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私の足で歩く朝  作者: 久遠 睦


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第13章:空白の糸

「私が......裏金の送金先......? 桜木町に口座なんて作った覚えはありません!」

震える声で訴えると、神崎は無言でデスクの引き出しから一枚の書類を取り出し、私の目の前に突きつけた。警察の内部資料らしき、粗いコピー用紙だった。

『口座名義:森下 咲良 開設日:二〇二一年五月十二日』

五月十二日――その日付を見た瞬間、記憶の奥から鮮明な光景が蘇ってきた。康彦と婚姻届を出した、まさにその日だった。

「思い出したか」神崎が私の表情を見て言った。

「......そういえば、あの日。康彦さんに『税金控除や教育資金のために、会社の取引銀行で口座を作っておいた方がいい』って言われて......印鑑と、免許証のコピーを渡した覚えが......」

自分の声が、他人事のように遠く聞こえた。あの日、私は康彦の言葉を一切疑わなかった。夫婦になったばかりの幸福感の中で、彼が提案することはすべて、私たちの未来のためだと信じて疑わなかった。

婚姻届を提出したあの日の帰り道、康彦は嬉しそうに「これから、ずっと二人で支え合っていこうな」と言っていた。あの言葉さえも、今となっては、何のための布石だったのか分からなくなる。幸せの絶頂だと思っていた瞬間が、実は破滅への入り口だったのだという事実が、じわじわと胸を蝕んでいった。

「帝都中央銀行桜木町支店は、お前の夫が勤める中堅商社・睦和物産のメインバンクだ」神崎はホワイトボードの図を指し示した。「その口座には、月々五十万から八十万、三年間で三億円を超える資金洗浄の金が流れていた」

三億円。あまりにも現実離れした数字に、頭が理解を拒んだ。

「妙なのは、口座の動きだ」神崎は画面をスクロールしながら続けた。「開設は八年前、結婚した日。だが、最初の五年間、この口座はほとんど動いていない。金が流れ始めたのは、たった三年前からだ」

「結婚した日に作った口座を、何年も寝かせてたってこと......?」

「古い口座ほど、銀行の監視システムは甘くなる。長年動きのない口座が、ある日突然活発に動き出しても、新規開設の口座ほどは怪しまれない。最初からこの日のために、時間をかけて『育てて』いたようにしか見えない」

「そんな......康彦さんが、そんなことを......?」

「夫が仕組んだのか、裏の組織の指示か。まだ断定はできない」神崎はデスクの上のノートパソコンを操作しながら続けた。「だが、昨夜届いたメッセージの発信元を追わせた。IP偽装の中継地点の一つが、お前の夫が契約している月極駐車場だった」

血の気が引いた。あの駐車場には、康彦のセダンが停まっている。あの場所から、脅迫のメッセージが送られていたということは――

「康彦さん自身が、送っていたっていうこと......?」

「断定はできないと言っただろう。だが、可能性としては高い」神崎の声は、あくまで平坦だった。「駐車場の契約者名義がもう一人いる。今、それを洗ってる」

「それって......」

「犯人はお前のすぐそばにいる、ってことだ」

その瞬間、事務所の黒電話がけたたましく鳴り響いた。私は反射的に飛び上がりそうになる。神崎は表情一つ変えず、受話器を取り上げてスピーカーモードに切り替えた。

「......神崎調査事務所」

回線の向こうから、機械で歪められた声が流れ出した。あの、忘れることのできない声。

『居心地はどうかな、咲良さん。......元刑事の犬のところで、お茶でも飲んでいるのかい?』

全身の血が凍りついた。この声の主は、私が今どこにいるかを知っている。事務所の隅々にまで視線が這うような、粘着質な悪寒が背筋を這い上がった。

「あなた......まさか、ここまで見てるの......?」

『咲良さんは、いつも守られていると思い込む癖がある。まったく、成長がないね』

嘲るような声に、怒りと恐怖が同時にこみ上げた。神崎が私の肩に手を置き、「声を出すな」と低く制した。

『さて、神崎さん。俺の獲物を横取りする気か?』

「お前が誰かは知らんが、俺は正当な調査業務でこの女性を保護してるだけだ」神崎は淡々とした声で応じた。まるで、恐怖など微塵も感じていないかのような落ち着きぶりだった。

その声には、微塵の揺らぎもなかった。私は、この男の胆力に、改めて驚かされた。得体の知れない相手からの脅しを受けながら、ここまで冷静さを保てる人間を、私はこれまで見たことがなかった。

『保護、ねえ。まあいい。だが忠告しておく――咲良さんを手放さなければ、事務所ごと吹き飛ぶことになる』

そう言い残し、電話は一方的に切れた。ツーツーツーという無機質な音だけが、静まり返った部屋に響いていた。

神崎はすぐさまデスクの引き出しからハンディ型の電波探知機を取り出し、無言のまま事務所内を歩き回り始めた。壁、天井、家具の隙間――一つひとつを丹念に調べていく。私はただ、その様子を息を詰めて見守ることしかできなかった。

数分後、壁掛け時計の裏で、神崎の手が止まった。彼はそこから小さな黒い機械を摘み出し、無言のまま踵で踏み砕いた。

「盗聴器だ。数日前、依頼人を装って訪れた客がいた。あれの仕業だろう」

背筋がぞっと冷えた。この男は、初めから私を罠にかけるために、周到に準備していたのだ。事務所という「安全な場所」さえも、決して安全ではなかった。

世界のどこにも、完全に安全な場所などないのかもしれない。そう思うと、足元が崩れ落ちていくような不安に襲われた。それでも、神崎の落ち着き払った横顔を見ていると、この人がいる限りは、まだ踏みとどまれる気がした。

「これから、どうすればいいの......」

「潜伏だ」神崎は事務所の奥を指差した。「バックヤードに空き部屋がある。しばらく、そこに身を隠せ。動くのは、こちらの調査が進んでからだ」

私は震える足で立ち上がり、神崎の指し示す方向へと、重い体を引きずるように歩き出した。窓の外の朝日が、皮肉なほど眩しく事務所の埃を照らし出している。

その時、神崎のノートパソコンから、メール受信を告げる軽い電子音が鳴った。彼が画面に目を落とした瞬間、その表情から、初めて感情らしきものが消え失せるのを、私は見た。

「......神崎さん?」

「例の駐車場の、もう一人の契約者名義が分かった」神崎は、画面から目を離さずに言った。「聞いて驚くなよ。名義は――高宮玲奈。康彦の会社の、社長室秘書だ」


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