第15章:偽りの家族
「この女は誰なの、教えて!」
震える声で詰め寄る私に、神崎は淡々とした口調で答えた。「高宮玲奈、二十八歳。睦和物産・社長室秘書。表向きの肩書はそれだけだが、裏では上層部と誠竜会を繋ぐ連絡係を担っている」
「秘書......」
「康彦とは、二年前から愛人関係にあるようだ。ちょうど、あの口座が動き始めた時期と重なる」
その一言に、目の前が真っ暗になった。二年前。美羽がまだ三歳だった頃。家族三人で笑い合っていたはずのあの時間の裏側で、康彦は別の女と関係を持っていたのだ。膝から力が抜け、私はその場に座り込みそうになった。
「秘書として社長室に配属される前は、康彦の部署の一つ下にいた。金の流れを活発化させるタイミングで、社内恋愛を装って接近している。監視と、それから――逆らえないようにするための手綱、両方の役目を負わされたんだろう」
「手綱って......」
「男は、惚れた女に嫌われたくない一心で、どこまでも従順になる生き物だ。特に、後ろ暗いことを抱えてる男ほどな」神崎の声に、微かな侮蔑が滲んだ。
「昨夜、お前を家から締め出した直後、この玲奈という女が車で美羽を連れ去った。監視カメラの映像で確認した」
「社用車のGPSログも取れた」神崎はノートパソコンの画面を私に向けた。地図上に、赤い軌跡が表示されている。「昨夜から今朝にかけて、この女の車は都内を何度も往復してる。最後に長時間停車した場所が、これだ」
画面に表示された地名を見て、心臓が跳ね上がった。
「そんな......! じゃあ、美羽は今、この女の手の中に......」
「そう考えるのが自然だ」
父親が、実の娘を愛人に差し出した。その事実の重さに、私は激しい吐き気を覚えた。喉の奥から込み上げるものを、必死に飲み下す。康彦への怒りと、美羽への申し訳なさが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
美羽は今、どんな気持ちでいるのだろう。パパに連れて行かれたと思っていたら、見知らぬ女に引き渡された。父親を慕っていたあの子が、この裏切りをどう受け止めているのか。想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。守ってやれなかった自分を、何度も何度も責めた。
神崎はデスクの引き出しから、小型の機器を取り出した。「指向性の集音器だ。昨日の夕方、お前の自宅の窓ガラスの振動を拾って録音した」
「そんなことまで......」
「金のために仕方なくやってる仕事じゃない。城島の件に繋がるなら、なんでもやる」
神崎は淡々とそう言うと、機器を再生した。ノイズ混じりの音声の中から、聞き覚えのある康彦の声と、初めて聞く女の声――玲奈のものだろう――が流れ出した。ワイングラスを合わせるような、軽やかな音が混じっている。
『咲良が精神的に不安定で、裏社会と取引していた証拠として通帳を警察に出した。使途不明金三億円は、すべてあいつの横領にできる』
祝杯をあげるような、康彦の弾んだ声。私は思わず耳を塞ぎたくなった。だが、指一本動かせなかった。
『美羽まで巻き込む必要はあったのか』
康彦の声に、わずかな怯えの色が混じった。それを聞いて、彼の中にまだ人間らしい良心が残っているのかと、一瞬だけ思いかけた。だが、次の瞬間、その淡い期待は木っ端微塵に砕かれた。
玲奈の声が、嘲笑うように響いた。『美羽ちゃんを人質にして、咲良を極限まで恐怖に叩き落とせっていうのは、組織の決定じゃないのよ。あの方の、個人的なご命令なのよ』
『あの方って......?』
康彦の問いに、玲奈は答えた。『あいつの幸せな家庭ごっこを、一番残酷な形で粉々に叩き壊してやれって。結婚してから、恵那さんはあなたを調べ始めたの。見栄っ張りで、出世に弱くて、会社での立場を失うことを何より恐れる――だから、使えるって判断した』
再生が終わり、部屋に沈黙が落ちた。私は、今聞いた言葉の意味を、頭の中で何度も反芻した。
康彦の弾んだ声が、耳の奥にこびりついて離れなかった。祝杯をあげるような、あの軽やかな響き。八年間、私が「夫」だと信じてきた人間の、あまりにも知らなかった一面だった。人はここまで、他人の前で違う顔を使い分けられるものなのだろうか。
私たちの結婚は、最初から偽物だったわけではない。
少なくとも、出会いも、プロポーズも、婚姻届を出した日も、恵那が用意したものではなかった。けれど、その後の八年間のどこかで、康彦は自分の弱さにつけ込まれ、差し出された金や出世に手を伸ばし、自分の意思で私たちを裏切ったのだ。誰かに操られたからではない。操られる道を、彼自身が選び続けた。その事実の方が、私にはずっと残酷だった。
「あの方......って、誰なの」
声が震えた。神崎は静かに首を振った。「まだ分からない。だが、康彦と誠竜会だけの話じゃない。もっと個人的な、お前自身への深い恨みを持った人間が、この計画の背後にいる」
「そんな人、思い当たらない......」
「今は、思い当たらなくていい」神崎は、意外にも穏やかな声で言った。「記憶は、無理に引っ張り出そうとすると、かえって曇る。俺が調べを進める。お前は、体力を落とさないことだけ考えろ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。この数日、常に緊張を強いられ続けてきた体が、初めてほんのわずかに休息を許された気がした。
個人的な恨み。だが、私にはまったく心当たりがなかった。誰かにこれほどまでの憎しみを向けられる覚えなど、どこにもない。
学生時代、職場、近所付き合い――記憶を必死にさかのぼってみても、誰かを深く傷つけた覚えは見当たらなかった。むしろ、争いを避け、誰にでも合わせて生きてきた自分だという自覚しかない。それなのに、これほどまでの憎悪を向けられている。その理不尽さが、恐怖以上に、私の心を静かに蝕んでいった。
「私が、何をしたって言うの......」
震える声で呟いた私に、神崎は答えなかった。ただ、ホワイトボードに貼られた新しい付箋に、何かを書き足していく。その背中を見つめながら、私はただ、底の見えない闇の中に、一人取り残されたような感覚に襲われていた。
その時、事務所の外階段に、車が急停止する音が響いた。神崎が素早くブラインドの隙間から外を覗き込む。その表情が、見る見るうちに険しくなっていった。
「......まずいな。黒塗りのセダンが二台。おそらく、誠竜会だ」




