第16章:歪んだ記憶
康彦が自分の意思でこちら側を裏切った――その事実に胸をえぐられながらも、私は立ち止まっている暇はなかった。「誠竜会が来てる」という神崎の一言が、頭の中で警報のように鳴り響いていたからだ。
「時間がない。奴らがここに踏み込んでくる前に、少しでも多くの手がかりを掴む」神崎は窓の外を一瞥しながら、早口で言った。車の音は、今のところ動く気配がない。まだ様子を窺っているのか、それとも増援を待っているのか。どちらにせよ、猶予はそう長くないはずだった。
壁に手をついて体を支えていると、神崎が新しいノートを一冊、デスクの上に放り投げた。
「お前が関わってきた人間を、一人残らずリストアップしろ。些細な日常の出来事が、相手にとっては地獄の引き金だった可能性がある」
「そんなこと言われても......」
「思い出せ。子供の頃から今日まで、記憶にある限り全員だ」
言われるがまま、私は震える手でペンを握った。小学校、中学校、高校、大学、就職先――思い出せる限りの名前を、一つひとつ書き出していく。だが、どの名前を見ても、誰かを激しく恨むような心当たりは、まるで見当たらなかった。同級生とは大きな諍いもなく、職場でも目立たず、ただ穏やかに過ごしてきたはずだった。
「本当に、思い当たる人がいないの。私、誰かに恨まれるようなことをした覚えがなくて......」
「主観じゃ分からないこともある。お前にとっては些細な一言が、相手にとっては人生を狂わせる一撃だったかもしれない」
神崎の言葉に、背筋が冷たくなった。悪意なく発した言葉が、誰かの心に深い傷を残していた可能性。そんなこと、考えたこともなかった。
人は誰しも、自分では気づかないうちに、誰かを傷つけながら生きているものなのかもしれない。だが、その傷が、これほどまでに深く、これほどまでに長く、誰かの人生を蝕み続けることがあるとは、想像したこともなかった。ペンを握る手が、じっとりと汗ばんでいた。
神崎は情報屋を使い、私の実家から古いアルバムを持ち出させていた。段ボール箱の底から取り出されたそれは、表紙が色褪せた、大学時代の写真アルバムだった。久しく開いたことのなかったページを、神崎が無言でめくっていく。
窓の外では、まだあの黒塗りのセダンが動かずにいる。神崎はブラインドの隙間から一度だけ確認すると、再びアルバムへと視線を戻した。焦りを表には出さないその冷静さが、かえって事態の深刻さを物語っていた。
大学三年生のゼミ合宿の集合写真、卒業式の記念写真――懐かしい光景の数々が、次々と目の前を通り過ぎていく。だが、あるページで、神崎の手が止まった。
私の隣で微笑んでいたはずの友人の顔の部分だけが、鋭利な刃物で四角く切り抜かれていた。切り口は真新しく、つい最近何者かが持ち去ったものだと、一目で分かった。
「これ......」
指先が震えた。この違和感には、覚えがあった。数日前、康彦の書斎で見た、あの荒らされた寝室のクローゼットの奥――大学時代の段ボール箱。あの時も、何かが持ち去られたような気配があった。今、目の前の写真から誰かの顔が切り取られているのを見て、あの日の違和感が、はっきりとした形を取り始めた。
「この写真、誰?」
神崎に問われ、私は記憶を必死にたぐり寄せた。卒業アルバムの名簿を指でなぞり、ようやくその名前を見つけ出す。
「橘......恵那さん」
声に出した瞬間、忘れていたはずの記憶の断片が、次々と蘇ってきた。物静かで、いつも私のそばにいてくれた子だった。ゼミが一緒で、サークル活動もほとんど共にしていた。仲は、決して悪くなかったはずだった。少なくとも、私はそう思っていた。
「彼女とは、親しかったのか」
「そのつもりだった。でも......今思えば、恵那さんはいつも、少し引いた場所から私を見ているようなところがあった」
