第14章:事務所での日々
『居心地はどうかな、咲良さん』――あの声を聞いた瞬間、恐怖で過呼吸になりかけた私を、神崎が横から支えた。「声を出すな」低く鋭い声で制され、私は必死に自分の口を押さえた。電話はやがて『手放さなければ事務所ごと吹き飛ぶ』と言い残して切れた。
盗聴器を踏み砕いた神崎は、私をバックヤードの三畳ほどの小部屋へ案内した。元は資料倉庫だったらしく、段ボール箱が積み上げられ、埃っぽい空気が漂っていた。窓には目張りがされ、外光はほとんど入らない。
「カーテンは開けるな。電気をつける時は必ずドアを閉めろ。物音も極力立てるな」
神崎の指示は簡潔で、有無を言わせぬ響きがあった。私は言われるがまま、段ボールを積み替えて作った簡素な寝床に体を横たえた。天井の染みを見つめながら、美羽は今、どこでどんな夜を過ごしているのだろうと、何度も何度も考えた。
潜伏を始めてから数時間、ただ時間が過ぎるのを待つだけだった。神崎は昼前から外出し、夕方近くまで戻らなかった。事務所に一人残された私は、息を潜め、廊下を通る足音のたびに心臓を跳ねさせながら、古い資料の整理を手伝うことで、なんとか正気を保とうとしていた。
段ボール箱の中には、神崎がこれまで手がけてきたらしい調査ファイルが山ほど詰まっていた。浮気調査、失踪人捜索、企業の内部不正――どれも、他人の人生の暗部を覗き見るような案件ばかりだった。整理をしながら、この男は一体どれほどの人の絶望に付き合ってきたのだろうと、ふと思った。
昼過ぎ、事務所の固定電話が鳴った。心臓が跳ね上がり、私は反射的に身を縮めたが、留守番電話の応答メッセージが流れただけで、相手は何も言わずに切った。無言電話。それだけで、全身が凍りつくような恐怖に包まれた。あの声の主が、まだ事務所の周りを嗅ぎ回っているのかもしれない。
夕方、神崎が疲れた顔で戻ってきた。手にはコンビニ袋を提げていて、中にはおにぎりとペットボトルのお茶が入っていた。「食え。倒れられても困るってのは、社交辞令じゃない」その素っ気ない言い方の中に、かすかな気遣いが滲んでいる気がして、私は黙っておにぎりを受け取った。涙で味など分からなかったが、それでも、体の奥に何かが染み渡っていくのを感じた。
「外は、どうだった?」
「お前の家の周りには、まだ張り込みがいる。会社の方も、しばらくは動きが取れないだろうな」神崎は疲れた声で答えた。「康彦の様子も見てきた。普段通り出社していたよ。妻が行方不明だっていうのに、平然とした顔で」
その一言が、鈍い刃物のように胸に刺さった。行方不明の妻を案じる素振りすら見せない夫。もはや驚きもしなかったが、それでも、改めて突きつけられる現実の重さに、胸が締めつけられた。
夕方、神崎は情報屋という男から得たという内部データを、無言でノートパソコンの画面に表示した。睦和物産の人事記録、経理システムのログ、そして――康彦の名前。
「お前の夫は、半年前から経理部の粉飾処理班にいる。表向きは『特別会計調整室』なんて曖昧な部署名だがな」神崎は淡々と画面をスクロールしながら続けた。「そして、三年前のお前の名義口座への最初の送金を最終承認していた電子印影が、これだ」
画面に表示された承認ログの末尾に、小さくデジタル署名が刻まれていた。
『森下 康彦』
背筋が凍りついた。単に口座を貸しただけではない。康彦自身の承認によって、あの金は流れ始めていたのだ。
「そんな......康彦さんが、最初から全部知ってて......」
声が震えた。信じたくなかった。八年間連れ添った夫が、私という存在を、最初から金の流れを隠すための道具として利用していたなど。結婚式の日の誓いの言葉、美羽が生まれた日の涙、休日に三人で出かけた公園での笑顔――そのすべてが、今、偽物だったのではないかという疑念に塗り替えられていく。
「衝撃なのは分かる」神崎はパソコンの画面を閉じながら、抑揚のない声で言った。「だが今は、感傷に浸ってる時間はない。事実を一つずつ拾い集めるしかない」
その冷たさが、かえって私を現実に引き戻した。泣いている暇などない。美羽が、今もどこかで震えているかもしれないのだから。
