第12章:埃っぽいセーフハウス
乾いた布の感触と煙草の匂いの中で、私はゆっくりと目を開けた。天井の染みだらけのクロス、剥き出しの蛍光灯、かすかに軋む換気扇の音。見慣れない部屋の中で、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。擦り切れた革ソファの上に寝かされ、毛玉だらけのフリースブランケットが掛けられている。泥だらけだったはずのコートは脱がされ、代わりに誰かの大きなカーディガンが肩に羽織らされていた。
膝や手のひらには、白いガーゼが丁寧に貼られていた。この無愛想な男が、意識のない私の傷の手当てをしてくれたのだと思うと、不思議な感覚に包まれた。警戒すべき相手なのか、信じていい相手なのか、まだ判断がつかなかった。
記憶が断片的に蘇ってくる。雨、路地、階段、そして――男の声。「森下咲良」と、確かにそう呼ばれた。
窓の外はまだ薄暗く、雨は上がっていた。壁に掛けられた古い時計は、午前五時半を指している。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。美羽に残された時間は――そう思った瞬間、心臓が一気に跳ね上がり、全身の眠気が吹き飛んだ。
「気がついたか」
低い声に振り向くと、スチールデスクの向こうに昨夜の男がいた。無精髭、疲れた目、カーキ色のジャケットを脱いでワイシャツの袖をまくっている。デスクの上には湯気の立つマグカップが置かれ、彼はそれを私の方へ押しやった。
「インスタントのオニオンスープだ。飲め。倒れられても困る」
「警察なの!? 私を売り渡す気!?」
体を強張らせ、身を引きながら叫ぶと、男は片眉を上げただけで動じなかった。「神崎彰。しがない民間の調査員だ。警察なら、お前はとっくに手錠をかけられてる。売り渡す? 警視庁にか、それともお前の首に賞金を懸けてる裏の組織にか?」
淡々とした口調の中に、どこか人を食ったような響きがあった。だが、その落ち着き払った態度が、かえって現実味を帯びていて、恐怖の中にわずかな安心をもたらした。
「お願い、美羽を助けて! 夜明けまでに私が死ぬか美羽が死ぬか選べって言われて、もう朝になっちゃった......!」
言葉にした途端、昨夜の記憶が津波のように押し寄せ、私は泣き叫びながらソファから立ち上がろうとした。神崎はデスクを平手で叩いた。パン、という乾いた音に、体が反射的に固まる。
「落ち着け。娘はまだ死んじゃいない」
「どうしてそんなこと分かるの!? もう夜が明けてるのに......!」
「奴らの狙いはお前だ」神崎は低く、しかし確信めいた声で続けた。「娘はお前をコントロールするための首輪に過ぎない。首輪を先に潰す馬鹿はいない。お前が捕まるか、始末されるまでは、致命的な手出しはしない。それが向こうの計算だ」
その言葉には、根拠のない気休めとは違う、何か冷静な分析の響きがあった。全身から力が抜け、私はソファに崩れ落ちるように座り直した。手の震えが、少しだけ収まっていく。
「スープを飲め。餓死寸前の主婦を抱え込む趣味はない」
差し出されたマグカップを、震える手で受け取る。温かいスープが喉を通ると、凍りついていた体の内側から、じわりと熱が戻ってくるのを感じた。涙が、また新たにこみ上げてきた。今度は恐怖ではなく、安堵と、それ以上に説明のつかない感情からだった。
「あなたは......誰なの。どうして私の名前を知ってるの」
神崎はしばらく黙って私を見つめていた。何かを見定めるような、値踏みするような視線だった。「話せば長くなる。それに、聞けばもう後戻りはできなくなる。それでもいいのか」
「もう、後戻りできる場所なんて、どこにもないです」
静かに、しかしはっきりとそう答えると、神崎の目に、わずかな驚きの色が浮かんだ。「......いい覚悟だ」
温かいスープを飲み干すと、神崎は無言で立ち上がり、事務所の奥のバックヤードへ私を連れて行った。そこには巨大なホワイトボードがあり、色とりどりのマーカーで殴り書きされた相関図と、切り抜かれた新聞記事、地図、写真の数々が所狭しと貼られていた。
『広域指定暴力団・誠竜会』『不正送金ルート』『三年前・元警部補不審死事件』。そして、その中央にピンで留められていたのは、数年前の私自身の買い物写真だった。スーパーの袋を提げ、美羽の手を引いて歩く、何の変哲もない日常の一枚。
「これ......いつ、誰が撮ったの......」
「俺だ」神崎は感情のない声で答えた。「森下咲良、三十四歳。専業主婦。夫は中堅商社・睦和物産勤務。娘、美羽、五歳。半年前から、お前のことを調べていた」
背筋に冷たいものが走った。半年前から。それはつまり、あの脅迫状が届くよりもずっと前から、私という存在が、この見知らぬ男に監視されていたということだった。
