第11章:路地裏の灯火
「う......あぁ......っ......」口を塞いでも嗚咽を止められなかった。『お前が死ぬか、この子が死ぬか。選びなさい』。暗い部屋で縛られた美羽の写真が、瞼の裏に焼き付いて離れない。選べるわけがない。私が死んだら、犯人が美羽を生かして帰すわけがない。私が美羽を助け出すしかないのだ。でも、どこへ?
写真の背景には手掛かりが何もない。コンクリートの壁、パイプ椅子、それ以外には何も映っていなかった。夫には見捨てられ、警察には追われている。頼れる者は、もうこの世界のどこにもいなかった。
スマートフォンのバッテリー残量はわずか九パーセント。この細い光が消えてしまえば、美羽の命の期限も分からないまま闇に葬られる。充電器もモバイルバッテリーも、家に置いてきたままだった。今すぐコンビニに駆け込んで充電器を買う金すら、財布の中身を数えれば心もとない。私はおぼつかない手つきで壁を伝って立ち上がり、公衆トイレを出た。
財布の中身を数える。千円札が二枚と、小銭が少し。これで、あと何ができるだろう。モバイルバッテリーを一つ買えば、それだけで残りはほとんど消えてしまう。だが、スマートフォンの充電が切れることは、美羽との唯一の繋がりを失うことに等しかった。私は近くのコンビニへふらつく足を向けた。
歩きながら、頭の片隅で冷静な計算を続けている自分に気づいた。恐怖に押しつぶされながらも、どこかで生き延びるための算段を組み立てている。この数日で、自分でも知らなかった自分の一面が、少しずつ姿を現し始めていた。
コンビニの明るい光が、瞼に痛いほど眩しかった。レジの若い店員は、私の異様な風体に一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、何も言わずにモバイルバッテリーを袋に入れてくれた。その些細な優しさに、なぜか涙腺が緩みそうになる。会計を終え、イートインスペースの隅の充電コンセントを借りて、スマートフォンにわずかな充電を送り込んだ。
カウンター席に突っ伏すようにして充電を待っていると、隣の椅子に、いつの間にか誰かが腰を下ろしていた。カーキ色のジャケット、無精髭――一瞬だけ視界の端に映ったその横顔に、意識を向ける余力はなかった。相手は何も言わず、レジ袋からおにぎりを取り出して静かに食べているだけだった。
バッテリー残量が二十パーセントを超えたところで、私は席を立とうとした。その時、隣の男の姿はもう消えていた。代わりに、テーブルの上に、四つ折りにされた紙片が一枚、置き去りにされていることに気づいた。
震える指で開いてみる。そこには、手書きの走り書きで、短い住所と、たった一言だけが記されていた。
『力になる。一人で来い』
誰が、いつ、これを置いていったのか。見知らぬ誰かからの接触に、恐怖と警戒が同時に込み上げる。罠かもしれない。だが、頼れる相手を何もかも失った今の私には、この一枚の紙片以外に、縋るものがなかった。私はその住所を頭に叩き込むと、震える足でコンビニを後にした。もう、ここに長居すれば怪しまれる。
午前三時過ぎ。小雨の中、紙片に書かれた住所だけを頼りに歩き続けた。あてもなくさまよっていたこれまでとは違う。今は、はっきりとした目的地がある。それだけで、少しだけ足取りに力が戻った気がした。全身が鉛のように重く、意識が朦朧としていく。空腹と寒さと疲労が、限界を超えて体の輪郭さえも曖昧にしていくようだった。何時間分の距離を歩いたのか、もはや自分でも把握できなかった。シャッターの下りた商店街、人気のない駐輪場、水溜まりに沈む捨てられた傘――目に映るものすべてが、輪郭を失ってぼやけて見えた。それでも、時折スマートフォンの地図で現在地を確かめながら、私は指定された住所へと、着実に近づいていった。
古びた雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い路地で、舗装の割れ目に足を取られ、派手に倒れ込んだ。冷たい泥水が顔にかかる。起き上がる力すら残っていなかった。
地面に伏せたまま、しばらく動けなかった。頬に張り付く冷たい泥の感触だけが、辛うじて自分がまだ生きていることを教えてくれる。このまま、ここで眠ってしまいたい。そんな誘惑が、頭の隅をかすめた。
意識が遠のく中、脈絡もなく、美羽が生まれた日の記憶が蘇った。分娩室の白い天井、看護師の励ます声、そして初めて腕に抱いた、小さくて温かい命の重み。「ママ」と初めて呼ばれた日、よちよちと歩き出した最初の一歩、幼稚園の運動会で転んでも泣かずに立ち上がったあの子の顔――そのすべてが、走馬灯のように瞼の裏を駆け巡っていく。
あの子のためなら、どんなことでもできると思っていた。だが今、こんな薄汚い路地の泥の中で、私はただ無力に横たわっているだけだった。母親としての自分の無力さが、これほどまでに残酷に突きつけられたことはなかった。
