二日目、ウツケモノ
森というものは、いつでも何処でも、静かで厳かで、そして神秘的である。そういうものを現代人たちは、「パワースポット」だとか、あるいは「心霊スポット」だなんて呼ぶのだろう。しかし今の私にとって、その様な下賤な言葉は、意味を持たなかった。何故ならば、私がこの森に入る理由は、心を癒したいだとか、幽霊を見たいだとか、そんな単純なものでは決してないからである。もっと現実的で、使命的な理由によって、私はここに来ざるを得なかったのだ。
昨日、”幻覚の森”から“生きて”出ることが出来た私は、私が生きているという事実と、”幻覚の森”の謎を解明するために、学校の裏山として聳える広大な森林までやってきた。先人たちや先生は皆、この森の事を「御射の森」と呼ぶ。それがこの森の正式名称だ。
しかし、この森は、別名を持つ。それが、”幻覚の森”。つまりここは、私が昨日迷い込んだ、あの“神の森”なのである。入ることが出来ても出ることが出来ない、彼の「とおりゃんせ」を思いおこさせるこの森に、私は生死の境、夢の中で迷い込み、無事脱出に成功した。そうして私は生かされたのである。
賑やかなはずの国道沿いにあるというのに、この森はいつでも異常な程静かだった。それには少なからず、”幻覚の森”の噂が影響しているのだろう。この森が”幻覚の森”と陰で呼ばれるようになってから、この森に近づくものが極端に減ってしまった、と言われている。
そんな、誰も寄せ付けない、この世と一線を引いているかのようなこの森に、私は今、立ち入ろうとしているのである。
神の森、迷いの森、呪いの森、死の森。
この森は怖い噂を沢山持っていた。
それでもここに入らなければいけない。森が、私を呼んでいる。
意を決して歩き出そうとした時、背後で、私を呼ぶ声が聞こえた。
「おおい、ちび夜未。そんなところで何してんだ」
私は振り返りながらため息をついた。この声は、辰樹だ。
辰樹は、私の第二の親友と言っていい男の子だ。私の事を「ちび夜未」と呼ぶけれど、彼だって私と然程身長は変わらない。寧ろ、私の方が少し高いのではないかと思うくらいである。こんな風に、口が悪いものだから、何かと誤解されやすい彼だけれど、辰樹は決して悪い子ではない。照れ屋だから、やんちゃな口調になってしまうだけだ。私にはお見通しだった。
「ちびとはなんだ、ちびとは。辰樹だって、ちびじゃん」
「僕はちびじゃないぞ。成長期が遅いだけだ」
辰樹は笑いながら、私に駆け寄った。
「それで、お前はこんなところで何をしている。お前が“変な噂”に惑わされるようなウツケモノだとは思えないぞ」
私は先程、辰樹の事を「お見通し」と言ったけれど、辰樹も、私の事はお見通しのようだ。私は、何と言えばいいのかわからず、口を噤んだ。辰樹は眉を顰める。
「もしかして、本当に“幻覚の森”なんかに入ろうと思っているんじゃないだろうな」
「た、辰樹には関係ないでしょ」
私はどきっとして、辰樹から顔を背けた。
辰樹は、はあ、とため息をついた。
「お前なあ。“幻覚の森”なんて、悪戯好きの中学生が考え付いたなんの根拠もない噂話だぞ。この森の中には神社なんてないし、鳥居もない。願いを叶えてくれる神様なんて、いる筈がない。小学六年生にもなって、そんなのを信じるなんて、本当にウツケモノだぞ」
辰樹の言うとおりだ。正論だ。しかし、私は昨日“死んだ”人間だ。真実を知るために、“心を決めて”、足を踏み出そうとしているのに、そんな言い方は無いだろう。私は無性に腹が立った。
辰樹は、身長は低いし、やんちゃな子だけれど、人一倍大人びた物言いをすることがある。朝香もそうなのだが、例えるならば、朝香は研究者といった感じで、辰樹はまるで教師のようだ。今だって、そうである。確かに、“幻覚の森”なんかを信じてこの森にやってきた私はウツケモノだ。しかし、興味本位でここに来たわけでは無い。“仕方がない”のだ。それなのに辰樹は、何も知らないくせに、教師のような綺麗な口調で静かに私を罵る。
「うるさい、バカ辰樹」
私はそれだけ言って、辰樹に背を向けて歩き出した。辰樹が慌てて謝りながら、私を追ってくるのがわかる。私は歩く速度を速めた。この状況をわかってくれる人がいる筈ない。
「おい、怒るなよ夜未ぃ……。謝るからぁ、ごめんってばぁ……」
辰樹が弱弱しい声で言うのが聞こえる。立ち止まって昨日の出来事を話したところで、どうせ辰樹はまた私を“ウツケモノ”と呼ぶに違いない。