「気味が悪いと思うのも無理はない」神崎は私の表情を見て、淡々と続けた。「だが、監視していたのは悪意からじゃない。お前を、城島を殺した奴らに繋がる唯一の糸口として、ずっと追っていただけだ」
「駅前の、あの爆発......」ふと、頭の片隅に引っかかっていた違和感が、言葉になって零れ落ちた。「あれも、あなたが......?」
神崎は、否定しなかった。「配電盤の細工は、二ヶ月前から仕込んであった。半年も張り付いてりゃ、お前の周りが妙な方向に動き出しているのは分かる。いつか、こういう場面が来ると踏んでいた」
「じゃあ、コンビニのメモも......」
「駅前から、お前を尾けさせてもらった。何もかも失って、行き場をなくした人間の顔をしてたからな。放っておけば、野垂れ死ぬか、警察に捕まるかのどちらかだった」神崎は、素っ気ない口調で続けた。「声をかける機を計っていたが、直接近づけば、お前をさらに怯えさせるだけだと思った。だから、メモを残すだけにした」
この数時間、自分が一人で必死に判断し、行動していたつもりだった。だが実際には、その一挙手一投足を、この男の掌の上で見守られていたのだ。安堵とも屈辱ともつかない感情が、胸の中で複雑に絡み合った。
その言葉に、少しだけ胸のつかえが軽くなった気がした。少なくとも、この男の目的は明確だった。今の私にとって、目的がはっきりしている相手のほうが、よほど信じやすかった。
写真の下には、一枚の書類のコピーが貼られていた。
『森下 咲良 口座名義人:帝都中央銀行・桜木町支店(休眠口座)』
神崎は私の写真を指差した。「俺はずっとお前を探していた。三年前、俺の相棒だった刑事が殺された。その現場から消えた巨額の裏金......その送金先の名義人が、他でもないお前だったからだ」
「私が......誰かの相棒を殺した容疑者だって言うの......!?」
「違う」神崎は首を振った。「お前が犯人だとは思っていない。ただの名義貸しにされた可能性が高いと踏んでいる。だが、お前の口座を通った金の流れを辿らなければ、相棒を殺した奴らには辿り着けない」
「相棒って......」
神崎の表情が、初めてほんのわずかに揺れた。「城島っていう、俺より五つ下の刑事だった。生真面目すぎるくらい生真面目な奴でな。誠竜会の資金洗浄ルートを内偵していたが、三年前の冬、車ごと川に突っ込んで死んだ。事故ってことで片付けられたが、あれは事故なんかじゃない」
神崎は一瞬だけ、遠くを見るような目をした。だが、それもすぐに元の冷淡な表情へと戻っていく。「警察はもう捜査を打ち切った。だから俺が、辞表を叩きつけてでも独りで追ってる。三年間、ずっとだ」
元警察官だったのか。その事実に、私は少しだけ神崎という人間の輪郭を掴めた気がした。彼の目に宿る、あの冷めた執念の正体が、ようやく理解できた。
「あなたの相棒を殺した人たちが、私の娘も......?」
「まだ断定はできない。だが、無関係とは思えない状況が揃いすぎている」神崎はホワイトボードの端を指でなぞった。「脅迫状、身代金じみた指示、覚醒剤の運び屋への仕立て上げ、駅前での完璧な待ち伏せ――どれも、素人の犯行じゃない。組織立った人間が、綿密に計画して動いている」
膝の力が抜けそうになった。得体の知れない誰かに人生を弄ばれているという恐怖は、もう昨日から嫌というほど味わってきた。だが、それが「組織」という具体的な輪郭を持った瞬間、恐怖の質が変わった気がした。
「助けて......お願い。あなたしか、頼れる人がいないの」
神崎はしばらく黙って私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。「俺は正義の味方じゃない。城島の仇を討つために動いてるだけだ。だが、お前の娘を助けることと、俺の目的は、今のところ同じ方向を向いている。利害が一致してる間は、力を貸してやる」
冷たい物言いだったが、その言葉には、頼れる場所を失った私にとって、何よりも確かな支えのように響いた。
事務所の壁時計が、静かに時を刻んでいた。窓の外はすでに白み始め、鈍色の朝の光が、埃っぽい部屋の隅々までを容赦なく照らし出していた。私はホワイトボードに貼られた自分の写真を、ただ呆然と見つめ続けていた。
神崎がふと、ホワイトボードの隅、まだ何も書かれていない空白の部分に視線を止めた。「銀行の記録には、口座の『開設』しか残ってない。だが、資金洗浄には必ず『指示役』がいる。開設した人間と、指示を出した人間は、別だ」
その一言に、うなじの産毛が逆立った。まだ、この事件の全貌の、ほんの入り口にしか立っていない。そんな予感が、鈍い頭痛のように私の中に居座り始めていた。




