第19章:覚悟の灯
止血と縫合を終えると、私はアタッシュケースの中のノートパソコンを開いた。ロック画面には指紋認証が必要だったが、神崎の親指を借りて何とか解除する。デスクトップに並んだファイルの中に、未読のメール通知が点滅していた。差出人の名前を見た瞬間、指が凍りついた。
指紋認証を解除する間、神崎の手は先ほどよりわずかに温かくなっていた。それでも、この人の命の灯がまだ危ういことに変わりはなく、私は思わず彼の手を強く握りしめた。「もう少しだけ、頑張って」誰に言うでもなく、そう呟いていた。
『森下康彦』
こわばった指でメールを開く。そこに綴られていた文面を読んだ瞬間、目の前が真っ白になった。
『妻・咲良の処分は完了したか? 二千万円は指定口座に振り込む。娘の身柄は指示役が引き取った。あいつの痕跡を、綺麗に消去しろ』
処分。痕跡を消去。あまりにも冷淡な言葉の羅列に、めまいがした。指先が震え、画面の文字がぼやけて見えた。何度も読み返したが、意味は変わらなかった。康彦は、保身のためだけに私を切り捨てたのではなかった。妻を殺害するために、金を払って神崎に依頼していたのだ。
ということは――神崎は最初から、私を殺す側の人間として近づいてきたのか。それとも、途中で寝返ったのか。恐怖にも似た疑念が、胸の奥で渦を巻いた。もし彼が、この依頼を忠実に実行するつもりだったなら、私は今頃、この世にいなかったはずだ。頭が混乱する中、それでも、今こうして私を守り、血を流して倒れている神崎の姿を見れば、答えは一つしかなかった。
この人は、依頼された「処分」を実行するどころか、自分の命を賭してまで私を守り抜いてくれた。それが答えだった。裏切られ続けてきたこの数日間で、初めて、心の底から信じられる相手に出会えた気がした。そっと神崎の額の汗を拭い、私はもう一度、彼の呼吸を確かめた。さっきよりも、少しだけ落ち着いている。
パソコンの画面に、GPSの追跡マップが表示されていた。神崎が事前に仕込んでいたのだろう、康彦の車の現在地を示す赤い点が、都心の高級ホテルへと向かって動いている。地図上をゆっくりと移動していくその点を、私はしばらく無言で見つめ続けた。あの男は今、何を思いながら、どこへ向かっているのだろう。
「......まだ、生きてたか」
後部座席で、神崎がかすかに呻いた。目を薄く開け、朦朧とした様子で私を見上げる。先ほどより、声にわずかな張りが戻っていた。
「神崎さん! 蓮見先生のおかげで、だいぶ顔色が良くなりました」
「あの人は、腕だけは確かだ」神崎は苦しげに息をつきながらも、はっきりとした声で続けた。「それより......康彦は、見つかったか」
私はパソコンの画面を彼に見せた。GPSの追跡と、あのメールの文面を見た神崎の目に、鋭い光が宿った。
「康彦だけじゃない」神崎は画面を見つめたまま、低く言った。「高宮玲奈の社用車も、同じホテルの近くで長時間停車してる。おそらく――」
「恵那さんも、そこにいる」
私が先回りして言うと、神崎は無言で頷いた。全員が、同じ場所に揃っている。それはつまり、この対決を避ける道は、もうどこにもないということだった。
「あの男と対面して、居場所を吐かせます」
「一人で行く気か。無茶だ」
「あなたはもう動けない。それに、これは私自身が、決着をつけなきゃいけないことだから」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。数日前の私なら、こんな決断を口にすることさえできなかっただろう。怯えて誰かの後ろに隠れ、状況が過ぎ去るのをただ待つことしかできなかったはずだ。だが今は違う。恐怖は消えていない。それでも、その恐怖に押し流されるままではいたくなかった。
神崎はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく頷いた。「グローブボックスに、変装用の道具が入ってる。使え」
運転席に乗り込む前、私はバックミラー越しに、後部座席の神崎を一瞥した。青白い顔で目を閉じているその姿に、一抹の不安がよぎる。だが、今の私にできる最善は、一刻も早く康彦を見つけ出し、美羽の居場所を吐かせることだけだった。
私は運転席に乗り込み、まだ落ち着かない手でエンジンをかけた。ハンドルを握る指先には、もう迷いはなかった。美羽を取り戻すために、そして自分自身の人生を取り戻すために、私は車を発進させた。フロントガラスの向こうに広がる、まだ暗い早朝の街並みを見つめながら、私は深く息を吸い込んだ。
バックミラーに映る神崎の姿が、次第に小さくなっていく。彼を一人残していくことへの不安を振り払うように、私はアクセルを踏み込んだ。今、向かう先に何が待っているのか、想像するだけで手のひらに汗が滲んだ。だが、もう後戻りはできない。




