第18章:闇医者の診療
私は神崎のポケットから車のキーを奪い、火事場の馬鹿力で、意識のない巨躯を引きずるようにして近くのプレハブガレージへと運び込んだ。汗と血で滑る手のひらに、何度も力を込め直しながら、彼の体を車の後部座席に押し込む。
車内の救急箱からガーゼと包帯を取り出し、覚束ない手つきで傷口を圧迫した。血で真っ赤に染まっていくガーゼを何枚も重ね、その上から伸縮包帯をきつく巻きつける。手当ての知識など何もなかったが、体温が失われていく神崎の顔色を見ていると、迷っている暇はなかった。
「死なないで......お願いだから......」
つぶやきながら、私は自分の中に、これまで感じたことのない種類の強さが芽生えていくのを感じていた。もう怯えて泣くだけの主婦でいるのは、終わりにしなければならない。娘と、この人と、日常を取り戻すために、私自身が動くしかないのだ。
出血の勢いは、ガーゼを重ねても一向に衰えなかった。このままでは、本当に死んでしまう。震える手で彼の頬を叩くと、神崎はうっすらと目を開けた。
「神崎さん、しっかりして! 病院に――」
「駄目だ......」掠れた声で、神崎が私の腕を弱く掴んだ。「病院は、駄目だ......刺傷は、警察に通報が行く……。俺の、上着の内ポケット......手帳を……」
震える手で内ポケットを探ると、擦り切れた革の手帳が出てきた。最後のページに、電話番号とだけ書かれた紙片が挟まっている。名前も、住所もない。
「その番号に、かけろ......『蓮見先生の紹介』で来たと言え……。他には、何も言うな」
私は神崎のスマートフォンを借り、震える指でその番号を押した。コール音が三回鳴り、低く落ち着いた男の声が応答した。
「......蓮見先生の紹介です。神崎という人が、刺されて――」
『場所は』
短く、感情の削げ落ちた声で問われ、私はガレージの住所を伝えた。
『動かすな。三十分でそっちへ行く』
一方的に電話が切れた。何者なのかも分からないまま、私はただその言葉に縋るしかなかった。
三十分は、永遠のように長く感じられた。私は神崎の手を握りしめ、彼の呼吸が途切れないことだけを祈り続けた。ガレージのシャッターの隙間から差し込む朝の光が、少しずつ強くなっていく。
やがて、外で車の停まる音がした。ノックもなく、古びたシャッターの隙間から、大きな医療バッグを提げた初老の男が滑り込んできた。白髪混じりの短髪、皺の刻まれた顔、そして医者らしい、落ち着き払った目。
「蓮見だ」
男は名乗ると、私の返事も待たずに神崎の傍らに膝をつき、手際よくガーゼを剥がして傷口を確認した。「......派手にやられたな、彰」
「久しぶりだな、先生」神崎が、苦しげながらも軽口を返す。二人の間には、長年の付き合いを感じさせる空気があった。
蓮見は無言のまま、消毒液、縫合キット、点滴セットを次々と取り出していく。慣れた手つきで神崎の腹部を消毒し、局所麻酔を打ってから、丁寧に傷を縫合していった。私はその様子を、息を詰めて見守ることしかできなかった。
「あなたは......本当のお医者さんなんですか」
思わず尋ねると、蓮見は手を止めずに、淡々と答えた。「昔はな。今は、表の世界に居場所がない人間を診るのが仕事だ」
「表の世界に......」
「病院に行けば、警察に届け出が要る怪我をした連中を診る。指を落とした奴、撃たれた奴、堕胎できずに死にかけた女――そういう手合いだ」蓮見は淡々と告げながら、点滴の針を神崎の腕に刺した。「五年前、俺は担当患者を違法な形で楽にしてやった疑いで、免許を剥奪されかけた。あの時、内偵していた刑事が、こいつだった」
「先生の目を見て、これは殺人じゃないと分かった。それだけだ」神崎が、苦笑交じりに口を挟んだ。「見逃した代わりに、こうして無茶な頼みを聞かせてる」
蓮見は答えず、ただ淡々と縫合を続けた。その沈黙が、二人の間にある複雑な貸し借りの重さを物語っていた。
「先生。この人を刺したのは、誠竜会の連中だ」神崎が、途切れがちな声で言った。「先生なら、あの組織の内情に詳しいだろう」
蓮見の手が、一瞬だけ止まった。「......誠竜会か。厄介な相手に目をつけられたな」
「どんな組織なんですか」
私が問うと、蓮見は針を運ぶ手を止めないまま、抑揚のない声で語り始めた。
「昔ながらの指定暴力団だ。だが、暴排条例のおかげで、みかじめ料やシノギの表稼業はどこも先細りでな。今の誠竜会を実質的に食わせているのは、武闘派の連中じゃない。資金洗浄と特殊詐欺、サイバー犯罪を扱う『資金部門』だ。金を生む頭脳のほうが、殴る腕より重宝される時代になった」
「頭脳......」
「その資金部門で、この数年、化け物じみた働きをしている女がいるという噂は、俺の患者からも何度か聞いたことがある。名前までは知らんが、元は堅気の銀行員だったという話だ」
心臓が、大きく跳ねた。恵那のことに間違いなかった。
「その女は、組織の正式な構成員ですらないらしい。ただの『客分』だ。だが、彼女が設計した洗浄スキームは、摘発を何度もすり抜けてきた。組織にとっては、下手な鉄砲玉の百人分より価値がある。だから、誰も彼女には逆らえない。彼女が『これをやりたい』と言えば、若い衆が黙って手足になる」蓮見は、淡々と続けた。「聞いた話じゃ、彼女は元々、どこかの銀行員だったらしい。融資の審査や資金繰りの知識を、丸ごと裏の世界に持ち込んだ。堅気の畑違いの知識を持ち込む人間は、時々いる。だが、あの女ほど徹底して裏の仕事にのめり込んだ例は、俺も聞いたことがない。数年で、誠竜会の資金部門を実質的に牛耳るところまで上り詰めたらしい」
「彼女の個人的な恨みのために、組織がここまで動くなんて......」
「個人的な恨みだけじゃ、組織は動かない」蓮見は、初めて私の方に視線を向けた。「三年前に死んだ刑事――城島といったか。あの男は、組織の洗浄ルートにかなり深く迫っていた。あの女の復讐計画は、同時に、組織にとって都合の悪い人間を消す計画でもあった。彼女の私怨と、組織の自己防衛が、綺麗に一致していたのさ。だからこそ、これだけの人員と金が動いた」
その説明に、これまで感じていた違和感の正体が、ようやく像を結んだ。恵那は、ただ一人で復讐に狂っていたわけではない。組織そのものの利害と結びつくことで、個人の恨みを、これほどまでに巨大な計画へと押し上げていたのだ。
「縫合、終わったぞ」蓮見は、最後の糸を結ぶと、静かに立ち上がった。「輸血までは手が回らないが、点滴と抗生剤でしのげ。無茶な動きは三日は控えろ。......と言っても、聞く耳を持たない性分なのは知っている」
「悪いな、先生」
「礼はいい。彰、お前に借りを返すのは、これで何度目だ」蓮見は医療バッグを片付けながら、ふと私の方を見た。「あんたも、無理はするな。その顔は、まだ戦える顔をしているが、限界はいずれ来る」
そう言い残すと、蓮見は現れた時と同じように、静かにガレージを後にした。