更に速度を上げて、殆ど走っているような状態になった時、私は足元に大きなの石ころがあるなんてことに気付かないまま、それを踏んでバランスを崩した。膝から力が抜ける。お尻に衝撃が走る。転んでしまったらしい。
辰樹が、慌てて私に駆け寄った。
「おい、大丈夫か、立てるか」
私を助け起こそうとする辰樹の手を、私は大げさに払った。ぱちん、という音が、何もない森の空間に響き渡って、その後、少しだけ沈黙が流れた。
「……だから、ごめんってば」
沈黙を破って、辰樹は肩をすくめた。私は自力で立ち上がると、お尻についた砂と枯葉をぱんぱんと払って、辰樹をきっとにらんだ。
「私はウツケモノじゃないし、神様にお願いを叶えてもらいたくてこの森に入った訳でもない。もっと重大で大切な目的を持って、ここに来たの」
「目的?なんだ、目的って」
「辰樹にはわからない」
私は言い放って、また歩き出した。辰樹は、やはり私の後を追ってくる。
「わからないなんてことは、言ってみないとわからないじゃないか」
「わかるんだ。だって、変なことだもの。おかしなことだもの。だから辰樹はまた私をウツケモノって呼ぶんだ」
「呼ばないって。ちび夜未はウツケモノじゃないじゃないか」
辰樹は、私を追い抜いて私の前に立ちふさがった。
「ウツケモノじゃないお前が、こんな所に来ているから心配になったんだよ、僕は」
「だってさっき」
「だから冗談だってば」
私はようやく落ち着いてきて、深呼吸をした。私はなんて馬鹿なんだろう。夢、妄想に振り回されて、混乱した頭は、友人の言葉をも受け付けないようになってしまったのか。辰樹が単純に私をからかいたいだけだったならば、最初の一言だけ言って、追ってくる筈がない。転んだ私を、笑わずに助け起こそうとする筈がない。
辰樹は私を覗き込む。
「ちび夜未がこんなに怒るなんて、余程大きな事なんだな。なんだよ、言ってみろよ」
ちらっと辰樹を見た。こんなに心配してくれる人が居る。私は幸せ者だ。
しかし、と私は首を振った。辰樹はそう言うけれど、私の経験した事態や、私がここに来た目的、それは余りに“非現実的”すぎて、辰樹には理解できないに違いない。だからといって、今更「本当は森神様を信じたウツケモノでした」なんて言って誤魔化しても、不自然だ。
面倒なことになってしまった。知り合いに見つからないように、親にも言わず、ひっそりとこの森に来たというのに。
少しの間押し黙っていた私だったけれど、どうしようもなくなって、やはり、
「辰樹には理解できないよ」
と言った。辰樹は少しの間黙った。それから突然、怒ったように、
「僕は、ちび夜未が僕に真相を話してくれると信じてここまで来てやったんだぞ。それなのに、ちび夜未は僕の『お前の話を信じる』という言葉を、信じてくれないのか」
勝手に信じてついてきたのはそっちじゃないか。けれど、ここまでついてきてくれた―――いや、連れてきてしまったのだから仕方がない。
「ほら、言えって」
辰樹が私に迫る。私は、半ば辰樹に尋問されるみたいに、昨日の出来事と、今日ここに来た目的を話した。
話し終えてから、私は恐る恐る辰樹の顔を覗いた。辰樹は腕を組んで、難しそうな顔をしていた。やっぱり、私の事を“妄想癖のおかしなやつ”だと思ったんだ。私は肩を落とした。
しかし、そうではなかった。辰樹は真剣な面持ちで私を見ると、
「夜未、僕はお前の話を信じよう」
私は目を見開いた。
「本当にそう思ってる?」
「ああ、だけど、約束してくれ。もう二度と、一人で、この森には来るな」
辰樹の顔は真剣そのもので、恐ろしささえ感じた。先程まではあんなに飄々としていたのに、それがまるで嘘のようである。
「明日、肝試しできるでしょう?」
「それを最後にしてくれ」
私は言葉に詰まりながら、
「どうして?」
と問った。辰樹は首を振る。
「どうしてもだ」
その時の辰樹は、まるで別人のような冷たい瞳をしていて、私はそれがどうしても嫌だった。
辰樹と別れて、家に帰る途中で、私は朝香とばったり会った。どうやら、朝香は村の図書館から家に帰る途中だったようだ。朝香は私ににこりと微笑みかける。朝香の微笑みは、私を暗い妄想から引きはがしてくれた。
「夜未、昨日はあなたの家で遊んだでしょう。だから今日は、私の家で遊びましょう」
「でも、毎日遊んでばかりだって、朝香のお母さんに叱られるよ」
「あら、私はさっき、図書館でお勉強をしてきたところなのよ。どうしてお母さんが怒るかしら」
朝香は楽しそうに笑った。私も、それにつられて笑った。