言葉にしながら、当時の記憶がぼんやりと像を結んでいく。サークルの飲み会で、男の子たちが自然と私の周りに集まる時の、恵那の少し硬い笑顔。友人たちが「咲良は要領がいいよね」と何気なく口にした時の、彼女の一瞬だけ曇った目。悪気のない一言のつもりが、彼女にとってはどれほど積み重なっていたのか、当時の私には想像すらできなかった。
「それで、何が起きた」
「卒業式の少し前......恵那さんが、珍しく私を呼び出したの。二人きりで話したいって」
その記憶は、ずっと心の奥底に沈めていたものだった。大学の裏庭のベンチ。恵那は俯きがちに、これからの進路のことや、周りとの関係のことを、遠回しに口にしていた。今にして思えば、あれは助けを求める最後のサインだったのかもしれない。だが当時の私は、自分の輝かしい未来に浮かれていて、その言葉の重みに気づけなかった。
「私、なんて言ったと思う? 『恵那ならきっと、もっといい道があるよ』って。励ましたつもりだった。でも、あの子の顔が、その瞬間だけ完全に凍りついたのを、今でも覚えてる」
「それが......」
「卒業式には出たはずよ。でも、そのあとすぐに、彼女は誰とも連絡を絶った。就職先も聞かされないまま。同級生の間でも、しばらくの間は色々な噂が流れたけど、そのうち誰も彼女の話をしなくなった。私も、いつしか思い出さなくなっていた」
言葉にしながら、当時の記憶が生々しく蘇ってきた。あの日の彼女の凍りついた表情、彼女の実家に連絡がつかなくなった不気味さ、そしていつしか、日常に紛れて忘れていった罪悪感。私はあの出来事を、どこかで「自分とは関係ない不幸」として処理してしまっていたのだ。
当時の私は、就職も決まり、康彦との交際も順調で、自分の人生の輝かしい門出に浮かれていた。同級生の不幸なニュースに一瞬は心を痛めても、数週間もすれば、また自分の未来のことで頭がいっぱいになっていった。その無自覚な冷淡さこそが、誰かの人生を絶望の底に突き落とす最後の一押しだったのかもしれない。今さらながら、そう思い至る自分が、ひどく恐ろしかった。
神崎は切り取られた写真の空白を、じっと見つめていた。「橘恵那か、その近親者。あの方の輪郭が、見えてきたな」
「でも、恵那さんは......確か、誰とも連絡を絶ったって聞いたわ。今、どこで何をしているかなんて、誰も知らないはずよ」
「連絡を絶ったんじゃない」神崎は、低い声で訂正した。「意図的に、消息を追えないようにしたんだ。おそらく、誰かの入れ知恵で」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。もし本当に、誰かがこの十年以上、恵那を陰で支え、育て、この復讐計画のために準備を整えさせてきたのだとしたら――その背後にいる組織の周到さに、改めて恐怖を覚えた。
その言葉が意味するものの重さに、私は言葉を失った。もしそうなら、この十年以上前の些細な誤解が、今日までずっと憎しみとして育てられ、美羽の命さえも脅かすほどの周到な復讐計画へと変わっていったということになる。
十年以上という歳月。その長さは、憎しみが生半可なものではないことを物語っていた。人はそれほど長く、一つの恨みを抱き続けられるものなのだろうか。もしそうだとしたら、その執念の深さこそが、何よりも恐ろしい事実だった。
窓の外が、いつの間にか薄暗くなり始めていた。神崎の元へ転がり込んでから、まだ一日と経っていないのに、もう何年分もの真実を叩きつけられた気がした。美羽に残された時間の砂が、音もなく零れ落ちていくのを感じながら、私は自分の中に芽生えた新しい感情に気づいた。恐怖だけではない。この理不尽な運命に対する、静かで燃えるような怒りだった。
その時だった。外階段を、複数の荒々しい足音が上ってくるのが聞こえた。




