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幻覚の森  作者: 篠田ひさし


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1/7

一日目、青い蝶

エピローグ


青い蝶が飛んでいた。

私はそれに手を伸ばして、堅く冷たい土の上に転落した。

 私を見下ろす朝香の顔が、走馬灯のように揺らぐ。


 



 その日を境に、私たちは、壊れて行った。



ーーーーーーーーーー



一日目、青い蝶


じじじじじじじじ……。

 油蝉の歌が聞こえる。ふんわり暖かい夏の風が、朝香と私の髪を揺らす。朝香は大きく伸びをすると、私に笑いかけた。

「夜未、明後日のお祭り、楽しみね」

 私も朝香のまねをして大きく伸びをした。背中の固まった筋肉が、一気にほぐれる。

「うん、とてもね。だって、私たちが一緒に行けるお祭り、明後日が最後かもしれないんだもの」

 朝香は少し淋しそうに肩をすくめた。

「同じ中学に行けたらいいのにね」

 私も朝香の真似をして肩をすくめた。

 私と朝香は仲がいい。家が隣の幼馴染で、幼稚園から小学六年生の今まで、クラスも委員会も当番も、全部一緒だった。たまには離れなさいって怒られたことだってある。でも、私たちは運命共同体。誰に何と言われようと、絶対に離れなかった。

 私たちは、長野県の遠山村という、都会から最も離れていると言ってもいいような田舎に住んでいる。とても仲がいい私たちだけれど、小学校を卒業するのと同時に、私は遠い埼玉県へ引っ越すことになってしまった。大好きな朝香と離れ離れになってしまう。自分の一部を失う様な、そんな気持ちだった。それはきっと、朝香も同じだ。

 今年の夏は、私と朝香が一緒に居ることが出来る、最後の夏なのだ。

 大好きな朝香と過ごす、最後の夏なのだ――――――。

 私たちは寂しさでいっぱいの心に、提灯で灯りをともして、最高の思い出を作ろうと決めていた。

 私たちの夏の最後を彩るビッグイベントは、明後日に行われる『御射山(みさやま)祭(まつり)』。『御射山祭』は、伝統的なお祭りで、昔から、村全体を歩行者天国にして行われている。大きな御神輿が担がれて、沢山の露店が並び、村中央のお城では、盆踊りや太鼓、様々な催しがされる。散々賑わった後、祭りの最後に花火が上がる。とても沢山。朝香と一緒に、金魚すくいをして、綿飴を食べて、花火を見るのだ。最高の思い出になるに違いない。

 花火が終わったら、クラスの皆で肝試しをする約束をしていた。面白いことが起きたらいいなあ。例えば、誰かが“幻覚の森”で神隠しに遭ってしまう、とか。そうしたら、本当に忘れられない夏になるだろう。私は想像を膨らませた。

 “幻覚の森”、というのは、私たちの通う小学校の裏山だ。昔から、その森に入ると怖いことが起こると伝えられているらしい。学校の怪談という奴だろうか。私はそういう”オカルト的”なものには疎いから、あまり詳しくは知らないのだけれど、朝香は幽霊やお化けが大好きだから、“とても詳しく”知っている。でも、まだ私には教えてくれない。肝試しの時まで、とっておきたいのだそうだ。

「すごく怖いから、楽しみにしててね」

 朝香は“幻覚の森”の怪談を話すのをとても楽しみにしているようだった。


「朝香、外は暑いから、中で涼んでいようよ」

 朝香の白い肌が、太陽によって黒く侵されてしまう気がして、私は慌てて言った。

「そうね」

 朝香は微笑む。朝香の微笑みは、天使だ。私は玄関のドアを開けて、朝香を誘導した―――。朝香は玄関に飛び込むと、

「夜未のお部屋まで競争よ」

靴を脱いで、スタートの合図もしないままに駆け出す。

「ちょっと、朝香、フライングだよ」

 私も慌てて追いかける。しかし、朝香は運動神経がいい。鈍足な私が勝てるはずがなかった。私がへとへとになって階段を上りきり、自室のドアを開けた頃には、朝香は私のベッドの上に、容赦なく座って笑っていた。

