第17章:包囲網
予感は、最悪の形で的中した。正面ドアが、バットのようなもので激しく殴りつけられた。ドン、ドン、という重い衝撃音が、事務所全体を揺らす。
「開けろや、神崎! 女を渡せ!」
野太い怒声とともに、ドアの隙間から複数の男の影が透けて見えた。誠竜会の構成員だろう。もはや隠れる術も、話し合いの余地もない、剥き出しの暴力がそこにあった。
神崎は表情を変えず、素早くデスクの上のノートパソコンをアタッシュケースに詰め込んだ。「来い。裏から出る」
「え、でも――」
「考えるな。動け」
有無を言わせぬ声に、私は体が勝手に反応していた。神崎はスチール棚を素早く押しのけ、その裏に隠されていた小さな防火扉を開いた。埃っぽい隙間から、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
「この扉のことは、これまで誰にも話したことがない」神崎は押し殺した声で言った。「城島が生きていた頃、二人で作った逃げ道だ。まさか、使う日が来るとはな」
その一言に、彼が背負ってきた歳月の重さを、垣間見た気がした。だが、感傷に浸っている暇はなかった。
事務所の正面ドアが、ついに破られる音がした。木材が砕ける鈍い音と、男たちの怒号が重なる。神崎は私の腕を掴み、防火扉の向こうへと引きずり込んだ。
薄暗い非常階段を、二人で駆け下りる。足音が、背後の破壊音とともに、いつまでも耳の奥に響いていた。裏路地に出ると、神崎は迷いのない足取りで、狭い路地の奥へと進んでいく。私はただ、その背中を必死に追いかけた。
「あいつら、どうしてここが......」
「最初から分かってたはずだ。俺たちが動き出せば、必ず来ると」神崎は短く吐き捨てた。「盗聴器だけじゃなかったってことだ。他にも監視の目があったんだろう」
短く答えながら、神崎は角を曲がるたびに、後方を一瞥する。追手の気配は、まだ完全に消えていなかった。
大通りへ出ようとした丁字路で、突然、黒塗りのワンボックスカーが横付けされた。前後を、四人の屈強な男たちに挟み撃ちにされる。逃げ場は、どこにもなかった。
「下がってろ」
神崎は私を背に庇うように立つと、懐から特殊警棒を抜いた。カチャッという金属音とともに、警棒が伸びる。男の一人が突っ込んでくると、神崎は驚くほど滑らかな身のこなしで、その一撃をかわし、警棒を相手の脇腹に叩き込んだ。うめき声とともに、男がくの字に折れて倒れ込む。
「下がってろって言っただろうが」神崎が振り返らずに低く言った。恐怖で足がすくんでいた私は、その声に弾かれるように、路地の壁際まで後退った。彼の背中は、これまで見たどんな盾よりも頼もしく、そして脆く、危ういものに見えた。
二人目、三人目と、神崎は次々に男たちを叩き伏せていった。まるで、これが日常茶飯事であるかのような、迷いのない動きだった。私はただ、その激しい攻防を、呼吸を忘れて見つめていることしかできなかった。
殴打の音、うめき声、アスファルトに倒れ込む重い音――路地に響くその一つひとつが、現実離れした光景として私の目に映っていた。ほんの数日前まで、私はただの専業主婦だった。それが今、暴力団員たちが殴り合う路地の真ん中で、震えながら立ち尽くしている。この非現実感こそが、今の自分の人生そのものなのだと、どこか他人事のように思った。
だが、倒れていた最初の男が、いつの間にかサバイバルナイフを抜いていた。低い姿勢から、神崎の死角へと飛び込む。
「神崎さん、後ろ――!!」
私の悲鳴が路地に響いた、その瞬間。刃先が、神崎の左脇腹に深々と突き刺さった。
「っ......ぐぅ......!」
神崎は苦悶の表情を浮かべながらも、警棒を振り抜いて男を叩き伏せた。残った一人は、形勢の悪さを悟ったのか、車に飛び乗って走り去っていく。だが神崎は、大量の血を流しながら、膝から崩れ落ちていった。
「神崎さん!! しっかりして......!」
血の海が、アスファルトの上に広がっていく。私はうまく力の入らない手で、彼の体を支えようとした。神崎は荒い息の中、私の腕を弱々しく掴んだ。
「咲良......騒ぐな......。これ以上、誰も死なせるな......」
「そんな、しっかりして、お願い......! 誰か、誰か救急車――!」
「お前の手で......終わらせろ......」
そう言い残すと、神崎の目から力が抜け、彼はそのまま意識を失った。
血の海の中で、私は一人、取り残された。周囲を見回しても、通行人の姿はない。頼れる者は、もう誰もいなかった。力任せに神崎の体を揺さぶっても、反応はない。
彼の脇腹からは、止めどなく血が流れ続けている。このままでは、彼も死んでしまう。恐怖と焦りで頭が真っ白になりながらも、私は自分のコートを脱ぎ、丸めて傷口に押し当てた。生温かい血の感触が、手のひらから伝わってくる。それでも、動きを止めるわけにはいかなかった。彼の言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。
遠くで、パトカーのサイレンが微かに聞こえた。だが、それが私たちを助けに来るものなのか、それとも追い詰めるものなのか、判断する術はなかった。私はもどかしい手つきで神崎の頬を軽く叩き、意識を繋ぎ止めようと必死になった。「駄目、まだ死なせない。あなたには、まだやることがあるでしょう」
――お前の手で、終わらせろ。




