森”に。叶えてほしい願いがあった訳でもない、ただ単に肝試しのつもりで、興味本位であの森に入ったの。あの森はとても広いから、暫く、小道に沿って歩いていたんですって。でも、昼間来た時とは、なんだか違う雰囲気だった。とても穏やかで、虫の声一つしない……だけどとっても恐ろしい。そして、ずっと進んでいくと、ところどころに大きな人型の石像が転がっているの。お母さんや弟よりも、一回り大きいくらいの、大人くらいの大きさの人型の石像が。引き返せばいいのに、お母さんと弟は、ずっとずっと、奥へ奥へと進んで行ったの……」
私はふと、二日前の出来事を思い出した。音のない空間、そして、無数の人型の石像。私が迷い込んだであろう“幻覚の森”は、朝香の説明する”朝香の母と弟が迷い込んだ幻覚の森”の説明に酷似していた。
きっと私の顔がひどく青ざめていたのだろう、辰樹がとんとん、と肩を叩いて、小声で、「大丈夫?」と言った。私は小さく頷いた。
朝香の話は続いていた。
「人型の石像の量は、だんだん多くなっていったんですって。それで、とうとう二人は恐ろしくなって、引き返そうと振り返ったの。…………でも彼らの後ろに、道は無かった」
輪の中から小さな悲鳴が上がって、朝香が少しだけ笑ったのが分かった。朝香は、人を驚かせたりするのが好きなのだ。私はごくりと息を呑んだ。
「二人は怖くなって、でも、どうすることも出来なくて、ただひたすら、進んだわ。そしたらね、神社が、あったんですって。そこで二人は、もう神様にすがるしかない、そう思って、神社の鳥居を潜ろうとした。けれど、近づこうとしても神社は決して近くには来なかったの。二人は諦めて立ち止まって、そこで、外に出られるように、と願ったんですって。目を閉じて、姿勢を正して」
五月蝿かった蝉の声が、一瞬だけ止んで、風も動きを止めた。再び蝉が鳴き始めるのと同時に、朝香は口を開いた。
「お母さんが目を開けたとき、お母さんは家の玄関の前に立っていたんですって。でも、弟は、何処にも居なかった……。お母さんは慌てて、お母さんのお母さん、つまり私のおばあちゃんに弟が消えたことを話したの。でも、おばあちゃんは首をかしげながら、『はて。うちの子はお前一人だよ』……って」
悪寒がした。辰樹でさえ、恐怖の所為か顔を強張らせている。他の皆は、尚更だ。泣き出しそうな子だっていた。
話が終わると、朝香はすぐに微笑んで、
「さあ、怖いお話は終わりよ」
と言った。
「肝試しはこれから、これから」
一登たちが組み分けをしている間、私は朝香に詰め寄った。
「朝香、あの話、本当の話なの?」
朝香は私の顔を見て笑う。
「ええ、お母さんが言っていたの。でも、もうすごく昔の事だから、お母さんだって、もしかしたら夢だったのかも、って言っているくらいなのよ。いいえ、きっと夢の話だわ。それに、さっきの話、夜未が話してくれた“体験談”も参考にしているのよ」
うふふ、と朝香は意地悪そうに笑った。そうか、そういうことか。考えてみれば、簡単なことである。私は自分の体験した出来事を、朝香に全て話したのだ。
「もう、朝香ったら……」
私はため息交じりに言った。
「私、もしかしてと思って、どきりとしたんだよ」
「うふふ、夜未って、本当に素直で面白いわね」
朝香は言うと、それから周りを見回して、
「いいえ、他の子はもっと素直で面白いわ」
と笑った。全く、朝香という少女は性格が悪い。
私は、ふと辰樹の方を見た。辰樹は腕を組んで、難しそうな顔をしている。昨日も、確か、同じ顔をしていた。そういう顔をする辰樹は、なんだか遠い人のように思われて、あまり好きではなかった。
「組み分け、決まったぞ」
一登が声を張り上げた。それから、小さな紙切れを沢山取り出して、一枚一枚読み上げていく。どうやら、事前に各々の名前の書かれたくじ引きが用意されていたらしい。
「四番目、辰樹と夜未」
私は、辰樹と組むようだ。私は少しだけほっとして胸に手を置いた。嬉しいわけではないけれど、他の苦手な男子と同じ組になるよりは断然マシであった。
最後に一登は、
「んで、俺は朝香と」
と言った。瞬間、先程まで冷静沈着に私たちを怖がらせていた朝香の顔が、一気に赤みを帯びる。私は朝香にそっと寄って、
「よかったね、朝香」
と言った。朝香は静かに頷く。まるで仕組まれていたような組み合わせだけれど、ちゃんと公平なくじ引きで決まったのだ。文句を言う人は誰もいなかった。
「さて、それじゃあ肝試しのルールを説明しよう」
一登はざわめく私たちに負けない大きな声で言った。皆、一気に口を閉じる。それを確認してから、一登は話し始めた。
