第20章:冷たい取引
ホテルの地下駐車場に車を停めると、エンジン音が消えた後の静寂が、やけに重く肩にのしかかってきた。バックミラー越しに、自分の顔を見つめる。土気色の頬、落ち窪んだ目、乾いた血がこびりついた髪。もう、あの平凡な主婦だった頃の面影は、どこにも残っていなかった。
グローブボックスを開けると、神崎が「使え」と言っていた変装道具が入っていた。大きめのウィンドブレーカー、無地のキャップ、そして黒縁の伊達眼鏡。こわばった手で血に汚れたコートを脱ぎ、ウィンドブレーカーに袖を通す。キャップを目深に被り、眼鏡をかけると、鏡の中の自分が、わずかに別人めいて見えた。それでも、心臓の音までは隠しようがなかった。
後部座席を振り返る。神崎は目を閉じたまま、浅く速い呼吸を繰り返していた。血の気の失せた顔色が、恐ろしいほど白い。
「本当に、大丈夫なんですか」
「行け」目を開けずに、神崎は短く答えた。「俺のことより、時間を無駄にするな」
その突き放すような口調の裏に、確かな信頼が滲んでいる気がした。私は小さく頷き、車を降りた。
エレベーターの扉が開き、二階のラウンジフロアへと導かれる。落ち着いた間接照明、静かに流れるジャズピアノ、グラスの触れ合う微かな音。この街のどこかで、美羽が恐怖に震えているというのに、ここではまるで何事もないかのように、平和な時間が流れていた。その落差が、かえって私の神経を逆撫でした。
ロビーを行き交う人々は、皆それぞれの休日を楽しんでいるように見えた。チェックアウトを済ませる家族連れ、談笑するビジネスマン、花束を抱えた男性。ほんの数日前まで、私もこちら側の世界に属していたはずだった。今はもう、変装して身を隠しながら歩く、この世界の異物でしかなかった。
スタッフの視線を避けるように、私は俯きがちに奥のブースへと進んだ。革張りのソファの一角に、見知った後ろ姿があった。ネクタイを緩め、苛立たしげに紅茶のカップをかき混ぜている、康彦だった。テーブルの上には、ほとんど手をつけていない朝食のプレートが置かれている。
背後に立ち、私は静かに口を開いた。
「朝早くから、優雅なお茶会ね」
その一言に、康彦の肩がビクリと跳ねた。振り返った瞬間の彼の顔を、私は一生忘れないだろう。驚愕、恐怖、そして――幽霊でも見たかのような、あからさまな怯え。カップが皿の上でカチャリと乾いた音を立てた。
「さ、咲良......! お前、なんで、どうして生きて――」
言いかけた言葉の続きに、私は静かに息を呑んだ。「生きて」。その言葉が、すべてを物語っていた。彼は本当に、私がもうこの世にいないと信じていたのだ。喫茶店で交わす何気ない会話にすら聞き耳を立てていたはずの、あの神経質な男が、今は完全に虚を突かれていた。その姿を見て、私はようやく実感した。ここまで来た。もう、逃げ隠れする側の人間ではない。
「神崎がお前のメールを全部見せてくれたわ」
私は静かに、しかし鋭く言葉を刺し込んだ。「『妻の処分は完了したか』――あなた、自分の手を汚さずに、私を殺させようとしたのね」
「ち、違う、あれは――」
「美羽はどこにいるの!」
声を荒らげた私に、康彦は周囲を気にしながら、慌てて声を潜めた。「お、俺だって消されるところだったんだ! 玲奈に美羽を引き渡しただけで、その後の居場所は本当に知らない!」
「引き渡した......? 自分の娘を、まるで荷物みたいに言うのね」
込み上げる嫌悪感に、拳が震えた。この男は、実の娘の安否よりも、自分の保身しか考えていない。八年間、この人を夫として、家族として、信じてきた自分が、心の底から惨めに思えた。
「あなたは、自分のキャリアと保身のために、家族の全部を売り渡したのね」
「俺だって、選択肢なんてなかったんだ! あの女に逆らったら、俺の会社人生も、命さえも――」
「じゃあ、私と美羽の命は? 私たちは、あなたにとって何だったの」
康彦は答えなかった。答えられなかった、というほうが正確だろう。視線を泳がせ、額に脂汗を浮かべながら、彼はただ震え続けていた。その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだった。
康彦は答えず、ただ両手で顔を覆った。その姿を見下ろしながら、私は初めて気づいた。この男を怖がる必要は、もうどこにもないのだと。恐怖の対象は、もっと別の、もっと巨大な何かへと移っていた。
「これまでのこと、全部話して。あなたが誠竜会に関わったのは、いつから? 桜木町の口座は、あなたが最初から仕組んだの?」
問い詰める私の声に、康彦は追い詰められた獣のような目でこちらを見上げた。「......三年前だ。誠竜会の資金洗浄の窓口をやれと、上から命令された。断れば、俺のキャリアも家族も終わりだと脅された。だから、お前の名義を借りることにした。お前になら、絶対にバレないと思ったから」
「私を利用したことに、何の罪悪感もなかったの」
「罪悪感がなかったわけじゃない......! だが、あの女が、俺の弱みを全部握っていて――」
言葉を濁す康彦の目に、初めて、明確な恐怖以外の何かが浮かんだ。それが何なのか、私にはまだ分からなかった。だが、この男が隠している「弱み」の正体が、この復讐劇の核心に近いところにあるのだという予感だけは、はっきりと感じ取れた。
その時、テーブルに置かれた康彦のスマートフォンが、鈍い振動音を立てた。画面に浮かんだ発信者名を見て、私たちは同時に凍りついた。
『橘 恵那』
康彦の顔から、残っていたわずかな血の気すら失われていく。震える指で通話を拒否しようとするその手が、宙で止まった。まるで、拒否すること自体が許されないとでも言うように。
背後のパーテーションが、音もなく静かに開いた。
「お久しぶりね、咲良」
低く、それでいてどこか懐かしさすら滲む声。振り返ると、一人の女性が、ゆっくりとこちらへ姿を現すところだった。仕立ての良いパンツスーツに身を包み、一分の隙もない立ち姿。整った顔立ち、静かな微笑み――かつて大学のゼミで見た、物静かだった恵那の面影が、そこに確かに残っている。だが、その双眸に宿る光だけは、あの頃とはまるで別人のものだった。深く、暗く、そして底知れない執念を湛えた瞳。まるで、どこかの企業の役員だと言われても信じてしまいそうな、隙のない佇まいが、かえって薄気味悪かった。
傍らに付き従っていたのは、写真で見た高宮玲奈だった。冷ややかな眼差しでこちらを見据えるその表情には、一分の躊躇いもなかった。
「恵那さん......」
声が、かすかに震えた。十年以上ぶりに顔を合わせる旧友。だが、目の前にいるのは、もはや私の知る恵那ではなかった。
「ようやく気づいてくれたのね」恵那は、静かに唇を歪めた。「私がこの十年以上、どんな思いで過ごしてきたか――あなたに、想像できるかしら」
ラウンジの穏やかな空気を切り裂くように、冷たい殺意が、その場に満ちていった。ジャズピアノの音色が、今はもう、不気味な葬送曲のようにしか聞こえなかった。康彦は、恵那の姿を見た瞬間、椅子から転げ落ちるようにして床にひざまずいた。その怯えきった様子が、この場の力関係を何よりも雄弁に物語っていた。