「夜未、罰ゲームとして、後でアイスをおごりなさいよ」

「そんなあ、ひどいよお、朝香ったら」

 私は荒く息を吐きながら、部屋のドアを閉めた。

 私と朝香は、まるで正反対。髪が長くて、色白で、勉強も運動も出来る朝香。男の子みたいに髪が短くて、背が低く、勉強も運動も苦手な私、夜未。正反対だからこそ、磁石のように、強く惹かれあったのかもしれない。

 今日の私の部屋は、自分でもうっとりするくらいに整頓されていて綺麗だった。本当は、整理整頓が苦手で、散らかり放題の部屋なのだけれど、朝香が遊びに来たいというから、急遽押し入れに物を詰め込んで、見えないようにした。真実はいつも胸の中に、だ。朝香は可憐で、美人で、非の打ち所のない少女なのだ。私の“ダメなところ”をさらけ出して、嫌われてしまうのが嫌だった。朝香が座った私のベッドも、先程綺麗にメイキングしたばかりだ。しかし、朝香の体重に負けて、シーツはいつものようにくしゃくしゃになってしまった。

「夜未の部屋は、いつもきれいよね、羨ましいなあ」

 いつものように、朝香は私をほめた。朝香に褒められると、うれしい。私は朝香の隣に腰を下ろした。

「ねえ、私をここに住ませてよ」

 にこにこしながら、朝香は冗談を言った。

「何を言っているの。朝香の方が、もっといいお家に住んでるじゃない」

「そんなことない。私のお家は凄く広いけれど、その分寂しい。それに、私の部屋は一階にあるのよ。こんなにいい眺めじゃないわ」

 朝香は窓の外を見た。

「この部屋から見える月は、きっととても綺麗なんでしょうね」

 朝香の瞳は、何故か少しだけ寂しそうだった。きっと朝香の頭の中には、数か月後に訪れる私との別れの情景が、少なからず浮かんでいたに違いない。私の引っ越しが終われば、朝香も私も、二度とこの部屋から外を眺めることは出来ない。私は、月よりも綺麗なその白い横顔に見とれるばかりで、気の利いた返事ひとつ出来なかった。

「そう言えば、“幻覚の森”の話だけれどね」

 突然話題を変えて、朝香はそう言った。私は驚いて、朝香を見た。朝香はうふふ、と笑う。

「なあに、夜未。そんなに驚いた顔をして」

「だって、朝香は“幻覚の森”の話はまだしないって、肝試しの日までとっておくって、ずっと言っていたじゃないの」

「あら、そうだったかしら。でも、ちょっとだけ、したくなったのよ。聞きたくはない?」

 聞きたくない筈がなかった。ずっと気になっていた、“幻覚の森”と言う言葉。私は真剣な顔を作って、朝香の目を見つめた。


「“幻覚の森”は、学校の裏山ってことは知っているわね。そこには、すごい神様が住んでいらっしゃるの」

「“森神様”ね。名前だけ知っているよ」

「そうよ。森神様はね、記憶を司る神様。でも、天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)とか素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)、あとほら、西洋のゼウスとかね、そういう神様とは違う神様なの」

「どうして?神様なのに、何が違うの」

 少し間を置いて、朝香は、すう、っと息を吸って、ふう、と吐いた。

「“森神様”はね、“存在する”神様なの」

「なにそれ。じゃあ、他の神様は本当は居ないってこと?」

「いいえ、居るのだけれどね、それは人々の心のよりどころや、信仰の対象としてであって、決して、“存在”を明確にしているわけではないのよ」

「難しくて、よくわからないよ、朝香」

 私は頭を振った。朝香は、とても頭がいい。普通の小学生では思い付かないようなことを言うし、考える。普通の小学生ではわからない「数学」の計算だってできて、難しい漢字を読むことだって出来る。しかし私は、普通の小学生だ。

