第9章:雨の彷徨
ドアが閉まった音の余韻が、まだ鼓膜の奥にこびりついていた。
雨が容赦なく頭上から叩きつける。傘はない。コートの生地はとうに芯まで水を吸い、肩に食い込むように重かった。坂道の下から響いていたパトカーのサイレンが、住宅街の路地の角を折れるたびに近づいたり遠のいたりする。私はその音に追い立てられるようにして、ただ足を動かし続けた。
「康彦さん......」
声に出してみても、答える者はいない。数時間前まで、あの玄関の向こうには温かい灯りがあり、美羽の笑い声があり、私の居場所があったはずだった。今は、施錠された一枚のドアと、蔑みの眼差しの記憶しか残っていない。
大通りに出ると、車のヘッドライトが濡れたアスファルトを白く照らし出した。光の束が近づくたびに、私は反射的に電柱の陰へ、コンビニの軒下へと身を隠した。誰かに顔を見られてはいけない。指名手配――その言葉が頭の中で点滅する。ついさっきまで、麻薬取締法違反だの資金洗浄だのと怒鳴られていたのだ。もう私は、道を歩くことすら許されない人間になったのかもしれない。
住宅街を抜け、繁華街へと近づくにつれ、行き交う人の数が増えていった。学生の集団、会社帰りのサラリーマン、傘を差し合うカップル。誰もが、それぞれの帰る場所を持っている。その当たり前の事実が、今の私にはひどく眩しく、そして残酷に感じられた。
ポケットを探る。指先に触れたのは、小銭入れと数枚の千円札が入った、普段使いの小さな財布だけだった。運転免許証も保険証もマイナンバーカードも、すべて自宅の引き出しの中だ。今の私には、自分が何者であるかを証明するものが、何ひとつない。
ふと、スマートフォンの連絡先を開いてみる。ママ友、幼稚園関係者、康彦の会社の緊急連絡先――並んでいる名前を一つひとつ眺めても、この状況を打ち明けられる相手は誰一人としていなかった。大学時代の友人の連絡先は、とうの昔に消していた。実家の両親は、もうこの世にいない。頼るという行為そのものが、私にはもう許されていないのだと、暗い画面を見つめながら思い知らされた。指先を強張らせながら画面を閉じ、私はポケットにスマートフォンを押し込んだ。
雑居ビルの看板に「インターネットカフェ」の文字が光っていた。雨宿りだけでもさせてもらえたら――そう思い、覚束ない足取りで自動ドアをくぐる。冷房の効いた店内の空気に、体が芯から冷えていくのが分かった。
「いらっしゃいませ。ご利用は初めてですか? 身分証明書をお願いします」
フロントの若い男性店員が、機械的な笑顔でカウンター越しに手を差し出した。
「あの、免許証を、忘れてしまって......」
「申し訳ございません。都の条例で、身分証のないお客様に個室をご提供することはできない決まりになっておりまして」
「そこをなんとか、少しの間だけでも、雨が止むまで......」
背後の自動ドアから、酔客らしき二人組が笑いながら入ってきて、慣れた手つきで身分証を提示している。彼らのあっけないほど自然な入店を横目に、自分だけがこの店から拒まれているという事実が、じわりと胸に染み込んできた。
食い下がる私の全身――泥のはねたコート、濡れて額に張りつく髪、血の滲んだ膝――を、店員の視線がゆっくりと上から下へなぞった。その目の色が、親切な戸惑いから、明らかな警戒へと変わっていくのが分かった。彼はカウンターの内線電話にちらりと目をやった。
「少々お待ちいただけますか。上の者に確認を......」
その一言で、私の足は勝手に動いていた。「いえ、結構です」と早口に告げ、自動ドアの外へ逃げ出す。背中に店員の視線が刺さっているような気がして、角を曲がるまで振り返れなかった。
再び雨の中に放り出される。全身がずぶ濡れで、もう乾いた場所などどこにもなかった。歩道の水たまりを踏むたび、靴の中でぐちゃりと不快な音が鳴った。朝から何も口にしていないことに、今さらのように気づく。空腹感すら、恐怖に麻痺してほとんど感じなかった。
夜の繁華街を、私は当てもなくさまよい歩いた。ネオンの看板、酔客の笑い声、居酒屋の呼び込みの声――すべてが、ガラスの向こう側の景色のように遠く感じられた。通り過ぎる誰もが、私という人間の存在に気づきもしない。それが、これほどまでに孤独なことだとは、今まで知らなかった。
歩道橋の下、段ボールを敷いて座り込む初老の男性を見かけた。彼は雨を避けるように身を縮め、じっと動かずにいる。すれ違う人々は、誰も彼に目を向けない。まるで、そこに人がいないかのように。ほんの数時間前まで、私はあの人々の側にいたはずだった。今はもう、こちら側の世界に足を踏み入れてしまったのだと、痛いほど理解させられた。
次に目に入ったのは、大通り沿いの二十四時間営業のファミリーレストランだった。看板の暖色の光が、雨に濡れた歩道に滲んでいる。もう歩く気力が残っていなかった。私は逃げ込むようにドアを押し開け、一番奥の、照明の届きにくいボックス席に体を沈めた。
「ご注文がお決まりでしたら」
「......ホットコーヒーを、一つ」
財布の中の小銭を数え、一番安いメニューを頼む。運ばれてきたカップの湯気を、両手で包み込むようにして温めた。指先の感覚が、少しずつ戻ってくる。窓ガラスに映る自分の姿が、見知らぬ誰かのもののように遠く見えた。
隣のボックス席から、幼い笑い声が聞こえた。見るともなく視線をやると、私と同じ年頃の母親が、幼稚園に通っているだろう男の子に、取り分けたオムライスをスプーンで運んでやっていた。「あーん、して」「あーん」。子どもが大きく口を開ける。母親が笑う。
ほんの十二時間前まで、私もあの場所にいた。何の変哲もない、しかし何よりも尊い光景の中に。喉の奥から、声にならない嗚咽がこみ上げてきて、私はコーヒーカップに顔を伏せるようにしてそれを押し殺した。母親と目が合いそうになり、慌てて視線を逸らす。私の姿は、あの人にはどう映っているのだろう。哀れな浮浪者か、それとも何か事件に巻き込まれた不審者か。
美羽も今頃、夕食を食べているだろうか。それとも、あの見知らぬ薄暗い部屋で、震えながら誰かの帰りを待っているのだろうか。想像するだけで、胸が抉られるように痛んだ。ホットコーヒーの温かさが、指先から体温を奪われていくのを、わずかに和らげてくれる。それだけが、今の私にとって唯一の救いだった。
ふと、店内を巡回していた中年の男性店員と目が合った。彼は一瞬立ち止まり、それからカウンターのスタッフに何か耳打ちをした。スタッフの一人が受話器を取り上げるのが、ぼやけた視界の端に映る。
――通報される。
考えるより先に、体が動いた。伝票と千円札をテーブルに叩きつけるように置き、コーヒーに口をつけることもなく店を飛び出す。雨はいよいよ勢いを増し、夜の街を灰色に塗りつぶしていた。