だが、その温かな記憶を振り払うように、瞼の裏に今しがた見た美羽の泣き顔が重なって浮かんだ。駄目だ。私が倒れたら、あの子を助ける者は誰もいなくなる。
「美羽......っ......!」涙が視界を塞ぐ中、私は歯を食いしばって両腕に力を込めた。指先の感覚がほとんどないままアスファルトを掻き、上体をどうにか起こす。膝が笑い、何度もくずおれそうになりながら、それでも私は前へ進んだ。
立ち上がった瞬間、視界がぐるりと回った。貧血にも似た感覚に、思わず壁に手をついて体を支える。何時間もろくに食べていない体に、この数日の恐怖と緊張が、容赦なく牙を剥いていた。それでも、足を止めるという選択肢は、もう私の中には存在しなかった。
雨はいつの間にか小降りになっていたが、体に染み込んだ冷えは、簡単には抜けそうになかった。歯の根が合わず、カチカチと小さな音を立てる。それでも一歩、また一歩と、私は暗い路地の奥へと足を進めた。
指定された番地が近づくにつれ、雑居ビルの並びも一段と古びていった。路地の奥の外階段の脇に、錆びた小さな鉄の看板が点滅しているのが見えた。『神崎調査事務所』。紙片の住所と、確かに一致していた。
探偵事務所――? まだ半信半疑だったが、警察には頼れない今の私にとって、この一枚の紙片が示した場所は、暗黒の海に浮かぶたった一つの木片だった。藁にもすがる思いで、私は看板の下へとふらつきながら近づいた。
階段の照明は半分が切れ、点滅する蛍光灯が不気味な影を壁に落としていた。手すりは錆びつき、踏み板の一段一段が今にも崩れ落ちそうなほど軋んだ。それでも、私は泥だらけの爪をアスファルトに立て、這うようにして階段を上った。一段上がるごとに、視界の端が白く滲んでいく。あと少し。あと少しでいい。
三段目で、腕の力が完全に抜けた。体が傾ぎ、そのまま階段を転げ落ちそうになる。とっさに手すりを掴み、なんとか踏みとどまった。心臓が激しく脈打ち、呼吸のたびにヒューヒューと不快な音が喉から漏れる。もう駄目かもしれない。そんな諦めが胸をよぎった瞬間、また美羽の顔が浮かんだ。まだ、終われない。
四つん這いのまま、私は残りの階段を這い上がった。膝も手のひらも、擦れて血が滲んでいるのが分かったが、痛みを感じる余裕さえもうなかった。
二階の踊り場、すりガラスのドアの前で力尽き、身体が鉄扉へと倒れ込んだ。ガタンッ! 鈍い音が響き、私の意識は暗転しかけた。もう指一本動かす力も残っていなかった。ドアに縋りついたまま、私はずるずるとその場に頽れていく。
その時、ガチャリと解錠の音がして、ドアが開いた。
温かい煙草とコーヒーの匂い。誰かが私の前に屈み込む気配。「おい......なんだ? 酔っ払いか......?」低く掠れた男の声。無精髭、カーキ色のジャケット、射抜くような鋭い目。薄暗い廊下の明かりを背に浮かび上がるその輪郭は、まるで最後の希望そのもののように見えた。
男の後ろに見える事務所の中は、乱雑に積まれた書類の山と、壁一面に貼られた新聞の切り抜きで埋め尽くされていた。デスクの上には、飲みかけのコーヒーカップと、灰皿に山積みになった吸い殻。まともな仕事場には到底見えなかったが、今の私には、そんなことを判断する余裕もなかった。ただ、そこに「人」がいるという事実だけが、縋りつくべき命綱に思えた。
私は最後の力を振り絞り、男のズボンの裾を掴んだ。「た......たす......けて......娘が......美羽が......殺されちゃう......」
声にならない声を絞り出す。喉の奥が焼けるように痛み、視界が霞んでいく。それでも、この手を離せば、もう二度と誰にも助けを求められない気がして、私は男の裾を握る指に、残された最後の力を込めた。
男はしばらく無言で私を見下ろしていた。警戒するでもなく、かといって親身になるでもない、ただ観察するような視線。その静けさが、かえって不気味だった。だが今の私には、選択肢そのものがなかった。この見知らぬ男に、すべてを委ねるしかなかった。
男の視線が、私の全身を素早く一瞥した。泥だらけのコート、血の滲んだ膝、乱れた髪――一目で尋常でない状況だと分かるはずなのに、彼の顔には驚きよりも、どこか予期していたかのような落ち着きがあった。まるで、この瞬間をずっと待っていたとでも言うように。
男は私の泥まみれの顔を見つめ、目を見開いた。「......お前......やっと現れたか、森下咲良」
なぜ、見ず知らずの探偵が私の名前を知っているのか――。頭の芯が痺れたように鈍く痛み、その疑問を組み立てることさえ、もはやできなかった。視界の輪郭がぼやけ、男の声が水の中で聞くように遠く歪んで聞こえる。
「おい、しっかりしろ! ......くそ、限界か」
男の慌てたような声が、微かに耳に届いた。誰かの腕が、力の抜けた私の体を受け止める感触。温かい、という感覚だけが、最後に残った意識の欠片だった。その疑問を口にする前に、私の意識は深い闇の底へと沈み落ちていった。