「兎に角ね、“森神様”は、とっても特殊な神様なのよ。そして、森神様は、人間の願いを必ず叶えてくれるの」

「願いを叶える神様なんだね」

「ええ、そうよ。でもね、ちゃんと順序を踏まなきゃだめよ。“森神様”は、小さな神社の大きな鳥居の向こうにいらっしゃるの。お願いをするときは、まずその大きな鳥居の前に立って、そこで目を閉じてこう言うの、『森神様、森神様、私の願いをお聞きください』って」

「なんだか、ありきたり」

 私は思ったままの事を言った。

「神様に、ありきたりも何もないでしょう」

 朝香は、やはり正論を言う。私は肩をすくめた。

「“森神様”、は二回言わなきゃだめよ」

「わかったよ。あ、手は、手は合わせたりしないの」

「手は合わせないわ。横にぴしっと、こうよ」

 朝香はぴんと背筋を伸ばして、両脇をしめて両腕をしっかりと固定してみせた。

「つまり、普通の直立の形」

「それで目を閉じるのね」

「そうよ」

 言いながら、朝香はベッドにばたん、と倒れた。

「でも、おまじないの方法なんて知っていてもね、“森神様”に会えることなんてまず無いんだから、意味がないわね」

「会えないの?」

「会えないわよ。“森神様”だってね、存在しているからと言って、居るとは限らないもの」

「なんだかわからないけど、じゃあ、今のは全部でたらめなの」

「そうじゃないわ。今のは全部本当よ」

「ふうん、変なの」

 私も朝香と同じように、ベッドに倒れ込んだ。



「この世には、不思議なことがいっぱいあるのよ」

 朝香は静かに言った。



 不意に私は、額に汗が流れるのを感じた。そういえば、部屋の窓が閉め切られていて、室内はまるでサウナのように暑い。どうして今まで気づかなかったのだろう。私はゆっくりと起き上がった。

 私の部屋は、窓とベッドが面している。私はベッドの上を這うようにして、窓に近づいた。窓の桟を掴む。鍵をあけて、私はそれを網戸ごとスライドさせた。

 すぐそこに、空がある。

「夜未」

 朝香が私を呼んだ。振り返ると、朝香は窓の外の方を指さしていた。

「ほら、見て。青い蝶」

 私は再び窓の方を見やった。蝶なんて、何処にいるだろう。

「何処にいるの。見えないよ」

「見えるじゃない、ほら、すぐそこ」

 私は窓から身を乗り出した。

「あっ、本当だ」

 澄んだ空と見分けのつかないくらい綺麗な青をした蝶だった。私は、アゲハ蝶とか紋白蝶とか、蝶は沢山見たことがあったけれど、そのすべての中においても、その青い蝶はとりわけ際立って綺麗だった。

「素敵、空に髪飾りがついているみたい」

 私は、何だか幻想的なことを言った気がして、少しだけ浮かれた。それから思い切り、青い蝶に向かって手を伸ばした。


 その時――――――。


 最初はよくわからなかった。頭が大きく揺れるようで、気持ちが悪い。足に何かを踏みしめる感覚がない。もしかしたら、私は空を飛んだのかもしれない、そんなことを思った。

 しかし視界が開けたとき、私は急に現実を思い知らされた。私は確かに宙に浮いていたけれど、だんだんと近づいてくるのは決して青い空では無くて、どんよりとした黒い地面だった。

 私はようやく理解した。

 私は、窓から落ちたのだ。

 つまり、これから私は、死ぬか、大けがをするのだ。

 頭から落下している様だから、多分死ぬのだろう。

 地面は、ゆっくりと、そして確実に私に近づいてきていた。怖くなって、私は固く目を瞑った。目を瞑ったところで、何にもならないという事は分かっていた。それで問題が解決されるわけでも、この事故がなかったことになるわけでもない。それでも、私はただ目を瞑って、現実から逃れるしかなかった。

 もうすぐ、ぐしゃりという、私がつぶれる音がするに違いない。そんなものは聞きたくないから、耳も塞いでしまいたいけれど、落ちる勢いに負けて、腕が上手く動かなかった。私はただ、目を瞑り続けた。早く落下が終わってしまえばいいとも、地面が近づいてこなければいいとも、矛盾した両方の事を思った。

