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私の足で歩く朝  作者: 久遠 睦


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第10章:行き場のない夜

もう、どこにも行き場がない。

行き当たった小さな児童公園の奥に、コンクリート打ち放しの公衆トイレが見えた。誰の目にも留まらない、誰からも必要とされない場所。それが今の私には、唯一許された居場所のように思えた。

一番奥の個室に滑り込み、内鍵をかける。埃と、古いアンモニアの匂いが充満する一畳ほどの空間。便器の蓋の上に、力尽きたように腰を下ろした。膝を抱え込むと、濡れたジーンズの生地から、冷たさが骨まで染み込んでくる。

涙が止まらなかった。声を殺して泣くという行為が、こんなにも体力を奪うものだとは知らなかった。何十分そうしていただろうか。外を通り過ぎる車のヘッドライトが、擦りガラスの小窓を時折白く照らした。

個室の壁には、誰かが油性ペンで書き残した落書きが、いくつも重なり合っていた。読めない言葉、意味のない記号、誰かの叫びのような殴り書き。この場所を、私と同じように「唯一の居場所」として選んだ人間が、他にもいたのだろうか。そんなことを考えると、自分がこの世界の底に沈んでいくような感覚に襲われた。濡れたコートの重みが、まるで鉛のように肩に食い込んでいた。体の震えが、寒さからくるものなのか、恐怖からくるものなのか、もう判別がつかなかった。

――ヴヴッ。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には、あの『非通知設定』の四文字。今度はテキストではなく、一枚の画像ファイルが添付されている。

指先が震え、タップするまでに何度も躊躇した。それでも、確かめずにはいられなかった。

サムネイルが開いた瞬間、喉の奥から空気がヒュッと漏れた。

コンクリート剥き出しの、見知らぬ薄暗い部屋。パイプ椅子に座らされた美羽の、小さな両手が背中で結束バンドのようなもので固定されている。頬には涙の跡が幾筋も光り、口を大きく開けて泣き叫んでいる、まさにその瞬間が切り取られていた。傍らには、見覚えのある黄色い通園リュックが、投げ捨てられたように転がっている。

「......う、そ」

声が掠れた。康彦は確かに、美羽を家に連れ帰ったはずだった。あの扉の奥から、確かに美羽の泣き声が聞こえていたはずだった。それなのに、なぜ。いつの間に。

家に残してきた美羽の姿を思い返す。玄関の奥で、パジャマ姿でこちらを覗いていたあの子。あれから、一体何が起きたというのか。康彦が目を離した隙に連れ去られたのか。それとも――まさか、康彦自身が。その可能性に思い至った瞬間、全身の血が凍りついた。

考える間もなく、画面が再び震えた。短いメッセージが、機械的な文字列で浮かび上がる。

『タイムリミットは夜明けまでだ。お前が死ぬか、この子が死ぬか。選びなさい。』

床にへたり込んだ膝から、力という力が抜けていく。叫び出しそうになる口を、両手で必死に塞いだ。指の隙間から漏れる自分の呼吸音だけが、冷たいコンクリートの箱の中に反響していた。

どれだけの時間、そうしてうずくまっていただろうか。膝の小刻みな揺れが少しずつ収まってくると、代わりに、かつて感じたことのない種類の怒りが、腹の底からじわじわと込み上げてきた。誰が、なぜ、私たち家族をこんな目に遭わせるのか。理由も分からぬまま、ただ蹂躙され続けることに、体の芯が焼けるような抵抗を覚え始めていた。

死ぬか、生かすか。あまりにも単純で、あまりにも残酷な二択。頭の中で、その言葉が何度も何度も反響する。もし本当に自分の命と引き換えに美羽が助かるのなら、迷いなど一瞬もない。だが、犯人の言葉を鵜呑みにしていいのか。私が死ねば、証拠隠滅のために美羽も同じように消されるのではないか――そんな疑念が、涙の奥から冷たく浮かび上がってくる。

もう一度警察に駆け込もうか、という考えが頭をよぎった。指名手配された身であっても、事情を話せば、聞く耳を持ってくれるかもしれない。だが、あの南口広場での完璧な待ち伏せを思い出すと、体が竦んだ。警察の中に、犯人と繋がっている誰かがいないとも限らない。あるいは、警察が動く前に、犯人が美羽に手をかけるかもしれない。考えれば考えるほど、すべての選択肢に絶望的な影がつきまとった。

トイレの外を、誰かの足音が通り過ぎていった。酔っ払いのような、覚束ない足取り。私は息を止め、身を縮こまらせる。今の自分には、誰の善意も悪意も見分けがつかない。この世界のすべてが、敵にも味方にも見えた。

膝を抱えたまま、私は何度も自分に問いかけた。どうすればいい。誰に頼ればいい。警察は信じてくれない。夫は私を見捨てた。頼れる家族もいない。それでも、考えることをやめれば、美羽を永遠に失う。こわばった指先で頬を伝う涙を拭い、私は歯を食いしばって、冷たいコンクリートの壁に背中を預けた。

どれくらいそうしていただろうか。個室の外で、誰かがドアを乱暴に叩く音がした。「まだ? 早くしてよ!」苛立った若い女の声。私は慌てて立ち上がり、おぼつかない脚で個室を出た。すれ違いざま、女は私の姿を見て、あからさまに顔をしかめて距離を取った。それも当然だろう。今の私は、泥と涙と雨に汚れた、正体不明の浮浪者にしか見えないはずだった。

洗面台の鏡に映った自分の姿に、思わず目を背けたくなった。落ち窪んだ目、青白い唇、乱れて絡まった髪。数日前まで、鏡の前で美羽のリボンを結んでやっていた自分と、同一人物だとは到底思えなかった。それでも、この顔の持ち主が、今、美羽を救い出せる唯一の人間なのだ。冷たい水で顔を洗い、私は自分にそう言い聞かせた。

公園の時計を見上げる。針は深夜零時を回ろうとしていた。夜明けまで、あと数時間。この短い時間の中で、私は何をすべきなのか。警察には頼れない。康彦にも見捨てられた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。動かなければ、何も変わらない。私は濡れたコートの襟を掻き合わせ、再び公園の暗がりへと足を踏み出した。

雨脚は、いつの間にか少しだけ弱まっていた。それでも、体の芯まで染み込んだ冷えは、簡単には消えてくれそうになかった。ただ立ち止まって泣いているだけでは、美羽は救えない。頭が働かないなら、まずは体を動かすしかない。せめて、どこか雨風をしのげる場所を探さなければ。そう自分に言い聞かせながら、私は覚束ない足取りで、街灯もまばらな路地の奥へと歩を進めた。

数歩も歩かないうちに、視界の端が不自然に白く滲んだ。足元の感覚が、まるで他人のもののように遠のいていく。まずい――そう思う間もなく、膝がガクリと折れそうになった。とっさに電柱に縋りついて堪えたものの、この体が、もう限界に近いことを、否応なく思い知らされた。


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