言葉にした瞬間、これまで抱いていた夫への幻想が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。玄関先で見せたあの憎悪の表情。あれは、突然の裏切りに驚いた男の顔ではなかった。最初から知っていて、私を切り捨てる算段を整えていた男の顔だったのだ。
日が完全に暮れた頃、外階段を上ってくる足音がして、私は反射的に身を強張らせた。神崎は無言で私を物陰へ押しやり、拳銃のような形の何かをポケットに忍ばせながらドアへ向かった。だが、訪れたのは見知らぬ中年男――神崎の言う「情報屋」だった。男は、スーツの襟に見覚えのある赤いバッジをつけていた。
「あれ、警察の......」
「皆川だ。現職の刑事だよ」神崎が短く紹介した。「城島の後輩でな。あいつの死を『事故』で片付けた捜査に、今でも納得してない。数少ない、信用できる内部の人間だ」
皆川は無言で茶封筒を神崎に手渡すと、私の方をちらりと一瞥した。「......駅前のあの逮捕劇、俺もあの場にいた。正直、妙だと思ってる。匿名のタレコミ一本で、あれだけの捜査員が動くなんて、通常はあり得ない。それに、あんたの供述調書、後から誰かが手を加えた形跡がある」
「手を加えた......?」
「詳しくは分からない。だが、上の方で誰かが、この件を意図的に大きく見せようとしている。それだけは確かだ」皆川はそう言い残すと、私の方を一瞥もせずに去っていった。
封筒の中身は、数枚の写真だった。それを見た瞬間、神崎の表情がわずかに険しくなった。
「昨夜、お前を締め出した自宅の玄関前だ」
写真には、康彦の腕に親しげに手を絡ませる、見覚えのない若い女の姿が写っていた。ゆるくウェーブのかかった長い髪、洗練されたスーツ姿。そして、彼女が肩に提げたトートバッグの脇から――見覚えのある、黄色い通園リュックの持ち手が覗いていた。
「この女は......誰なの......!?」
私の叫びが、埃っぽい部屋の空気を切り裂いた。美羽のリュックを、なぜこの見知らぬ女が持っているのか。美羽は、この女と一緒にいるのか。頭の中で、あらゆる最悪の想像が渦を巻いた。
「駐車場の契約名義と、同じ女か」私が問うと、神崎は無言で頷いた。「これで、康彦とこの女が繋がっていることは確定だ」
神崎は写真を凝視したまま、押し殺した声でつぶやいた。「......これで、少し繋がってきたな」
「何が繋がったの? 教えて!」
「まだ確証はない。憶測で話すと、お前を余計に混乱させる」神崎は写真を裏返し、日付らしき走り書きを指でなぞった。「だが、この女が城島の事件にも関わっていた可能性が出てきた。もう少しで、全体像が見えてくるはずだ」
その言い方には、単なる推測以上の、何か確信めいた響きがあった。だが、彼が何を確信したのかを問い詰める余裕は、もう私には残っていなかった。ただ、あの見知らぬ女の笑顔と、美羽のリュックが重なって見える写真から、目を離すことができなかった。
この事務所に転がり込んでから、まだ丸一日も経っていない。それなのに、身を縮めて過ごしてきた小部屋の暗がりが、急に息苦しく感じられた。真実が一枚ずつ剥がれ落ちるたびに、私の知っていた「家族」という言葉の意味が、根底から覆されていく。写真の中の女の、屈託のない笑顔を睨みつけながら、私は込み上げる怒りと恐怖を、ただ拳を握りしめることで堪えるしかなかった。
神崎は写真の背景を、虫眼鏡でさらに拡大して覗き込んでいた。「この女の車のナンバー、一部が写り込んでる。それに――」
彼の指が、写真の隅、ぼやけて写り込んだ何かを指し示した。
「これ、康彦の会社のロゴだ。個人所有の車じゃない。社用車を使ってる」
その瞬間、神崎の顔つきが変わった。「社用車のGPSログなら、追える可能性がある。今夜のうちに、この女の足取りを掴めるかもしれない」
その言葉に、微かな希望の光が差した。だが同時に、もし本当に居場所が分かったとして、そこに待っているものが何なのか――そう考えると、新たな恐怖が背筋を這い上がってくるのを感じずにはいられなかった。