 しかし、どんなに待っても、音も、痛みもやって来なかった。

 私は、一体どうなってしまったのだろう。上手に死んだだろうか。人間というものは死ぬときに、痛みも何も感じないのだろうか。

 それとも私は、死ぬこともできずに消えてしまったのだろうか……。


 じじじじじじじじじじ……。


 蝉の声が聞こえた気がして、私は目を開けた。瞬間、私は言葉を失った。何が起きたのか、ここが何処なのか、何もわからなかった。あるいは、これが死というものなのかもしれない。そうだとしても、奇妙だった。

 青く茂った森の中に、私は一人立っていた。見たこともないくらいに成長した大木たちが、小さくて愚かな私を静かに見下ろしている。今は真夏で、太陽が照りつけて暑い筈なのに、木々が完全に覆い尽くしたこの空間には、陽の光のかけらも差し込まない。肌寒いくらいだ。

先程聞こえた蝉の声は、もう止んでいた。気の所為だったのかもしれない。

時折ぼうん、という、風の音なのか、なんだかわからない、不気味な音が聞こえる。ここからは遠いところで鳴っているようだ。

辺りに転がっている、あの大きな人型の石像たちは一体何なのだろうか。この空間に似つかわしくない、異質なもののように感じられる。

それならば、私も同じだ。

私は、恐怖というよりも好奇心に突き動かされて、ゆっくりと足を動かした。歩いているのに、地面を踏みしめているという感触があまりにも感じられない。ああ、私は本当に死んだのだ。きっとここは黄泉の国と下界との境で、もう少し歩いて行けば、そこに三途の川があるのに違いない。私はそんな風に思いながら、「死」に向かって足を進めて行った。

どのくらい歩いただろうか。かなりの距離を、ただぼんやりと歩いていたような気がする。しかし、どんなに歩いても、三途の川が見えたり、鬼や閻魔様が、あるいは悪魔が私を呼んだりすることはなかった。一体何をしているのだろう。このままでは私は幽霊になってしまうかもしれない。幽霊になって一生さまよい続けるくらいなら、いっそ気楽に成仏したい。

その時、気が遠くなる程続いていた森が開けた。木々が段々遠ざかっていく。先程から周りに転がっていた人型の石像たちは、最初から無かったかのように消えてしまった。しかし、空も太陽も、やはり見えない。

いつの間にか目の前には、血のように真っ赤な鳥居と、古びた神社の本殿があった。一般的な神社と同じように、その前には石で出来た苔だらけの大きな狛犬が二匹立っていて、奥に、木製の古い賽銭箱が置かれている。


鳥居の向こうには神様がいるのだ。


私は、鳥居を潜ろうと歩み出る。しかし、何故かどんなに進んでも、鳥居との距離は縮まらない。私は、近づくのをあきらめてその場に立ち止まった。

その時、どうしてか私の頭の中に、朝香の言葉が響いた。

――“森神様”はね、人間の願いを必ず叶えてくれるの――

 私の脳裏に電流が走った。

…………幻覚の森…………。

もしこの森が『幻覚の森』であるのだとしたら、もし目の前に在る本殿の中に、森神様がいるのだとしたら―――。

脳味噌が冷静だったならば、私は今一瞬過った考えを払拭したに違いない。しかし、この絶望的な状況の中で、少しでも希望を見出そうと、脳味噌は記憶を探って都合のいい考えを私自身に浸透させた。

私は死なずに済むかもしれない。“森神様”はどんな願いも叶えてくれる。きっと、人間の「死」をも、簡単に操作できるに違いない。

 私は、姿勢を正して、朝香に言われたように両手を腰にピシッと当てた。目の前のモノが、“森神様”であるという確証はない。しかし、試す価値はある。

 固く目を閉じる。それから、小さな声で、朝香に教わった通り、私は願いを唱えた。

「森神様、森神様。私の願いをお聞きください。私を、生き返らせて」

 ………………。

 返事は無かった。“森神様”は、願いを聞き届けてはくれなかったのだろうか。

そもそも、神様というものは、人間などという下等生物とは言葉を交わしたりしないのかもしれない。神様の声は、人間には聞こえないのかもしれない。返事の有無で、私の未来を自分で勝手に決めつけてしまうべきではない。