朝香の家は、私の家のすぐ隣に在って、現代風の私の家と違って、「本家」と言った言葉が似合う様な、古き良き日本家屋である。家の中はいつも異常なほど静かで、その所為か妙に緊張してしまう。朝香が「ただいま」と言っても、返答の声はなかった。
そういえば、朝香の家に来て、人に会った事がない。確か、祖父母は亡くなっており、夫婦共働きで帰りが遅いのだと、朝香は言っていた。
一度、見てみたいな、朝香のお母さん。きっと、美人だろう。
私は出来るだけ行儀よく靴を脱いでそろえると、「お邪魔します」と言って、先に行った朝香のあとに続いて階段を上った。階段は急で、幼いころからよく遊びに来ていたにもかかわらず未だに慣れていない私は、手すりを強く掴みながら、踏み外さないように、一段一段をゆっくりと確実に上った。
それにしても、何故朝香は私を二階に案内したのだろうか。朝香の部屋は一階にあり、いつもはそこで遊ぶ。二階に案内されることなど、まず無い。不思議に思いながら朝香の後をついていくと、黒い襖の前まで来たところで、朝香は突然振り返った。
「これから案内するのは、私のコレクションルーム」
楽しそうに朝香が言う。コレクションルーム、以前にも一度だけ案内されたことがあったような気がする。それ以来来ていなかったため、まるで初めて入るかのようなドキドキが私の中で芽生えた。それを察したのか、朝香は微笑みながら、
「ほうら、緊張しないで」
と言って私の肩を揉んだ。
襖が開かれ、中のぬいぐるみやドールハウスなんかが一気に顔を出した。辺り一面桃色で、昔見た時よりも随分進化しているような気がする。
「素敵なお部屋」
私が言うと、朝香はにこりとして、
「でしょう」
と自画自賛した。しかし、「自画自賛」とは書くけれど、その文字とは違って、朝香の言葉に厭らしい要素は全く感じない。
桃色の綺麗な空間の向こう側に、この部屋の入口の襖よりももっと古びた、薄い木の板で出来ているような扉が見えた。色は壁と同化していて、あまり目立つ扉ではないけれど、私はそこに目が行って仕方がなかった。
昔ここに来た時も、そんなことがあった気がする。いや、その時は、私はもしかしたらその扉の向こうに入ったのかもしれない。朝香が招き入れたのか、それとも自分で勝手に入ってしまったのかは思い出せないが……。
「夜未」
朝香が私を呼んで、振り向いた私に桃色のクマのぬいぐるみを押し付けた。
「昔みたいに、おままごとをしましょうよ」
「おままごとって、私たちはもう小学六年生だよ」
「だからよ。おままごとが許されるのは、小学生までだもの。最後なのよ」
朝香は言うと、自分は金髪のリカちゃん人形を手にした。
「ね、お願い」
懇願するように、朝香は言った。
最後、という言葉は、なんと寂しい言葉だろうか。小学生最後の夏、そして、朝香と一緒に過ごす最後の夏。
今年は、何もかもが最後なのだ。
私はクマのぬいぐるみを手に握り直すと、
「じゃあ、私はクマだから、ペット役」
と言った。朝香は、
「じゃあ私はお母さん役ね」
と言う。それから、棚に飾られているぬいぐるみや人形を取り出して、私たちはそれぞれの役割分担をした。そうしているだけで、童心に帰ったようだ。今でもまだ子供なのだけれど。
最後の「赤ちゃん役」を決めようとして、朝香は棚の高い処にある、日本人形に手を伸ばした。この部屋に似つかわしくないそれは、ぼろぼろの着物を身に着けていて、髪もぼさぼさでみすぼらしい。
「朝香、その人形は?」
私が聞くと、朝香は背伸びをしてそれに手を伸ばしながら、
「これはね、お母さんがくれたの」
と言った。
「このお人形はね、お母さんの、そのまたお母さん、そのまたお母さん、ずっと昔から引き継がれてきたお人形なのよ。美しい女の子が育ちますように、っていう願いがかけられているの」
そうか、だから朝香はこんなに美しいのか。この人形のおかげで、朝香は綺麗な少女になったのだ。そう思った途端、私にはこのみすぼらしい日本人形が、女神のような輝く存在に見えた。
その時、ふっとバランスを崩した朝香が、その場にばたんと倒れた。それよりコンマ一秒程遅れて、日本人形が落下する。私は迷わず朝香に駆け寄って、「大丈夫?」と声をかけた。朝香は苦笑いを浮かべる。
「ちょっと、ダイナミックにこけちゃったわね」
どうやら朝香は無事のようだ。私は安堵のため息をつきながら、日本人形の安否を確認しようと、それを探した。
瞬間、私は息を呑んだ。
人形の首は、胴体から離れたところで転がっていて、私たちを睨み付けるように、じっとこちらを向いていた。