「”御射の森”には、みんなも知ってのとおり、入口と出口がある。そして、入口から出口までは一本の道で繋がっていて、その道に沿ってロープが通っている。校庭を出たら、まず気をつけて国道を渡って、それから入口に入る。出口の所には赤い旗が置いてあるから、それを一組一本ずつ持って、ここに帰ってくるんだ。最初から出口の方に行って旗だけ持って帰ってくるなんてずるい真似はするなよ。まあ、ここから入口も出口も見えるから、そんなことをしたってすぐにわかるけどな。最初の組が出発したら、その五分後に次の組が出発する。と、まあこんな感じに肝試しやります。質問ある人は」
一登は皆を一人一人見る。私も目があったけれど、特に質問も意見もなかったから、できるだけ愛想よく見えるように微笑んで返した。
「無いようだね。それじゃあ、第一組、春樹と夏芽グループ、用意してくれ」
呼ばれた二人は、よろよろと歩いて、スタートラインらしき白線の手前まで出た。女の子の方は、先程の朝香の怖い話を聞いて、泣きそうになっていた少女だ。男の子は、クラスでも目立たないような陰気な少年で、隣にいる少女を見て、対応に困っているようである。そんな二人の心境をよそに、一登は手を振り上げた。
「肝試し、スタート!」
一組目がスタートして五分後、二組目がスタートしようとしていた。私と辰樹のグループは四番目だから、出発までまだもう少し時間がある。
それにしても、先程の朝香の話、作り話だとわかっていても、聞いているだけで、あの“幻覚の森”の、立っているのに地面を踏んでいないような、嫌な感覚がよみがえってきた。あの森には、もう入りたくない―――。
しかし、昨日、私はあの森に入ろうとしていたのだから、この感情は矛盾している。
そういえば、昨日、辰樹と「肝試しが終わったら、もう二度とここには来ない」という約束をしたのだった。私はふとそれを思い出して、少し離れたところに居る辰樹の方を見た。辰樹も、何やら意味深気に私の方をじっと見ている。それからちょいちょい、と手招きをして私を呼んだ。私は朝香の隣にいたけれど、朝香も一登との会話に夢中になっているようだから、私が離れたところで大勢に影響はないだろう。
私は辰樹に歩み寄って、
「なあに、辰樹」
と言った。辰樹はまだ気難しそうな顔をしたまま、腕を組んでいた。
「俺、これから“幻覚の森”に入ろうと思うんだ」
一瞬、何を言っているのだ、と思った。
「当たり前じゃない、肝試しで入るんだよ」
「違う、僕たちが肝試しで入るのは、“御射の森”であって、“幻覚の森”ではないんだ。“幻覚の森”は、あの森の“中に”ある」
私は、辰樹の言っていることの意味がよくわからなかった。辰樹はそんな私の心境を察したようで、説明を加える。
「御射の森がイコール“幻覚の森”ではないという証拠に、あの森に神社はないんだ。それに、ちび夜未が見たり、さっき朝香ちゃんが言っていたみたいな、大きな人型の石像があったりすることもない。“幻覚の森”は、あの森の中に在る、異世界の事を言うんだ」
「森の中の異世界……じゃあ私は、あの森じゃなくて、その異世界の中に入ったってことなの?」
「そうだ。朝香ちゃんのした話は、想像で作った話かもしれないけれど……いや」
辰樹はいったん口を閉じた。いや、の続きが気になるが、辰樹の顔が真剣過ぎて、私は何も言えなかった。
少しの沈黙の後、辰樹は再び口を開いた。
「それと、“幻覚の森”に住む、“森神様”のことだ。あれは、神様ではない」
「神様ではない?でも、人の願いを叶えてくれるじゃない。私もそのおかげで」
「そもそも神様ってものは、人の願いを叶えるようなことはしないだろう。誰にだって平等に慈悲を与える、ある時は万人にお仕置きをし、またある時は万人に幸福を与える。決して、一人の人間の欲望を叶えるようなことはしない。僕にだって、森神様の正体はわからない。でも少なくとも神じゃないってことは言える」
辰樹の表情は、真剣だった。
「“森神様”は神様じゃない。だから、人間の生を作り変えることは出来ない」
「人間の生を作り変える……」
つまり、私が生き返ったことを言いたいのであろう。しかし、現に私は今、ここで息をし、立っている。“森神様”は、私に再び生を与えた。
「“森神様”の願いの効力は、五日しか、もたない」
辰樹は静かに言い放った。私は、言葉を失った。
「ちび夜未は、お前は、五日経ったら、再び死ぬんだ」
「何を根拠に言っているの。そんなに私を怖がらせたいの!」
私は恐怖のあまり叫んだ。クラスメイト達が一斉に私たちの方を見る。私は慌てて怒りを鎮めると、みんなに向かって「なんでもない」という笑みを見せた。目の前の辰樹の顔は、先程から何も変わっていない。
「いいか、よく聞け。僕はお前を怖がらせたくて、苦しめたくて言っているんじゃない。助けたくて、言っているんだ」
「よくわかんないよ」
「わからなくていい」
辰樹が言うと、その後すぐ、一登が私と辰樹を呼んだ。どうやら、私たちのスタートの時間が来てしまったようだ。
一登の「第四グループ、スタート」の合図で、私と辰樹はゆっくりと歩き出した。隣を見ると、辰樹はやはり顔をこわばらせたままだった。