 私はゆっくりと目を開けた。そこにはまだ、真赤な鳥居がどっしりと重く居座っている。私はそこで初めて、全身の力がふう、と抜けたのを感じた。先程の淡い期待が、アイスクリームのように溶けて消えて行く。ああやはり、願いは届かなかったのだ。“森神様”は、いや、神様かどうかもわからない“コレ”は、私を受け入れてくれなかったのだ。

しかし、私はどうしても、もう一度、朝香に会いたかった。あの蝶を見さえしなければ、手を伸ばしさえしなければ。後悔が私を襲う。

―――さよならも言えなかった。そんなの、悲しすぎる。

私は再び目を閉じて、心の底からもう一度だけ願った。

「森神様、森神様。私を、生き返らせて(、、、、、、)ください」





 じじじじじじじじじじ……。

 蝉の声が、また聞こえた気がした。

 私は恐る恐る目を開けた。目の前には、青い空があった。

 私は家の庭に寝ころんでいた。砂が髪の毛の中に入り込んで気持ちが悪い。しかし、痛いところは何処もなかった。怪我をしているようではない。かといって、どうやら死んでしまったわけでもなさそうだ。私は、確かめるように指を一本一本動かして、それから腕の関節を曲げた。異常なし、である。

 ということは、先程の出来事は、夢だったのだろうか。私が部屋の窓から落ちて、そして、奇妙な森に行った。あれは全て、妄想だったのだろうか。

 私は寝ころんだまま、二階の窓に目をやった。私は、あそこから落ちたのだ。

窓には朝香の顔があった。朝香は私を見て、青い顔をしていた。

「夜未っ!」

 朝香は叫ぶようにして言った。私は、朝香を心配させてはいけないと思って、ゆっくりと立ち上がった。すると、どうやらそれが逆効果だったらしい。朝香は慌てて窓辺から姿を消した。どたどた、と階段を下る音がする。少しして、玄関の方から顔面蒼白の朝香が駆けてきた。

「夜未、あなた……大丈夫なの?」

「えっと、うん」

 私は、私の体を見回して、傷一つないことを確認して頷いた。

「一つ言うならば、さっき砂が目に入ってかゆいんだ」

「冗談を言っている場合じゃないわ!」

 朝香はその華奢な体からは想像も出来ないようなすごい力で私の肩を押さえつけた。

「あなた、夜未、あそこから落ちたのよ!」

 朝香の目は血走っていた。察するに、どうやらそれは嘘ではないらしい。つまり、やはり私は、あそこ、二階の私の部屋から落ちたのだ。

「しかも、頭から落ちたのよ!無事でいられるはずがないわ!」

「それが、無事なの。不思議なこともあるもんだよね」

 私は笑顔を作ろうとしたけれど、朝香の表情を見て、今は笑ってはいけない時なのだ、と察した。

 少しして、落ち着いてきた朝香は、ゆっくりと私の肩から手を放した。

「夜未、何があったのか、教えて」

「何が……?」

 先程の出来事が過る。夢だったのかもしれない。妄想だったのかもしれない。しかし、私が“落ちた”のは、現実であるようだ。私は二階から転落した。それでも、今こうして、無傷で生き延びている。という事は、先程の夢のような出来事たちも、もしかしたら夢ではなかったのかもしれない。

「でも、きっと、朝香は私を嘘つきだと思うよ」

 私は、不安をそのまま口にした。私が経験したことは、まるでついさっき朝香から聞いた”幻覚の森”の話をそのまま再現したようなものだったからだ。朝香が私を嘘つきだとか、妄想癖のおかしな奴だと思ったところで、何ら不思議ではない。

 しかし、朝香は大きく首を振った。朝香の瞳は、優しかった。

「私が夜未を信じなかったことなんて、一度だってなかったじゃない」

 確かに、思い返してみれば、朝香はいつだって私の味方をしてくれた。クラスメイトの腕時計が盗まれて、私が疑われたときだって、朝香だけは、最初から最後まで私を信じてくれた。

「それに」

 朝香は俯く私の顔を覗き込んで、にっこりと微笑んだ。

「この普通じゃない事態、なんだかわくわくするじゃない」

 私は朝香を見上げた。その笑顔に、何故だか救われたような気がした。この異常な事態を、朝香なら受け入れてくれるかもしれない。

 私は、朝香に何もかもを話した。

 話し終えると同時に、朝香は目を輝かせた。

「すごいわ、夜未。あなた、それ、きっと”幻覚の森”よ。いいえ、絶対そうよ。なんて素晴らしいの!」

 何が素晴らしいのだろうか、“幻覚の森”というものは、それ程に入ることが難しいのだろうか。“幻覚の森”は学校の裏山だ。あの森は、入ろうと思えば簡単に立ち入れそうである。私が朝香にそう問おうとすると、それを口にする前に、朝香はまるで呟くように言った。

「これって、凄いことなのよ、”幻覚の森”から“生きて”出てこられるなんて」

 瞬間、私の脳内に冷たい風が吹いたような気がした。朝香の言葉が、私の中でぐるぐると渦巻く。朝香が素晴らしいと言ったのは、”幻覚の森”に入った事では無かった。”幻覚の森”から“生きて”出ることが出来たのが素晴らしいと言ったのだ。つまり、”幻覚の森”に足を踏み入れた者の多くは、無事に戻って来られないという事だ。だとしたら、なんと恐ろしい場所に、私は居たのだろうか。そして、どうして私は、こうやって“生かされた”のだろうか……。

 私はきっと怖い顔をしていたに違いない。朝香は、はっと口を覆った。

「私、今何か言ったかしら」

 私は歪に笑顔を作った。

「うん。”幻覚の森”から生きて出ることは凄いことだって……」

「あらやだ」

 朝香は両手で頭を抱えた。

「明後日の肝試しでする筈のお話だったのに……」

 それから朝香は私に向き直り、人差し指を立てて唇に当てた。

「続きは、お祭りでね」




 朝香が帰って、一人取り残された私は、庭から、私が転落した二階の窓を見上げていた。目を閉じて、私が落ちる様を想像する。落ちた私は、生きている私の目の前で、地面にぶつかってぐちゃぐちゃに朽ち果てた。血が噴き出して、首が変な風に曲がっている。頭は凹んでいて、顔は、内出血が起こったみたいに青紫色に変色していた。きっと実際は、ここまで酷い惨事にはならないだろうけれど、私の脳味噌は、現実に起きたであろう事態を二倍三倍大げさにして私に視せた。私は想像の中で、ぐちゃぐちゃになった私を見下ろしながら、何も思うことが出来ずにただ黙っていた。

 死んだはずの私。そして、今生きている私。

 本当は、こうなる筈だったのだ。私は、こうなる筈だったのだ。

 目の前の私の死体は、見る見るうち悍ましい緑に変色していった。表情は無く、目は虚ろだった。

 眼球が、突然ぎょろりと私を見た。それからかさかさに乾燥した唇が歪に動き、私とは思えない低くて掠れたガラガラ声で、言った。

「お………ま………え………は………し………ん………だ…………」

 恐怖に負けて、私は目を開けた。そこには何もなく、ただ、地面と、私の家が聳(そび)えているだけであった。

 私は、私を抱きしめた。温かい。確かに、確実に生きている。しかし、この「生」が、自然の理(ことわり)に順じたものでないことは、感覚的にわかった。草木が、虫が、風が、私に「生きていてはいけない」と言っているような気がしてならない。

 この不安を断ち切るために、私がせねばならないことは明確だった。一つしかない。それはとても恐ろしいことだけれど、それをしなければ、私は一生、「私の死体」に脅えて生きて行かねばならない。

 私は再び目を閉じて、決意した。

 明日、”幻覚の森”に行ってみよう。

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