少し歩いてから、辰樹は再び口を開いた。
「だから、これから僕が”幻覚の森”に入るんだ。お前を、死なせないために」
「私を、死なせないために?そんなことできるの?“森神様”でさえ、私を助けることができないのだとしたら」
「いいや、“森神様”は人の生を操作することは出来なくても、時間の操作は得意なのさ」
「時間の操作?」
「そう。だから“森神様”に時間を操作してもらって、夜未の事故を、無かったことにしてもらえばいい」
私はようやく理解した。辰樹は、私のために、“森神様”に願ってくれようとしているのだ。
「でも、私の願いだもの、私が自分で言うよ」
私は言った。しかし辰樹は大きく首を振った。
「駄目だ。僕じゃなきゃ駄目なんだ。僕なら、迷っても、きっと……生き延びられる。だから、僕じゃなきゃ」
辰樹は、呟くように、しかし強い口調で言った。兎に角辰樹は、どうしても自分で行きたいらしい。
「僕じゃなきゃ、駄目なんだ」
辰樹は、決意したように、もう一度そう言った。私は、彼の熱意に少しだけ圧倒されながら、殆ど勢いで頷いてしまった。
私たちは森に足を踏み入れた。ロープを握る。この森は“幻覚の森”ではない。そう聞かされても、あの日の記憶が甦って、掌に汗がにじんだ。
暫く私たちはお互いに無言で歩いた。辰樹の表情は、進むにつれて険しさが増していくように思われた。
突然、辰樹が立ち止まった。辰樹の後ろを下ばかり見て歩いていた私は、その背中に頭をぶつける。「急に止まらないでよ」と文句を言おうと顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。
蝉の声が、止んでいる……。
「夜未、お前はこのままロープを伝って、まっすぐ進んで行け。いいか、絶対に、僕の方を振り向くな。何があってもだ」
「振り向くなって、まるで神話みたいな事を言うんだね」
私は急に心細くなってしまった。
「辰樹、やっぱり、私も行くよ。だって、一人であの森に入るなんて、凄く心細いもの」
私はまるで、辰樹を心配しているかのように装って言った。本当はただ、一人でこの森を歩き続けるのが、怖かった。
辰樹は、やはり首を振った。
「大丈夫、僕は。何せ、三十年近く、あの森の中に居たんだから」
「え?」
意味不明なことを言う辰樹に、私は思わず聞き返した。すると辰樹は、いつものようににんまりと笑って、
「へへ、冗談」
と言った。
「何よ!驚かさないでよ」
「ちび夜未は、単純だな」
私は顔を赤くして、辰樹は意地悪く笑った。けれど、“いつもの辰樹”を久しぶりに見たような気がして、私は少しだけ嬉しかった。
やっぱり辰樹は、こういう奴でなきゃいけない。
辰樹は、そっと私の肩を押した。
「さあ、行け。僕も、すぐ行くから」
私は頷いた。
「わかった。じゃあ、ゴールで待っているから、すぐに来てよ」
へへ、と辰樹は笑う。私はほっとして、歩みを進めた――――。
森を出て旗を手に入れた私は、スタート地点であり。ゴール地点でもある校庭へと戻った。そこでは、私たちよりも先にスタートをした六人が、それぞれ楽しそうになにやらを話しながら、私たちや、他の仲間たちを待っていた。
「夜未、遅かったね」
「やっぱり、一人だったから、びびったんだろ」
クラスメイト達は、そう言って私に笑いかけた。そして――――――――――。
誰一人として、帰ってこない辰樹を心配するものは居なかった。
最終グループの朝香たちが帰ってくると、私の不安は脳味噌から溢れ出した。私は朝香に駆け寄って、朝香の肩を掴んだ。
「どうしよう!辰樹が、辰樹が帰ってこないの!あいつ、私のために、一人で“幻覚の森”に入って……」
「落ち着いて、夜未」
朝香は眉を顰めて、不可思議そうな表情で私を諭した。
「ね、大丈夫だから。ね」
朝香に背中を摩られて、私はやっと我を取り戻した。途端、目から涙が溢れだす。不安が、悪夢となって帰ってきたようであった。
「辰樹が、辰樹が……ああっ」
私は目を覆った。朝香は優しい手つきで私の背中を摩りながら、優しい口調で言った。
「わかったわ、夜未。わかったから泣かないで。まず私たちに、その“辰樹”って人が誰なのか、教えてちょうだい」
私は顔を上げた。
「冗談を言っているの?」
「なんのことかしら」
「辰樹は、私たちのクラスメイトでしょう?」
「何を言っているの、夜未」
「私は、その辰樹と一緒に、肝試しをしたじゃない。くじ引きで……」
「いいえ、あなたは最初から一人だったわ。くじ引きでそう決まった時、あんなに一人は嫌だって言って、怖がっていたじゃない。忘れたなんて言わせないわよ」
私は、言葉を失った。
「大丈夫?夜未」
朝香は私を覗き込む。最早、涙など出なかった。
辰樹は、消えてしまった。
まるで最初から、存在しなかったかのように。




